22話
部屋を出てエレベーターの前でしばらく佇んだ。眞幌の部屋に行きたい……せめて声だけでもと思いつつ。だが、どうしても上の階のボタンに指が届かない。そうしているうちに何人かのスタッフがエレベーターホールにやってきて、佇む瑛に怪訝な顔を向けてはそそくさとエレベーターに乗り、去っていく。
この階は住居スペースの他に、仕事用のスペースも半分占めている。桜井は眞幌を完全に隔離できる、五階の部屋に連れて行きながら、瑛には住まいは提供したものの、スタッフが頻繁に出入りする、三階のフロアーに放り込んだ。
だいたいが、この三階に寝泊まりするのはマネージャー達が多い。タレントは普通、簡単には出入りできない四階以上のフロアーに泊まることが多い。四階以上のフロアーは、エレベーターを降りるとホールの出入り口にドアがあり、セキュリティーがかかっていて、暗証番号を知らないと入れないし、ガードマンも常駐している。
瑛が居る、この三階とは基本的に作りが違うのだ。つまり桜井は、瑛を甘やかすつもりはないらしい。さっさと騒ぎが終わったら出て行けと言うことだろう。スタッフ達はもちろん裏の詳細は知らないものの、業界の噂は知っているから中途半端な視線を向けてくる。
もちろん自分のところのタレントを悪く思うスタッフは居ないが、瑛の場合は今までが今までで、行状は有名だ。だが反面、それくらいで落ち込む瑛を訝しく思っているスタッフもいることだろう。さんざん注目を浴びて、瑛はけっきょく地下へ降りた。上へ行く気力はすでになく、地下のスタジオで音にでも浸れば気が紛れるかと思ったのだ。だが、あいにく空いているスタジオがなく、みんな使用中だった。
「なんだ」
気落ちして、それでもまたすぐに部屋へ戻る気がしなくて、広く取られた休憩スペースで誰かのために容れられたコーヒーサーバーからコーヒーを注いでソファーに座った。販売機も置いてあるこのスペースで、きちんとコーヒーやら紅茶やらがセットされていると言うことは、どうやら神経を使う大物が今日は来ているらしい。
A.Eカンパニーは規模も大きく、在籍のスタッフ、タレント共に瑛が顔を知らない人間まで居る。俳優や歌手だけでなく色々なタレントが居るために、まだ仕事場で会ったこともない人間もいるのだ。
もちろんこの世界に入ってからまだひと桁しか年数のたっていない瑛に比べたら、先輩の数も知れなかった。気まずくなるような相手と会ったら嫌だなと思いながら、瑛はそこから動けなかった。まだ外へ出る気にはならない。知り合いにも会いたくなかったし、ファンになんてもってのほかだ。誰にも会いたくないならこのビルから出ないに限る。
「やっぱりおとなしく部屋の中に戻るか」
瑛がそう呟いたとき、
「お悔やみでも言わなくちゃいけないような顔ね」
言葉の割には全然感情がこもっていない、冷たい声で話しかけてきたのは怜だった。
(まずっ!)
いま、怜の毒舌に付き合っている神経は瑛にはなさそうだった。だが、退散しようと思ったときには、怜が瑛の前のソファーに腰掛けてしまった。逃げるに逃げられない。しかも座った怜にすかさず、彼女のマネージャーの川崎がコーヒーを手渡す。
(彼女のだったのか)
事務所一の女王さまのお出ましなら、準備万端整っていたのも頷ける。「おはようございます」と、小さな声で挨拶した後は仕方なく様子をうかがった。川崎はそのまま何も言わずに去っていった。
彼女も何も言わずにコーヒーを飲んでいる。なんだか立つに立てない。瑛は退散することも出来ずに居心地が悪かった。そのとき唐突に怜が言った。
「この間、彼に会ったわ」
そういえば、珍しく興奮した眞幌が怜の話をしていて、瑛がヤキモチを焼いた晩があった。あれは確か記者会見の前日じゃなかっただろうか?もうずいぶん昔のような気がして、瑛は懐かしく思った。
あの夜に戻りたい。時間が戻せるのなら。いや、戻せるのなら、眞幌と出会う前に?
それとも有紗と出会う前に?どこまで戻せばいいんだろう。どこからやり直せば、この事態は免れるんだろう。無駄だと知りつつ、瑛はしばらくその考えに捕らわれた。
「時間は戻せないわよ」
物思いを破るように怜の声が響いて、瑛は飛び上がるほど驚いた。
「え? 俺、いま何か言いました?」
知らぬ間に声に出したのかと瑛が驚くと、
「言わないけど、そんな顔してたわよ」
上目遣いに怜に見つめられ、瑛は焦った。
(相変わらず鋭い人だなぁ)
瑛は半分ふて腐れて、
「どうせ社長から聞いたんでしょ」
言葉遣いもぞんざいになる。元々仕事以外では目上の人間にも気は遣わない主義だった。怜自身も仕事以外では後輩に気を遣わせないことも知っている。どこか考え方は似ている二人だった。
「あんた達のことをあれこれ聞くほど暇じゃないわ」
「聞いてないんですか」
「聞いたわ」
(日本語になってねーよ。 しかも聞いたんじゃねーか)
瑛は一人毒付いた。どうにもつかみ所のない相手である。調子が狂うとも言う。
「私から聞いた訳じゃないわよ。社長が持てあまして私に愚痴っただけよ」
(社長、愚痴るなよ……どこまで喋ったんだ)
「どうせ、私に話したって壁に向かって話してるのと一緒だから。普通ならあの人が他のタレントのプライバシーなんか口にするわけないでしょ。よほど困ってるんじゃないの」
確かに怜のようにとことん他人に興味のない人間に話しても、返事さえ返ってこないに違いない。
「それで、説教でもしに来たとか」
怜は他人に興味を持たない。なのに毎回、瑛に話しかけてくる。今回は、嫌みのひとつも言いに来たのか。だが怜はそのことには触れずに、
「彼の曲、なかなかいいわね」
「え?」
瑛は一瞬なんのことかわからなかった。それであの晩、眞幌が言っていたことを思い出した。
「あ、ショウさんが弾いてくれたって」
ショウとは怜のスタッフのギタリストだ。無名のギタリストではない、この業界では有名人だ。
「うん、ショウちゃんも気に入ってたし、正直私も歌わせて欲しいと思ったくらい」
「そう……ですか」
こんな時でなかったら、瑛はすかさず自慢しまくったはずだ。だがそれも今は複雑な思いでしかない。
「今度、一曲くれないかな……詞は私が書いてもいいし、曲だけでもいいんだけど」
独り言のように怜が言う。
「それは、あいつに聞いてみてください。もっとも、今は駄目だと思うけど」
瑛の声もだんだん小さくなる。すると、唐突に怜が言った。
「どうしたいの?」
「え?」
「好きになるのやめるの?」
「いや、それは……」
そこで瑛ははっとする。
「前にも同じ会話したわよ。何度も同じこと言わせるのは頭の悪い証拠よ」
彼女特有の毒舌で一刀両断された。確かに以前、まったく同じ会話を彼女とした。眞幌と気持ちが通じなくて、自棄になっていたときに言われた言葉だ。原因は違うが、状況は似ている。
「『たとえば、止めろと言われても止められないんでしょ。 なら考えるのも馬鹿らしいわよ』とも言ったはずよ」
「確かに」
まったくもってその通りだが、今回はちょっと違う気がする。
「アキラ、あなたは何を迷っているの?」
「え?」
「自分の気持ちなの?相手の気持ちなの?」
「…………」
「疑ってるのは自分の気持ち?」
「自分の気持ちに嘘なんてない!」
瑛が強気に言い返すと、
「ならいいじゃないの」
「でも」
「じゃ、あなたは彼に拒絶されたら諦めるの?さよならって言えるの?」
「そんな簡単じゃない」
「そうでしょ」
そこで怜はちょっと表情を緩めた。
「そう言うことなのよ」
「どういう事……ですか」
瑛には良くわからなかった。
「あなた、今まで人から好意を寄せられるばっかりで、自分が苦しんだことないから気づかないだけ。人を好きになるって苦しいことの方が多いと思うけど。自分が好きになった人と両思いになれる方がずっと難しいのよ。人の気持ちなんて自分の気持ちでもコントロールできないのに、同じ時に相手も同じ気持ちになるなんて、奇跡だと思わないの」
「あ……」
「自分が惚れたから、相手も……なんて虫が良すぎる話なのよ。元々が」
「…………」
「そこから先は自分次第。そんなこと虚しいと止めてしまうか、そんなこと関係ないとエゴイストになるか」
「エゴイスト?」
「よく言うでしょ? 好きになるのは勝手。もちろん相手に迷惑かけちゃいけないけど、好きな気持ちは誰にも止められないし、誰にも止める権利はないわ」
「自分次第」
「相手が背を向けたら、あなたは諦められるの」
「無理」
「たとえ背中を向けられ続けても、一生許してもらえなくても?」
「それでも眞幌が好きだ」
「それならいいじゃない。いつか許してもらえるかも知れない、無理かも知れない。でも瑛にそれを止めろと言う権利は、たとえ彼にもないわ」
「愛してもいい……のか」
「いいのよ」
怜がにっこり微笑んだ。滅多に見せないその笑顔に瑛は呑まれていた。
「苦しくても愛しているなら、愛していく勇気があるなら生きていけるわ」




