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その3:人間にしかなれなかった娘

こちらにも胸糞注意報を発令しておきます。

「あなた、薬師なんですって? それでなにをしに来たの?」


 ニーナ・ヴァルコフは、読み終えた祖父からの手紙を机に放り出すと、桃色がかった金髪を指で漉きながら尋ねた。


「マリーです。こちらにいるけが人の手当てをするように言われてきました」


 慇懃に頭を下げたマリーに、「ふうん」と呟いてからニーナは目を細めた。


「あなたは壊すなって手紙にはあるわね。気に入らないけど、お祖父様にはお父様も頭が上がらないし。どうやって取り入ったの?」

「旅の途中で知り合って、薬をお渡ししただけです」


 淡々と答えるマリーを疑うように見てから、ニーナは鼻を鳴らした。


「いいわ。それなら、まだ壊れきっていないおもちゃをお願いしようかしら。長く遊べるにこしたことはないもの。でも、わかっているかしら? わたしは躾の悪い犬は嫌いなの」

「承知いたしました」

「……おもちゃの修理は、わたしの目に入らないところでやってちょうだい」


 怯えるでもなくうなずいたマリーに、ニーナはまた目を細めると、対面の部屋を後にした。マリーに椅子をすすめることはしなかった。使用人ごときに気をつかう必要はない。使えなくなったものはいなくなり、新しいものが補充されてくる。ニーナにとって使用人とはそういうものだ。

 粗末な貫頭衣を着た薬師だという女は、感情が消えたような顔で不満をもらすでもなく、ただ立っていた。祖父から釘をさされていることもあり、逆らわない限りはあえて手を出すつもりはない。


 ニーナは大きな商会を経営する父の庶子として生まれた。家業である商売のために結婚をした父だったが、のちにニーナの母と出会い、愛し合うようになった。母は父にとても愛されていた。その証拠に、父は母の忘れ形見であるニーナを溺愛してくれている。

 正妻に蛇蝎のごとく嫌われていても、正妻の子である兄たちに冷たい目で見られても、なんてことはなかった。父に与えられたこの屋敷の中では、ニーナが王様だ。


 ニーナの言うことはなんでも聞いてくれていた父だが、近頃祖父が口うるさくなったようで、あまり使用人を壊さないように注意された。一部で使用人を潰すと噂になっているらしい。あのマリーとかいう薬師を寄越したのも、その噂を払拭するためのものだろう。


 ニーナは面白くない。他家のパーティに出るのも止められており、逆らえない立場の令嬢を絡んだりできないのは退屈だ。前のように、気に入らない女を夫にひっかけさせて、地獄に叩き込む遊びもできそうにない。

 最初の夫が死んだせいで、どこかの商人の三男だという男を夫に押し付けられたのも、気鬱だった。もっともその新しい夫は早々に調教して、ニーナに逆らわないように躾けた。顔は良かったから、横に飾っておくくらいなら我慢できる。


 手持ち無沙汰で苛立つ気持ちを抱えながらニーナが歩いていると、その夫であるエドワードがやってきた。普段はできるだけニーナを避けるようにしているのに、あちらから近寄ってくるのは珍しい。もっとも、その嫌がる夫を呼びつけ苛めるのが、ニーナの愉しみのひとつだ。


「エドワード」

「……誰か、来ていたようだったが」

「いつ、あなたがわたしと対等に話せるようになったのかしら」


 ためらいがちに口を開いたエドワードに、ニーナの唇が歪む。エドワードはびくりと身じろいだ。


「申し訳ありません。来客は珍しいので気になって」


 態度をあらためたエドワードに、ニーナは弓の形に目を細めた。髪を指ですく。


「客じゃないわ。薬師よ」

「薬師、ですか?」

「お祖父様が寄こしたの。使用人(おもちゃ)を修理させるそうよ」


 エドワードは黙り込む。彼がこの屋敷に来てから、顔を見なくなった使用人が何人もいた。

 

「週に数回、この屋敷に通ってくるそうだから、あなたも診てもらったらいいんじゃないかしら? あなたには長持ちしてほしいわ。夫になる男をいちいち躾けるのは面倒だもの」


 エドワードの背中と腕が痛んだ。ニーナによって付けられた傷の跡だ。傷はふさがっても、時々こうして痛みが走る。


「……わかりました。次に来たときに診てもらうようにします」

「あなたと同年代くらいの女の薬師よ」

「同年代の薬師、女の……」

「わかっていると思うけど、女と懇ろになったりしたら、自分から死を願うほどの目にあってもらうから」

「……そんな気はありませんよ。ここから出て、どこへ行けるというんですか」

「わかっていればいいのよ」


 家族に売られてここへ来たエドワードに、帰る場所などない。満足気にうなずくニーナに、エドワードは自嘲の笑みを浮かべた。



 ◇◇◇

 


 薬師が詰めているという部屋を訪れ、エドワードは一瞬目を疑った。

 見知った女が、机にのせた乳鉢で薬草をすり潰していた。


「おまえ」

「お久しぶりです、エドワードさん」


 淡々と返されたマリーの声に、エドワードの顔が怒りに染まった。粗末な貫頭衣の胸ぐらを掴み上げる。


「おまえッ、おまえのせいで、僕は!」


 マリーが二年ぶりに見るエドワードは、ひどくやつれていた。袖からのぞく腕には、生々しい鞭の痕が何本も走っている。


「……わたしのせい、ですか?」

「おまえ以外の誰のせいだと言うんだ!? おまえがいなくなったせいで、村が魔獣に襲われた! その責任を問われて、僕はここに売られたんだ!」

「……村はどうなりましたか」

「あの村はもう無くなったよ! おまえ、おまえが、ずっと村にいれば!」


 途端、マリーの視線が冷えた。


「離してください」


 マリーは胸を掴まれた腕に爪を立てる。エドワードの顔が痛みに歪んだ。突き飛ばすように腕を離す。動いた拍子に、マリーの胸を掴んでいた腕がひどく痛んだ。


「右腕、ですか?」


 マリーは小さく息を吐いて、清潔な布と軟膏の瓶を取り出した。


「手当します。座ってください」

「僕に命令するな」

「では、お願いすればいいですか? どうぞ座ってください、エドワードさん」


 エドワードは苛立ちを隠さないまま、乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。

 マリーは黙々と傷口に薬を塗っていく。薬が沁みて、エドワードは顔をしかめる。構わずマリーは、まだ新しい傷に軟膏を塗布した布をあて、ずれないように細かく割いた布を巻いていく。


「膿むとやっかいなので、一日に一回は傷を洗って軟膏を塗ってください」


 差し出された軟膏から、エドワードは苛立たしげに顔をそらす。

 マリーはまた小さく息を吐いた。


「膿むと命に関わります」


 そこまで言われて、ようやくエドワードは軟膏に手を伸ばす。軟膏を懐にしまうと、エドワードは視線を落とした。


「……僕の何が間違っていたというんだ」


 ぽつりと落とされた言葉に、マリーはまた淡々と返した。


「誰か一人に頼らないといけない幸せは間違っていると思います」

「だから! だから、僕は後継者を作ろうと……!」

「そうやって無理やり作られた後継者が、わたしです。誰かを犠牲にしないと守れない幸せは、幸せじゃありません」


 真面に言い返したマリーを、呆然と見つめてから、エドワードはがくりと項垂れた。


「エドワードさん。わたしは仕事で、ここに来ました」

「ニーナにやられた使用人たちの傷の手当てをするんだろう?」

「いいえ、違う仕事です」


 マリーは奇妙なほど静かに言った。


「違う、仕事?」

「しばらく、こちらに定期的にうかがいます。使用人の方々と仲良くなりたいので」


 エドワードの目が、マリーの感情の読めない顔に向いた。


「……何をするつもりだ」

「さあ、なんでしょう」


 ゆっくりと身をかがめると、マリーは真正面からエドワードに視線を合わせた。


「あなたは知っているはずです。薬師が何を扱うのか。――さすがにもうご存じですよね?」


 静寂が落ちた。


「僕はどうすればいい」

「何も。ただ邪魔をしないでいてくれれば」


 マリーは微かに唇の端を上げた。ひどく静かな笑い方だった。エドワードがいつか見たあの昏い目を、マリーはしていた。


「また来週も来てください。次は痛み止めも用意しておきます」


 マリーは机に戻ると乳鉢に手を伸ばし、薬草を潰し始めた。青臭い匂いが部屋に広がる。

 エドワードはしばらく布の巻かれた腕を見つめた。


「……おまえは怖くないのか」


 マリーは少しだけ間を置いて答えた。


「ほんとうに怖いものは何か、わたしはもう知っています」


 ぽとりと落とすように告げてから、マリーは肩をすくめた。


「ところでエドワードさん、わたしの名前、マリーって言うんです。知っていましたか?」


 その言葉に虚をつかれたように、エドワードは黙ってマリーの顔を見つめた。

 やがて、エドワードは立ち上がると扉に向かう。


「また来週、頼む。……マリー」


 マリーが視線をあげる頃には、エドワードの姿は扉の向こうに消えていた。



 ◇◇◇



 鏡の前で侍女がニーナの髪を梳かす。名前など知らない。侍女は侍女だ。

 力加減がわずかに強かった。ニーナの眉がぴくりと動く。腕をあげて、侍女の手をぱしりと払った。


「髪もまともに漉けないの?」

「も、申し訳ございませんっ」

「謝るより直して。口は要らない。それとも、もっときちんと叩かれないとわからない?」


 侍女の手が震えた。ニーナはその震えを見て、かすかに口角を上げた。恐怖は、人を支配するもっとも強力な手段だ。ニーナはつねに人を支配する側だった。


 異変に気づいたのは、しばらく経ってからだった。右手の指先が、しびれる。翌週には左手にも来た。食事のときに、カテラリーを取り落とすことが増えた。


「すぐに新しいものをお持ちします」


 かけられた声に侍女を見た。少しの怯えが見える。

 おかしい。

 しかし何がおかしいのか、言葉にできない。ニーナは何度か手を握ったり、開いたりした。手はきちんと動く。なのに、薄膜を張ったように、自分の体が自分のものでないような感覚が消えなかった。


 父に伝えて、医術師を派遣してもらった。

 診察をした医術師は「疲れでしょう」と言って帰っていった。週に数回やってきている薬師から、医術師に頼まれたといって薬が届いた。滋養強壮の薬だという。

 毒を疑って、侍女やエドワードに飲ませた。侍女は嬉しそうに飲み、エドワードは一瞬眉をしかめてから、何も言わずに飲んだ。


 ある日の夕食時に、果実酒を注ぐメイドの手が震えた。テーブルクロスに小さな赤い染みがつく。ニーナは眉を跳ね上げた。


「あなた」

「も、申し訳ございません」

「謝る暇があるなら拭きなさい。後でわたしの部屋に来るように。礼儀をもう一度叩き込んであげるわ」

「……はい」

「返事が遅い」

「はい。承知いたしました」


 引き結んだメイドの口元が細かく震えている。ニーナはその顔を見て、果実酒をゆっくりと口にする。怯えて引き攣る顔を鑑賞するのは、下手な絵画を見るよりも愉しい。

 エドワードは嫌悪を滲ませた顔で、視線を逸らしていた。エドワードが苦手だという魚が、手がつけられないまま皿に残っていた。


 しばらくして、今度は足が重くなった。歩くときに、脚が思ったより前に出ない。廊下でつまずいて、壁に手をついた。誰も見ている者はいない。ニーナはすぐに手を離して、何事もなかったかのように歩き出した。

 ニーナの頭の中で、何かが小さく鳴っている。警告のような高い音。

 何かがおかしいとわかっているのに、それが何かわからない。

 毒見役は毎食立てている。食事に問題はないはずだった。水も、果実酒も、料理も。エドワードも同じものを飲んで、食べている。彼に異変はない。ニーナは震える手を握りしめた。

 父に出した手紙に返事はなかった。


 やがて、ろれつの回らない日が出てきた。

 舌が、重い。

 寝支度をする鏡の中の女は頬がこけ、目の焦点がわずかにずれている。

 侍女が背後に立っていた。鏡越しに視線が合った。

 振り返ると、侍女は目を伏せた。その目の伏せ方が、いつもと違っている。


「なにを、見ているの」

「いいえ、何も」


 ニーナは侍女を見つめた。いつもなら緊張で震えている侍女の手が、今日は静かだった。ニーナはとっさに腕を振り上げようとして、動けなかった。ニーナの腕はだらりと垂れたままだ。

 長い沈黙の後、侍女は静かに部屋を出て行った。「下がっていい」とも言っていないのに退室する無礼な侍女を追いかけようとして、ニーナは立ち上がることができなかった。


「なに? なんなの?」


 恐怖が足元からはいあがってくる。

 これは、なんだ? なぜ、こんなことが起こっている?

 恐怖を与えるのは、ニーナの役目のはずだ。それなのに、今は自分がこんなにも怯えている。

 その後寝室には誰も訪れず、ニーナはその夜、這うようにして寝台へと移動し眠った。


 次の日には、とうとう寝台から起き上がれなかった。

 夫のエドワードが部屋を訪れたときには、もう昼を回っていた。部屋をさっと見渡してから、ニーナの前に立つ。目線が上から落ちてきた。


「エド、ワード」


 かすれた声が出た。エドワードは目を細める。


「やあ、奥さん」


 結婚生活の中で、一度もなかった呼び方だった。初日から鞭を振るって躾けた駄犬にはありえない愚行だった。ニーナは反射的に怒鳴ろうとして、舌がもつれた。

 それを冷たい目で見下ろしてから、エドワードは続けた。


「マリーが君に話があるそうだ」

「マ、リー?」


 静かに部屋に入ってきた人影が、エドワードの横に立った。数ヶ月前に見た、祖父の肝入りでやってきた女の薬師だった。ニーナは薬師の名前など記憶にとどめていない。


「……おまえ、が」


 マリーは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 部屋の隅に侍女が立っていた。震えていなかった。震えることなく、かすかに笑みを浮かべている。

 エドワードは喜んではいなかった。それでも助ける気はなさそうだった。

 ニーナが、使用人に、夫に、毎日与え続けてきたはずのもの。それが、もうどこにもなかった。


「こんにちは。お久しぶりです」


 マリーと呼ばれた薬師は、小さく微笑んだ。初めから、マリーだけはニーナに怯えを見せなかった。


「安心してください。あなたは死にません。旅の間にずいぶん人の体に詳しくなったんです。死なないように壊せるようになるくらいに」

 

 少しだけ誇らしげに、マリーは告げた。


「どう、やって」

「ああ。蓄積型なんです。少量摂取しただけでは体に影響はありません。魚、美味しかったでしょう? あなたのためならと、皆さん持ち回りで、厭わずに毒見役をしてくれましたよ。あなたは使用人の顔も名前も覚えていないから簡単でした。毒見役が毎日変わっても気づかない」


 ニーナの喉がヒュッと音を立てた。


「あなたが傷つけた使用人の方々は、このまま屋敷で働いてくれるそうですよ。動けなくなったあなたの世話を、皆さん、誠心誠意してくださると言っていました。あなたが皆さんを扱った通りに、懇切丁寧に」


「こ、こんな、お、お父様が、黙って、いないわ……!」


 マリーは沈鬱な表情を浮かべる。


「あなたのお父様も、床に就かれていると思いますよ。あなたの兄だという方に頼まれて、薬をお渡ししましたから」


 ニーナの目が絶望に沈んだ。

 それをじっと見つめてから、マリーは吐息した。


「……あなたは、わたしと違っていくらでも人間でいられたのに、どうしてそうしなかったのですか?」

「どういう、意味?」

「自由もお金もあって。契約に縛られることもなくて。名前を捨てる必要も、誰かを殺す必要もなかったでしょう?」

「そ、んなの、わたし、の、勝手で、しょう!?」


 マリーの言い様に、ニーナは強くマリーを睨みつけた。

 不思議そうにマリーは首をひねる。


「あなたがちゃんと人間なら、わたしがここに来ることもありませんでした。……ああ、そうか。今わかりました。あなたも人間ではなかったんですね」

「黙り、なさい」

「ただの愛玩動物だった。人して扱われたことがないから、あなたには人の扱い方がわからなかった」

「黙れ……!」

「人は自分が扱われたようにしか、人を扱えない。そういうことなんですね」


 憤怒を浮かべるニーナに、憐れむ視線を一瞬だけ向けてから、マリーは表情をあらためる。


「けがをする方もいなくなったので、わたしはもう必要ありませんね。本日でお暇させていただきます」


 静かに告げたマリーは、ゆっくりと寝台に近寄った。ニーナの耳元で囁く。


「最後にひとつだけ。前の夫の名前を覚えていますか」


 予想外の問いに、ニーナは瞬きを繰り返す。ニーナの記憶の中に、その答えはなかった。


「よかった。そのまま忘れていてください」


 名前を紡げないニーナに、マリーは心からの笑みを浮かべた。


「さようなら、ニーナさん。どうか、いつまでも――そのままで」


 扉の手前まで戻ると、マリーは丁寧に頭を下げた。言葉にならない叫びが聞こえたが、マリーは無視した。廊下に出て扉を閉める。一緒に寝室を後にしたエドワードを見て、首をかしげた。


「何か?」

「……アッシュからの手紙を預かっている」


 驚きに目を見開いてから、マリーは身を固くした。


「……彼は死んだはずでは?」

「辺境の警備隊には遺言を残す義務がある。宛先不明で商会が預かっていた。僕のところにも、君の行き先を知らないか照会が来ていたから、手紙の存在は知っていた」

「わざわざ取り寄せたのですか?」


 マリーの声が低くなる。

 エドワードは、ふっと唇の端を歪めた。


「ああ。この手紙を君に読ませることが、僕の復讐だ」


 マリーは震える手を一度握りこむ。差し出された手紙を受け取ると開いた。



『マリー。

 ろくでもない人生で、君のそばにいられたことだけが、幸せだった。

 君が薬を作っている姿を見ている時間が、好きだったよ。


 君が俺の嘘を知ったとき、君が傷つかないといい。

 騙すような真似して、ごめん。五年経って離婚できたら、もう一度君に結婚を申し込んでいいかな。その時、俺はもう死んでいるけれど。


 君をあの村から連れ出したかった。

 俺に金があれば、君は自由でいられたはずだから。

 でも、俺はそれがどこでも、君のそばにいられたら、それでよかったよ。


 辺境は結構よいところだから、機会があったら来てみて。

 君の幸せだけを祈っている。娘のことをよろしく。


 愛するマリーへ アッシュ・ベイリー』



 涙は流れなかった。アッシュの死を願ったマリーには、泣く資格がない。

 マリーは手紙をたたんで、懐に大事にしまった。エドワードに視線を向ける。感情を見せないマリーに驚いたのが半分、悔しさが半分の顔を、エドワードはしていた。


「パンに興味はありますか」

「――――は?」

「旅の途中でお世話になったパン職人の方が、後継者を探しています。興味があるなら紹介状を書きます。離れて五年経てば、離婚は成立します」

「おまえ、何言って……」

「興味ないですか、パン」

「あるわけないだろうっ!? 僕は商人で、立派な商人になって、父さんたちに」

「エドワードさんは、商人に向いていません。早く言ってあげればよかった」


 エドワードは言葉にならず、ただ口をぱくぱくと動かした。


「娘が言うんです。思っていることがあるなら、ちゃんと話してって。きちんと向き合ってもらえないのは寂しい、わたしとの間で怒ったり傷ついたりする権利をちょうだいって。――わたし、ちゃんと話せばよかった。傷ついても傷つけても、全部ちゃんと伝えればよかった。こんなふうに失うのなら」


 マリーは、痛む何かを我慢するように懐を押さえた。邪魔にならないようにまとめた髪が、尻尾のようにゆれる。


「エドワードさん。誰に認めてもらえなくても、自分のためにできることがある人生は、よいものですよ、きっと」


 泣かないように微笑んだマリーに、エドワードはただ唇を噛みしめた。



 ◇◇◇



 ニーナの祖父に仕事が完了した報告を入れ、預かってもらっていた娘のユマを引き取る。立ち回りの上手なユマは、メイドの仕事を手伝っては、可愛がられていたらしい。

 少し荒れた小さな手を握る。


「神殿に寄って帰りましょう、ユマ」

「母さん、神殿が嫌いじゃなかった?」

「嫌いじゃないわよ。契約のことがあるから、避けていただけ。知り合いの人から聞いたわ。村はもうないんですって」

「そうなんだ。それじゃあ、もう、約束はおしまいね」

「そう、これで、全部おしまい。契約も終わり」

「母さん、嬉しい?」

「……よく、わからないわ。でも、まともに仕事ができるのは嬉しいかな」


 ユマがぱっと笑った。明るい笑顔に微笑みつつも、マリーの目が昏く陰った。

 ぽつりと独り言のように呟く。


「結局、わたしは魔獣になれなかったのね。魔獣は妬みで誰かを害したりしないもの」

「そうね。それが人間ってものね」


 返ってくると思わなかった返事に、マリーは目を瞬いた。わかっているのか、いないのか。顎を上げて、うんうん、とうなずくユマに、マリーは目尻を下げた。


「母さん、これからどうするの? 仕事はもう終わったんでしょう?」

「そうね。辺境にでも行ってみようかしら。良い所だって、あなたのお父さんが」


 ユマが目をまん丸に見開いて、マリーを見上げた。


「どうしたの?」

「父さんの話を、母さんからするの、初めて見た……」

「そう、だった?」

「辺境に行ったら、父さんの話、いっぱい聞ける?」

「そうね。彼を知る人のところを訪ねてみましょうか」


 楽しみね、と笑った娘の顔に、懐かしい面影がよぎる。まだ幼い体を、もう会うことのできない人の代わりに、マリーはぎゅっと強く抱きしめた。


三話で終わる予定でしたが、もう一話、追加させていただきます。よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
前日譚から読み終え、それぞれが悔いを残し続ける良いビターエンドでした 各登場人物達が他人の悪意や欲に塗れ、微かな善意や好意を無下にして後悔する姿が何とも言えず マリーは自身を親に売られて村を守る道具…
エドワードはパン屋に雇われたところで、無能な働き者っぷりを発揮して勝手に違う小麦粉注文して「言われた通りやれっつってんだろが!」と怒鳴られそう…と書こうとしたら既出で笑いました。 嫌われているといいま…
エドワードが感想欄で皆様からボッコボコ笑笑 はじめは犬化して爽快ザマァだったんですけど、段々と「こいつは生まれ育った環境と三男ポジが良くなかったんやろな」と。やったことは糞だし、まだ復讐云々言ってる…
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