第9話:【野生の勘】最悪ボイスで疑惑を逸らす弟と、赤城レオンの不穏な釈明
※リメイク版として第1話から投稿中です。
「何で口を塞ぐの?」
「嫌だからだ」
俺は即答した。
「まだ『ヒーロー』しか言ってないでしょ」
「一文字でも多く言ったら危険なんだ」
「何が?」
「俺の尊厳が」
「もうだいぶ手遅れじゃない?」
「誰のせいだと思ってる」
姉貴は倉庫の鉄棚に俺を追い詰めたまま、スマホの録音画面をこちらへ向けた。無慈悲にも、赤い録音表示が点灯している。
やめろ。止めろ。俺の人生には、これ以上デジタルタトゥーを増やす余白がない。
「ほら、続きを言って」
「嫌だ」
「二回目」
「何回でも言う」
「ただの声真似でしょ?」
ただの声真似。姉貴にとっては、そうなのだろう。だが俺にとっては、身分証の提示より危険な行為だった。
本気で言えば、声でバレる。姉貴の助けを求める声が変身条件として判定されれば、もっとバレる。
そして何より、あの名乗りを今度は自分の意思で口にしなければならない。それだけは嫌だった。
「大丈夫。初回配信のヒーローさんと聞き比べるだけだから」
「何ひとつ大丈夫じゃない」
「じゃあ、完璧に真似できなかったら、玲司は別人ってことで」
「完璧に真似できたら疑うのが普通だろ」
「そこはお姉ちゃんの裁量です」
「裁量が雑すぎる」
録音。聞き比べ。切り抜き。その三単語が並んだ瞬間、俺の脳内で警報が鳴り響いた。
初回配信の黒歴史ボイス。ヒーロー見参。闇を裂き、光を纏いて。レディ。あれと俺の声を比較される。しかも実の姉に。
死ぬ。社会的に。精神的に。弟として。
俺は脳をフル回転させた。本物の声を出さず、変身もせず、姉貴の疑いだけを逸らす。唯一の生存ルート。
徹底的な棒読みで、ヒーロー性を殺すしかない。
俺は喉の筋肉をガチガチに固めた。腹式呼吸を封じる。声帯を震わせない。ヒーロー感をゼロにする。魂をコンビニのレジ袋くらい薄くする。
そして、最悪の声を出した。
「……あー……ひーろー、けんざん……」
姉貴が真顔になる。俺は続ける。
「……たすけを、よぶ、こえが……あるなら……やみを、さく……的な……」
一拍。
「あ、すまん。噛んだ」
倉庫に沈黙が落ちた。近くを通りかかったスタッフまで、なぜか足を止めた。姉貴のスマホは、まだ録音中だった。
俺はやりきった。完全にヒーロー性を殺した。もはや救助者ではない。休日に町内会の出し物で台詞を読まされた父親である。
姉貴はゆっくりと録音を停止した。そして、深いため息をつく。
「……うん」
「どうだ」
「最悪」
「よし」
「よくない」
「俺じゃないだろ」
「確かに初回配信のヒーローさんとは別人だった」
「そうだろ」
「テンション下がるから、もう二度とその声出さないで」
「そこまで言うか?」
「世界からヒーローが一人消えた気分」
「俺は世界を救ったのか壊したのかどっちなんだ」
少なくとも、初回配信のヒーロー本人説は一度弱まったらしい。
俺の喉は勝利した。
いや。陰キャ力が勝利した。
世界を救うのは、時として勇気ではない。徹底した小声と棒読みである。
「じゃあ俺は雑用に戻る」
「待ちなさい」
「まだ何かあるのか」
「疑いが晴れたわけじゃないわ」
「今の最悪ボイスを聞いてまだ疑うのか」
「玲司は昔から、都合が悪い時ほど変な演技をする」
「姉の観察力が嫌すぎる」
「だから次は、身体測定よ」
「は?」
姉貴がメジャーを取り出した。
なぜ持っている。なぜ配信衣装のどこから出した。VTuber衣装には、そんな収納機能まであるのか。
いや、問題はそこではない。
「初回配信のヒーローさんの肩幅と、あんたの肩幅を比較する」
「セクハラで訴えるぞ!」
「家族間だからギリギリセーフ」
「アウトだ!」
「ちょっとだけ! 大胸筋の厚みだけでも!」
「完全アウト!」
俺は姉貴の手をすり抜け、倉庫から逃げ出した。
全力ではない。全力を出すとまた怪しまれる。だが、普通の人間よりはだいぶ速かった。
「こら、玲司! 待ちなさい!」
「待たない!」
「お姉ちゃん命令!」
「二十三歳の弟には効かない!」
「効いてるじゃない!」
効いていない。効いていないが、走りながらちゃんと通路の角で速度を落とし、姉貴が転ばないように振り返ってしまった。
これはシスコンではない。安全管理である。たぶん。
廊下へ出た瞬間、チーフマネージャーと鉢合わせた。
「黒瀬くん、ちょうどよかった」
「よくないです」
俺は即座に答えた。今の俺にとって、ちょうどいいタイミングなど存在しない。姉に身体測定されかけている時点で、人生のタイミングはだいたい最悪である。
だが、チーフマネージャーの表情は真面目だった。いつものように冷静で、事務的で、それでいて少しだけ重い。
嫌な予感がした。これは姉貴のメジャーとは別方向の嫌な予感だ。
「赤城レオンさんの釈明配信について、正式な告知が出ました」
俺の足が止まる。姉貴も、後ろから追いついてきて表情を変えた。
「告知……?」
チーフマネージャーはタブレットをこちらへ向けた。赤城レオンの公式アカウント。そこには、簡素な文章が表示されている。
【本日二十一時】前回の配信の件について。事実と違う拡散があります。
俺はその一文を見つめた。
謝罪という言葉はない。反省もない。負傷した姉貴への気遣いもない。あるのは、自分に不利な情報が広がっているという主張だけだった。
「やっぱり、その方向で来たか」
思わず、低い声が漏れた。姉貴が俺を見る。
「玲司?」
「言っただろ。あいつは素直に謝らないって」
正確には、姉貴のせいにするとまで予想した。だが、今ここでもう一度口にする必要はない。
告知文だけで十分だった。赤城レオンは、すでに自分を加害者ではなく、誤解された被害者として扱い始めている。
チーフマネージャーが険しい顔で告知文を見る。
「広報と法務には、最初の事故配信記録を改めて保存するよう指示しました。現地スタッフの証言と、ダンジョン内の行動記録も整理しています」
「向こうが何を言っても反論できるように?」
「必要になれば、ですが」
淡々とした声だった。だが、その言葉には明確な警戒があった。
姉貴は何も言わず、タブレットの画面を見つめている。
前回の配信事故。危険ルートへの誘導。支柱の破壊。そして、置き去り。
配信では星の案内人。リスナーの前では、いつも明るく笑っている人気VTuber。だが、今ここにいるのは、前回ダンジョンで本当に死にかけた俺の姉だった。
その姉に向かって、赤城レオンがどんな言葉を投げるつもりなのか。考えただけで、腹の底が冷えた。
「大丈夫だ」
気づけば、口にしていた。姉貴が顔を上げる。
「何が?」
「向こうが何を言っても、姉貴のせいにはさせない」
姉貴が目を丸くする。
しまった。言い切ってから、自分の立場を思い出した。俺は慌てて付け足す。
「……短期安全補助スタッフとして」
チーフマネージャーが深く頷いた。
「頼もしいですね」
姉貴は俺をじっと見ている。
「玲司」
「何だ」
「あんた、やっぱり無職にしては頼もしいわね」
「褒めてるのか貶してるのかどっちだ」
「半々」
「貶し多めだろ」
その時、俺のスマホが震えた。探索者仲間、木村颯太からのメッセージ。
『お前、ステラライブで歩くフォークリフトって呼ばれてるらしいな』
『ヒーロー見参ニキの次はフォークリフトニキか?』
俺はスマホを伏せた。見なかったことにした。
木村にはいつか報復する。合法の範囲で。たぶん。
しかし、姉貴が横から覗き込んだ。
「あ、フォークリフトニキだって」
「読むな」
「またニキが増えたね」
「増やしたくて増やしてるわけじゃない」
チーフマネージャーが真面目な顔で言った。
「社内呼称としては、少々問題がありますね」
「そこを真面目に検討しないでください」
「では、黒瀬くんで統一します」
「最初からそうしてください」
社会人は、ときどき真面目になる場所を間違える。俺はまた一つ学んだ。
チーフマネージャーがタブレットを閉じる。
「では、今夜の赤城レオンさんの釈明配信は、会議室で全員で確認しましょう」
「全員で?」
「はい。黒瀬くんにも同席してもらいます」
「俺も?」
「安全補助スタッフとして、意見を聞きたいので」
嫌な予感しかしない。
昨日の会議で、俺はすでに赤城レオンの言い訳を予想している。そして今、告知文を見る限り。
どうやら最悪の予想ほど、よく当たるらしい。
昨日は謎ヒーロー捜索会議。今日は過剰に有能な裏方疑惑。今夜は赤城レオン釈明配信。
俺の胃は、そろそろ労災申請していいと思う。
姉貴はスマホを握り、少しだけ不安そうに笑った。
「玲司、来てくれる?」
その顔を見たら、断れるわけがなかった。
「……行くだけだ」
「うん」
「別に心配してるわけじゃない」
「うん」
「短期スタッフとしてだ」
「うん」
姉貴は全部わかっているみたいな顔で笑った。
やめろ。その顔はやめろ。俺の無自覚シスコン疑惑が深まる。
俺は、赤城レオンの告知文を思い返した。
【事実と違う拡散があります】
せめて、綺麗に謝れ。姉貴のせいにするな。
そう心の中で呟きながら、俺は配信開始の時刻を待った。
*
そして、数時間後。二十一時。ステラライブ本社、第三会議室。
大型モニターには、赤城レオンの配信待機画面が映し出されていた。コメント欄は、開始前から荒れている。
>説明待ち
>逃げた件どう言い訳する?
>ハルカちゃんに謝れ
>切り抜きだけで判断するのは早い
>ヒーロー見参ニキ呼んでこい
呼ぶな。もういる。
会議室の端で、俺はパーカーのジッパーを喉仏の限界まで上げた。姉貴は俺の隣で、スマホを握ったまま黙っている。
チーフマネージャー。社長。安全管理担当。広報担当。法務担当。会議室にいる誰も、軽口を叩かなかった。
配信開始まで、あと十秒。待機画面にカウントダウンが表示される。
十。九。八。
俺は横目で姉貴を見る。少しだけ顔が強張っていた。
前回の配信事故で、本当に死にかけた人間が。今から、自分を置いて逃げた男の言葉を聞こうとしている。
「玲司」
姉貴が、小さく俺を呼んだ。
「何だ」
「……ここにいてね」
俺は一瞬、答えに詰まった。
仕事だから。短期安全補助スタッフだから。別に姉貴が心配なわけじゃない。いつもの言い訳が、喉まで出かかった。
だが、今だけは、やめた。
「ああ」
それだけ答えた。姉貴は少しだけ目を見開いた。そして、安心したように笑った。
カウントダウンは、残り三秒。
三。二。一。
俺はモニターを睨んだ。
頼むぞ、赤城レオン。せめて人間として、最低限の謝罪くらいはしてくれ。
画面が切り替わった。神妙な顔をした赤城レオンが映し出される。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
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