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わたしの卒業ライブは一週間後に決まった。
卒業ライブといっても、パフォーマンス後のトークタイムにわたしが脱退理由を説明するだけなので、大々的な告知なんかはしない。注目だけはやたらと集めてしまったが、わたしの活動期間は一ヶ月程度だ。卒業を餌に集客を目論めるほどの人気はないし、ステージを離れれば世間はすぐに忘れてくれるだろう。
アイドルという悪夢からは醒めることに成功した。故にわたしは、もっと過酷な現実に向き直らなければならない。
仕事がない。
絶望的な状況は、何一つ解決していなかった。
ついさっきもコンビニのアルバイトに落ちてきたところだ。面接官役の店長の前で石のように固まり、話せないなら帰れと追い出された。アイドルなんて人前に立つ代表みたいな職業を経験したにも関わらず、わたしは何も成長していなかった。
「……はぁ」
ライブの報酬も雀の涙ほどだ。家賃だって払えない。重苦しい溜め息もすっかり板につき、口座の中身を想像するたびに精神が削られていく。
夕暮れの公園のベンチに座り、段々と減っていく子供をぼんやり眺める。大柄な金髪女が黄昏ている姿は奇異に映るのだろう、ちらちらと警戒する視線が突き刺さるが、それに傷つく余裕もない。家に帰ったところで受かる見込みもない求人を探す以外にやることはないし、いっそのこと日が落ちるまで、ここで項垂れて過ごしてみようか。
「桑染さん?」
「ぎゃあっ」
急に声を掛けられてひっくり返りそうになる。慌てて振り向くと、大好きな男の子が困ったような表情で微笑んでいた。
包介くん。
彼の顔を見た瞬間、重たい体がたちまち軽くなり、褪せていた視界がぱっと明るくなる。冬空の吹きさらしであるにも関わらずお腹の奥が熱を持ち、悴んだ指と足先に血液が巡っていく。
「こんなところでどうしたんですか?」
「あっ、いや、ただぼーっとしてただけ」
包介くんとの出会いは、いつだってわたしを幸せにしてくれる。でも、突然すぎて口が回らない。わたわたするわたしの隣に、包介くんが自然に腰を下ろす。
「このところ忙しいんですか?」
「えっ」
「最近、あまり話せてなかったですから。仕事が大変なのかなと思って」
たしかにこの頃は、お見送りとお出迎えができない日が何日かあったし、連絡の頻度も減っていた。
当然、包介くんとの繋がりを疎かにしたわけではない。原因はすべてわたし自身にある。
包介くんが、無職のわたしを受け入れてくれるのかという不安。
いや、実際は分かっている。クビになったと打ち明けても、包介くんは受け入れてくれる。彼は仕事の有無ではなく、本質で判断できる人だ。仕事探しを手伝ってほしいと頼めば、快くわたしを助ける。
だからこそ、頼るわけにはいかない。
わたしは包介くんが頼れる大人でありたい。一方的に助けられるのではなく、対等の関係でありたい。そのためにも、自分の食い扶持くらいは自分だけの力で見つけなければならない。それが大人になるということだ。
そういう考えが内側にあるからだろう、職にありつけないまま包介くんに甘えるのはわたしのプライドが許さず、無意識のうちに彼と距離をとるようになってしまっていた。
「……不安にさせてごめん」
もう少しでなんとかなる、と約束はできない。惨敗続きの就職活動に、明るいビジョンは全くない。外気で冷やされ白くなった包介くんの左手に、そっと小指を這わせるのが精一杯だ。
「桑染さん」
強い口調と共に、小指をきゅっと結ばれる。久々の接触は刺激が強く、体が大袈裟に反応してしまうが、包介くんは正面を向いたまま言葉を続ける。
「話しづらいなら聞きません。子供の僕では大して役に立てないことも分かっています。でも、桑染さんは何度も僕を助けてくれた。僕は、大事な友達が困っているときに指を咥えているような、そんな人間にはなりたくない」
包介くんには、記憶を失う前と後で変わったところがある。あの唾棄すべきマニュアルは関係なしに、人として変わった点が。
包介くんは、将来の夢を持つようになった。警察になりたいとか、職業のことではない。人としてどうありたいか、生き様そのものに理想を持つようになった。そうなるに至ったのは千影さんや濃墨さん、それと、悔しいけど烏羽の影響が大きい。
もともとが義理堅い性格の男の子だ。恩には報いるべきという考えが根底にあり、わたし達を助けるためなら惜しげもなく身を捧げてしまう。
「桑染さん。僕にできることはありますか」
包介くんの左目が、正面からわたしを見据える。綺麗な弓なりの目蓋から除く黒色の瞳は、優し気でありながら強い意志を堪えている。
わたしは大人だ。彼の自己犠牲を知っているわたしは、包介くんの助けを受け入れてはならない。
だけど、断れない。大丈夫、の一言を言おうとするたびに胸の奥が抓まれる。包介くんの真っ直ぐな眼差しが、わたしの中の弱さを見透かしている。
繋いだ小指に力が込もる。白くて細い、でも、輪郭のはっきりした指。わたしが挫けそうな時はいつだって差し伸べてられた、天使のように優しい手。
頼ってはいけない。包介くんの隣に相応しくなるには、一人の力で立ち直らなければいけない。でも、わたしは。わたしは──
「シリーキャットのメアリさん、ですよね」
横から急に話しかけられた。ばちっと思考がシャットアウトして、弾けるみたいに振り返る。
黒縁の眼鏡に無精髭を生やし、よれたジャケットを着た男。
誰だこいつは。ライブにいた客か? 生憎、あの場にいた人間の顔は一人だって覚えていない。どちらにせよ、プライベートな時間にアイドルの話を持ち出してくるのはマナー違反である。まともな奴でないことは確実だ。
包介くんを庇うように身を乗り出すと、男は神経を逆撫でる不快な笑みを浮かべ、内ポケットからボイスレコーダーを取り出す。
「恋昏崎新聞の唐茶です。お時間よろしいですか?」
新聞記者がわたしに取材?
まさか引退を聞きつけたわけでもないだろう。一時的に有名になったとはいえ、地方アイドルの進退なんて記事にするは内容が薄い。何を取材しにきたのか見当もつかないが、動揺するわたしを他所に記者は勝手に話を続ける。
「隣のお子さんについてなんですけど、メアリさんとはどういう関係ですか?」
答える必要はない。口を結んで、記者の顔を睨み上げる。
精一杯の敵意を込めた視線。しかし、記者はわたしの抵抗を意にも介さず、むしろ都合が良いとばかりに口角を吊り上げる。
「メアリさんが中学生と交際しているという通報がありまして。これって未成年わいせつですよね?」
「……え?」
何故、見ず知らずの男がそれを知っている。
いや、わたしと包介くんはまだ付き合っていない。わたしが一方的に包介くんを好いているだけ。だから犯罪ではない、はず。
でも、この男の決めつける口調。内容も具体的だ。通報があったのは確実。では、いったい誰が。
候補者は何人もいる。しかし、新聞記者を使えば、包介くんへの影響は避けられない。赤錆たちは当然違う。じゃあ、シリーキャットの誰かが? でも、自分らの評判を落としてまでわたしを? それなら、まったく無関係の人が? でも、なんでこんなタイミングで。分からない。誰が、どうして。
思考が滝のように押し寄せて、汗と一緒に流れ落ちる。体が揺れるほどに動悸は激しく、食いしばった歯がカタカタと震える。胸の奥どころか内臓全部を握り締められる緊張に、声も空気も吐き出せない。
記者の男は時間の止まったわたしを一瞥し、包介くんに視線を移す。
やめろ。彼に手を出すな。
瞬間的に火が灯る。反射で拳を固く握るが、しかし、殴り飛ばすには至らない。
依然として立ち尽くすことしかできないでいるわたしの目の前で、記者は包介くんに接近する。
「君はこの人とどういう関係なのかな? お金をもらったり、何かご馳走してもらったことはある?」
「僕は彼女の近隣住民です。偶然見かけて僕の方から話しかけただけなので、貴方が言うような事実は一切ありません」
包介くんはまるで怯まなかった。毅然とした態度に、記者のニヤケ面が初めて歪む。
「あー……もういいや。今大人の話してるから。子供は静かにしててね」
「子供だから言ってるんですよ。子供と女性が話しているところに割って入って執拗に絡む成人男性なんて、不審者そのものでしょう。大体、そちらから話しかけておいて、求める答えが得られないだけで強引に切り上げるのは失礼じゃないですか。僕も彼女も取材を受けることに同意すらしていないですし、これ以上続けるつもりなら警察に通報しますよ」
記者はあしらったふりで逃げようとするが、包介くんは許さない。淡々と正論をぶつけ、丁寧に逃げ道を潰す。
二度も敗北した記者は言い返そうと気色ばむ。しかし、包介くんはすでに記者を見ていない。記者は鼻を膨らませたまま包介くんの視線を追って振り返り、開きかけた口を苦い顔で噤む。
子供を迎えに来た親達が遊具の辺りに集まっていた。遠巻きにこちらを眺め、何事かをひそひそと話している。
「チッ!」
旗色が悪いと判断した記者は、少しでも不快感を残そうとあからさまな舌打ちを吐いて、足早に去っていった。
だが、わたしの中の緊張は何も取り除かれていない。あの記者から浴びせられた言葉が、杭となって心臓に打ち込まれている。
「僕達も行きましょう」
包介くんに手を握られる。嬉しいはずの感触。なのにわたしの手のひらは何も伝えてくれない。神経が麻痺して自分の腕じゃないみたいに思える。腕を引かれて歩き出すが、流れる風景にピントが合わず、どこにいるかも分からない。
包介くんの存在がバレた。仕事は見つからない。何にも頼れない状況で、引退ライブに臨む。
わたしどうすればいいんだろう。
頭の中で、世界が割れる音が響いている。




