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太陽が笑えば、それでいい  作者: 水前寺鯉太郎


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他人の悲しみを、知らない人

 おやおや、皆さん。

 人間第一号さん、今日はなんだか、とても「優しそうな」影を見つけましたね。

 なだらかな丘の陽だまりで、温かな陽光を浴びながら編み物をしている――ように見える、穏やかな顔立ちの女性。

 三十代の終わりか、四十代の初め頃でしょうか。栗色の長い髪を後ろで慎ましくまとめ、目元には細く深い、笑い皺が刻まれていました。

 それは、本当によく笑った人にしか残らない、記憶の澱のような皺。

 

 彼女は**「第七号」**。かつて地上という名の戦場で、誰かの「お母さん」だった人です。

 彼女の膝の上では、見えない毛糸玉が転がり、見えない編み針が、規則正しく、かちゃ、かちゃ、と乾いた音を立てていました。それは金属の擦れ合う音というより、彼女の細い指の骨が、軋みながら虚空を叩く音のよう。

 何を編んでいるのか、もう彼女自身にもわからない。ただ、その手だけが機械的に駆動を続けている。

 

「あら、こんにちは。今日も世界がちゃんと始まって、本当によかったわね」

 第七号の女性は、空っぽの手を優雅に動かしながら、聖母のような慈愛の笑みを向けました。

 亜紀子は、その笑みの角度に、どうしようもない既視感を覚えて胸を締め付けられます。ポケットの「お・か・あ・さ・ん」の粒が、彼女の皮膚を焦がすほどの熱を持って、ジリッと激しく鳴き声を上げました。

 その時、丘の上から、小さな影が転がり落ちてきました。

 それは、パステルピンクの肌がまだつま先の辺りにしか広がっていない、この丘に迷い込んだばかりの、生身の女の子。

 ほんの数日前――あるいは数時間前の、自分自身のトレース。

 女の子は鋭い石に膝を打ち付け、草原に伏せて、激しく泣きじゃくりました。

 

「――う、ああああああんっ!」

 

 それは、肺腑を震わせる「本物の悲鳴」でした。

 忘却の底に沈んだ住人たちは、もう泣き方すら忘れている。声を出して痛むこと自体が、この楽園ではとっくに駆逐された原始の風習。

 久しぶりに丘を切り裂いた本当の嗚咽を聞いて、亜紀子の胸の奥が、ぴしりと鞭打たれたように激痛を放ちました。

「……っ、大丈夫!? 今、行くから!」

 亜紀子が反射的に駆け寄ろうとした、その瞬間。

 第七号の女性は一歩も動かず、苦痛に歪む子供を見つめ、うっとりと目を細めたのです。

「まあ、なんて素敵なんでしょう。あの子、大地の鼓動とあんなに強く響き合って。……本当によかったわね。とっても幸せそう」

 亜紀子は、自らの耳を疑いました。

 「みえる」瞳を持った彼女には、子供の膝から滲む、どろりとしたピンク色の血が、そして肉体が上げている悲鳴が、克明に視認できているというのに。

 そして彼女には、もう一つ見えていました。

 第七号の足元、草の根元に転がる、色の抜けた四つの毛糸玉。そこには、赤ん坊が小さな歯で噛み付いた、消えかけの「生痕」が残されている。

 

「……幸せ……? 違うよ、あの子は泣いてるんだよ! 痛くて、寂しくて、泣いてるんだよ!」

 

 彼女が叫んだ瞬間。ポケットの中で、十一個目の粒が、鋭い棘を突き立てて膨れ上がりました。

 (……か・わ・い・そ・う……)

 

「――うぐっ!!」

 

 心臓を素手で握り潰されたような動悸。

 「かわいそう」。その禁忌の言葉が宿った瞬間、目の前の子供の絶望と、そして第七号の女性の脳裏に眠る「劇薬の記憶」が、同時に彼女の神経へと逆流してきました。

 

 白い、長い病院の廊下。

 何度も何度も、濡れタオルを絞り直す、震える手。

 「残念ですが」という、医師の冷徹な宣告。

 家に帰ったあと、二度と持ち主の現れない小さなベッドの脇で、編みかけのまま放置された、小さな、小さな、毛糸の靴下。

 間に合わなかった、我が子のための衣服。

 

 彼女は、子供を亡くしていた。

 その巨大すぎる悲劇の前に、彼女の心の容量はすべて焼き切れ、底をついていたのです。

 他者の泣き声に心が動かないのではない。動かせるだけの心が、もう一滴も残っていない。だから彼女は、すべての傷を「素敵」と言い換えることで、自らの崩壊を防いでいた。

 言い換えられた檻の中で、彼女は独り、完成しなかった靴下を編み続けている。

 亜紀子が子供を抱きしめようとした、その時。

 空の赤ちゃん太陽が、初めて、不快そうにその顔を「歪めました」。

 キィィィィン――。

 大気そのものが悲鳴を上げるような、鼓膜を焼き切る高周波のノイズが世界を満たす。システムの防衛本能が、バグを排除しようと牙を剥いたのです。

 

「いけないわ、第一号さん。そんな『汚い言葉』を心に飼っては」

 第七号の女性が、壊れた人形のような微笑のまま言いました。

「かわいそうなんて、あの子に失礼よ。ここでは誰もが幸福でなければならないの。……そうでしょ?」

 

 そうでしょ?

 その、他者に同意を強制し、自らの平穏を守ろうとする、卑怯で、哀しい語尾の上がり方。

 雨の軽トラックの助手席。ハンドルを握り締め、「もう大丈夫よね? そうでしょ?」と娘に縋り付いてきた、あの母の引きつった横顔が、亜紀子の脳裏にフラッシュバックしました。

 あの時、私は頷いてしまった。頷くたびに、本当の言葉を、喉の奥に押し込んできた。

 

 けれど、今の私は――。

 

「……ちがう」

 

 亜紀子は、世界のノイズを切り裂くように、強く首を振りました。

 

「ちがう! あの子は泣いてる! 痛いから、寂しいから泣いてるんだよ! それは……かわいそうなことなんだよ!」

 

 かわいそう。

 粒の放つ悲鳴を、自らの肉体の声として、彼女はハッキリと外の世界へ解き放った。

 ピシリ、と空間にひび割れが走るような衝撃。パステルカラーの草原が不快に身震いし、第七号の女性の瞳に、一瞬だけ、遠い地上の痛みの色がよぎりました。

 

「あらあら、怖いことを言うのね。……そんな子は、お母さんに叱られてしまうわ」

 第七号の女性は、そう言って微笑む。彼女の言う「お母さん」が、一体誰を指しているのか、もう誰にもわかりません。

 泣いていた影の女の子は、世界の拒絶反応に塗りつぶされるように、いつの間にか虚ろな笑顔を浮かべ、丘の向こうへと消えていきました。

 追いかけたい。抱きしめて、その痛みを分かち合いたい。

 けれど、亜紀子の足は「ぽよっ、ぽよっ」と滑稽に弾むばかりで、前に進まない。

 その絶対的な無力さが、彼女の胸に、かつてないほどの「悔しさ」という人間の熱を呼び覚ましました。

 亜紀子はしゃがみ込み、第七号の足元にあった、まだら模様の毛糸玉を拾い上げました。

 そして、それを彼女の膝の上へ、そっと戻したのです。

 かちゃ、かちゃ。

 第七号の手が、止まりました。

 長い、長い、世界のシステムさえも介入できない沈黙。女性の頬を、涙を流す機能を失ったはずの肌を、一筋の「湿り気」が伝い落ちていく。

「……あら、嫌ね。何でしょう、これ」

 女性は戸惑うようにそれを拭い、自らの指先を見つめました。その顔に浮かんだのは、盲信の慈愛ではなく、生きた人間だけが持つ「当惑」の表情。

 すぐにそれはいつもの笑みに上書きされましたが、その一瞬のバグを、亜紀子は確かに目撃したのです。

 

 亜紀子は言葉を交わさず、深く、長く、頭を下げました。

 

 私は、知っていますよ。

 人間第一号さん。あなたが手に入れたその粒は、この美しい家畜小屋を追放されるための、片道切符。

 けれど、重荷を背負える者だけが、本当の意味で誰かを抱きしめることができる。軽い記号には、誰も温めることはできないのですから。

 

 ……ねえ、人間第一号さん。

 私にも、語ることを放棄して、編みかけのまま放置している「白紙の続き」があります。

 誰かに、この痛みを「かわいそう」と言ってもらわなければ、私はもう……。

 

 ……いえ。失礼。これは、システムのエラーですね。忘れてください。

 

 ポケットの中で、十二番目の粒が生まれ、他の粒たちに抱きしめられるようにして、静かに脈打ち始めました。それは人を呼ぶ、明確な意志の響き。

 

 お腹の四角い影が、今度はハッキリと、その輪郭を薄くしました。

 他者の痛みを引き受けようとする重力が、彼女の肉体を、激しく人間の方へと引き戻している。

 

 振り返れば、第七号のドームの窓。

 そこに貼られた家族の絵。お母さんの顔だけが、白く、白く、塗りつぶされている。

 いつかその空白の顔に、彼女自身の「本当の涙」が描かれる日が来るかもしれない。

 

 さよなら、さよなら。

 「かわいそう」という名の、最も美しい人間の呪いを抱きしめて、弾まない足で、一歩ずつ丘を降っていく、あなたの後ろ姿に。

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