第100話:【姉無職、完結】俺はもう、姉に無職だと思われていない
「ちょっと玲司! 今日くらいリビングでゴロゴロしてなさいよ!」
朝一番、我が家のリビングに響き渡ったのは、実の姉である黒瀬遥香の、あまりにも理不尽な説教だった。
現在時刻、午前十時。そして俺、黒瀬玲司は、ソファの上でプロテインをシェイクしていた。完全に無職の絵面だった。
「……姉貴」
「何?」
「ゴロゴロしてる人間に、ゴロゴロしろって説教する奴、初めて見た」
「だって玲司、昨日も協会行ってたでしょ!」
「報告だ」
「一昨日は?」
「訓練」
「その前!」
「依頼」
「ほら!」
「何がほらなんだ」
姉貴が腰に手を当てる。部屋着姿で、片手にはポテトチップス、寝癖も少し残っている。数週間前に全人類を完全保護するとかいう話に巻き込まれ、最後の女王に誘拐――本人曰く保護――された人間と同一人物には、とても見えない。
平和だ。
「玲司は働きすぎなの!」
「昔は働けって言ってただろ」
「昔の私は、あんたの仕事知らなかったの!」
「個人事業主とは言ってた」
「毎日家でプロテイン飲んでスクワットして、たまに泥だらけで帰ってくる個人事業主を、どう信用しろっていうのよ!」
「偏見がすごい」
「観察結果です!」
……前にも聞いたな、これ。違うのは、今は姉貴が俺の仕事を全部知っていることくらいだ。
「だいたい」
姉貴が俺を指さす。
「Sランク探索者で、黒瀬レイで、黒銀ヒーローで――」
「最後はいらない」
「いるでしょ」
「いらない」
「しかも自分から『――ヒーロー見参』って――」
「姉貴」
「何?」
「それ以上言うとポテチ没収するぞ」
「権力の乱用!」
「家庭内危機管理だ」
「そんな危機管理ないから!」
その時、リビングのドアが開いた。
「おはよう」
「操ちゃん!」
姉貴の声が一段上がる。入ってきた操は、いつもの探索者ジャケットではなく私服で、剣も持っていない。手にあるのは小さな紙袋だけだ。
「お邪魔します」
「いらっしゃい! もう、操ちゃんは『お邪魔します』なんて言わなくていいのに!」
「いや、言うだろ」
「あんたは黙ってて」
「俺の家でもあるんだが」
操が俺の隣に来て、紙袋を差し出した。
「これ、差し入れ」
受け取って中を覗くと、菓子が入っていた。
「姉貴に?」
「玲司に」
「俺?」
「昨日も遅かったんでしょ?」
姉貴の方を見ると、勝ち誇った顔をしていた。
「ほら!」
「何がほらなんだ」
「操ちゃんも言ってる!」
「まだ何も言ってない」
操が小さく笑う。
「でも、今日は休みなさい」
「二対一は卑怯だろ」
「多数決ね」
「家庭内の俺の人権は?」
「あるよ?」
「今の間は何だ」
操が俺の隣に腰を下ろした。肩が触れるくらいの距離だ。少し前なら、たぶんそれだけで妙に意識していた。今は、まあ、普通だ。恋人なんだから。
「玲司」
「何だ」
「プロテイン、振りすぎ」
見ると、かなり泡立っていた。
「……姉貴のせいだ」
「なんで!?」
姉貴が騒ぎ、操が笑う。平和だ。
と、玄関から聞き慣れた声がした。
「おはようございまーす!」
反射的に、眉間に力が入る。
「来た」
姉貴が嬉しそうに立ち上がった。
「海斗くん!」
「おはようございます、遥香さん!」
リビングに入ってきた海斗は、俺を見て、操を見て、もう一度俺を見た。
「……おはよう、玲司」
「何で俺だけ声が硬い」
「気のせいだ」
「目を逸らすな」
「玲司」
操に袖を引かれた。
「睨まない」
「睨んでない」
「眉間」
「自然だ」
「便利ね、その言い訳」
海斗は俺から少し距離を取りながら、姉貴の隣に座った。……俺が何かしたみたいじゃないか。してない。まだ。
「海斗くん、コーヒーでいい?」
「あ、オレやります!」
「いいよ、座ってて。今日は私がやるから」
「じゃあ、お願いします」
「うん!」
キッチンへ向かう姉貴の背中を、海斗が見送っている。顔が緩んでいた。
「海斗」
「何だ?」
「顔」
「何!?」
「いや」
「玲司」
「何だ、操」
「放っておきなさい」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めたの」
この数週間の間に、姉貴と海斗は付き合い始めた。経緯は聞いていないし、聞くつもりもない。姉貴が決めたことで、海斗も決めた。それなら、俺が横から口を出すことじゃない。
……まあ。
「海斗」
「今度は何だよ」
「姉貴泣かせたら――」
「玲司」
「まだ最後まで言ってない」
「言わなくても分かるわよ」
操に止められた。海斗が苦笑いする。
「分かってるよ」
「ならいい」
「そこは信用してくれよ!」
「してる」
海斗が一瞬、黙った。
「……そういうの、急に言うのやめろよ」
「何でだ」
「反応に困る!」
知らん。
「何の話?」
姉貴がコーヒーを持って戻ってきた。
「何でもない」
「玲司がオレを脅してた」
「脅してない」
「操ちゃん?」
姉貴が操を見る。
「脅す一歩手前」
「操!」
「玲司」
「はい」
姉貴に怒られた。納得いかない。
◇ ◇ ◇
「皆様、紅茶のご用意が整いました」
いつの間にか、セバスティアンがいた。
「……セバス」
「はい、救助者殿」
「どこから出た」
「キッチンでございます」
「さっきまで姉貴しかいなかったぞ」
「キッチンでございます」
「そうか」
もういい。考えるだけ無駄だ。
ローテーブルに紅茶が並べられていく。姉貴、操、海斗、俺。ソファの端では、ルナが丸くなっていた。
「ルナも飲む?」
「にゃ。いらないにゃ」
「じゃあおやつ?」
「いるにゃ」
「即答ね」
姉貴が笑う。
「姫様、ルナ様用はこちらに」
「さすがセバス!」
「当然でございます」
「紅茶より準備いいな」
「救助者殿」
「何だ」
「猫のおやつを軽んじてはなりません」
「そこまで言ってない」
「にゃ。黒いのは反省するにゃ」
「何で俺が怒られてるんだ」
「日頃の行いね」
操まで乗ってきた。
「お前は俺の味方じゃないのか」
「恋人だからって、何でも味方するとは言ってないわ」
「正論だな」
「素直ね」
「反論できないだけだ」
海斗が笑った。
「玲司、家でもこんな感じなんだな」
「お前は何年俺と付き合ってるんだ」
「いや、操相手だとちょっと違う」
「何が」
「距離」
「海斗」
「何だ?」
「紅茶飲め」
「話を逸らした!」
姉貴が笑い、セバスティアンは何事もなかったように紅茶を注ぎ、ルナはおやつを食べている。平和だ。
その時、テーブルの端に置かれていた端末が鳴った。
「あ、エレオノーラさんだ」
姉貴が画面に触れると、通信が繋がった。
『ごきげんよう』
「ごきげんよう!」
画面の向こうで、エレオノーラが小さく手を上げる。
「元気ですか?」
『ええ。大変元気ですわ』
「ちゃんと休んでます?」
『もちろん』
「今は?」
『古代施設の停止確認を――』
「仕事してる!」
『必要な後処理ですわ』
「終わったら休んでくださいね」
『……努力いたします』
「休むのに努力がいるんですか?」
『わたくしには必要なのです』
「じゃあセバスの紅茶送ります!」
『まあ』
その一言だけで、エレオノーラの表情が少し明るくなった。
「セバス」
「すでに準備済みでございます」
「早い!」
『さすがですわ』
「どうやって送るんだ」
「救助者殿。紅茶に、距離は関係ございません」
「あるだろ」
「ございません」
「そうか」
もういい。
「またね、エレオノーラさん!」
『ええ。また』
通信が切れて、画面が暗くなる。それだけだった。世界を閉じ込めかけた最後の女王との会話が、普通に「また」で終わる。
……それでいい。
◇ ◇ ◇
「で」
姉貴が立ち上がった。
「私たち、そろそろ行こうか」
「おう!」
海斗も立つ。
「どこ行くんだ」
訊いた瞬間、二人が止まった。姉貴がゆっくりと俺を見る。
「玲司」
「何だ」
「デートです」
「……そうか」
「……」
「……」
「それだけ?」
「何を言ってほしいんだ」
「いや」
姉貴と海斗が顔を見合わせ、二人して妙な顔をした。
「もっとこう」
「危険な場所には行くなとか?」
「そうそう」
「帰宅予定時刻を連絡しろとか?」
「うん」
「海斗、姉貴を頼むとか?」
「それ!」
「分かった」
俺は頷いた。
「気をつけて行ってこい」
「……」
「……」
「何だ」
「玲司が成長した」
「何で姉貴が泣きそうなんだ」
「だって!」
「海斗」
「お、おう」
「姉貴を頼む」
「ああ」
「無理させるな」
「分かってる」
「何かあったら連絡しろ」
「分かってる」
「帰宅が遅くなるなら――」
「玲司」
操に肩を叩かれた。
「増えてる」
「最低限だ」
「今ので三個」
「少ない」
「これから増える顔してた」
……鋭い。
「じゃあ行ってきます!」
玄関へ向かう途中で、姉貴は当然のように海斗の袖をつまんだ。
「海斗くん、行こ」
「……お、おう」
返事が一拍遅れた。付き合い始めたくせに、そこはまだ慣れていないらしい。
「何?」
「いや、何でもない!」
姉貴は首を傾げたまま、海斗の袖をつまんで玄関へ向かっていく。……まあ、楽しそうならそれでいい。
「海斗」
「今度は何だ!?」
「楽しんでこい」
海斗が止まって、振り返った。
「……おう!」
姉貴が笑う。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
操が手を振り、玄関のドアが閉まった。リビングが静かになる。
「……」
「……」
「にゃ」
ルナが鳴いた。
「さて」
セバスティアンがティーポットを持ち上げる。
「救助者殿。姫様の外出に際し、追跡なさいますか?」
「しない」
「位置情報確認は?」
「しない」
「護衛の追加手配は?」
「しない」
「ほう」
「その顔やめろ」
セバスティアンが、わずかに笑っている。
「救助者殿も成長なさいましたな」
「お前まで言うな」
「にゃ。黒いの、大人になったにゃ」
「猫にまで言われた」
操が笑う。
「全会一致ね」
「多数決を取るな」
「では、私は紅茶の片付けを」
「逃げるな、セバス」
「何のことでございましょう」
言った次の瞬間には、もういなかった。
「……どこ行った」
「にゃ。紅茶係は紅茶の国へ帰ったにゃ」
「絶対違うだろ」
ルナは知らん顔をして丸くなる。相変わらずだ。リビングに残ったのは、俺と操と、ルナだけになった。
「玲司」
「何だ」
「寂しい?」
「何でだ」
「遥香さん、彼氏とデートよ」
「知ってる」
「本当に?」
「姉貴が決めたことだ」
「そう」
操が笑った。
「成長したわね」
「お前まで言うな」
「でも」
操が少しだけ俺に寄る。
「本当に、口出さなくなった」
「口は出した」
「途中までね」
「危機管理は必要だ」
「はいはい」
「流すな」
「じゃあ」
操がこちらを見上げた。
「私たちも出かける?」
「どこへ」
「どこでも」
「雑だな」
「そう? じゃあ、玲司が決めて」
「俺が?」
「彼氏でしょ?」
「……そうだな」
「何、その間」
「いや」
付き合っている。分かっている。分かっているんだが、こういう時だけ、まだ少し慣れない。
「近くで飯でも食うか」
「いいわよ」
「行きたい店あるか?」
「別に」
「またそれか」
「玲司となら、どこでもいいけど」
「……」
「何?」
「そういうの、急に言うな」
「どうして?」
「反応に困る」
操は少しだけ目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「海斗と同じこと言ってる」
「一緒にするな」
「似た者同士ね」
「やめろ」
「はいはい」
たぶん、からかわれている。でも、嫌じゃない。それが一番困る。
手元のプロテインを見る。まだ飲み終わっていない。
「これ飲んでからでいいか。着替えてくる」
「いいわよ」
「ルナは」
「寝てるわ」
見ると、もう丸くなっていた。
「自由だな」
「猫だから」
「にゃ」
寝言だった。操が笑い、俺も少しだけ笑った。
その時、テーブルの上でスマホが震えた。画面に出た名前は、木村だ。
『ニュース見たぞ』
『無事で何より』
珍しく、まともだった。能力が今の形に変わってから、何かと面倒を見てもらってきた相手だ。こういう時くらいは、普通に心配することもあるらしい。
続けて、もう一通。
『あと、自分から「ヒーロー見参」って名乗ったらしいな』
俺はスマホを伏せた。やっぱり、まともじゃなかった。
さらに震える。
『成長したな、見参未遂ニキ』
見ない。返信もしない。今度会った時に直接文句を言う。たぶん、それで十分だ。
◇ ◇ ◇
数週間前、姉貴がさらわれた。世界中が、安全という名前で閉じ込められかけた。数千年前に滅びた王国の女王が、全部を守ろうとしていた。俺たちは姉貴を連れ戻し、その女王も連れ出した。
世界は、別に急に安全になったわけじゃない。今日もどこかでダンジョン事故は起きるし、魔獣も出るし、探索者が救助要請を出すこともある。姉貴だって、また何かに巻き込まれるかもしれない。
できれば、やめてほしい。本当に、できれば。いや、かなりやめてほしい。
でも、危険を全部なくすために、生き方まで決めるのは違う。危ないなら助ける。困ったら頼る。俺一人で無理なら、操がいる。海斗がいる。協会も、セバスも、ルナも、木村もいる。姉貴だって、たぶん俺が思っているより、ずっと自分で進める。
俺は、それを見失わなければいい。
「玲司? 何ぼーっとしてるの?」
「いや」
操に答えて立ち上がる。
「着替えてくる」
「はいはい」
その時、テーブルの上のスマホがまた鳴った。反射的に見る。今度は木村じゃない。姉貴だ。
【玲司】
【忘れ物した】
【リビングに白いポーチない?】
目の前を見る。ある。ソファの端に、白いポーチが。
「……」
さっき出ていったばかりだぞ。
スマホがもう一度鳴った。
【助けて】
「玲司?」
操が画面を覗き込む。
「何かあった?」
「忘れ物」
「……平和ね」
「ああ」
本当に、どうしようもなく平和だった。
俺は白いポーチを掴んで、玄関へ向かう。
「届けてくる」
「行ってらっしゃい」
「すぐ戻る」
「待ってる」
靴を履いて、ドアに手をかけた。
あの日、姉貴の「助けて」を聞いて、嫌々ヒーローになった。それから随分いろんな奴を助けた。姉貴も、知らない誰かも、仲間も。最後には、数千年間誰にも助けられなかった女王まで。
でも今は、世界を救う必要はない。変身もしないし、名乗りもしない。ただ、忘れ物をした姉にポーチを届けに行くだけだ。
それでいい。
俺はドアを開けた。
「玲司ー!」
廊下の向こうで、戻ってきた姉貴が手を振っている。
「ごめん! 助かった!」
「次から自分で確認しろ」
「はーい!」
「返事が軽い」
「ありがとう、玲司!」
俺が白いポーチを放ると、姉貴は笑いながら受け取った。その後ろで海斗も笑っていて、家の中からは操の笑う声も聞こえる。
今日も姉貴は元気だ。俺も元気だ。そして俺はもう、姉に無職だとは思われていない。秘密にして、隠れて、一人で全部何とかしようとしていた頃とは違う。
世界は、これからも危ない。ダンジョンも魔獣もなくならないし、きっとまたどこかで、誰かが助けを呼ぶ。その時は行けばいい。一人で無理なら、操や海斗たちを頼ればいい。そして助けた相手が、自分で選んだ場所へ、自分の足で帰れるようにする。
それでいい。
能力には、これからも勝手に名乗らされるんだろう。ポーズも口上も、たぶんなくならない。そこはもう諦めた。今さら抵抗したところで、どうせあいつは聞かない。
でも、それとは別だ。誰かが助けを呼んだ時、そこへ行くかどうかは俺が決める。助けるのも、一人で無理なら仲間を頼るのも、最後までそいつが帰るところを見届けるのも。全部、俺が選ぶ。
ヒーローが何なのかなんて、今でもよく分からない。派手な名乗りも格好いいポーズも、たぶん俺には一生似合わない。
それでも、助けを呼ぶ声が聞こえたら駆けつけて、助けた奴がまた自分の日常へ帰っていく。
――それが、俺のヒーローだ。
◇ ◇ ◇
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
これにて、
『ヒーロー見参 ~無職だと思われていた俺、人気VTuberの姉を助けたら黒銀ヒーローとしてバズりました~』
完結です!
姉から無職だと思われていた玲司が、嫌々ながら黒銀ヒーローとして表舞台へ引きずり出され、操や海斗たちと再び仲間になり、最後には自分の意思で「ヒーロー見参」と名乗るところまで来ました。
最初は「姉を助けるたびに格好いいのに尊厳だけ削られていく弟」というところから始まった物語でしたが、ここまで長く玲司たちを書けたのは、毎日読んでくださった皆様のおかげです。
応援、コメント、作品フォロー。
そして毎日更新を追いかけてくださったこと。
どれも本当に励みになりました。
最後まで『姉無職』にお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
玲司たちの物語はここで一区切りですが、きっとこの先もどこかで誰かが「助けて」と言えば、玲司は文句を言いながら駆けつけて――そして能力には相変わらず勝手に名乗らされていると思います。
そんな彼らの日常を想像していただけたら嬉しいです。
改めまして
全100話、本当にありがとうございました!
◇ ◇ ◇




