第八話 我が麗しの夢狩人
体が動く。
元々運動は嫌いじゃない。小さい頃は友達と毎日野球をしていた。でも格闘技なんかの経験はないし、喧嘩だってしたことない。なのに、
「もう、いっちょ!」
体がこんなにも動く。これも魔剣フィールの力なのだろうか。戦い方が分かる、ということじゃない。
ただ単純に速く動ける。強く動ける。思考は疾走し、視覚は敵の動きを当たり前のように捉え、反射が尋常じゃないくらいに体を動かす。
動くことがあまりに容易すぎる。俺の体が、感覚の全てが底上げされている。
「今のところは嫌われていないようですね」
平坦なカルディアの声。胸はもっと平坦だ。
成程、やっぱりこの動きはフィールちゃんが力を貸してくれているからなんだと理解する。素人の俺でもここまで動けるようになるなら、ゲインのやつらが欲しがるのも分からなくはない。
まあ娘になった以上簡単にやりはしないけど。
襲い来る犬もどき。踏み込む、ナイフを振るう。肉を裂く気色の悪い感覚。これで六匹。
攻撃の隙を狙うようにもう一匹が突進する。左足を大きく引いて回避。即座に体を回し蹴りを叩き込む。骨が砕ける気色の悪い音。七匹目。
例え化け物でも命を奪うことには抵抗がある。そう感じるのが普通だと思っていた。
なのに俺は何の問題もなくネクス達を駆除していく。命に対して駆除という言葉が使える程に俺は冷静で、冷酷で、人でなしだっだ。
なんでだろう。昨日は一撃でネクスを消し飛ばした。トランミュートには一撃が通用しなかった。どっちも戦いと呼ぶには少しばかり足らない。
結局のところ、俺にとってはこれが初めての戦い。なのに怯えることさえないなんて、どう考えてもおかしい。
オグドと対峙してた時は逃げることしか考えてなかった。今は逃げるなんて考えてもいない。自分のことなのにその理由が分からなかった。
そんなことを考えていると、きぃぃぃぃんという音と共に、フィールちゃんが淡い光を発した。じんわりと暖かい、優しい光だった。
「……慰めてくれてんのかな」
そう思うと光に負けないくらい胸の奥が暖かかくなった。
体に心に力がみなぎる。娘に慰められたんだ、お父さんとしては情けない所は見せられない。
「ありがとな、フィールちゃん」
優しい語り掛けながらナイフを振るう。八匹目のネクスはいとも簡単に切り捨てることが出来た。
さっきからひっきりなしに襲いかかってきたネクスの群れが途切れる。後続が現れる様子もない。しかしまだ油断はせず、構えたままカルディアと背中合わせになり周囲を警戒する。
「カルディア、どの程度だと思う?」
取り敢えず第一波を退け、一呼吸つくと共に背中合わせのまま問い掛ける。
「正直計りかねていますが、雑魚を宛がってくる辺り優先順位としては下位なのかもしれません」
「そんなに価値を認めていない?」
「というよりも果実は実ってから、でしょうか」
「成程、そりゃそうだよな」
本気でカルディアは胡散臭い女なんだけど、何故か会話は上手く噛み合う。俺の意図を汲んでくれるから話していて小気味がいい。信用も信頼も出来ないけど、決して嫌いじゃなかった。
「まだゲインはそれほど多くの兵をこちらに送ることが出来ないのかもしれません。軍団レベルでの異世界間移動にはそれなりの労力がいりますから」
ああ、と俺は納得した。
異世界への移動にどんな手段を使っているのかは分からないけど、現状地球はエデュロジンと交流を持っていないことを考えると、そんなに簡単なことではないのかもしれない。
そいつは有難い。毎日こんな切った張ったじゃ身が持たないし。
「なら、正直助かったかな。トランミュートを一匹でもこっちに回してたら俺ら終わってたし。波状攻撃を仕掛けてくるわけでもない、増援はあってもあと一回くらいってとこ?」
「私もそう思います」
「ふーん。なら次の一手を“隠れ蓑にする”かな?」
「おそらく、としか言えませんが。現状の戦力が少ない以上、可能性はあります」
成程、そこも同じ意見か。じゃあほんとに可能性は高いな。
ぐっと体に力を籠め、しかし飛び出すのを止めるようにカルディアは呟く。
「ですが意外でした」
「ん、なにが?」
「いえ、カナタは商店街やでぱーとなど、人の多い所に逃げると思っていましたので」
思わず口を噤む。俺は言葉にこそしなかったが、カルディアの言う通り、商店街に逃げようと少しだけ考えていた。
「私はそちらの方がよかったと思いますが」
声は本当に不思議そうで、俺の考えを見透かしていたのだと分かる。ある意味でこの娘は美月以上に俺のことを理解しているのかもしれない。
「……カルディアの言うことも分かる。俺も正直に言えば、商店街に逃げた方がいいと思ってた。でも駄目だ。もしものこともある」
「そうですか。貴方がそういうのならば構いません。実際この攻め手を見るに、人混みで襲ってくるとも思えませんし」
それは確かに。はっきり言って俺達からフィールちゃんを奪うつもりにしては今回のネクスはぬるい。ゲインは今のところは様子見って姿勢なんだろう。
「……どういうこと?」
今まで口を挟まずにいた美月は俺達の会話が理解できなかったようで不思議そうに小首を傾げていた。でも俺は答えなかった。親友だと言ってくれている美月を失望させてしまうような気がして、何も答えられなかった。
「商店街なら人混みに紛れることで逃げやすくなる、というだけです」
代わりにカルディアが当たり障りのない説明をしてくれる。
かなり意外だった。てっきりこいつのことだから普通に言っちゃうと思ったんだが。
「ふーん?」
納得したのかしてないのか、やっぱり美月は不思議そうな顔だった。
もちろんカルディアの言葉は嘘である。
俺は、というか俺達は、人の多い所に逃げた時ゲインがどうするかを知りたかった。
例えば商店街の方に逃げたとする。
その上でゲインの追手が、周りの人間を巻き込んでまで俺達を襲ってくるのか。
それとも余計な被害を出さぬよう状況が変わるのを待つのか。
或いは俺達だけを狙えるような策を打ってくるのか。
どんな風に動くかによって、ゲインの俺達に対する態度や方針がある程度見えてくる。だから本当は商店街に逃げた方がいい。助かる確率は高くなるし、何よりこれからの対策が立てやすくなるからだ。
何もしてこなかったならよし。
逆に人目の付くところでも何らかのアクションを見せるのならば、人混みはゲインがどのくらい強硬な手段を取ってくるかを知るための試金石になる。
でもこれには一つ難点がある。
もしゲインが「まわりなんて知ったことか、フィールさえ手に入れられればいい」と思っていた場合、尋常じゃない被害が出てしまう。それが狙いなんだから当たり前の話ではあるんだけど。
だから俺は土手へ行くことを選んだ。でも心の片隅に、まったく関係のない人の命を試金石にするという考えがあったのも事実だ。
我ながら、最低だと思う。美月にこんなこと考えてたなんて知られなくてよかった、そう思うことも最低で、でも安堵している自分もいた。
「カルディア、ありがと」
「言ったでしょう。少しずつでもいい関係をと」
小声で話し合う。胡散臭いのは事実、信用も出来ない。けれど鉄平さんもカルディアも、悪い奴かどうかは分からないけど、決して嫌な奴ではないのだ。
「そっか……ところでさ、ちょっといいか?」
よし、今ならちょっと時間が取れる。だから俺は先程から言いたかったことをカルディアに伝えておくことにした。
「はい。なんでしょうか」
「いや、あのさあ。カルディア、なんで戦ってくんないの?」
そうこの娘、勿論戦えるとか言っておいて今まで俺の様子を観察するだけで、一切戦いに参加してこなかった。最初は伏兵を警戒して美月の傍に待機してくれてるのかなーとも思ってたけど、どうもそんな感じじゃないし。
「ふう、仕方ありませんね。では、増援には私も当たりましょう」
あからさまな溜息を吐いてカルディアが答える。え、なんで?
「え、なにその言われたから一応やるかみたいなやる気のない返し。違うくない? 俺達結構命懸けな状況じゃないの?」
「勿論そうですが、私は長期戦に向いていないので参戦するタイミングを計っていたのです」
ああ、別にサボってたわけじゃないのね。それでも納得はいかないんだけど。
「ですが敵が隠し玉を使うならばそろそろ。私も、戦わなければならないでしょう」
そうしてカルディアは虚空を睨み付ける。違う、また空気が歪んだんだ。つまり増援が来る。
「お、オォォォォォ」
そうして現れたのは新たな一匹のネクス。
それは先程鉄平さんが相手にしていた昆虫と人間のモザイクのような奴だ。サイズは二回りくらい小さいし、外骨格も頑丈そうには見えない。鉄平さんの相手がメジャーリーガーならこっちは高校球児くらいの差が在った。ま、あんまり強いのに出てこられても困るからいいんだけど。
「トランミュート……まだ、変わりきってはいないようですね」
変わりきる、という表現を使うのなら、おそらくあれはネクスの上位種なのだろう。
成長か、他の要素か。ともかく、ネクスからトランミュートに変化する。ということは時間が経てばあれは増えていくということになるのだが。
「カナタ」
「あ、ああ。ごめん」
敵を目の前にして余計なことを考えても仕方ない。
頭を使うのは後、今はしっかり体を使おう。
「よし、頼むぜカルディア」
「ええ。……では、お相手いたしましょう」
そう言ってカルディアは自分の服に手をかけ、なんと、物凄い勢いで取り払った。
生ちっぱい。神速を持って俺はケータイを取り出し、カメラモードを起動。距離を取り、照準をカルディアの雪原に合わせる。
しかし予想したものはそこになかった。
「お前……その恰好」
彼女は服を脱ぎ捨てた訳ではなかった。
いや、脱いではいるのだがちゃんと下に服を、否、鎧をまとっていた。
ブラジャーに似たトップスと鼠径部を露わにする角度の鋭いハイレグボトムの組み合わせ。
セパレートタイプの女性用水着に似たその鎧を俺は知っている。
実際に身に着けた人物を見るのは初めてだが、知識としては確かに知っていた。
「ビキニ…アーマー……!?」
俺はあまりの驚愕に声を震わせた。
だって考えて欲しい。
ビキニアーマーがはやったのは八十年代なのだ。もうだいぶ流行から外れてしまったそれを纏う女の子。
しかも若干ドヤ顔。混乱するなというのが無理な話だ。それはそれとしてカルディアの腋は綺麗なので一応写メっといた。
「これが私の戦装束です」
「いや、ドヤ顔のとこ悪いんだけどさ。ビキニアーマーって目の保養にはいいけど、どこも守ってないよな。そんな装備で大丈夫なのか?」
俺の真っ当な疑問に、カルディアは呆れたように溜息を吐いた。
「カナタくらい頭の回転が早ければ気付きそうなものですが。そもそもエデュロジンには魔法や魔剣があるのです。ならば防具だって想像がつくでしょう」
言われてはっとなる。
そもそも俺達の世界とエデュロジンじゃ全然違うんだ。
「あ、そっか。もしかしてその防具にも魔法が掛かってて、露出が多くてもすごい防御力があったりするのか?」
「いいえ? どうせ魔法や魔剣を喰らえばどんな鎧を着ていたって一撃で死にます。それなら鎧なんてファッションです。防御力度外視で構わないのです」
「ぶっちゃけたなオイ」
防具の概念全否定かよ。
いやでも、案外真理……なのか? いや違うな、なんか違う。
「私の場合は機能性重視ですね。どんな鎧でも一撃で死ぬなら極限まで軽くするべきです。最低限大事なところを隠せればいいのです。なんなら前張りとニプレスでも問題はありません」
「いや、問題あるからね? それただの変態だからね?」
露出はあんまりにも過度だとエロさよりも下品さが来る。ビキニアーマーはエロくていい感じ、でも前張りニプレスで町中を歩く女の子は許容できません。俺の基本はアブノーマルよりオーラルです。
ただし普通の格好してるのに下着だけエロ下着とかはいいよね。元気に遊び回るスパッツ吐いた女子小学生、ただし下着はメッシュ。最高に興奮する。
「いやでも、その格好で接近戦て」
「問題ないでしょう。回復魔法だって存在しています。死ななければ傷は治せますから、多少肌が傷付こうが腕がもげようが足が千切れようが腹を裂かれようが、最悪心臓と頭さえ無事で即死さえしなければなんの仔細もありません。だからこの鎧で十分です」
つーか俺のツッコミなんざ聞いちゃいねー。
なんなのこの娘。外見お姫様なのに発想がバーバリアンなんですけど。
カルディアは胡散臭いだけで考え方はまともだと思ったのにけっこーイカレてるのだと知ってしまった。正直あんまり知りたくなかった。
「そしてこれが私専用に造られた魔装具」
左腕を突き出すと、腕に装着された金の小手、その中心にある宝玉が光を放つ。
次の瞬間には、身の丈ほどもある大剣がカルディアの手の中にあった。
「高周波振動剣『ヴァイヴ・レイター』……固有の振動を持って物質や魔力の結合を破壊し、如何なるものをも断ち切る。女である私にも使え、かつ攻撃力という観点から見れば、あらゆる魔装具の中でも上級に位置する剣です」
成程、ビキニアーマーを着て大剣を振り回して戦う。つまり完全に脳筋ファイターなバトルスタイルなんですね。
「ま、ツッコミ所は色々あるけど、それは全部後回しにするか」
「ええ、まずはネクスをぶち殺してからにしましょう」
うん、もう驚かねーよ。だって中身頭のまわるバーバリアンだって分かったもん。
「魔法は使えるんだろ?」
「多少、ですが」
「じゃあ、援護は任せるぞ」
どう見てもカルディアは一撃狙いのパワーファイター。なら先鋒は小回りが利いて手数の多い俺の方が向いている。
俺は一気に走り出した。強化された体だ、距離は瞬く間につまり、まずは小手調べナイフで一閃。
「イギィィィィ!?」
しかしひらりと躱される。速い、ていうかキモイ。虫のような外見は伊達じゃない。尋常じゃない反応速度は蝿や蚊などの鬱陶しい羽虫を思わせた。
「って、うお!?」
後ろに下がったかと思えばすぐさま俺に向かって爪を振るう。速くても何とか反応は出来る。だけどナイフ程度の長さしかないフィールちゃんじゃ受けに回るのは難しく、俺は大きな動きで攻撃を躱さないといけない。確かにこいつは鉄平さんが相手にした奴よりは弱いが、それでも結構な難敵だ。
「しゃぁ!」
小刻みに二閃。避けて、避けられる。こっちの動きを見切られているのか全く当たらない。
「クシャぁ!」
不気味な掛け声とともに口が開いて、そこから液体が飛び出てくる。直観的にヤバいと感じ身を翻す。なんとか躱せた。液体が触れた地面からジュウジュウと音が鳴っている。酸性の液体。こいつにもトランミュートと似たような機能があるらしい。
一瞬怯んだ俺にネクスは飛び掛かる。近寄るな気持ち悪い。それこそは虫を追い払うように大きくナイフを振るう。当然避けられるけど問題ない。距離を空けたいが為の一撃だ。そうして離れた所に、
「ふっ」
短い呼気。身の丈ほどの大剣を振り翳し、カルディアが突進してくる。その速度は予想外に早い。だけど、それほどの速度だというのに、彼女のおっぱいは全くと言っていいほど揺れていなかった。あまりにも無惨。しかし大であろうと小であろうと清濁併せて飲み干す俺にとってはご褒美だった。
ずうん、と地面に沈み込む斬撃。確かに威力は大きいのだろう。だが隙が大きすぎる。反撃に転じたネクスが迫り来る。
「っ!? カルディア」
俺は咄嗟に距離を詰め、速度を殺さないまま突きを放った。それも見事に躱され、大きく距離を空けられる。ちょこまかと本気でウザったい。だが、取り敢えずカルディアも無傷ですんだ。
「ありがとうございます」
「いや、いいけどさ。でも、本気で力任せなんだな。エデュロジンの女の人は魔法が使えるんだろ? ならファイアーボール的なのとかは使えないのか?」
「はい、使えません」
思いっ切り即答だった。
「……え?」
「だから、使えません」
「いやいや、さっき魔法を使えるって言ったじゃん」
「ええ。ですが魔法は技術ではなく特質ですから。使える魔法というのは限られているのです」
ああ、そういうことか。つまり炎を使えたからと言って氷が使える訳じゃない。その逆も然り。勉強すれば全部使えるようになるとか、そんなに便利な物じゃないってこと。
「じゃあカルディアはどんな魔法が使えるんだ?」
「72秒間、身体能力を強化できます」
ない胸を張ってカルディアはそう言った。
「……………えーと、今なんて?」
「ですから、72秒間、身体能力を強化できます」
「あの、えと……マジで? それだけしか使えないなんてことは」
「それしか使えませんね。嘘は得意ですし騙しもしますがこれに関しては掛け値のない真実です。私は生まれつき魔力の保有量が少ないので、魔力を火や風に変換し放つタイプの魔法は使えません。そもそも放出するほどありませんから」
ああ、そういや魔力の過多っておっぱいの大きさで決まるんだっけ。だったらカルディアなんてほとんど零に近いよな。
俺は好きだけどね、ちっぱい。
「内に働きかける魔力運用しか出来ないので、筋力や動体視力の向上、それぐらいですね」
しかも72秒だけ。こいつ思った以上に残念だった。
まあでも。
「使い方次第だよな?」
俺の物言いに満足がいったのか、カルディアは悪そうな笑みを浮かべる。
「流石です。貴方のそういう所好きですよ」
「それはどーも。でもフィールちゃんのママは美月だからな」
「……そこで私の名前を出さないでほしい」
美月の訴えを軽く無視して再度臨戦態勢を取る。
72秒の身体強化と凄い威力の剣。考えてみれば結構いい組み合わせだ。だから俺はにやりと笑った。
「俺が追い込む」
「私が止め」
その役割分担が把握できていれば十分。俺は一気に駈け出した。
さて、先程相手にした犬型のネクスを見て思ったことだが、こいつらは外見に相応しい能力を持っている。犬型は集団での狩りを思わせる動きだったし、この虫型は尋常じゃない反射を見せた。
ここで仮説いち。
こいつらは犬“型”、“虫”型である以上、その特性自体が似通っているのではないだろうか。
それを確認する為俺は敢えて無造作に間合いを侵し、必要以上に大振りをしてみせる。
「ギィ!?」
やはり避けられた。でも“ちゃんと見えた”。虫型のネクスはこちらの攻撃、そのかなり早い段階で回避行動に移っている。まさか読んだという訳でもないだろう。
だとすれば、俺の考えはあっているかもしれない。
いきなりだが、一部の昆虫の尾部には『尾葉』と呼ばれる一対の突起がある。
これには数ミクロンの感覚毛が数百本生えている。この感覚毛とはその名の通り感覚器であり、空気の振動を感知して外敵の接近を知ることが出来るのだ。
手の速さよりも空気中を振動が伝わる速さのほうが遥かに速い。だから掴もうと手を動かすと、音としての信号はあっという間に伝わってしまい、虫は逃げてしまう。ゴキブリなんかがすごい速さで逃げていくのは、こういうからくりになっているわけだ。
そしてもう一つ。虫には、というより生物には走性というものがある。
方向性のある外部刺激に対して生物が反応する生得的な行動で、個体の位置が一定の屈性と異なり、生物が運動性を示し刺激による移動が明らかな場合を走性と言う。
まあ何でこんな話をしたかというと。
「ギィ!?」
このネクスに虫と同じ特性があるのなら、その反射の速さと刺激への反応を利用して、簡単に追い込むことが出来るという訳だ。
小さく小さくフィールちゃんを振るい、少しずつ逃げる場所を誘導する。反応が早く、反射的に動くからその移動先を予測するのは容易い。踏み込む、振るう、逃げる。何度もそれを繰り返し繰り返す、ちょうどいい位置に来た。
極めつけにナイフを右から左へ横薙ぎ。ネクスはそれから逃げるように左へ飛び、
「いい位置です」
自らカルディアへと飛び込んでいく。
そこからが彼女の出番だ。
72秒の身体強化。話に聞くだけならばあまりにも弱い魔法。しかし彼女は自信を持って答えた。つまり、カルディアはそれを戦力として昇華している筈だ
そしてその予想は間違いなかった。
「全身一斉強化」
細い体、けれど尋常ではない力が込められているのだと分かる。全身の筋力を極限まで強化し、既に大剣ヴァイヴ・レイターを振り上げられている。大剣を扱う為の全身強化、誘蛾灯に飛び込むがのように直進するネクス。
そして、
「ベガア!?」
切っ先は霞んでいた。フィールちゃんに強化された動体視力をもってしてもかすれて見える程の速度で振り下された斬撃。避けられる筈もなく、ネクスは正しく虫のように叩き潰された。
72秒なんて必要ない。僅か1秒の間にケリは付いていた。
「お見事」
俺は賞賛の言葉を送りながら前屈し、地面の土を握り込む。その姿を見てカルディアは微笑んだ。
「これくらいは当然でしょう」
そう言って髪をかき上げるカルディアは悔しいくらい絵になっていた。
◆
炎を纏った蛇腹剣がトランミュートを貫く。唸り声を上げながら、膝から折れるように崩れ落ちた。
炎は消えない。斬り伏せた異形は業火に包まれ、死体すら残さずただの消し炭になり、立ち昇る炎はそれさえ燃やし尽くし、後には黒いカスさえ残らなかった。
トランミュートを、かつて己を打ち倒した化け物をこともなげに葬り、しかし鉄平の表情は晴れない。
寧ろ後悔を滲ませ、こうべを垂れるように俯いてしまっている。
「レイア、ロジェ、エピフェニア様、ギード、ミイちゃん……みお」
脳裏に浮かぶのは、もうどうにもならない過去のこと。既に失われた暖かな日々。
取り戻せないと知りながらも、心の片隅で思う。
もしも、遠い日に。
世界復興機構ゲインがロアユ=メイリ女王国に攻め入ったあの時、今と同じくらい強かったなら、もっと多くのものを守れた筈なのに。
「ちっ、いけねえな。歳を食うと未練がましくなって」
浮かんだ思考を無理矢理に斬り捨てる。
そして鉄平は、戦いを一言も発さず眺めていたかつての仲間、リヴィエールに視線を飛ばす。
「よう、まだ続けるか」
しかし返答はなかった。
挑発めいた言葉をぶつけても反応はない。鉄平はその様子を訝しんだ。
ロジェの死因はまちがいなく鉄平にある。あれほどまでロジェを慕っていた彼女が自分を憎むのは当然で。
「おい、リヴィ?」
なのにここまで反応が無いのはおかしくはないだろうか。
其処まで考えて、気付く。
リヴィエールは四霊剣が一つ。フレイムと同じように、使い手がいない状態でもある程度の魔力行使が可能。
属性は水、そして彼女が得意とする魔法の一つは。
「水人形に幻影を重ねた『写し身』……!」
ぱしゃん、と水音が響いて、目の前にいたリヴィエールが液体へと変化し、そのまま地に落ちる。彼女の姿は既になく、そこには水たまりがあるばかり。
「ちっ、あいつ」
このタイミングで姿を消した。だとすれば、行き先なんぞ決まっている。
鉄平は脳裏を過った想像に、ぐっと強く奥歯を噛み締めた。
◆
「これくらいは当然でしょう」
優雅に髪をかき上げるカルディア。ビキニアーマーだ、その仕種によって自然と脇が晒される。上気した肌、僅かに汗ばんだ腋。俺の股間の魔剣は三割ほど硬質化した。
おそらく、その隙を狙っていたのだろう
「カナタっ!?」
ネクスを撃退して、気が緩んで、いい感じに血液が下半身に向かっていた。
そのタイミングで目の端に映った美しい少女。
リヴィエール。清流の魔剣と呼ばれた、腋の女神だ。
彼女の手には水で出来た短剣が握られている。ネクスは囮。真の狙いは勝利したその後、俺が隙を見せる瞬間を彼女は待っていたのだ。
俺を責めることはきっと誰にもできない。呼吸や排泄と同じく、硬質化は生命に必要な前提条件。だからどんな状況であろうと魔剣の硬質化は防げない。その隙をついた敵をこそ最悪と呼ぶべきだろう。
「予想通り。やっぱり隠れ蓑にしたな」
まったく最悪だ。
待ち構えていることに気付かず、自分から突っ込んでくるんだから。
そうだ、俺達は最初からこのタイミングでの奇襲を予想していた。アイツらの本命は間違いなく俺、というかフィールちゃん。だとすれば確実にくると思っていた、
その時点で彼女の奇襲は既に奇襲じゃない。
俺は握り込んだ土をリヴィエールちゃんの顔に目掛けて投げ付ける。本当は粘性の高い液体の方が目くらましにはよかったが、流石にそれを用意する時間はなかった。
だけど土でも十分。視界を遮られた腋女神。フレイムの友達みたいだから殺しはしない、でも悪いけど女の子だからって手加減はしない。俺は拳を握り込んで、上から下へ振り下すように殴り付ける。
我ながら完璧なタイミング。俺の拳は見事にリヴィエールちゃんの頬に叩き込まれ、
ぱちゃん、と水音が響いた。
「え?」
目の前の少女は液体になり、重力に逆らえず地面へと落ちる。後には水たまりしか残らなかった。
何が起こったのか一瞬分からなかった。けど気付く。原理は分からないけれど、これは忍者漫画とかで良く出る「変わり身の術」とか、そういう類の技だ。なら次の手は。
「くそっ!」
俺は大慌てで構えを取り、死角からの攻撃に備える。
しかしいつまで待っても追撃はやってこない。
「カナタ」
同じく追撃を警戒していたカルディアが近寄ってくる。周囲に意識を向けてみるが、人はいない。襲ってくる様子もなかった。
「なあ、これって」
「水人形に重ねた幻影。リヴィの得意魔法の一つです。もっともあれは変わり身にするだけで、攻撃力はありませんが」
その言葉に俺は相手の狙いを悟る。悟ってしまう。
「鉄平さんをトランミュートで足止めして、俺達に襲撃を掛ける。それで勝った後、油断している所を奇襲。……したように見せかけただけ。トランミュートを二体とも鉄平さんに当てたのは、そもそも俺達をどうにかしようと考えていなかったから。こんな手を打ったてことは、最初っから鉄平さんの傍を離れることまで予測してたってことだよな」
思わず舌打ちしてしまう。
最後のは奇襲であって奇襲じゃない。殺すつもりでもフィールちゃんを奪うつもりもなかった。アレは単に俺が反応できるかを見たかっただけ。言い換えれば、俺がどの程度できるかを計りたかった。
「つまり相手を試したつもりが、試されていたのはこっちだった、てことか……」
ネクスは撃退した。でも俺の内心は敗北感に満ち満ちていた。
清流の魔剣リヴィエール。ただの腋が綺麗な女の子じゃないらしい。
「……よく分からないけど、もう終わりで言いの?」
状況が把握できていない美月がこてんと首を傾げる。
ああ、しまった。そういやこいつがいたこと忘れてた。
「んー、まあ、多分。取り敢えず今日の所はって感じだけど」
「そう。ならいい」
ふう、と美月が安堵の息を吐いた。
まあ、深く考えても仕方ない。今日は撃退できただけでも良しとしておこう。
こうしてせっかくの日曜日は、騒がしいままに過ぎていった。