5 事実
上野から二人が暮らす街に戻ってきた。時刻は夕方。日は沈みかけている。
「せっかくだから飲もうよ」
という美樹の誘いも有り、駅周辺の居酒屋で夕食をとることになった。
そして数時間後。
「実咲強すぎだよ~」
とへべれけ千鳥足で店を出る美樹であった。
「あんな日本酒まで飲んで。てか全然強くないじゃん」
「どうなんだろうねー。最近飲んでないし周りみんなあんま飲まないからー。しゅごー! って感じの実咲に付き合ってたらいつの間にかね~」
「というか美樹が心配でこっとも途中からセーブしてたわ」
「うそー! 一緒に飲んでくれてると思ってたのにー」
「両方潰れたら終わりでしょ」
「んでも実咲やっぱ平気だよねー。全然変わってない」
「血かな。結構ザルなのよ。ザルだからなおさら職場の飲み会とか行きたくないんだよね。ずっとシラフで酔いで誤魔化せないし」
「誤魔化すんかーい! なにー? 私とでもそんな楽しくなかったー?」
「めっちゃ楽しかったって。久しぶりいい気分に酔ってるから。あんたほどじゃないだけで」
「えへへーやったー。じゃあ二次会行こー! お酒買って私んちー」
「はあ? 今から?」
「そうだよ。見に来るって言ったじゃーん」
「言ったけど……」
というかそもそもどのみちとしてこの状態の美樹を一人で帰らせるわけにはいかないからな、と実咲は美樹に肩を貸して歩き出す。
「こっちでいいんでしょ」
「うん大丈夫。コンビニもあるしー、ていうかさすがに肩じゃなくて大丈夫だよー」
と美樹は実咲の肩から腕を外す。
「ちょっと足おぼつかない程度だしー」
と言い、実咲の手を握った。それはぎゅっと、すべての指を絡ませるものだった。
「へへ、これなら安全」
「――転んだ時に私ごと全部持ってかれんじゃん」
「ひっぱって助けてよー」
と言い、美樹は実咲を見上げる。その身長も、8センチほど。並ぶとわかる、程よい目線の違い。そうして笑って見上げられると、実咲もたまらず顔をそらす。
「わかったからあんまふらふらしないでしよ。手は離さないからさ」
「優しいー。やっぱ実咲は優しいよねー。ありがとー」
と言って美樹は体を預け腕を組む。
「いい気持ちー。楽しかったねー今日は」
「そうだね。久しぶりに飲んだし」
「そこお!? 私と一緒に色々言って楽しかったでしょお?」
「楽しかったって当然。ほんと酒買ってくの?」
「そりゃ買ってくよー一本くらい。うち一つもないし二次会なんだから」
実咲はそのテンションの高さと楽しそうな笑みに折れ、コンビニで酒とツマミを買うのであった。
*
美樹の家に着く。そこは見ただけでもわかる古いアパートだった。風呂がないというのも納得できる。女子大学生がこんなところに住んでて大丈夫なのか、防犯できるのか、と不安になってくるが、ひとまず中に足を踏みれた。
中は、非常に雑多な空間であった。片付いてはいるが、部屋の一角がキャンバスやイーゼル、画材に占拠されている。確かに広さだけは十分に確保されているようであった。
「これ。この辺今まで描いたのースケッチブックとかもあるから好きに見ていいよー」
と言いつつ。美樹は折りたたみの小さなちゃぶ台を床に置く。
「おぉ……」
「座椅子すらないからねしょぼいクッションだけど。痛かったら布団使っていいよ」
「それはさすがにね」
「そう? もう半分クッションがわりだけどね。もう敷いちゃってるし。じゃあカンパーイ!」
と美樹は缶チューハイを開け、実咲と乾杯し一気に飲む。
「はーっ! ほんとお酒はいいよねー。えーとそれでこれがねえ……」
と一枚のキャンバスを取り出してくる。
「高校の時に描いた絵」
「――なんか、さっき見たのよりは中々独特だな」
「この頃から芸大の試験の準備してたからねー。どう?」
「……やっぱ、すごすぎてすごいとしかね……」
「なにそれー」
「いや、まぁさ……芸大っては聞いてたし、当然上手いのは知ってたっていうか、まあ上手いんだろうなって想像はできてたけど、実際見るとやっぱこうさ――ちょっと上手すぎて、上手いしすごすぎるからさ……ほんとちょっと、言葉なくすかな」
「うーん。色々あるのはわかるけどー、好き嫌いは?」
「……そりゃ、好きだしすごいいいと思うよ。めっちゃ」
「やったー! なら嬉しいー。この頃は色々大変だったからね、絵見るだけで思い出すかな。だからわざわざ持ってきたしー……」
「大事な絵なんだな」
「うんー……でも大事じゃない絵なんか一枚もないしねー……」
「……ていうかさ、この家もしかしてテレビない?」
「ないよー。いらないからねー。スマホとラップトップあれば十分だし、NHKの集金気持ち悪いし……」
美樹はそう言い、そのままこてんと布団の上に倒れ込んだ。
「――おーい」
「……んー……」
うなり声で答えるが、それはもう九割方寝ているも同然であった。
「そりゃま、一日中遊んであんだけ飲んでりゃな……」
実咲はそう言って美樹の寝顔を見て微笑み、そっとその目元の髪を掻き分ける。そうして布団を彼女の体にかけてやるのであった。
実咲は、一人美樹の絵と対面し酒を飲む。そうしていると飲みながら絵を見るのなんて初めてであることに気づく。美術館で酒を飲むわけにはいかない。当然家でそんな機会はなく、絵が飾ってある居酒屋など行ったこともない。
絵を眺めながら、実咲は昼のことを思い出していた。美樹が描いた絵を初めて観た、あの時の衝撃。
上手いことなどわかっていた。知っていた。なんせ芸大だ。下手なやつが入れる場所ではない。上手いに決まっている。けれどもそれは、何もわかっていないに等しかった。実際にその目で見て、その絵が上手いという次元ではないことを経験として知った。
上手い絵など、数多見た。多分日常茶飯事に見ている。世界は絵であふれている。書店などで働いていると、毎日絵を見る。そしてそこにある以上、それらは「上手い」絵であることは間違いなかった。
けれども美樹の絵は違った。上手いのは絶対だが、それ以上に凄まじく力強かった。絵の持つ力が違う。それは生で観たからかもしれない。でもたとえ本に印刷されたものであっても自分は息を呑み、打ちのめされていただろう。ともかく、想定していたものとあまりにも違いすぎていた。今まで見てきた絵のように、美術館に飾ってあっても何ら遜色ないように思えた。引き込まれる、飲み込まれる、そういう力がある。言葉がなくなる。「本物」の絵画で、彼女は「本物」の画家なんだ。そう思った。
実咲はそっと立ち上がり、別の絵を見る。間違っても汚さぬよう缶は机の上に置く。どれもこれも極上に上手くて、しかし上手いという言葉より言い知れぬ力、迫力、を感じる。感情が逆撫でられる。けれどもそれは何も彼女の絵だけによるものではないことは実咲にもなんとなくわかっていた。問題は、これを描いたのが彼女であることだった。この絵を描いたのが、いまそこで寝ている彼女でなかったら、ここまで神経を逆撫でられることはなかっただろう。
実咲は見ても良いと言われたスケッチブックも見る。そこには美樹のこれまでの人生が、努力や道のりが表れている。実咲はそれを閉じ、一つ息をついて酒を口にした。そうして美樹の寝顔に目をやる。
まさかこんなにすごかったとは。こんな、本当に……
言葉が出てこない。妙に近くに感じていた彼女を、今は恐ろしく遠くに感じる。あまりにも自分とは、自分たちとは違う人間だ。彼女は、美術館のあちら側の人間だ。自分のようなそれをただ見ている側ではない。見られる側。あの壁に飾られる側。
そんなこと、考えもしていなかった。
そうすると再び「なんで」という思いが戻ってくる。なんでこいつは、私なんかに声をかけたんだろう。あんな銭湯で。それこそ銭湯しか共有していないような自分とこいつで。あまりにも住む世界が違う。住んでる街も、風呂も、この部屋も違いなんてないけれども、あまりにも人生が、将来が。これまでも今もこれからも、あまりにも自分のような凡人とは違いすぎる。
こいつは一体どこに行くんだろう。こいつはなんで私なんかといるんだろう。もっと色々あるだろうに、ただ銭湯で偶然会っただけの、こんなどこにでもいる人間と。何が楽しくてあんな笑ってるんだろう。どんな絵を描こうとも、ただこいつがそういう人間だからとそれだけだろうか。すごい人間は、そんなことを気にしたりもしないのだろうか。
近づいた気がした彼女が、妙に遠い。もしかしたらなどと思ったが、そんなものが全部単なる思い込みで独りよがりの妄想だったと思えてくる。
実咲は彼女の手にそっと手を置く。そうして一人酒を飲み、ずっと彼女が描いた絵を眺めていた。