その2:夫になれかった男
「クッソ、あの女」
アッシュは、痛む肩をおさえて吐き捨てた。
「使い物にならなくなったからって、あっさりと捨てやがって」
壊れたおもちゃに興味はないとばかりに、姿をみせることもなく、使用人に屋敷から放り出させた。
護衛として二年、夫としては三年も傅いてやったのに。ガキの頃に拾われた恩があったから、あの女の言うことはなんだってやってやった。肩をやられたのだって、気まぐれに出かけた先で魔獣に襲われた女をかばったせいだ。それなのに。
「退職金くらい寄越しやがれ」
何ひとつ持たされることなく放り出された。あの女は、気に入ったものは手元に置かないと気がすまない性格だから、ほんとうにアッシュに飽きたのだろう。
じくりと痛むなにかは見ないことにして、アッシュはただ苛立った。
腹いせに神殿に行って、離婚を申請しておいた。なにもしなくてもあっちから申請するだろうが、捨てたのはこちら側だと言ってやるための、ささいな嫌がらせだ。
そのうち、神殿からの報せがあの女の元にいく。怒り狂うさまが目に見えるようだ。叩きつけるように神殿からの離婚申請書に名前を書いて、血印を押して、それで――終わり。
アッシュはため息をついた。
しばらく肩が使い物にならないので、護衛や魔獣退治をすることはできない。薬草採取などで、ちまちまと稼ぐしかない。性格は最悪な元妻だったが、金だけは持っていた。
幸い、いろいろ悪行をやらかすあの女のせいで、つねに身の危険があったから、剣は持ち歩いている。夫としてあの女を満足させるためにと以前から渡されている金も、それなりにあった。
「そういや湯治で有名な村があったよな」
ずいぶん山奥にあるのに、魔獣が出ないという。湯は古傷によいらしく、冒険者の間でも有名だ。親の顔を知らないアッシュには、取り立てて行く所もない。
気づいたらスラム街にいて、顔の良さからあの女に拾われた。拾ったといっても「これ持って帰るわ」と棚に並んだ人形を選ぶように指さされ、連れて帰ったあとは放置。持て余した使用人が女の父親に上申し、父親の住む本家で下働きを始めた。
女は豪商の庶子だった。豪商が心底愛した愛人の娘で、金だけは腐るほど与えられていた。少々の悪事も父親が金の力でねじ伏せているらしい。妙に知恵の回る女で、父親の力の及ばないところには手を出さない。
アッシュがスラム街で生き抜いた腕っ節の強さをかわれ、剣を仕込まれる頃には、女の護衛にと見込まれていたように思う。
あの女が父親に結婚するよう言われたときも、近くにいた人間から適当に指差しただけだとわかっている。言うことをきく男なら、誰でもよかった。それがアッシュでなくても。
アッシュはもう一度ため息をついた。
息をつく間もない人生だった。ここらで少しのんびりするのもいい。
アッシュは、湯治で有名な山奥の村へと足を向けた。
◇◇◇
村についたアッシュは、まず薬師のところを目指した。湯治で有名な村だが、村に住む薬師も腕がよいと評判だった。
右肩の傷はとうに塞がっているのに、いつまでも痛みが取れない。動かすとびりっとした痛みが走る。日常生活での支障はないが、痛みによる一瞬の遅れが戦いでは命とりになる。
「邪魔するよ」と入った薬師の家の中で、若い娘が眩しいものでも見るかのように目を細めた。思っていたよりもずっと若い。アッシュよりも年下だろう。それなのに、アッシュの動きを見て痛む場所を言い当て、痛みの原因を的確に述べてみせた。評判通り、腕は確かなようだ。
治りにくく、薬が効かないとの説明に落胆しながら、薬師の家を出ようとしたときだった。薬師の娘が、治験とやらを言い出したのは。
薬の開発と言っているが、本当のところがどうかはわからない。利用できる間は利用しつくして、いらなくなったら捨てる。人間はそういう生き物だ。
それなら、アッシュだって利用しても構わないだろう。唇が歪むのを感じた。
家に泊めてくれるように頼むと、娘は一も二もなく了承した。家族がいるのかと思えば、一人暮らしだと言う。
「すぐに部屋を準備するので、座っていてください」
アッシュを椅子に座らせると、ぱたぱとと奥にかけこんでいく。
店舗になっている空間にぽつんと取り残されたアッシュは、肩をすくめた。
一人暮らしの若い女が、初対面の男を家に泊めようなんて、正気とは思えない。なにを企んでいるかわからないので、用心するに越したことはない。薬でも盛られたら、たまらない。
店に並べてある薬をなんとなく眺めていると、マリーと名乗った薬師がまたぱたぱたと戻ってきた。なんだか動きが忙しない小動物に似ている。
「お待たせしました。部屋に案内します」
急いで準備をしたのだろう。小さく息を切らすマリーにまた肩をすくめると、アッシュは無防備に背を向けて案内に立つ彼女の後に続いた。
マリーが用意した部屋は二階の奥にあった。普段は使っていないのか少し埃っぽいが、安宿で雑魚寝をすることを思えば、ずいぶん上等だ。内鍵はない。
アッシュは窓越しに暮れかかる日を、ベッドに寝転んだまま眺めた。こんなにもゆっくりと夕焼けを眺めたのは、初めてかもしれない。
扉が遠慮がちにノックされる。素早く立ち上がったアッシュが用心しながら開けると、マリーが緊張した様子で立っていた。
「あの、もしよろしければ夕飯を一緒に」
「夕飯?」
「はい。一人分を作るのも二人分も手間は同じなので。……あ、もしかして毒を疑っていますか?」
焦るでもなく付け加えるマリーを、アッシュはじっと見下ろす。腕を組んで片手を顎に当てると、首を傾げた。
「いや、どっちかっていうと、媚薬かな」
「び!?」
「一人暮らしの女性が男を引き込むっていったら、そういう理由でしょ?」
顔を真っ赤にして「あ」とか「う」とか言って、マリーは視線をうろつかせる。
やがて胸に手を当てて深呼吸すると、まだ顔は赤いながらも、アッシュにまっすぐに視線を向けた。
「そういう理由ではありません。私は本当に薬の効きを試したいんです。信用していただけるかはわかりませんが」
真剣なマリーの様子に、アッシュは降参を知らせるために両手をあげてみせた。
「信用していないわけじゃないけど、ひとつだけ。――内鍵を付けていいかな?」
「え? ああ、どうぞ、ご自由に」
マリーはきょとんとしてから、ぱちぱちと目を瞬いた。
「それから、もうひとつ」
「なんでしょう?」
「君もちゃんと内鍵を付けたほうがいいよ。――俺に襲われないように」
最後の言葉は、マリーの耳元で囁く。落ち着いてきていた顔色がさっと朱に染まった。
相手を警戒させるような言葉を、なぜわざわざ口にしたのか、アッシュにもよくわからない。抜け目なく立ち回るアッシュは、普段はこんなことをしない。妙に冷静なくせに、どこか抜けていて無防備なマリーを焦らせたかったのかもしれない。
熟れた果実のように赤くなったマリーに、アッシュはクックと笑い声をもらした。
「夕食、いただくよ。ありがとう」
アッシュの言葉に、マリーはまた瞬きをしてから、心底嬉しそうに笑った。
◇◇◇
それからマリーとは何度も一緒に食事をした。一階の店舗の奥が厨房、兼食事場所、兼調薬室になっていた。
マリーはほんとうに何も要求しなかった。
近くにある温室に入らないように言われただけだ。一般的に毒草と言われているものも育てているから、危ないと言われた。
いつの間にか食事が並べられ、部屋が整えられ、洗った清潔な着替えが用意される。
その対価は、渡された薬を飲むこと。そのあとに痛みの具合を聞かれるから、それに正直に答えるだけ。たまに痛み止めを浸した布を肩に巻かれた。それも効果のほどを後で聞かれる。
釣り合わない。あまりの釣り合わなさに、さすがのアッシュも居心地が悪い。
マリーは家事だけでなく、薬師の仕事もこなしている。時には山に入って、薬草を取ってくることまでしている。小動物のような動きで、ぱたぱたといつも忙しそうにしている。
アッシュも食事代くらいは払おうとしたが、マリーはまたあのきょとんとした表現を浮かべ、「結構です。気にしないでください」と言う。
薬草を取ってくるのは「採取方法にもコツがいるので」と断られた。護衛代わりに山へ同行を申し出たときは、非常に困った顔で、「ええと、あの、お気持ちは嬉しいのですが」と遠回しに断られた。「そんなに俺、信用ならない?」と眉を下げてみせると、なんだか泣きそうな顔で静かに笑うので諦めた。マリーを困らせたいわけじゃない。
仕方なく出かけたときに食材を買ってきたり、肩慣らしをかねて動物を狩ってきては、マリーに渡すようになった。
そのとき、普段表情をあまり動かさないマリーが、ふわりと頬を緩めるのが、気持ちよかった。
食事をとるテーブルに腰かけて、薬を作るマリーを眺める。トントンと一定のリズムで薬を刻む音が心地よい。
いつも忙しなく働いている彼女が唯一じっとしている時間。
窓からの光がマリーの横顔を照らしている。日に透ける長いまつげが、目に影を落としていた。
「……働いてばっかりで疲れない?」
「ちゃんと眠っていますよ?」
マリーの目がアッシュを見た。首をかしげるマリーに苦笑が浮かぶ。
「いや、そうじゃなくて。なんで、そんなに一所懸命働いてるのかなって。患者のため? それとも、感謝されたいからとか?」
意地の悪い言い方をしていることは、アッシュにもわかっていた。真面目な彼女に絡んでいる自覚はある。それでもアッシュを気にせず、淡々と仕事をすすめるマリーを見ているのが、なんだか悔しかった。
マリーがさらに首をかしげる。作業の邪魔にならないようにまとめた髪が、尻尾のようにゆれた。
「ひとから感謝されるのは嫌いではありませんが。でも、たぶん――これしか、することがないからです」
「することが、ない?」
「ええ。薬を作ることくらいしか、することがないんです。……することがない人生は虚しいですよ、きっと」
自分に言い聞かせるように呟いて、マリーは作業に戻った。再びトントンという音が響く。
窓からの光で影になるマリーの横顔を、アッシュはいつまでもじっと見つめていた。
◇◇◇
あの男がやって来たのは、そんな日々の最中だった。
村にある貴族向けの豪奢な宿を経営する商家の人間。確か三男だったか。
マリーを抱いて、子どもを作れと言う。
マリーもアッシュも人間とは思っていない言い草に、唇が歪むのがわかった。
知っていた。人間とはそういう生き物だ。アッシュに何も求めないマリーの近くにいたから、忘れていただけだ。
マリーのそばにいるだけで、金をくれるという。こんなにおいしい話はない。男の底の浅さが透けて見えた。
実際、金をもらえるのはありがたい。魔獣の出ない村では、大金を稼ぐ手段がない。
この様子では、アッシュが断ったところで、男を雇ってマリーを襲わせるとかやりそうだ。
男の話に承諾して、神殿で契約する日を打ち合わせた。
元妻のところにいたときに、似たようなことを何度もやったことを思い出す。
あの女が気に入らない女をアッシュが口説き落とし、身体の関係まで持って引き返せない深みに落としてから、パーティなどおおやけの場で無視するのだ。そのときアッシュは、元妻を完璧にエスコートしてみせる。
夫を寝とってやったと悦に入る気に入らない女が、呆然としてから絶望の表情を浮かべるのを、元妻は愉悦とともに眺めていた。
アッシュが貴族並みの所作を叩き込まれたのは、ひとえに元妻がこの遊びをするためだというのだから、呆れ返ったものだ。
アッシュは頭を軽く振って、考えを払い落とす。
あの女のことなど、どうでもいい。もう会うこともない他人だ。それよりマリーのことだ。
女を口説き落とすことには慣れている。この顔と体だ。女から言い寄られることも多かった。マリーもアッシュへの好意を隠しきれていない。アッシュがからかうと、顔を真っ赤にしてうろたえる様子が、可愛かった。
緩む口元を片手で隠す。
「ああ、そうか」
アッシュはマリーが欲しい。マリーのそばにいる権利がほしい。マリーのそばは、とても息がしやすかった。
ぬるま湯のように居心地のよい場所。
抱き寄せて愛を囁くと、マリーは簡単に落ちた。
籍を入れるまでは抱かれたくないというマリーに、それなら籍を入れればいいと告げると、マリーはアッシュの腕の中で泣いた。
たまらなくなって、何度も口付ける。
婚姻の誓約だって二人を繋ぐ絶対にはならないと、あの女に捨てられたときに思い知っていたけれど、マリーをアッシュに繋ぎ止める枷は多いほうがいい。
晴れわたる冬の日に、近くの町にある神殿をマリーと訪れ、婚姻の届けを出した。
マリーが先に、名前を書き血印を押す。アッシュもその横に名前を書く。アッシュ・ベイリー。あの女の父親に与えられた名前。
名前の横に血を垂らす。
――何も起こらなかった。
立ち会った神官の顔を見る。驚いた顔で唇を引き結んでいる。
血の気がさがった。
アッシュは一度、あの女と婚姻の手続きをしている。婚姻が成立すると、神の祝福を表すかのようにふわりと光るのだ。
マリーを伺うと、なにも気づいていないようだ。ただアッシュの顔を見上げて、嬉しそうに笑う。
吐き気がして、思わず口元を片手で覆った。
――あの女。あの女。あの女ッ!
要らないと言って、捨てたくせに。
嫌がらせなのか、なんなのか。神殿からの離婚申請の報せに同意しなかったのだろう。
「アッシュさん? 大丈夫ですか?」
「…………ちょっと感激しちゃって」
心配そうに見上げるマリーに、アッシュはなんとか笑みを浮かべてみせた。ふわりと微笑むマリーに、あの女のことなど言えなかった。
「……なにか美味しいものでも食べようか」
「そうですね」
「いや、でも、早く宿に帰りたいな。出来合いを買っていくのでもいい?」
「構いませんよ」
ごめんね、と眉をさげてみせてから、早く君を食べたいから、とマリーの耳元で囁く。
とたんに真っ赤になるマリーを、胸に掻き抱くように強く抱きしめる。
卑怯な真似をしている。最低なやり口だと自覚していた。
それでも、もう待てなかった。
マリーを自分のものにしたい。マリーの横にいる権利を誰にも渡したくない。
二人で初めて同じベッドで迎えた朝、アッシュはまだ眠っているマリーをじっと見つめた。
婚姻が成立していないのに彼女を抱いた罪の感情と、冷徹な計算が胸にうずまく。
なじられるのも、泣かれるのも堪えるけれど、なによりそれで関係が終わるかもしれないことが耐えられなかった。
まだベッドから起きるのが辛そうな彼女に休んでいるように告げて、飯を買いに出るふりをして、神殿に向かう。重婚が許されていない以上、マリーとの婚姻の申請を取り下げるしかなかった。申請から一ヶ月以内であれば、片方の申し出だけで取り下げることができる。
成立しなかった婚姻に唇をかむ。
だいぶよくなったはずの右肩が痛んだ。
――五年。五年の間、夫婦の実態がないことが証明できれば、片方の申請だけで離婚が認められる。
アッシュがあの女の元を離れて、まだ一年ほどにしかならない。
「子ども、か」
商家の三男とした契約を思い出す。
四年後、マリーにもう一度婚姻を申し出て赦されるためには、彼女との確かな絆が必要だった。情の深いマリーなら、自分の子の父親となれば無碍にしたりはできないだろう。
アッシュは自分の唇が歪むのを感じた。
人間は、醜い。魔獣なんかよりも、よっぽど。
その醜さを自覚しながら、アッシュはマリーの待つ宿に戻った。
◇◇◇
「アッシュ」
やわらかい声で、マリーがアッシュの名を呼ぶ。
肌を合わせたあと、マリーはいろいろな表情を見せてくれるようになった。敬語も消えた。どこか一線を引いていた彼女が、素直に甘えてくれるのが嬉しかった。
溺れるように抱いたせいか、子どもはすぐにできた。愛しそうに大きくなる腹をなでるマリーごと、腕の中に閉じ込める。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
マリーは困ったように目尻を下げて、抱き返してくれる。
その温かさに、何も見ないようにして、アッシュは目を閉じた。
月が満ちて子どもが生まれた。マリーによく似た女の子だ。
小さな手が、アッシュの指をきゅっと握りしめる。不思議な感覚だった。アッシュとマリーの血を分けたものが、ここにいて、生きて動いている。
産婆に背をたたかれて、我に返る。そこからはわけもわからず、産婆のいう通りに動いて、赤ん坊の世話をした。ベッドからマリーが少し楽しそうな顔で、それを眺めている。
幸せというものがどういう形をしているのか、アッシュは初めて知った。
赤ん坊――ユマが産まれたすぐ後に、珍しく村に魔獣が出た。ほんの一匹だけで、さして強くもない魔獣だったので、村の警備隊とアッシュだけで事足りた。トドメをさしたのはアッシュで、この功績に対し村から褒賞が出たのがありがたかった。
出産で、マリーもアッシュもあまり動けない時期だったからだ。
マリーの妊娠中も、彼女の体調を見計らって、仕事のために数日そばを離れることはあった。マリーは薬師だけあって、それなりに蓄えを持っているようだったが、出産では何が起こるかわからない。少しでも手元に金を持っておきたかった。
ユマの誕生に、喜び勇んでやってきた商家の三男から巻き上げた金も役に立った。
それでも、金はいつかなくなる。
ユマが一歳を超えて少し目を離せるようになり、マリーの体も回復したのを見て、長く家を空けるようになった。
相変わらず、村に魔獣は出ない。だから、稼ぐにはそうするしかなかった。
商家の三男を伝手にして、村に泊まりにきた貴族の護衛につく。貴族並みの所作を叩き込まれているアッシュは、貴族たちに受けがよかった。護衛についた貴族の帰路にも付き添い、その間に取り入っては、さらに送っていった先の貴族の領地で割のいい仕事を斡旋してもらう。
出かけていくアッシュを、マリーはユマを抱いて、寂しそうに、それでも微笑んで見送った。
「お守りは持っている?」
マリーはいつもそう尋ねた。無事に帰ってきて、とは言わない。そんな当たり前のことさえ、マリーはアッシュに求めなかった。ただ無事を願うだけ。
心配気なマリーに懐を叩いてみせる。マリーが手ずから作ってくれたお守りを、アッシュはとても大切にしていた。宝物のような二人を抱き寄せて、その額と頬に口付けてから出発する。くすぐったそうに身をよじる二人が、たまらなく可愛かった。
辺境に領地を持つ貴族と知りあったのも、似たような経緯だった。息子に家督を譲り時間ができたからと、まだ若く見える男は笑った。所作はさすがの美しさだったが、性格はあまり貴族らしくなく、礼儀にうるさくないのが気楽でよかった。
そうして護衛として雇われて訪れた辺境で魔獣の群れに襲われたのは、偶然だったのか、必然だったのか。
図ったように魔獣たちは、アッシュを避けた。積極的に向かってこない敵を倒すのは簡単だった。何頭の魔獣を屠ったのか、アッシュは覚えていない。右腕がしびれて動かなく頃、ようやく生きて動く魔獣はいなくなった。
一緒に戦っていた辺境の警備隊の隊長に背を叩かれて、我に返る。
「アッシュと言ったか? たいした腕前だ。冒険者か?」
「そう、だけど」
「領主様の護衛もしていたな。おまえ、警備隊に入る気はないか?」
「本気で言ってる?」
「もちろんだ」
「……考えさせてくれ」
一介の冒険者には破格の申し出。
アッシュが即答しなかったのは、もちろんマリーのことがあるからだ。
「ああ、奥さんと子どもがいるんだったな。辺境に呼び寄せるなら、きちんと手当が出るぞ。優秀な薬師は大歓迎だ」
素性が知られていることに苦笑がもれる。湯治に来ていた領主だという辺境の貴族からの情報だろう。護衛として雇うときに、すでに身辺調査が行われていることが伺えた。こういう抜け目のなさは嫌いじゃない。貴族として生き抜いていくには、必要な資質だろう。
頼りになる領主のようで、なによりだ。
アッシュは辺境の警備隊に入ることに決めた。入隊の手続きを終えて、マリーに手紙を書く。辺境までの路銀も添えた。手紙代も路銀も警備隊持ちだというから、かなりの高待遇だ。アッシュの腕だけでなく、マリーの薬師としての能力も、おそらく買われている。
魔獣の出ない村。――山奥にあって、そんなことはありえない。
マリーが何かをしているのは察していた。ユマの出産のあとに魔獣が出たのは、マリーがしばらく動けなかったからだろう。マリーはアッシュに知られたくないようだったから、ずっと知らないふりをしていた。
マリーがやはりあの村を離れないというのなら、それで構わない。アッシュが戻ればいいだけだ。マリーのそばにいられることだけが大事で、それだけがアッシュが生きている意味だ。
もしマリーが辺境に来るなら、その頃にはきっと五年が過ぎている。
自分がそれを待っていたのか、それともその時が来て欲しくなかったのか、もうアッシュにはわからない。ただ時が来たらすべてを話し、マリーに頭を下げて謝ろうと決めている。そして、もう一度婚姻を申し込む。マリーがうなずいてくれるかはわからない。それでも、どれだけ断られても、アッシュはマリーから離れないだろう。許されなくても、どうにかしてマリーのそばにいようとするのは、目に見えていた。
「マリー、ごめんね。こんな人間で」
マリーからもらったお守りに、マリーへのかわりに口づけを落とす。
卑怯で、ずるくて、醜い人間。それがアッシュだ。
送られてきたマリーの返事には、辺境へ来るとも、村に残るとも書かれておらず、ただ新しいお守りだけが同封されていた。
◇◇◇
辺境は魔獣の多いところだ。警備隊も魔獣から領民を守ることに力を入れている。
その日も、アッシュは魔獣狩りに駆り出されていた。新しくなったお守りを胸の隠し袋に忍ばせている。
今日の仕事が終わったら、もう一度マリーに手紙を書こう。もし彼女がすでに辺境に向かっているとしたら、すれ違いになるかもしれないが、それでもよかった。
魔獣が唸り声をあげる。狂ったような鋭い目がアッシュを射た。魔獣の口元からよだれが垂れる。いつもと様子の違う魔獣に、アッシュに緊張が走った。
何度振り払っても、何頭屠っても、魔獣はアッシュをめがけて突進してくる。まるでアッシュが美味くてたまらない獲物だというように。
すっと血の気が引いた。
「……マリー?」
マリーから届いたお守りをおさめた胸を、左手で押さえる。
「君が……?」
胸にあてた拳を握りしめた。
お守りにはマリーの思いが込められている。
知っている。――わかってしまった。
きっと魔獣が好むものが、この新しいお守りには仕掛けられている。
アッシュは、そっと笑った。
アッシュに何ひとつ望むことをしなかったマリーの唯一の望みが、アッシュの死であるなら。
マリーがアッシュを殺すというのなら。
「君になら殺されてもいいよ」
呟いてアッシュは体の力を抜いた。
大事なのは、アッシュの人生にマリーがいることで、マリーの人生にアッシュがいることではなかったから。マリーのそばにいられるなら、アッシュは、ほんとうになんでもよかったのだ。
そのマリーがアッシュの生存を赦さないと言っている。
世界一大事なものが、アッシュの死を願っている。
だから――間違っている。
赤ん坊に振り回されるアッシュを見て笑ったあの顔を、もう一度見たいと思うのは。
もう一度あの、彼女が薬草を刻んでいた、どこまでも美しく静かな時間に戻りたいと願ってしまうのは。
アッシュは卑怯で、ずるくて、醜くて、傷つくのも傷つけるのも怖がって、いつも間違ってばかりの人間だ。今も正しい答えを知っているのに、その通りにできない。
「ほんとうにごめんね、こんな人間で」
アッシュは、マリーが治してくれた右腕で、剣をもう一度握り直した。
襲ってくる魔獣を切り裂く。
ただ最も愛した者のそばに還るために――。




