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診療所は、路地の裏を右に左に何十回となく曲がり続けた先の長屋街にあった。
煤汚れてはいるが、白く低い建物の前に立つと、結衣はガラス張りの扉を開ける。
「すみません! 急患なんです!」
結衣が叫ぶと、受付にいたらしい女性の看護師が寄ってきた。
朱雄に抱えられた沙希を診るなり、血相を変える。
「たいへん! 先生!」
叫びながら、看護師が施療室に駆け戻っていった。
「先生! 急いでください! 怪我人です!」
声に反応し、診察室の奥から黒縁メガネをかけた白衣姿の小柄な男性が、
寝ぐせもそのままにのっそりと現れた。
「どうした? おう、こりゃいけねえなあ」
ぼりぼりと髪をかき回しながら沙希を見やりのんびりと告げる男性へ、
康次郎少年が尋ねる。
「浅野先生、この人よくなる?」
康次郎少年の言葉に浅野と呼ばれた先生が、
沙希の傷口をじっくりと診て少年の頭へ手を置いた。
「おう、まかしとけや。
出血は酷いみたいだがきちんと止血されているし、幸い傷も浅いらしい」
浅野の発言に、結衣はほっと胸をなでおろし小さく口元を綻ばせる。
さすがは我が妹。傷口が軽いということはおそらく意識を失う寸前、
沙希が無意識に自分の脇腹へ手をやっていたからだろう。
浅野が康次郎少年の頭に手を置いたまま、こちらへ視線を向けてきた。
「あんた、この子の身内かい?」
「はい。姉です」
答えると、浅野が先ほどとは打って変わった鋭い眼光でこちらを見据えてくる。
「これは明らかに刺し傷だ。いったい誰にやられた?」
結衣は返事に窮し、深々と頭をさげた。
「すみません。今は言えません」
「そうかい」
正直に告げた言葉に対し、浅野があっさりと頷いてくる。
結衣は目をまたたいた。
「あの、納得していただけたんですか? 今の返事で」
「いや。納得なんて微塵もしちゃいないが」
口を開きながら浅野が立ちあがると、看護師がタンカーを持ってやってくる。
「先生、ちゃっちゃか動いてください!」
看護師に叱責されて、おう、と浅野が小さく手をあげ、沙希の身体を支えた。
「いきますよ! せーのっ!」
看護師と浅野が沙希をタンカーに乗せ、施療室へと運んでいく。
「あの!」
呼びかける結衣へ浅野がちらりと振り返り、にかっと微笑んだ。
「心配すんな、お姉さん。この子は助けるからよ」
「よろしくお願いいたします」
心から沙希のぶじを願いつつ再度頭をさげていると、
重い木の軋む音がして施療室の扉が閉まるのがわかった。
(父さん母さん、沙希を守って!)
手を胸の前で組んで祈る。結衣の脳裏に、苦い記憶が蘇ってきた。
『すぐに戻ってくるよ。それまで私を忘れないでいてくれよ?』
光輝は空港でちゃかすようにそう微笑んだ。
まさかあの時、彼が永遠にこの世からいなくなってしまうとは思わなかった。
父母もそうだ。
あんなに元気だった二人が、呆気なく死んでしまうとは思いもよらなかった。
変わり果てた姿になった父母を目にした時、
怒りよりもまず先にこれからの暮らしのことが頭をよぎった。
強くあらねばと思った。なにがあっても自分がこの子たちを守るのだ、と。
それを影から支えてくれたのは光輝ただ一人だった。なのに……。
『ぜんぶコウキのしわざだよ!』
光輝がいなくなってから三年。
その間に、いったいなにが変わってしまったのだろう。
あんなに懐いていたはずの裕彦と沙希も、
両親が死んだのは光輝のせいだと言い募る。
それに加えてこの変事だ。
二人とも口を開けば光輝のしわざと言ってはばからない。
そんなことがあるはずはないのに。光輝はもうこの世にはいないのだから。
けれど、どんなにこちらが諭そうとも、二人は主張を譲らない。
『目を覚まして!』
沙希の悲痛な叫びが耳にこだまする。
(目を覚ます?)
いったいどうやって目を覚ませというのだろう。
自分はこれ以上ないほどしっかりと現実を見据えている。
いや、見据えているはずだ。それなのに、なぜ……。
(私が間違っているの? なら、あの人は! あの人は……)
生きているとでもいうのだろうか。
そんなはずはない。
だって遺体だってきちんと確認したのだ。
ところどころ焦げつき、ただの肉塊になった彼をこの目でしっかりと。
あんな惨い姿を忘れられるはずがない。
第一、妹や弟だって葬儀に参列したのだ。
なのに、どうして二人ともあんなことを言うのだろう。
(あの子たちが根拠のない嘘を言うはずがない。それは確かだけれど)
やはり、まだ正体の見えない敵に操られているのだろうか。
だとすれば、それは誰なのだろう。
自分たちのことをよく知っていて、なぜか深く執着している者。
そんな人間がいるとはとても思えない。
だが、何者かが康次郎を使って自分たちのかつての客を殺めているのは
確かなことだ。
それに今のこの異常事態も。
(いったい誰なの? なにが目的なの? なぜ姿を見せないの?)
いらついて爪を噛む。脳裏にまた裕彦の言葉が蘇ってきた。
『コウキがやったんだよ!』
そんな、まさか。
彼が生きているとしたら、なぜ自分の前に姿を現さないのか。
こんなに彼を求め、焦がれているというのに。でも……。
(まさか)
唇を噛みしめていると、
診療所入口のガラス張りでできた扉が割れ派手な音が耳をつんざいた。




