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魔王の守人  作者: 木賊苅
1部
25/33

9-2

 ローズクイーンが扇子を上げると、“旧王妃派”の魔族たちが少々尻込みながらも襲い掛かってくる。それに煌は瞬時に魔力を全身へと巡らせ、床を蹴った。それに五将とカークが続く。

 煌はまず一人目の魔族が振り下ろしてくる剣を、自身の剣を鞘から振り抜きざまに力の限り弾き返す。キィンッ、と耳障りな音が響く。がら空きになった相手の懐に向け、氷の魔術を叩きつけた。彼女の空いた手から放たれた氷柱は魔族の腹部を貫く。動きを止めた瞬間、その喉を剣で切り裂いた。吹き出る赤い血。苦痛に歪んだ魔族の顔から生気が無くなっていく。返り血を浴びるより早く、煌は彼を追い抜かした。どしゃ、と床に何かが叩きつけられる音に、知らず柄を握る力が強くなる。



 生まれて初めて、自分の手で人を殺した。本体が瘴気であるため、まるで霞を斬りつけているような感覚のある魔物とは違い、狩りをした時と同じく血も出れば肉を断つ感触も、骨がそれを邪魔する感触もある。自分と同じ形をしているだけで剣が重く感じてしまうのは、きっとただの人のエゴだ。それでもやはり、他人の命を背負うのは重い。



 動きを止めたのは瞬き一つ分の時間。ふっと息を吐き、振り下ろされた剣を避ける。右手を振り上げ、相手の剣を握る手の肘から先を切り飛ばした。顔面を空いた手で掴み、火の魔術を発動させる。耳をつんざく悲鳴と肉の焼ける音や匂いが広まる。指先から力が抜けていくような気がするが、剣を捨てるわけにはいかない。立ち止まるわけにはいかない。もし躊躇などすれば、自分が殺される。

 命のやり取りとは、そういうことだ。



「オラオラオラァ!ボサッとしてっとあの世行きだぜぇ!?」



 雷角が嬉々として雷撃を放つ光が煌の視界の端に映った。同時、ヒュォッと風を切る音が耳に入り、反射的に近場にいた魔族の頭に手を置き高く飛んだ。台にした魔族の体がぐらりと揺らぎ、一瞬宙に浮いた状態になった煌の目に、近くにいた別の魔族の両足がすっぱりと切れ、崩れ落ちていくのが入る。着地してすぐに目を奔らせると、少し離れた所に背中合わせの風鼬と水蛇がいた。



「ちょっとフウ!煌ちゃん切り裂きかけてどうすんのよ!」

「おりょ?ごめんにょ~」

「んもう!」



 楽しそうになりふり構わず鎌鼬を放っている風鼬に、水蛇がぷりぷり怒っているのが見えた。どうやら先程のものも彼女が放った鎌鼬のせいのようだ。共同戦線を張っているらしい二人の周囲には、血溜まりや水溜りの他に身体の部位を失った者が転がっている。なかなかにスプラッタな光景だ。

 背後から振り下ろされた剣を前に転がることで避け、しゃがんだまま振り返りざまに右手の剣を薙ぐ。両足を切られ倒れる魔族。立ち上がろうとしたところで、再び背後に気配が。バッと勢い良く振り返ると、そこには一つの氷像があった。中には両手で持った剣を振り下ろそうとしている魔族と、今にも魔術を放ちそうな体勢の魔族がいる。



「…………後方不注意」



 ぼそりと呟かれた声に視線をやると、少し離れたところで魔族の手足やら全身やらを面倒臭そうに凍らせている氷龍がいた。どうやら目の前の氷像は彼の作品らしい。

 ついで目の前を、頭を盛大に燃え上がらせた一人の魔族が悲鳴を上げながら走り過ぎていった。炎鷲の仕業だろうか、地味に嫌な攻撃である。

 ぞわり、と首の後ろの毛が逆立つような悪寒に、煌は襲い掛かってきた魔族の顎を柄で殴り上げ、素早く周囲に視線をはしらせた。理事の斜め前に立つ莉央が目に入る。そして、彼女に向かって走る乱闘からあぶれた一つの影。

 考えるまでもなく、煌の足は床を蹴った。しかし間に合わない。影は難なく莉央の目の前に辿り着くと、恐怖に顔を引き攣らせた彼女に向かって剣を振りかざす。

 こうなったら魔術で、と掌を向けたその時。反対方向から赤い影が飛び出してきた。



「莉央に、手ェ出すなぁ!!!」



 目に見えぬスピードで影、魔族に接近したカークは、途中で手に持っていた大剣を放り出し、握りしめた拳で彼をぶん殴った。全身全霊の力で殴り飛ばされた魔族は、数人の魔族を巻き込み乱闘の中に放り込まれた。



「莉央、怪我ないか!?」

「だ、大丈夫…………」



 肩を掴まれ全身に目をはしらせているカークに、莉央はいまだ声を震わせながらも頷いている。放り投げた大剣を拾いに行ったカークと入れ違いに、煌は彼女の前に立った。持っていた剣を一応血を払い飛ばして鞘に納め、じっと彼女を見つめる。確かに何処にも怪我らしきものは見当たらず、安堵のため息を吐いた。

 わしゃり、と莉央の頭を片手で撫でた煌は、乱闘の方に目をやる。数はいまだ“旧王妃派”が断然多いが、嬉々として暴れている五将のおかげで戦況はこちらの方が優勢しているように見える。バリバリと眩い稲妻が集団の中で発生している。

 アイツだけは何処にいるか一発でわかるよなァ、と遠い目をしてそれを見ていた煌は、同じく乱闘に目を向けているであろう、ステージ上のローズクイーンに視線を移した。このまま勝負がつくのも時間の問題だろう、という煌の考えはローズクイーンも同じらしく、彼女は不機嫌そうに爪を噛んでいる。と、自身に向けられる視線に気付いたのか、彼女をまっすぐに見つめる煌へと顔を向けた。

 交わる二つの視線。煌の嫌悪と憎悪の入り混じった瞳を見て、ローズクイーンは何を思ったか、にやりと口元に笑みを浮かべた。

 押されている状況にも関わらずそれはまるで、自身の勝利を確信しているかのようで。

 煌は嫌な予感に強く拳を握り締めた。

 見せつけるように、ローズクイーンの口がゆっくりと開く。



「そなたの出番じゃぞ………………………<ルーシャスラ>」



 知っているものにしか判別不能なそれは、魔界の歴代の王の中でも最強だと称される者の真名。

 うすら笑いを浮かべるローズクイーンの斜め後方に、全身黒ずくめで長身の男が姿を現した。血を思わせるような瞳に光はない。



「ル、シャ……………?」



 軽く目を見開いた状態で呟いた煌は、愕然と現れた男、ルシアを愕然と見つめる。

 生きていた。無事だった。それはとても嬉しい。しかし彼は何故、そこにいる?

 何故、ローズクイーンの傍に控えている?



 ………………いや、本当は何故かなんてわかっている。でも、認めたくない。



 嘘……と呟いている莉央の声すら耳に入らない。五将のメンバーは戦闘の方に夢中なのか、ステージ上の変化に気が付いた様子はない。

 思考が停止したかのように身動き一つしない煌に、ローズクイーンは至極満足そうに口元を歪めた。



「こやつは現在、我が術中におる。生きるも死ぬも、為すこと全てが妾の思いのままよ」



 ぱちん、と閉じた扇子でルシアの顎を撫で上げる。

 煌はぎり、と唇を噛み締めた。犬歯が唇の薄い皮膚を破り、じわりと深紅が滲み出す。



「妾が一言命じれば…………………」



 扇子の先は顎を辿り、喉元へと降りていく。

 どくん、と鼓動がやけに大きく感じる。頭が怒りで真っ白になって何も考えられない。



 ――――やめろ………



「妾の手となり足となる。ふふ、妾の可愛い人形よ」



 扇子が外され、魔族の特徴である浅黒い手がルシアの頬をするりと撫でる。



 ――――やめろ……ヤメロ…………止めろ!!



「お前がルーシャにっ、触るなぁ――――――ッ!!!」



 ざわり、と煌の周囲の空気が急変する。爆発したかのように彼女の体から莫大な魔力が放出され、それは竜巻のようにうねり上方へと突き上げられた。魔力の塊は勢い良く天井を突き破り、瓦礫やら何やらを講堂全体へと降らせる。遠いところで薄いガラスが割れるような、パリン、という音がした。

 この爆音と漏れ出す魔力には流石に気付いたのか、乱闘していた魔族と五将も戦いの手を止める。大量の魔力を垂れ流している発生源に目をやり、五将たちは驚きと焦燥を隠しきれない表情を浮かべた。

 彼女から発せられている魔力の中に、彼らにとって懐かしい物が混じっている。そして、それが意味することはつまり……………………



「あ、ンの馬鹿………!」

「にゃ、にゃは………煌ちゃんと獣王が同化しかけてる☆」

「しかけてる☆じゃないわよフウ!完全に同化しちゃったらあの子………………!」



 忌々しげに雷角が頭を掻き毟り、動揺しながらも普段の口調を崩さない風鼬に水蛇が一喝してから顔を顰める。

 同化とはそのまま言葉の通り、依り代とされているモノと封印されているモノの魂が一つになってしまうことを意味する。一度同化してしまった魂は二度と離れることはなく、理性を失った彼らはその身に宿す魔力がなくなるまで破壊し続ける。

 煌の瞳は今までにないほどの怒りに染まり、一筋の涙を零している。抑えきれぬ怒りで魔力が暴走し、中に封印されている雪華との同化現象という事態を引き起こしたのだ。



 ――――コロシテヤル、ころしてやる、殺してやる……………!



 顔を強張らせているローズクイーンのいるステージへと一歩足を踏み出したその時。どん、と背中に何かが当たった。気にせず進もうとすると、腹の前に腕を回されぎゅっと力を籠められる。抱きしめられている、とわずかに残っていた理性が認識したところで、穏やかな声が耳に入った。



「ねぇ煌君………………一回落ち着こう?」



 ね?と回された腕に更に力が篭り、背中に何かが擦りつけられる。それに抱き着いてきているのが莉央であることを知った。怖いのだろう、縋り付くように回された手は微かに震えている。

 それでも莉央は煌の背中に額を押し付けたまま、言葉を続けた。



「落ち着いて。操られてるなら王様、助けなきゃ。大切な人、守るんでしょ?」



 それとも王様は大切じゃないの?という問いに、煌は言葉を返さない。その代わり、何度か気を落ち着かせるように深呼吸し、徐々に体に入っていた力を抜いて行った。それに伴い、彼女の全身から放出されていた膨大な量の魔力が、見る見るうちにおさまっていく。

 息を飲み状況を見守るしかなかった者達も、強張らせていた肩から力を抜き、安堵の息を吐いた。



「いけ。あの小娘の首をとってくるのじゃ」



 講堂に響いた声に皆一斉にステージ上へと目を向けた。ローズクイーンの後ろに控えていたルシアの姿が見当たらない。瞬き一つの内に抜身の剣を下げた彼が現れたのは、身動き一つとれずにいる煌の目の前。

 ハッと我に返った煌は咄嗟に莉央を突き飛ばした。きゃ、と小さな悲鳴が上がる。気遣う余裕はなかったので、擦り剥いたり挫いたりしてしまっているかもしれないが、斬られたり貫かれたりしてしまうよりかは絶対にマシだ。腰を落とし柄に手を添え、睨み上げる煌をいつもに増して感情の読めない目で見下ろしたルシアは、手に持った剣を無造作に頭上へと振り上げる。

 ぎゅ、と煌が柄を強く握りしめたその時、



「正気に戻らんかい、ルシアァアアァァアアアア!!」



 雄叫びを上げたカークが、背後からルシアへと切りかかる。ルシアは視線すらやることなく、体を捻っただけで振り下ろされたそれを避け、床を蹴り大きく横へ跳んだ。すかさず後を追うカーク。

 全身に張りつめていた緊張が解け、煌は細く息を吐きながら体勢を戻し、剣から手を離した。

 紅い瞳から、何も読み取ることが出来なかった。以前は、初めて出会った時ですら、多少の感情の揺らぎを見ることが出来たのに。

 可愛い人形、という言葉に嘘はなかったということか。確かに今のルシアは、ローズクイーンが意のままに操ることが出来る“操り人形”だ。以前莉央や隼に掛けたような術の類でも使ったのだろうか。ルシアにそんなものを掛けられるような心の隙間があるようには思えないが、可能性はゼロじゃない。

 ローズクイーンは、ルシアの実の母親だ。つまり彼女は、先程呼んだように彼の真名を知っている。

 真名は魔族や天族にとって命にも等しいものだ。相手の真名さえ知ってしまえば、格上に対しても呪いのような類の術を行使することが容易くなる。元々他人の精神に干渉する類の術が得意だと思われるローズクイーンだ。簡単だとは言えないが、万全の体勢ではなかっただろうルシアの心を封じこんでしまうことが出来たのだろう。



「煌君」



 呼び掛けられて手を握られ、煌はそこで初めて握りしめた自分の手が震えていることに気が付いた。



「大丈夫………じゃないよね」

「………莉央こそ怪我は?思い切り突き飛ばしたけど」

「私はちょっとお尻が痛いだけだよ」



 大丈夫、と微笑み隣に立つ莉央に、繋いだ手に力を込めた。思っていた以上に、ルシアから攻撃されたという事実にダメージを受けていたようだ。



「守ってくれてありがとう」



 礼を言う莉央に、何だそれ、と苦笑が零れた。魔族から守ったのはカークだし、今のだって狙われていたのは煌の方で。



「むしろ巻き込んで悪いって、こっちが謝るべきだろ」



 そうだ。莉央は本来、別にこの場にいなくてもいい。煌と知り合わなければ他の生徒と同じように避難していた筈だ。今だって煌の近くにいたせいで危険な目にあった。

 あぁやっぱり関わるべきじゃなかったか、と視線を足元に落とすと、繋がっていた手がするりと解かれる。隣にあった見覚えのある靴が正面に移動した。顔を上げると、胸の下で腕を組んだ莉央がイイ笑顔を浮かべている。



「煌君。もし本当に謝ったら、お仕置きとして着せ替え人形の刑だからね」



 どんなお仕置きだ。しかし煌にとっては冗談ではない内容である。

 ツッコミを入れようとした煌は、莉央の笑みが深くなったのを見て言葉を慌てて飲み込み、はい、と思わず敬語で返した。何故だろう、遠い昔の記憶となった母親が脳裏に浮かんだ。



「私はね、煌君。煌君に会えて嬉しいし、こうやって巻き込まれるのは…………まぁ、確かに怖くて仕方がないけど、人が死ぬのなんて見たくないけど…………でも、巻き込まれない方が悲しいよ」



 だって私、煌君の友達でいたいもの。

 微笑んで告げられた言葉に、煌は返す言葉に詰まる。再び視線を足元に向ける。



「私も家の関係でなかなか仲の良い子が出来なくて、だから煌君といれて私は嬉しい。煌君と私は友達だって、思っちゃダメかな?」



 問いかけに、下を見つめたまま頭を振る。友達だと、言ってくれるのか。こんな、周りを巻き込んでしまうような自分に。



「……………、ありがとう」

「どういたしまして」



 にっこりと笑う莉央に、恥ずかしい奴、と少し色付いた頬を掌で擦りつつ顔を上げた煌は、カークとルシアのやり取りに目をやる。カークは止まぬ攻撃を繰り出し、ルシアは避けるか受け流すかのみ。一見カークの方が優勢のようにも見えるが、その顔は悔しそうに歪んでいる。全力で向かっているカークに対し、ルシアは最低限の動きしかしていないため体力の温存が出来ているのだ。巻き返しを食らうのも時間の問題だろう。



「お前はっ、他の何を忘れてもっ、煌ちゃんを忘れたら、アカンやろっ!あない大切に、しとった癖に!!目ェ覚まさんかいっ、こンの、ドアホ!!!」



 ガン、ギン、と金属のぶつかり合う重い音が、カークの怒声に紛れて此処まで聞こえてくる。

 カークが怒っているのは煌の為であり、ルシアの為だ。

 煌は目を瞑り、再び目を開けた。

 決めたのだ。もう二度と失わないと。自分の手で守り抜くのだと。



 手から零れていく砂を、何も出来ずに見ているだけなのは、もう嫌だから。



 煌は二人から目を外すと踵を返した。不思議そうな莉央が付いて来ているのを気配で感じながら、目的地まで歩く。床に寝かせたユーファの傍らに膝をついてしゃがんでいた理事も、何事かと彼女の姿を目で追った。

 扉の前で、ぼんやりと煙草を吸いながら傍観している唯人の前で足を止める。



「アンタは逃げないのか?」

「俺は医者だからな。怪我した奴がいたら診てやるよ」

「戦いにも参加しない?」

「戦闘は専門外だ」



 で、何か用か?と煙を吐き出しながら問い掛けてくる彼に、煌はおもむろに手を伸ばした。彼の額に、彼女の中指と人差し指、二本の指が軽く当てられる。怪訝そうな顔を向けて来るのに、にっこりとわざとらしく笑みを返した。



「魔力、わけろ」

「はぁ?」

「動くなよー」



 これ結構調整難しいんだから、と煌は額に重ねた指先に意識を集中する。豊潤に残っている魔力を探り当て、一気に引き上げる。

 びくり、と唯人の肩が跳ねた。体の中から勝手に何かが汲み上げられていく感覚に舌を打つが、言われた通り動かないでいる。術中、下手に動いて失敗した場合の怖さはよく知っている。

 無言で意識を集中していた煌は、しばらくしてようやく唯人を解放した。



「て、め………何しやがった……………………」



 ふらついた唯人の体を、傍らで口を出すことなく見守っていたコルテが支える。そしてまじまじと煌を見つめた。



「魔力の譲渡ですよ。魔族のやり方に言葉を合わせるとしたら、吸収ですかね」

「吸収、だぁ…………?」

「言葉の通り、触れた相手から魔力を奪うんですよ。誓約を交わした相手でなければ効率は悪いですが、まぁ応急処置ぐらいにはなるかと。魔の王に教わったのですか?」

「昔にな。あ、怠いだろうけど、全体の四分の一は残しといたからすぐ楽になると思う」

「やはり調節が魔族より上手いのは人間だからですかねぇ」

「知らね」



 頭上で暢気な会話してんじゃねーよ、と床に腰を下ろした唯人は壁に背を預け、腕で目元を覆った。症状としては貧血に近いのか、と冷静に自身の体調を分析しているあたりは、さすがは若くして校医総務長にまで登りつめた男である。

 私も魔力あげるよ煌君!いや女の子からもらうのは何か気が引ける。気にしないで、どんとこい!いやだから…………と、まるで緊張感のない会話を繰り広げていた、その時。

 轟音が、講堂に響き渡った。



「カーク!?」



 音の発生源に目をやったところで、莉央から悲鳴が上がる。破壊された壁の瓦礫の中に、ぐったりと動かないカークが見えた。



「何で急に……………」



 カークにはまだ体力があった、吹き飛ばされてしまうほどには見えなかったのに、と呆然と呟く理事に、あー……と煌は頭を掻いた。何となく理由は思い浮かぶ。

 多分…………



「飽きたんだろ、防戦すんのに」

「飽きた!?そんな理由!?」

「オレとアイツの思考、基本同じだから」



 つまり戦闘馬鹿。考えるよりも先に敵陣に突っ込んでいくタイプだ。緊急時に対応する臨機応変さもゴリ押しする力もあるものだから、改善される傾向はない。煌はまだしも、王であるルシアがそうなのはどうかと思うが。

 理事とそんな言葉を交わしていた煌に、ルシアの目が向けられる。彼女はそれを正面から受け止めた。先程は少し動揺してしまったが、今は大丈夫だ。しかし何も映さない彼の瞳を見て、思わず目が細まる。

 懐かしい…………けれどそれは誰も望んでいなかった懐かしさだ。煌とルシアが初めて出会った時の、孤独と寂しさと、でもそれが何かわからない妙な苛立ちとが入り混じった、彼の感情を一番素直に見せる緋色の瞳。



「校医総務長さん。動けるようになったらカークの奴、診てやってくれ」



 多分まだ、死んでないから。ルシアから一切視線を逸らさずに言う煌に、唯人は不承不承ながらも頷いてひらりと手を振った。まったくもって教師使いの荒い生徒である。

 目の端でひらひらと振られる手を捉えた煌は、無言で腰に吊るした剣に手を添えた。



「誓人の暴走は、守人が責任もって止めねぇとな」



 死んだら後は適当に頼む、とふざけるように言う煌に、理事の目がつり上がる。



「煌ちゃん!」

「冗談だよ、バァーカ。死んでたまるかっての。本気にすんな」



 縁起が悪い、と憤る理事に呵呵と笑ったと同時、煌は添えていた手で柄を掴み、勢い良く抜き払った。ガギンッ、と耳障りな音が響く。



「気がはえぇんだよ、魔王サマ………………ッ!」



 瞬き一つで距離を詰め、目にも止まらぬ速度で繰り出された攻撃を寸でのところで防いだ煌は、押し切られぬよう渾身の力を腕に籠めながら、目の前にある人形のように表情のない顔に話しかける。飄々としているようにも見える言葉だが、初撃を受け止めた腕は力の籠めすぎで情けないぐらいに小刻みに震えている。こちらが両手で対応しているのに対し、相手は片手。単純な腕力の差ですら勝てる見込みはなかった。

 ちくしょう、と小さく吐き捨てた煌の耳に、少ししわがれた、煌!と自分を呼ぶ悲鳴に近い声が入ってきた。ルシアの後方に、血相を変えてこちらに来ようとしている炎鷲達の姿が目に入る。



「来んな!」



 一喝に、彼の体がぴたりと止まる。



「お前らの相手はそいつらだ。一人として此処から出すんじゃねーぞ!!」



 オレのせいで結界なくなったから、と繰り出された足技を下がって避けると、体勢を整えつつ、今にもルシアに攻撃を仕掛けようとしていた五将たちへと叫んだ。瞬間、心底不満げな表情を彼らは浮かべる。召喚主の命令は絶対である。が、それと感情は別だ。



「あ゛ぁ゛あああああぁあああ!くそっ、煌の野郎死んだら承知しねェ!!」



 頭をバリバリと掻き乱した雷角は怒声を上げると、手近にいた魔族に対して全力の雷を叩きこんだ。感情の制御が緩くなっているのか、体の表面には紫電が奔っている。完全なる八つ当たりである。他の者も納得いかない様子ではあるが、彼と同じようにそれぞれ戦闘へと戻っていった。

 一方、煌は既に五将たちに意識を割く余裕はなく、迫ってくるルシアから逃げ回っていた。反撃する覚悟が固まらず、防戦一方だ。

 しかし、いつまでもそんな悠長にはしていられない。向こうに躊躇がない分、こちらが躊躇っていたら確実に死ぬ。

 意を決して煌は逃げていた足の進路方向を変える。一瞬でルシアの背後に回り込むと、手に持つ剣を勢い良く薙ぎ払う。振り払うまでもなく受け止められたが、それは予想の範囲内だ。彼が煌のスピードに追い付けないわけはない。



「炎脚」



 右足に炎を纏わせ、空中で体を捻って脇腹目がけ蹴りを打ち込む。体は見事に避けられるが、煌は気にしない。元から狙いは彼ではなく、その手に持つ剣だ。彼女の蹴りを側面から受け止めたルシアの剣は、甲高い音をたてて真ん中から先が折れた。とりあえず相手の得物は奪った。全く油断は出来ないが、これで一応ルシアは丸腰だ。



「雷爆!」



 床に着地した煌は、すかさず左手でルシアの服を掴み、続けざまに魔術を発動させる。

 二人の間に、白く目を焼かんばかりに強い光と共に雷の塊が炸裂した。

 轟音と共にその場から大きく飛び退った二人は、動かず互いに見合う。煌に掴まれていたルシアの服の一部は、まるで高温の炎に焼かれたかのように穴が開いており、術を発動させた当人である煌の制服も、全体的に煤けところどころ破れてしまっている。

 ルシアが無言で頭上に手を上げた。何のつもりだと眉間に皴を寄せた煌だが、思いあたることがあったのか、顔を強張らせた。瞬時に床を蹴り、一気に間合いを詰める。構えもせず、丸腰同然のルシアに対し、一切の迷いなく腰から外した鞘を振り下ろす。

 ガンッ。鞘は鈍い音を立てて受け止められた。受け止めたのは腕よりも固く丈夫な物だ。



「っ、黒葬鎌(こくそうれん)かよ……………ッ!」



 ぎりぎりと歯を噛み締め、喉から絞り出すような呻きが漏れた。何故忘れていたのか。手持ちの武器がなくなれば、出すであろうことは想像できた筈なのに。武器を奪うことでハンデをつけたつもりだったのに、自ら首を絞めるような事態になってしまった。



 黒葬鎌―――それはルシアが所持する、丈二メートルを超える巨大な漆黒の大鎌の名称だ。魔界一とされる切れ味と強度を持っており、彼が【死神王】と呼ばれるようになった由縁でもある。ルシアが最も慣れている武器だ。



 ルシアは無造作に鎌を振ると、煌の体を吹っ飛ばす。

 煌は空中で体を捻って体勢を戻し、たん、と猫のように危なげなく床に着地する。が、顔を上げた瞬間、腹部に激しい衝撃を食らい、先程とは桁違いの速度で再び飛ばされた。景色が物凄い勢いで流れていき、彼女は爆音と共に壁の中へと突っ込んだ。



「が、ぁっ………!」



 右のわき腹から正面を通って左の腰にかけてが、焼けた鉄を押し付けられているかのように熱く、痛い。体中が痛いのだが、そこだけ比べ物にならないほどの激痛だ。

 飛びかける意識の中無理矢理目を開けると、投げ出された腕と床に広がる深紅が見えた。深紅はじわじわと面積を広げており、少し遅れてそれが自分の血だと認識する。それがわかれば、何だか腹部辺りが濡れているような気もする。あの鎌で斬られたのか、どうりで痛い筈だ。

 遠くで莉央の泣く声が、理事や雷角たちの叫び声が聞こえるが、それも何だか遠い。



 ………………自分は、此処で死ぬのだろうか。



 頭に浮かんだ言葉に、いや、と否定する。まだ死ねない。死ぬわけにはいかない。多くの命に守られた自分の命だ。簡単に手放してはいけない。それにまだ、やるべきことが残っている。



「………か。せ、か…………せっか」



 沈みかけた意識を、重い腕を動かし傷口を掴んで痛みで無理矢理起こす。

 まだだ。まだ、寝るな。



「ちから、を………かせ……………………!」



 血液の混ざった唾を吐き出し、荒い息を整えるように数度深呼吸すると、煌は目を閉じた。そのまま眠ってしまいそうになるが、なんとか痛みで阻止する。

 自身の奥底に眠る友人を心の中で呼んだ。



『…………相変わらず無茶をする』



 瞼の裏に、真っ白い毛に覆われた狼、雪華の姿が描き出される。表情はわからないが、彼は怒っているような呆れているような声をしていた。



「あまりにも、懐かしくて……………………」



 はは、と煌は疲れた笑いを浮かべる。そしてもし近くに人がいたなら、自分はいきなり独り言を言い出したように見えるのだろうなと、どうでもいいことも考えた。

 黒葬鎌を見たのは十年来………ルシアが幼い煌に見せてくれた時以来だ。それに加えてまさか自分に向かって振るわれるとは思ってもいなかった。動揺して反応が遅れてしまっても仕方がない………………と、自分に言い訳してみる。

 煌の言い分に、雪華は一つため息を吐いた。



『で、俺は何をすればいい』

「腹の傷の、治癒を……………無理なら、痛みを和らげて動けるようにしてくれたら、いい」



 出来るか、と問う煌に、もう一度ため息を吐いた。



『やってみよう…………だが、』

「死ぬな、だろ………わかってる。んじゃ、頼んだ」



 煌はまだ何か言いたげだった雪華の言葉を遮ると、心の底から意識を浮上させる。その際、このじゃじゃ馬娘が、という悪態が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにしておく。説教ならこれが終わったら聞くから、今は勘弁してほしい。

 煌はあの焼けるような痛みがいつの間にか和らいでいることに気付き、そっと傷の周辺に触れてみる。完全に引いてはいないが動き出せる程度には回復しており、床に広がる紅い絨毯も広がるのを止めている。どうやら雪華が健闘してくれているようだ。

 しかし、失った血を補うことは魔術では出来ない。血が足りていないのか、上半身を起こしたものの頭がくらくらとし、指先がわずかに震えている。見れば握っていた筈の剣はなく、見回してみれば少し離れたところで砕け散っていた。鋼鉄で出来ている筈の剣がだ。

 思わず舌を打った。あれだけリーチの長い得物相手に丸腰で突っ込んでいくのは、何をどう考えても殺されに行くようなものだ。

 天井を見上げ、細く息を吐く。まさか、黒葬鎌を使われるとは思ってもいなかった。



 ――――自分が彼に対し、これを使うことになるとは、思ってもいなかった。



 震えの収まらぬ手で首から下げた銀細工を握り込み、ブチッと音を立てて鎖を引き千切る。周囲に転がった瓦礫に手をついて、ふらつきながらも立ち上がった。肩で大きく息をして前方のルシアを睨み、腕を伸ばして顔の前に銀細工を掴んだ手をやる。しゃらり、と彼女の手から落ちた鎖が鳴る。



「漆黒と白銀の龍が、降り立つ時………我に力を、貸し与えん……………………」

 途切れ途切れながらも、詞と思われる言葉を紡いでいく。



 ぴくり、とルシアが反応したが、煌は無視して先を続けた。



「我求めるは、破壊にあらず………我求めるは、守りの力……………………」



 握った手がポゥ……と黒と銀の光に包まれる。煌が手を開くも、銀細工は独りでに宙に浮いていた。それを包む二色の光は次第に大きくなっていく。

 欲しいのはルシアを倒すための力ではない。欲しいのは…………



「目覚めろ…………二刀・黒銀龍(へいいんろう)



 ルシアを取り戻すための力だけ。



 光が、弾ける。弾けた光はそれぞれ惹きつけられるように、煌の両手へと集まった。

 すべての光が彼女の両手へ集まり終えた時、その手には漆黒と白銀の刀がそれぞれ握られていた。

 二刀・黒銀龍。幼い煌が黒葬鎌を見てねだった際、ルシアが彼女に代わりとして授けた二振りで一つの刀。黒葬鎌と同じ成分で出来ているそれは、この刀のように自分たちも永遠共にいられるようにと、密かにルシアが願掛けしたもので、普段はただのシルバーアクセサリーとして彼女の胸元で揺れている。



「まだまだ…………終わりじゃねーぞ、ルーシャ」



 煌は一度肩で大きく息を吐き、前方で動かないルシアに右手で持つ黒い刀の切っ先を向ける。

「ぜってぇお前を、取り返してやる」

 立つのだけでもやっとな状態でもなお、揺らぐことのない意思の篭った瞳。

 そんな彼女を、一人高みの見物を決め込んでいるローズクイーンは一笑に付した。



「よくもまぁ、そのようにみすぼらしい姿で吠えるものじゃ」



 ふふふ、と笑う口元を隠していた扇子を、ぱちん、と閉じる。その瞬間、再びルシアが動いた。姿がぶれたかと思うと、次の瞬間、ガギンッという音が講堂に響き渡る。

 煌が咄嗟に頭の脇で交差させた刀が、目の前に移動したルシアが薙ぎ払った巨大鎌の柄を受け止めている。一瞬でも反応が遅れていたなら、首から上は胴体と別れを告げていただろう。

 容赦ねぇなァ、と口の端についた血を舐めとる。相手は自分の命を刈り取ろうとしてきているという自覚も、負けは即ち死ぬということだという自覚もある。でも、これはもう昔からの条件反射だろうか。ルシアとこうしていると、気分が高揚してくる。



「お前はっ、いい加減に目を、覚ませっ!!」



 ――――だからといって、目的も怒りも忘れたわけではないが。

 気合と共に煌は腕に渾身の力を籠め、鎌を大きく弾き飛ばした。大きく後ろに跳んだルシアを追おうと足に力を入れた瞬間、ずきり、と忘れかけていた腹の傷が痛む。動いたことで傷口が開いてしまったのだろう。顔を顰め、仕事しろ馬鹿雪華、と思わず悪態を吐けば、自業自得だバカ娘、と返ってきた。もっともである。

 無視して前を見据えた。特攻を防がれたからか、様子を窺うように動かないでいるルシアに片眉を上げる。何だか、おかしい。見た目には何の変化もない。だが、彼があれしきの力で弾き飛ばされる筈がないのだ。

 何かに動揺したのだろうか。だとしたら、何に反応した?

 睨み合いを崩すことなく考えを巡らす。最初の変化があったのは、詞と唱えた時。それから黒銀龍を出して、攻撃を防いで…………………怒鳴った?

 今思えば、自分が声を発する度に動きが若干鈍っていたようにも思える。



「なんだ………………」



 取り戻せる可能性あるじゃねぇか。にぃ、と知らず口角が上がる。

 手探りで探し物があるのかもわからなかった闇の中に、光が射した。

 そうとわかれば、彼女の行動は早い。

 最早意味をなしていない、どちらかというと動きを阻害するマントを肩から外すと、傷の上を覆うように腹部に強く巻きつけた。気休め程度だが止血にはなるだろう。ぎゅっと結び、腰を落として構え直した。

 睨み合いの末、動いたのはほぼ同時。

 ブンッと膝に向かって薙ぎ払われたルシアの攻撃を、垂直に跳んで避けた煌は、大きな刃の部分に軽やかに着地する。それを足場にして、更に高く飛び上がった。その際足元に向かって氷の魔術を放つ。ダメージを与えられないのは百も承知。たとえ一瞬でも、足止めできればそれでいい。

 落下途中、煌は刃が上にくるように向きを変えると、落下速度と自身の体重を利用して一対の刀をルシアの頭上に叩き落とす。

 ルシアはそれを寸でのところで上体を後ろに反らし避けると、長い柄を勢いよく引き寄せる。

 床に足をつけた煌の背後から黒葬鎌の刃が迫る。体を捻り、逆手に持ち替えた刀を交差させ、ガチリと受け止めた。



「てめェは、一体誰の誓人なんだよ!こんの、クソ魔王!!!」



 顔を正面に戻し、感情のままに叫ぶ。ガラス玉のような紅い瞳がわずかに揺れ、鎌を引き寄せる力が緩まる。

 それを好機と見た煌は、目の前にある黒葬鎌の柄を膝で思い切り蹴り上げた。それは容易くルシアの手から離れ、宙に浮く。すかさず黒銀龍を交差させたまま、間に黒葬鎌の柄を挟むようにして床に刃を深々と突き立てる。鍔同士がぶつかりあい、がちゃがちゃと音をたてた。柄を握り直したルシアが間をおかず回収しようとするが、大きな刃の部分が刀身に邪魔され抜けない。

 ルシアが手間取っている一瞬の間に、膝をついていた煌は立ち上がると同時に床を蹴る。強く握りしめた拳を、大きく後ろに引く。



「歯ァ食い縛れ!!」



 一瞬でルシアの懐に潜り込んだ煌は、彼の顎を躊躇なく、全力で殴り上げた。痛む拳を気にすることなくフラついた彼に飛びかかると、その胸倉をむんずと掴み勢いそのままに床の上に押し倒す。ダァンッ、と痛そうな音をたてて倒れたその上に馬乗りになった。起き上がろうとしてきたので更に額に頭突きを食らわせ、くらりときたのを耐えてずいと顔を近づける。



「いつまで!あんなのの言いなりになってるつもりだよ!?」



 至近距離で怒鳴りつける。見つめ返してくる感情を映さぬ瞳が、苛立たしくて、悔しい。



「毎日毎日付いてくんなっつっても追いかけ回してきやがった癖に!誓人だからとか、変な理由ばっか並べやがって!!」



 お前はいつも勝手だ、とだんだん顔が俯いていく。胸倉を掴む力が少し緩まった。



「…………もう良い。はようとどめをさせ、<ルーシャスラ>」



 ローズクイーンは興醒めしたと言わんばかりにわざとらしく一つ欠伸をし、閉じた扇子をゆらゆらと上下に揺らして指示を飛ばした。

 それに抵抗一つしなかったルシアの手がゆっくりと上げられ、煌の首かけられる。



「誰の許しを得て言いなりになってんだよ。オレはっ、許可なんざ出した覚えはねェんだよ、馬鹿ルシア!」



 ぴたり、とじわじわ絞めていっていた手の動きが止まった。



「約束、しただろっ。ずっと、これからは一緒だって……………………!」



 声が震える。視界が滲む。自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。

 わかっているのだ。彼を責めるのは見当違いだということぐらい。彼がこうなった原因を作ったのは、ローズクイーンに付け入らせる隙を作らせてしまったのは、自分なのだから。

 でも、お願いだから。自分が悪いのはわかっているから。それでも……………



「オレをっ、置いてくなよ………ルーシャ、お願い、だから……………ッ」



 唇を噛み締めた煌の頬を大粒の涙が流れ、顎を伝う。零れ落ちた涙は、ぱたぱたと真下にいたルシアの顔へと降り注いだ。

 紅い瞳が、ゆるゆると開かれていく。頭の中に、少女の声が流れる。



 ――――じゃあ、きょうがルーシャのたんじょうびな!ひとつおねがいきいてやる!

 ――――ルーシャ、きょうはなにしてあそぶんだっ!?

 ――――ちいせぇガキじゃねぇんだから、一人で出来るっつの!

 ――――何嬉しそうな顔してんだよ、気色わりぃなぁ………………



 生まれた日を知らぬと言うと、目を輝かせ得意げに胸を反らして笑っていた。人間界を訪れると、必ず笑顔で飛びついてきていた。寝癖を直すのに手を伸ばし髪に触れると、耳を赤く染めて怒鳴ってきた。渡された菓子に内心喜んでいると、怪訝そうな顔をしながらも苦笑された。あの、少女は………………

 この声を知っている。実は誰よりも寂しがり屋で、素直になれなくて、隠れて声も出さずに泣いていることを知っている。誰よりも優しくて、何物にも代えがたい………………………



 …………あぁ、ほら。また泣いている。早く震えるその体を抱きしめてやらないと。



 膨大な量の記憶が浮かんでは消えることによる頭の痛みを、溢れ出す温かな感情の下に押し込み、ぽたぽたと雫を落としてくる愛しい白銀を見上げる。



「こう…………?」



 何故かその細い首筋にかけていた手を滑らせ、涙に濡れた頬をそっと包む。残念ながら俯いていて顔は見えない。

 煌はハッと顔を上げた。不思議そうな、それでいて心配そうな色を乗せた紅い瞳が自分を見つめてきている。



「る、し……………」

「………泣くな」



 お前が泣くのは、見たくない。

 喉を震わせ今にも零れ出しそうな嗚咽を耐えていると、眼の下を指で擦られる。思わず閉じた瞼に何やら温かい物が触れた。弾かれるように目を開けると、わずかに舌を出したルシアの顔が離れていくところだった。涙を舐めとられたのだ、と気付いた瞬間、ボッと顔が熱くなったのを自覚する。ぐしぐしとボロボロになった袖で目元を拭った。



「な、泣いてねぇ。泣くか馬鹿」



 ずっ、と鼻を啜ってルシアを睨み付ける。そんな彼女にルシアは、そうか、と一言短く相槌を打ち、後頭部に回した手でくしゃりと頭を撫でた。何故煌に馬乗りされているのか。何故こんなにも血みどろなのか。何故、彼女は泣いていたのか。疑問はいくつかあるが、まぁこうして煌が逃げないことに比べたら些末なことだ。

 周囲に花が飛んでいそうな雰囲気のルシアに、煌はされるがままになりながら唇を突き出す。またもや滲み出した涙は根性で耐えた。

 失っていた分の記憶を取り戻してから、どうも涙腺が緩くて仕方がない。涙などもうとっくの昔に枯れ果てたと思っていたというのに、この手の温もりに触れただけで出て来るとは思わなかった。



「…………次、いなくなったらオレが殺ってやる」



 おそらく操られている間の記憶は本人にはないとわかっていても、原因は自分だとわかっていても。約束を、契約を破ったのはルシアだから。



「そんな日はそう来ないと思うが………………楽しみにしておこう」



 軽く首を傾げ、口角を上げるルシア。好戦的なその笑みに、本当に戻ってきたのだとようやく実感できて、煌は思わず泣き笑いにも似た表情を小さく浮かべた。

 その時。



「そんな……………そんな馬鹿な!ありえぬ、妾の術は完全じゃ!妾が直接手にかけた、妾以外に解けることなどある筈が…………………………!」



 余裕をなくしたローズクイーンが髪を振り乱し、狂ったように叫ぶ。一歩二歩と下がり、ふらりとよろめいてその場に座り込んだ。

 それで今まで何が起こっていたのか理解したルシアは、わずかに眉を寄せた。お前のせいじゃないよ、と煌はその眉間をぐいと押し、馬乗りになっていたルシアの上から身を離す。



「煌、こちらも片付いた」



 声のした方を向くと、ところどころ薄汚れた姿の五将達が近付いてきていた。あんたのせいで汚れたじゃない!と水蛇が雷角を足蹴にしていることからして、放った攻撃が仲間同士で掠ったのだろう。



「おつかれ」



 彼らに労いの言葉をかけた煌は、適当に制服の汚れを払うと床に突き刺さったままの黒銀龍を引き抜き、元のシルバーアクセサリーの形へと戻した。そして今度は黒葬鎌を拾い上げると、無造作にルシアへと放り投げる。

 ルシアは難なく受け取り異空間へと転送した。



「お前の方が、お疲れだな」



 魔王との死合いでこれだけで済んだのだから、まだマシなのだろうが。

 ぽつりと呟いた氷龍に、煌は自身を見下ろした。もはや服と呼んでもいいのか悩むような制服が目に入り、そうだな、と苦笑する。先程はあぁ言ったがもう二度と、ルシアとの死合いなどしたくない。どうせ本当に殺せはしないだろうから。



「お腹の傷はどう?煌ちゃん」

「これか?」



 水蛇に問われ、腹に巻き付けていたマントをぐるぐると解いていく。ざっくりと真一文字に裂かれた制服の下から、生々しい傷口が姿を現す。



「煌ちゃん、大丈夫?痛い?フウが舐めてあげようか?」

「大丈夫、今雪華が必死こいて傷の修復してっから」



 つか舐めんなよ、と傷口に顔を近づけて不安そうに見上げてくる風鼬の頭をくしゃりと撫でる。

 そうしていると、がしりとかなりの強さで頭を鷲掴まれた。ぎりぎりと締め付けてくるそれに顔を顰め、背後を見遣る。



「雷角、手」



 痛いだろうが、と睨みながら告げれば、解放されるどころか更に力が強まる始末。しまいには頭蓋骨がギシギシと軋み始め、冗談ではない痛みが頭を襲う。

 そろそろ実力行使するべきか、と拳を握ったところで、ようやく力が緩まった。



「俺たちは、テメェが好きだから契約したんだ。黙って守られてろなんざ言わねェがな、黙って見てるしかねェ俺らのこともちったァ考えやがれ」



 心臓にわりぃんだよこの馬鹿、とまるで痛みを耐えるかのような表情の雷角に、煌は文句を言おうとした口を閉じた。自分は後悔も何もしていないが、手を出すなと言われて見ているだけしか出来なかった彼らの心境は頭の隅にすら置いてなかった。ごめん、と小さく謝ると、舌打ちと同時にようやく頭は解放された。

 いたた、と頭をさすっていると、煌、と声がかけられる。



「アレはどうする」



 あれ、というのはステージ上で空気の抜けた風船の如く萎びているローズクイーンのことか。

 名を呼んだくせに近付いてこない――五将達による全力の牽制によって近付けない――ルシアに目を向けた煌は、彼の顔に思わず黙り込む。何か、いつも以上に仏頂面になっている気がするのは、気のせいだろうか。そしてステージを見つめる目がいつになく冷ややかだ。

 うわぁ、と内心呟いた煌は、気付かぬふりを決め込むことにした。障らぬ魔王に何とやら。

 ローズクイーンをどうするか。実はそれは、あまりにも暇だったので入院している間ずっと考えていた。許可されるなら実行してやろうと考えていたのだが、いいのだろうか。

 口を開こうとした、その時。



「おやおや、ボロボロですね。せっかく綺麗な建物だったのに」



 何処か馬鹿にしているように感じる声が、静まり返った講堂に響き渡った。



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