信長の変化
織田信長という男は、ある程度の知行を取る陪臣を直臣に取り立てて与力として付ける。
この方法は土地に愛着を持つ土豪達をサラリーマン化するのに成功する。
ひいては、兵農分離を進める上でも大いに役立つのである。
この方法の最大のメリットは時期を問わずに、何年でもいつでも銭の続く限り戦線に投入出来るのである。
織田軍の兵士はだから銭勘定に長けていて、自分の命の値段を知る。
だから死にたくない、長生きして給料が欲しい=無理な戦いはしない=『尾張兵は弱兵』と言われる所以である。
しかし崩れても立て直し、局地戦で叩かれても又編成し突きかかってくる。これはある意味厄介な相手である。
そういう自軍の特徴を知っている信長である。
彼は中世世界史にも類を見ない物で、自軍の弱点を克服したのである。
それは『野戦陣地』であった。
野戦と言うのは、短期間で雌雄を決したり、自領に攻め込まれない為に迎撃するために発生する戦だが、今の信長の状況は重要拠点をつなぐ線を攻められなければ良かった。
凌いでいる間に各勢力を各個撃破すれば良い話であった。
現在信長に敵対する勢力で正に日干されている地域が存在した。
『比叡山延暦寺』である。
現在の信長は癇癪が収まっているが、弟と有能な重臣を殺された恨みは消えない。
その仇である浅井、朝倉軍に陣地を提供し、あまつさえ歯向ってきた寺社勢力比叡山をそのままには出来無いのは当然である。
当初信長は比叡山ごと丸焼きにするつもりだった。
しかし、家臣達がこれに猛反対するのである。
この当時当然科学が発達しておらず、すべての説明のつかない事は、神々によって起されていると思われていた時代である。
当の信長でさえ、戦勝祈願に神社に参拝したり、神頼みもするのであるが・・・(家臣に対するアピールで、自身はさらさら信じていなかった)
今までの信長であれば一気に怒りを爆発させ、狂気を身にまとい反対など口に出せなくさせるオーラがあったが、信長は少し考え、反対派筆頭の右筆である武井夕庵に比叡山の武装解除を命じた。
これに、明智光秀、木下秀吉、佐久間盛政、池田恒興らを比叡山に遣わし、武装解除に成功したのである。
腐敗していた僧官らを処罰し、純粋な宗教勢力としての存続のみを認めた。
この時処断された僧侶、僧兵は約1000名であったとされるが、宗教の名を借り、悪略非道な所業を繰り返してきた彼らに同情の声は少なかったとされる。
これは覚恕法座主に「仏法の法のみを持って、天台宗を治める」という宣言を引き出し、寺領も寺院、寺社以外を放棄した。
以後良僧達に支えられた天台宗総本山である比叡山純粋な宗教勢力として、朝廷、信長の庇護のもと続いていくのである。
これにより『信長さまは変わられた』との声が諸将より聞こえられてくるのである。
比叡山焼き討ちしませんでした。
史実でも、発掘調査などからごく一部の限定した攻撃だったのでは?との学説が主流になりつつありますね。
これにより他勢力よりなめられるかも知れませんが、身内の離反を防ぐ事は期待できるかもです。




