085
引退ライブまでの一週間はあっという間に過ぎた。
あの新聞記者はたった一度の邂逅で、世間を焚き付ける材料は揃ったと判断したらしい。出会った翌日、某アイドルグループのメンバーが未成年の少年に淫行を働いているとのネット記事が掲載された。わたしと包介くんが隣り合って座る写真も添えて。
顔にはモザイクがかかっていたが、体つきは隠せない。でかい女と小柄な少年の組み合わせは一部の好事家の興味を惹き、迷惑客を追い返した動画も合わさって、わたしがシリーキャットのメンバーであることはあっという間に特定された。
当然、わたしも包介くんも、記事を出されることに許可なんて出してない。内容だって全部あの記者の妄想で、訴えれば確実に勝てる。
でもわたしは、アイドルを引退する身の上だ。芸能事務所の後ろ盾はなく、記者を訴えるのだとすれば個人で戦うしかない。あの記者はそこまで見透かしていたのだろう。個人の訴えなど取るに足らないと踏んで、裁判で負けるよりも話題性を優先した。実際、訴訟を起こす気力も、弁護士に相談するお金もないわたしは、何一つ抗えないまま引退ライブ当日を迎えている。
「……メアリ、本当に行ける?」
四度目となるライブハウスの狭苦しい楽屋。座面のへたったパイプ椅子に座って項垂れていると、夏虫さんが不安そうな表情で覗き込んできた。深縹さんもわたしの傍に屈み、ずっと背中を摩ってくれている。
わたしと包介くんの記事が載ってすぐに、二人は連絡を寄越してくれた。自分たちのグループにスキャンダルを持ち込まれたにも関わらず、上手く誤魔化して引退を告知するからライブには来なくていいと気遣ってくれた。
夏虫さんと深縹さんはいい人だ。だからこそ、わたしの事情に巻き込んで、迷惑をかけるわけにはいかない。最低限のケジメをつけなければ、社会人どころか人としてやっていけなくなる。
そういう決意を持って今日、この場を訪れた。そのはずだったのに、薄い壁を挟んで聞こえるお客さんのざわめきが、わたしの呼吸を浅くさせる。
「もうすぐ出番。準備して」
部屋の外でスタッフとやりとりしていた桃花が扉を開けて、ぶっきらぼうに言い放つ。わたしを一瞥した眼差しに感情はない。この女の頭には常に自分しか存在しないのだろう。
だが、桃花の態度は正しい。必要なのは慰めではない。わたしは、わたし自身の手でケリをつけるためにここにいる。
「……だいじょうぶ。いこう」
深縹さんの手をそっと外して立ち上がる。一瞬視界が傾くが、頬を叩いて水平に戻す。頭の奥の痛みは奥歯を噛み締めて我慢する。
桃花の後に続いて楽屋を出る。狭くて短い廊下はステージの袖に直結している。もう数歩進めば、後戻りはできない。
ステージの袖で立ち止まった瞬間、お客さんもわたし達の気配を感じ取ったようだ。ざわめきは波が引くように失せていき、ライブハウスは静寂で満たされる。
「いくぞー!」
桃花が似合わない掛け声を上げ、ステージに飛び出した。同時に、一つしかないシリーキャットの代表曲が流れ始め、深縹さん、夏虫さんの順にステージに上がる。
次はわたしの番。短く呼吸して、眉間に力を入れる。アイドルがすべき顔ではないが、気を失わないためにはそうするしかない。太ももを拳で叩き、震えを痛みで上書きする。
今日だけだ。今日さえ乗り越えれば大丈夫。一曲分踊り切って、引退しますと言うだけ。たったそれだけのこと。
なのに、ステージに一歩踏み出したとき、わたしの勇気は一瞬で掻き消えた。
人の目。
目。目。目。
大量の視線が一斉に突き刺さる。それぞれの感情を感じ取る余裕はない。ただ見られているという事実に、わたしの精神は削れていく。
見ては駄目だ。アイドルの仕事を完全に忘れて、顔を下に向ける。油じみた粘つく汗が額を伝い、通り際に皮膚を粟立たせる。
曲が流れている。前は向けないが、ダンスだけでもやり切らないと。足元だけ見ながら、震える足で辛うじて右にステップする。
「あっ」
体重が乗り過ぎた。膝ががくんと折れ曲がり、深縹さんの横腹にぶつかる。
「いたっ」
深縹さんが横倒れになった。一拍置いて、ようやくわたしがぶつかったせいだと気づき、急いで助け起こそうとするが、足がもつれて深縹さんの傍に倒れ込む。
横面に視線を感じる。非難の目。ライブをめちゃくちゃにしたゴミクズに向ける目。汗の量が酷くなり、落ちる水滴がいやに遅く見える。
「ほら」
目の前に手が差し伸べられる。腕に沿って目線を上げ、呼吸が止まる。
桃花。わざわざ歌うのを止めてまで、わたしを助け起こそうとしている。
しかし、差し伸べられた手は優しさなどではない。仲間を気遣う表情を取り繕いながらも、目に映る感情は誤魔化せない。
弱者を嘲る加虐者の目。
死にたくなるような子供時代の光景がフラッシュバックする。物を捨てられ、背中を蹴られ、生きることを認められなかった日々が鮮明に描き出される。
この手を取ってはいけない。でも、周りの目は、わたしがこの手に救われることを求めている。身勝手なプライドでわたしを蔑め、更には自己顕示欲を満たすために利用しようとしている女の手によって、出来損ないのデカブツが助け起こされる光景を求めている。
「早く」
この手を取らなければ終わらない。頭も体も、両方が桃花を拒絶しているが、会場を包む空気感がわたしの腕を無理やり動かす。アイドルらしい作り物の笑みを貼り付けた桃花に向かって、冷え切った右手が引き寄せられていく。
「……えっ?」
わたしの手を掴んだのは桃花ではなかった。
爪は短く、肌は白い。きめ細やかで柔らかいが、薄い肉の下は骨張っていて、よく見れば小さな傷がいくつも刻まれている。可愛さと逞しさが入り混じった努力家の手。
わたしの大好きな男の子の手。
「あともうちょっとです」
包介くんはわたしの手を固く握りながら、不器用な作り笑いを浮かべた。
◇◆◇
完全に早まった。
曲の途中に登壇した挙句、演者に干渉してしまった。シリーキャットの方々はもちろん、観客も状況を処理できず、ぽかんと口を開けて呆然としている。
けれど、仕方がない。追い詰められた桑染さんを放置する選択肢はなかった。どうせ登壇する予定ではあったし、多少計画が前倒しになっただけだと前向きに考えることにしよう。
「あともうちょっとです」
今すぐにでも桑染さんを連れ出したいところだが、ライブの完遂は夏虫さんから協力を得るうえで提示された条件だ。心苦しいが、桑染さんには踊り切ってもらう必要がある。
桑染さんを引き起こし、彼女だけに聞こえる距離で発破をかける。
「かっこいいところ見せて」
無責任な言葉であるが、たったの一言で桑染さんの顔に生気が戻った。震えていた足はしっかり床を踏み、しょぼくれていた肩にも力が入っている。
桑染さんはあがり症なだけで、意思の強い人であることはよく知っている。もう心配はいらないだろう。舞台袖で手を招く榛摺さんも気が気でない様子なので、さっさと退場する。
「なんで出てっちゃうの!」
「いやあ」
「いやあじゃない!」
袖に捌けて早々、榛摺さんからひそひそ声で怒鳴られる。起きてしまったことを怒られてもなあ、などと他人事な感想を抱きながら観客席の方を覗くと、観客は未だに見知らぬ子供の乱入に呆然としていて、誰もステージに集中していなかった。
しかし、桑染さんの切れは完全に回復している。見せてもらった動画よりも、ずっと迫力のある動きだ。表情も活き活きしていて、頼りない照明なんかより煌めいて見える。
怯えを捨てた彼女に敵うものなんてない。不審な子供の存在は瞬く間に忘れられ、段々と桑染さんのダンスに釘付けになっていく。先ほどまでお怒りだった榛摺さんでさえ、僕の肩に手を置いたまま見惚れている。
重量を感じさせない軽やかなステップ。しなやかでありながら、一本軸の入った安定感のある動き。踊りに専念しているからか桑染さんの振り付けはステージ上の誰よりも激しいが、彼女は一切のぶれなくこなす。引き締まった真剣な表情はアイドルのパフォーマンスの範疇を超えていて、最早プロのダンサーのようだ。
「あ、ありがとうございました」
録音されたギターのよくあるフレーズが曲の終わりを告げる。締めのポーズをばっちり決めた桑染さんは、頬を上気させながら観客にお辞儀する。
彼女の魅力は充分に伝わったはず。だが、観客の反応は芳しくない。先ほどまで夢中になっていたにも関わらず、ざわざわと顔を見合わせる人がほとんどで、起こる拍手も疎らだ。やはり蔓延っていた噂話と、唐突に登場した僕の存在が水を差してしまったのだろう。
暗幕の内側で反省していると、夏虫さんがマイクを手に取るのが見える。落ち込んでばかりもいられない。次は僕が役割を果たす時間だ。
「はーい。今日も来てくれてありがとう。でもみんな、そんなことより気になってること、あるよね。大丈夫、ちゃんと説明するから」
夏虫さんが舞台袖にいる僕に向かって手招きをする。登壇の合図だ。肩を開いて背筋を伸ばし、気合いを入れてステージの中央まで進み出る。
「大丈夫? 自分で話せる?」
観客席を見据えていると、夏虫さんがこっそりと耳打ちしてくる。
なるほどいざステージに立ってみると、その重圧がよく分かる。
勘繰るような、嘲るような、単に面白がっているものまで、様々な視線が一身に突き刺さってくる。人見知りの桑染さんでなくても、耐えられる人は多くないはずだ。
もっとも、ここで臆するような半端な覚悟で来てはいない。夏虫さんからマイクを受け取り、むしろ大きく胸を張る。
「皆さんの中には、メアリさんの記事をご覧になった方がいらっしゃると思います。僕は、その説明のために来ました」
どよめきが起こるが、予想できていたことだ。滑舌を意識して、ゆっくりでもはっきりと腹の底から声を出す。
「まず、記事の内容は出鱈目です。僕とメアリさんは友人で、恋愛関係はありません。先日、恋昏崎新聞の唐茶という記者が尋ねて来たとき、そのように説明しましたし、そもそも取材に同意していませんが、勝手に記事にされました。これについては、然るべき対応を取っているところです」
純然な事実を述べたが観客の視線は変わらない。彼等にとっては自分が楽しめるかどうかがすべてで、真実はどうでもいいのだろう。
だったら、彼等が望む面白い話題というやつを提供してやる。
「口先だけだと疑う方もいると思います。なので、僕と彼女が話すようになったきっかけをお見せします」
厚い前髪の下に手を入れ、思い切り掻き上げる。
冬の乾いた空気と集団の湿った呼気に、薄くなった皮膚がひりつく。頼りなかったはずの照明は太陽みたいな明るさで右側を埋めるが、視線が気にならなくなるので丁度いい。強くなったどよめきに立ち向かうよう、両足を踏んじ張って目蓋を開き続ける。
「僕の顔には大きく醜い傷がある。これのせいで学校にも行けず、日中は人気のない図書館に篭っていました。メアリさんと出会ったのはその頃です」
逆境に耐えて踊り切った桑染さんに拍手すら贈らない連中に、僕等の思い出を打ち明ける義理はない。榛摺さんと相談して、聞こえの良いようにでっち上げた嘘話を淡々と語る。
「彼女は、傷のせいで人と話せなくなった僕をずっと気にかけてくれていました。でも、僕はいつまでもうじうじしてばかりで」
「それで、メアリに相談されたの。知り合いの男の子を元気づける方法はないかって」
事前の打ち合わせどおりだ。夏虫さんと目配せで合図を交わし、彼女が前に出るのに合わせて半歩下がる。
「それで、簡単に提案しちゃったの。人見知りのメアリがステージで活躍する姿を見たら、その子も勇気を貰えるんじゃないかって。でも、メアリが予想以上に有名になっちゃって、本当は一回だけの出演のはずが、私たちの都合で引き留めちゃった」
夏虫さんは目元を引き締めて、真っ直ぐに背筋を伸ばす。
「シリーキャットを応援してくれたファンのみんな。騙すようなことをしてごめんなさい」
直角のお辞儀。一拍遅れて、後ろに控えていた深縹さんと桑染さんも慌てて頭を下げる。桃花さんだけは恨めしそうな顔で歯噛みしていたが、彼女からの協力は期待できないことは夏虫さんから聞いていた。すぐに視線を切って、観客に向き直る。
ようやく雰囲気が変わった。夏虫さんの謝罪が功を奏し、会場は僕達の話を受け入れる空気感が漂っている。
だが、まだ足らない。一部からは何とか火種にありつこうとする、あの記者のような下卑た気配が感じられる。アイドルの表記を元アイドルに変えて、児童に迫った犯罪者だと性懲りも無く吹聴するかもしれない。
気は進まないが仕方ない。榛摺さんから授けられた切り札を使う時だ。
「メアリさんも、シリーキャットの皆さんも、僕を勇気づけるために行動してくれました。人見知りのメアリさんがアイドルになるきっかけも、悪質なデマが流れたことも、シリーキャットの皆さんが代わりに頭を下げなくちゃならなくなったことも全部、原因は僕にあります。だから僕も、彼女に勇気を示すべきだと思う」
こめかみを抑えて不安を押し込み、大きく息を吸って桑染さんを振り返る。
「メアリさん」
「ひゃ、ひゃい!」
桑染さんの傍に進み出て、彼女の右手をそっと取る。紳士らしく片膝をつこうかとも思ったが、身長差があり過ぎて不恰好になりそうだ。諦めて立ったまま、高いところにある彼女の瞳を見上げる。
「記事の内容は嘘だと言ったけど、全部じゃない。僕は、貴女が話しかけてくれたあの日からずっと、貴女に惹かれていた」
桑染さんだけに向けて。しかし、会場に響くように。
彼女との日々を思い出しながら、感情を込めてはっきりと言葉を紡ぐ。
「好きです。付き合ってください」
榛摺さんに授けられた切り札。それは、僕自身の口から桑染さんに告白することだった。
僕達の関係は先ほどの説明で納得させられた。けれど、恋愛感情については邪推する者が残っているかもしれない。そこで敢えて、子供から恋愛感情を向けられるお姉さんの構図を観衆の前で作ることで、余計な詮索に先手を打ち、尚且つ、恋人ができたので卒業という、脱退にも説得力を持たせる。
榛摺さんから熱弁されて、咄嗟に実行してはみたものの、正直、効果のほどは分からない。僕なんかでは桑染さんと釣り合いが取れてなさすぎて、誰も信じてくれない気がする。それに僕のやっていることは、つい先日批判した弁柄君と同じ行いだ。断れない状況で一方的に想いを伝えるのは卑怯者のすることだ。
世間を騙すために繕った、最低な告白。けれど、嘘に塗れた言葉の中にも、真実は含まれている。
僕は桑染さんが好きだ。これが恋愛感情なのかは判然としないが、彼女と離れたくないという気持ちは確かにある。そのためなら、道化になろうと構わない。自分が否定した行いだとしても、出来ることはすべてやってやる。
意図が伝わってくれ。
藍色の瞳を見つめながら、強く念じる。桑染さんが受け入れてくれなければ、また少し面倒なことになってしまう。照明がばちばちと光を飛ばしてきて視覚はほとんど機能していないが、それでも桑染さんの瞳を見つめ続ける。
「わ゛、わ゛だじで」
ぎゅっと手を握られる。しっとりと汗ばみ、赤ん坊みたいに温かい。けれど、包み込む大きさと頼もしい厚みがある。かわいいとかっこいいが混在する、桑染さんらしい手だ。
「わ゛だじで、い゛い゛の゛?」
ぼろぼろと涙を溢し、ずびずびと鼻を啜りながら、桑染さんはやっとの様子で声を絞り出す。想定以上の反応に一瞬遅れるが、動揺が伝われば観客に疑われる。彼女の瞳を見つめたまま、はっきりと頷きを返す。
「こ、こちら゛こぞ、よ゛ろ゛じぐおね゛がいじまず」
ぱちぱちと疎らな拍手が鳴る。それは次第に増えていき、会場中を埋め尽くすほどに響き渡った。




