はじまり
2026.8 改変
その日、黒猫を拾った。
暦上は春だが、夕方から雪がチラチラ舞い始め、頬に当たる風がまだ冷たい。リンは一人、買い物から村外れの家に帰る途中だ。マフラーを口元まで引き上げて、足早に歩く。道の脇に黒い物が見えた。近付くにつれて、それが黒猫だと気付いた。
「怪我してる……」
リンは両手を黒猫にかざす。柔らかい光が現れ、怪我を治した。物心ついた頃から、回復魔法は得意だった。
すると、黒猫の目が薄く開きこちらを見た。綺麗な紫の瞳である。
私と同じ、紫の瞳だ。
「よかった! おいで」
寒空の下、ここに放っておくわけにはいかない。家へ連れて帰ることにした。同居しているマーサも許してくれるだろう。
黒猫の名前は、クロと名付けた。
クロは最初ほとんど眠っていたが、だんだん自由に歩き回るようになった。
「クロ、ご飯だよ」
「ニャー」
「ちょっとクロ! それは私達のご飯!」
クロは、食卓に乗っている方のご飯を食べ始めた。しかも、毎回猫用のご飯は食べないのである。クロは不思議な猫だ。
「クロ、寝るよー」
リンはクロと一緒に布団に入る。
布団の中はちょっと冷たいが、クロがいると暖かい。クロと家族になってから毎日一緒に寝ている。
「おやすみ」
「ニャア」
◇ 約一年後 ◇
暗い空に赤く燃える炎。それはもう、すぐそこに迫っている。
「お父さんっ! お母さん!」
「元気で……生きて……リン」
涙で景色が滲む中、私はマーサに手を引かれ、ひたすら逃げる。炎の熱さを感じる。
目覚めると涙が流れていた。クロがリンの涙を舐めている。
またこの夢か。
「クロ……ありがとう」
「ニャー」
小さい時の火事で、私は両親と家を失った。唯一残ったのは……。
「おはようございます。リン様」
「おはようマーサ」
従者のマーサ。
「マーサ、手伝うよ」
「いつもありがとうございます」
マーサはその時の火事で、左手が使えない。
「ニャー」
「クロもおはよう」
「この後はまた勉強ですか?」
「ええ。きっとマーサの左手を元に戻してみせるわ!」
「リン様……」
少ない生活費の中で購入したヒーラーの本。その勉強をするのがリンの日課である。学園は貴族や、ある程度裕福な家の者しか行けない場所で、自主的に勉強する他ないのである。クロは勉強中、リンの膝に乗ったり、勝手に散歩に行ったりしている。
リンの本名は、リン・ランドゥ。かつては、ランドゥ王国の第一王女だった。しかし、七歳の時の火事で城は崩壊。両親、つまり国王と王妃は共に亡くなった。従者だったマーサが、命懸けで私を助けてくれた。
今は訳あって身分を隠し、マーサと二人で小さな村に暮らしている。
今日は両親の命日だ。
暖かい春の日、村の外れの丘の上はとても気持ちの良い風が吹いていた。リンの長い銀髪を春風が通っていく。リンは心細くなるとここに来るのだ。心の中で両親に伝えた。
私は元気です。もう一七歳になりました。おばあちゃんもクロもいるし、寂しくないです。
家へ帰ろうと丘を下って行く。ふと、去年のことを思い出す。あの時もこの丘に来た。クロが不思議な猫だと思ったきっかけはその時からだ。
◇
……草むらからガサっと何かが動く音がした。嫌な予感がして、振り向くと大きくて黒いものが顔を出していた。
熊だ!
リンは息を呑んだ。熊を刺激しないようにゆっくり遠ざかる。
大丈夫、ゆっくり、ゆっくり……
しかし熊はこちらを見ると、案の定、興奮し走ってきた。
きた!
熊のスピードは速く、リンも力の限り走るがこのままじゃ追いつかれるのは時間の問題だ。足がもつれてきた。
リンは振り返って熊を睨んだ。熊はもうすぐそこまで来ている。足がガクガクする。冷や汗も出てきた。
やらないと死ぬ!
リンは風の魔法を使おうと呪文を唱える。しかし出たのは……そよ風。
こんな風じゃ追い払えない!
その時、草むらからクロが飛び出してきて、熊と私の間に立ち塞がった。
「クロ! 危ない!」
小さな猫が、熊に爪を立てられたらおしまいである。しかしクロは微動だにせず、こちらに向かってくる熊をじっと睨んでいる。何だかクロの体が大きくなったような感覚がした。
「え?」
熊は急に立ち止まり、小刻みに震え始めた。すると鈍い動きで、草むらへ消えていった。
なんで急に……でも
「助かったぁ。クロ、追い払ってくれてありがとう」
クロを抱きしめるリンは、半泣きである。
「ニャァーア!」
力加減を間違って、クロが苦しそうな声を出している。
「わぁ、ごめん!」
「ニャア」
◇
あの時は驚いたなぁ。でも、なんで熊は急に逃げ出したんだろう……?
考えているうちに、村はずれにある小さな家に着いていた。ここがマーサとリンの住まいである。質素な家でも我が家はやはり安心する。
クロは不思議な猫だ。人の言葉が分かるのかと思う事が時々ある。
絶対「ニャア」と返事をするし、出かける時は付いてきて、リンやマーサを守ってくれているようだ。今日も気付かなかったが、いつの間にか付いてきていた。
他の猫のように、ネズミや小鳥を取ってくる事はなく、大抵、日向でゴロゴロしている。リンに撫でてもらうのが好きなのか、リンが座ると膝に乗ってくるのが習慣だ。
◇
マーサがいつになく真剣な表情でリンを呼ぶ。
「リン様、話があるの」
「どうしたの? マーサ」
二人は向かい合ってテーブルに座る。
「リンも一七歳、今年で成人でしょ? そろそろ王女に戻った方が……」
「でも、そんな事したらマーサが!」
「私の事はいいの。リン様の将来が、今のままで良いわけがない」
「私は、マーサが捕まるリスクは冒せない」
「もう、強情なんですから」
マーサは居住まいを正して、リンを正面から見据える。
「今日村長さんに、リンを息子のお嫁さんにしたいって言われました」
「えええ?」
「ニャア」
「そういった年齢なんです。考えておいてください」
マーサはそう言うと出かけて行った。村長の家に行くのだろう。リンはしゃがんでクロを撫でながら呟く。
「クロはいいなぁ、将来の事考えなくてもよくて」
リンはため息をつく。クロはじっとリンを見ている。
「心配してくれてるの? ありがとう」
リンはクロを抱き上げてキスをした。
◇
その夜、
「キャア! わー!」
なんだか外が騒がしい。
「どうしたのかな?」
リンは布団から出ると、そっとカーテンを開けて窓から外を見る。村の人達が走っていくのが見えた。何かから逃げているようだ。遠くに炎も見える。
村が、燃えてる!
「マーサ起きて!」
マーサを揺り起こし、ドアを開ける。村はすごい騒ぎだ。
「あそこ、見て!」
リンは空に人が浮かんでいるのを見つけた。
あれは魔法使い? 村を襲っている!
「まさか……! あの魔法使いが? リン様、森に逃げましょう」
「マーサ! クロがいない!」
いつも布団で丸くなっているはずなのに……
「きっと外に出たんです。私達も早く行きましょう!」
二人は上着を着て外に出る。
「出てこい! 何処にいる!」
男の声が聞こえる。上空にいる魔法使いが怒鳴っているようだ。
あの魔法使いが村を燃やしている……!
リンとマーサは手を繋ぎ、他の村人と一緒に森へと向かった。
「皆さん大丈夫ですか? 森の奥へ走ってください!」
村長が皆を誘導する。上空から風が吹いてきた。すると逃げようとした前方の森が、急に燃え出した。
「ひっ!」
マーサが悲鳴をあげる。村人も、みんなパニックになっている。
「聞きたい事があるんだ。逃げるな!」
森を燃やした魔法使いが、目の前に着地した。手に炎を纏っている。魔法使いはローブを着て、頭に黒いフードを被っていて、顔はよく見えない。
「俺は魔導士を探してる。この辺にいるはずだ、男をかくまってないか? 黒髪の背の高いヤツだ」
マーサの手が震えている。まさか……
みんな口々に知らないと訴えている。
「最近この村に入ってきた新参者はいない。あなたが探している男性は知らない」
村長が男に訴えた。皆静かに怯えている。
「ほぅ。そうか」
男は手を挙げる。手の炎が大きくなる。
「全く見つからない。むしゃくしゃするから、この村は全部燃やす事にする」
は?
リンは怒りを覚えた。
「ちょっと! それは横暴すぎるわ!」
リンは、気付くと村人の先頭に立ち、魔法使いにつっかかっていた。マーサは顔を青くさせている。
「威勢がいいな、よほど死にたいようだ」
「ここにはここの暮らしがあるのよ。いきなり来て村を燃やすなんて、許さない」
男が手を上げると、また炎が現れる。男は何の迷いもなく、リンへ向かって炎を放った。
「正義感だけあっても、力がなきゃ犬死だ」
その時、どこからかクロがリンの前に飛び出してきた。
「クロ!」
炎はクロの前で霧散した。
「なんだ? この猫は……」
クロは魔法使いを睨んで動かない。
「まさか? お前……!」
男は目を大きく見開き、動揺しているようだ。その時、クロが光りはじめた。
「え! なに」
クロがどんどん大きくなっていく。そして猫の姿がみるみる変わっていく……リンは目を疑った。
男が驚きと喜びの表情をしている。徐々に光が消える。
黒髪が風に靡いて、紫の瞳がゆっくり開く。そこにいたのは、黒いローブを着た、美しい男だった。
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