006
それからはもう、天国のような毎日を過ごした。
学校が終われば参考書をまとめて、図書館へ一直線に走る。
踊り出しそうになる足取りを堪えて閲覧席を覗けば、いつでも彼が出迎えてくれる。
黒橡包介くん。
彼はわたしの光そのものだ。
運命的な出会いを果たしたあの日から、その気持ちは欠片も揺るがない。
やけた紙面に羅列した活字に落とす冴えた瞳が好き。
風に靡いた前髪を優しく払う指が好き。
視線が合った時に浮かべる淑やかな微笑みが好き。
彼を構成する要素すべてがわたしを惹きつけて離さない。
美しいものがこんなに心を満たすなんて思いもしなかった。
そして、彼の美しさは容姿や仕草などの表層的な面に限られるものではない。むしろ、その心にこそ色濃く現れている。
包介くんは決して相手を急かさない。
常に柔らかい口調で話し、わたしが何度吃っても、丁寧に意図を読み取ろうとしてくれる。
小学生の彼からすれば、満足に会話もできない高校生なんてのは変人以外の何者でもない。馬鹿にするか、避ける方が自然だ。
けど、包介くんはわたしを見た目で判断することなく、内面を評価してくれた。話す内容から人となりを見定め、好意的に接してくれた。
それがどれだけ難しいことか。
人は自分と違うもの、常識から外れた存在を嫌う生き物だ。
世間では個性だなんだと声高に叫ばれているが、根底は変わらない。集団による排斥が人間の本性であると、わたしはこれまでの人生で嫌になるほど学んでいる。
わたしは人間に失望していた。
物心ついた時から培われ続けてきた不信感は、そう思わせるには充分なほど膨らんでいたし、元来の悲観的な性質もあって、この先誰かと心を交わすことなどないと確信していた。
それほどに強い観念を包介くんは呆気なく覆してみせたのだ。
何か裏があるのではないか、陰でわたしをからかっているのではないかと邪推して、身勝手な敵愾心を向けたこともある。それでも彼は決して微笑みを崩さず、普段通りに振る舞った。
包介くんは敵意を知らないわけではない。
自身に向けられた感情をきちんと理解した上で、包み込むような優しさをもってわたしに接したのだ。
圧倒的母性。
母からは終ぞ知ることのなかった不可思議の答えを、わたしは小学生の男の子に見た。
陽だまりの中にある閲覧席もまた彼が発する包容力を後押ししていて、包介くんのお腹の中もこんな風にあったかいんだろうなあ、なんて妄想に耽る程度には夢中になっていた。
幸福で満たされた、わたしと包介くんだけの世界。
しかし、涎を垂らして温もりに浸かっている場合ではない。
わたしは受験生で、勉強の為にここに赴いている。浪人という選択肢はなく、万に一つも失敗するわけにはいかない。
でも、この幸福な時間も失いたくない。
男ができたことで、よりあからさまになった母の圧力。暗く淀んだ、けれど刺すような鋭さを伴う教室の空気。
悪化の一途を辿る周囲の環境に苦しめられたわたしは、一つの妙案を思いついた。
ご褒美をもらおう。
中間テストの順位や模試の結果など、何か分かりやすい形で成果が出るものがいい。それらにかまけて、包介くんと今以上に深い繋がりを持とう。
すでに身に余る恩恵をもらっていたが、度重なるストレスは内に燻る欲望を表出させ、気がつくとわたしは自習用のノートに要求の数々を書き殴っていた。
例えば、下の名前で呼んでもらうとか。消しゴムを交換してもらうとか。指を繋いでもらうとか、他にもたくさん。
今思い返すと、相当ヤバイ発想だ。男子小学生にそんなお願いをする女子高生は間違いなく危ない奴だし、そもそも包介くんにメリットがない。
だけど、当時のわたしは自分の異常性を客観視する余裕すらなくて、思い立ったその翌日、荒い語気で想いをぶつけてしまった。
包介くんが受け入れてくれたのは奇跡と言っていい。いや、聖母の如き包容力を備える彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。あっさりと首を縦に振る包介くんに、わたしは色々なところを熱くした。
効果は覿面だった。
元々高い成績は更に伸び、ちょっとひくぐらいの水準に達した。見栄に取り憑かれた母でさえ口元を引きつらせていたからよっぽどだろう。第一志望校は難関校と呼ばれる大学であったが、わたしの学力は合格確実圏内にしっかりと収まっていた。
ご褒美の内容も過激になっていた。
着々と迫る受験へのストレスはもちろんあったが、何でも要求を飲んでくれる包介くんに甘えていた面が大きい。わたしの要望は少しずつ身体的接触を含むものに姿を変え、偏差値が七十を超えた時は恋人繋ぎまでしてしまった。
わたしは調子に乗っていた。
けど、だからこそ、ここまで生きてこられた。
包介くんと出会わなければ、すべてを投げ出していたかもしれない。数多の困難を一人で乗り越えるなんてのは、とてもできなかった。
すべては包介くんのおかげだ。
彼の優しさが、美しさが、わたしを生かしている。
そしてとうとう、この日を迎えた。
合格発表当日。
多くの人間の運命を定める数字の羅列が後数分後に貼り出される。出身も学校も、ひょっとしたら年齢も違う人々が大学入り口前に密集しているが、この時ばかりは皆一様の願いを抱いているだろう。
合格したい。
ただ一つの想いを胸に、誰も彼もが緊張と期待の篭った目をしている。
わたしもそうだ。努力を重ね、万全の体制で試験に臨んだ。合格する自信はある。
しかし、いざこの場に立つと途端に不安が湧いてくる。
自己採点は過去の合格水準を超えていたが、記入ミスがなかったかと言われれば断言はできない。本試験は前評判に従って質より数を重視する方針で臨んだが、それが正解かを示す根拠はうやむやだ。ライバルを蹴落とすために書き込まれた嘘である可能性もありうる。
悪い想像は連鎖的に膨らみ、腹の奥がざわつき始める。周囲に渦巻く息詰まりする空気も合わさって、途端に呼吸が辛くなる。
こうなるとどうしようもない。
両肩は鉄より重く、目の前は薄っすらと白んでいく。自分の存在が曖昧になるような、気分の悪い非現実感が身体を支配する。
ああ、だめだ。こういう思考は良くない。
頭を振って憂鬱を散らす。オカルトは信じていないが、暗い考えは望まない結果を呼び寄せるように感じる。
落ちたら、ではなく、受かった時の未来に思いを馳せよう。
ここを乗り切れば最上のご褒美が待っていることを、わたしは知っているはずだ。
もし、もしも受かったら。
わたしは今日、包介くんとデートする。
去年の十二月、センター試験の前から取り決めていた約束だった。申し込む前日は本試験並みに緊張していたと記憶している。包介くんが快く受け入れてくれた時、似合わないガッツポーズまでとってしまった。
デートの計画はすでに立てている。
まず、いつもの図書館で待ち合わせ。そのあとは電車を乗り継いで水族館に向かう。
二時間ほど離れた場所にあるけど、包介くんと一緒ならあっという間に着くはずだ。たった一度、母の気まぐれで貰ったお小遣いで一人赴いただけの場所だけど、ぼんやりとライトアップされた水の中を魚達が泳ぐ幻想的な光景は忘れ難い思い出である。
昼食は近場のお店で摂る。海産物が有名な土地なので、外れることはないだろう。
外食は初めてだが、心配はいらない。受け答えの例文はしっかり頭に入れてあるし、仮に失敗したとしても包介くんがなんとかしてくれる。飲食禁止の図書館では見られなかった彼の食事姿が今から楽しみだ。
それから、夕暮れ時まで町をブラブラと散策する。
包介くんには門限があるので遅くまで遊ぶことはできない。その限られた貴重な時間に無計画な町歩きを予定に組み込んだ理由は、彼にわたしと同じ轍を踏んで欲しくないからだ。
包介くんは優れた社交性を持っているが、行動範囲は広くない。
この一年間、ほとんど毎日図書館で顔を合わせていたことがその証拠だ。
遊びの誘惑で溢れる小学生が図書館に居着くとは、あまり考えられない。学校での様子を尋ねた時も上手くはぐらかされてしまった。
きっと包介くんの周りには理解者がいないのだろう。
彼は謂わば異物だ。
優秀な能力も馬鹿に囲まれた環境では異端として扱われる。完璧すぎる彼が持て余されている光景は容易に想像できた。
とすれば、もしかしたら彼の唯一の友達かもしれないわたしがすべきことはなにか。
年長者として、彼にしてあげられることは。
わたしは、彼に世界の広さを教えるべきだと思った。
異国の文化だとか刺激的なレジャー体験だとか、そんな大袈裟な話じゃない。
水族館のそわそわしてしまう雰囲気とか。
ちょっと贅沢なご飯のワクワク感とか。
夕暮れに染まる町並みを眺めるどこか懐かしい時間だとか。
そういう世の中にありふれた発見を、彼に知って欲しかった。
それはきっと、何一つ体験できなかったわたしだから思いついたことで、わたしにしかできないことだと思った。
無償で与えてもらった愛に、少しでも応えたい。
だからこそわたしは、包介くんのために合格する。
熱い鼻息を吹き出して口を真一文字に結ぶ。決意を新たにした時には頭の靄は晴れていた。
「ただいまより合格者を掲示します」
拡声器ごしの嗄れた声が聞こえ、それを合図に合格者一覧が貼り付けられた掲示板のキャスターがタイルの上を走る。
いよいよ結果発表だ。
ざわめく人々が一斉に静まり返った。喉を通る生唾の音が、冷えた空気に溶けて消える。
わたしの番号は0100214番。
縁起も何もない数字だが、繰り返し諳んじるうちにすっかり愛着が湧いてしまった。
一つ目の掲示板が姿を現す。間髪入れず、二、三と入り口前に運び込まれる。
忙しない音が鳴り止み、すべて並んだ。
あのどれかに、わたしの未来が載っている。
首をずいと前に出し、目を凝らす。
0100011番。0100019番。
宙空をなぞる人差し指が徐々に自分の番号に近づいていく。
一つ一つ過ぎる度、鼓動が激しさを増していく。
0100190番。0100198番。0100210番。
0100214番。
「あ」
瞬間、頭が真っ白になった。
次いで流れ込んできたのは、歓喜や安堵、感謝の念がごちゃ混ぜになった感情。
何度も目蓋を擦り、もう一度指差しで番号を数え、視線を受験票と往復させる。
「あった」
合格している。
間違いなく、わたしの番号が載っている。
「やった」
呆けた声が口を衝く。
合格はほとんど確実だった。
当然の結果だ、と自分に言い聞かせてみても、悴んだ両手を震わせる興奮は収まりそうにない。消えかけていた全身の感覚が蘇り、内から湧き上がる熱で再び朧げになる。
受かった。
勉強に関しては、これといって苦労はしていない。合格は日々の惰性の副産物だ。
だというのに、涙が出そうなのはなぜだろう。報われたと思うのは思い上がりだろうか。
こうしちゃいられない。
垂れかけていた鼻水を乱暴に拭い、しわくちゃになった受験票を鞄に放り込む。
行き先は三ヶ月前から決まっている。
高速で踵を返し、わたしは一目散に走りだした。
駅まで徒歩五分。今のわたしなら二分。
息は切れているのに、まるで苦しくない。
地下鉄に繋がる階段を滑るように降り、熟練のバトンパスのような手つきで改札機の読み取り部をタッチする。
目の先であつらえたように電車が到着し、邪魔なホームドアが開かれる。
車内のムッとした熱気が目の下を蒸し焼いた。いつもなら人波に二の足を踏んでいただろうが、今はその躊躇すら惜しい。突き出した手刀で強引に道を切り開き、電車に乗り込む。
早く。早く会いたい。
逸る気持ちが両足を小刻みに揺らしている。移り変わる停車駅のランプがこんなにもどかしく思うのは初めてだ。一つ、一つと点き変わるたび、体の熱が温度を上げる。
早く。もっと早く。
太ももを叩く指先に痛みが伴い始めた時、ようやく目的の駅に到着した。
ドアが開くのと同時にプラットフォームに降り立つ。
エスカレーターを駆け上がって、滑る地面に転びそうになりながら、それでも全力で走る。
繁華街から住宅街へ。
人の影は着実に目減りしていくが、脳内に響く祝福の歓声は激しさを増す。
歩幅はさらに広く、足の回転は衰えず。
道の先に見えた図書館は漏れ出る包介くんの美しさがそうさせるのか、光の粒子を放って見えた。
邪魔な引き戸を腕の一振りで払う。
突然の来訪者に受付の職員がギョッとしているがどうでもいい。体面を気にしている暇があるなら一秒でも早く彼に会いたい。
包介くんはどんな顔をするだろう。
喜んでくれるかな。笑って褒めてくれるかな。
にやける口を隠すことなく本棚の間を抜け、辿り着いた閲覧席には
「あれ?」
包介くんはいなかった。
次の日も、その次の日も。
彼がわたしの前に姿を現わすことはなかった。