005
公園から十数分歩いたところで、僕と母さんの住むマンションが見えてきた。
空は相変わらず鉛色だが幸いにも雨に見舞われることはなく、制服の汚れも比較的少ない。赤錆さんの家はまだ先なのでどうなるか分からないが、大した距離でもないのでずぶ濡れになる心配はないだろう。
小走りで軒下まで移動して、赤錆さんを振り返る。
彼女が同じように足を動かすことはなく、つまらなそうに眉を顰め、ゆっくりとした足取りで僕の隣に並んだ。
「楽しそうね」
「そんなことないよ」
学校と家が近くて気に入らないといちゃもんを付けられては堪らない。へらへら笑って誤魔化しながらエントランスに入る。
手狭ではあるが小綺麗な広間だ。元々、一人暮らしの女性に向けて作られているので整備は行き届いている。セキュリティも家賃の割に充実しているし、かなり良い物件だと思う。
「ちっ」
もっとも、赤錆さんは僕が上等な場所に住んでいるのが気に入らないらしく、別れ際はいつも機嫌が悪くなる。
舌打ちはやめてもらいたいが、言ったところで平手が飛んでくるだけなので聞かなかった振りをするのが一番だ。大人しく鍵を取り出して、ロックの解除に取り掛かる。
「約束、忘れないでよ」
「分かってるよ」
「明日はいつも通り八時集合だからね」
「分かってるってば」
「なにその言い方。今日だって包介が──」
「あ、開いた。それじゃあまた明日」
今日は本当に疲れたので、これ以上赤錆さんの小言に付き合う体力は残っていない。彼女の言葉を遮って自動ドアをくぐる。
さしもの赤錆さんもオートロックを強引に突破するつもりはないようで、恨めしげに僕を睨み付けるに留まった。明日になれば落ち着いているだろうし、特に問題はないだろう。
ようやく一日が終わった。
清々しい気持ちでエレベーターを呼ぶと、秒と待たずに到着したので素早く乗り込む。閉まる扉の間から、自動ドアに手をついて何かを呟く赤錆さんがちらりと見えたが、今更降りるのも億劫だし、大抵は罵倒の言葉なのでさっさとずらかることにした。
小さな揺れの後、内臓がぐんと下に引かれるような負荷がかかる。
四方を囲む壁から感じる息苦しさと、途中で誰かが乗り込んでくるかもしれないという緊張感。
こういう居心地の悪い時間は決まって悪い想像を膨らませてしまう。
手違いで桑染さんに届いた手紙。
金玉を襲った痛烈な蹴り。
青褐先生から受けた辱め。
そして、二つの怪談。
脳裏では未だにメリーさんの囁きが反響していて、逃れるために目を瞑ろうものなら暗闇の奥から牙を剥いた口裂け女が姿を現わす。
怖い。
こんな日に限って母さんの帰りは遅い。今の時刻から試算すると、大体四時間を一人で過ごさなければならない。本来ならば喜ばしいはずの自由時間が、怪談のせいで苦しみに変わってしまった。こんなことなら意地を張らずに赤錆さんの家に厄介になっておけば良かったと今更になって思うが、後の祭りである。
怪談とは関係のないエレベーターまで恐ろしく思えてきて、いよいよ足が震えてきたその時、電子のベルが目的階の到着を告げた。
助かった。いや、助かってはいないか。
周囲を警戒しながら自宅の前に移動し、慎重に玄関扉を解錠する。音を立てないよう上半身を張り付けて押し開いた扉の先で、見慣れた玄関が僕を迎えた。
当然母さんの靴はなく、端に寄せられたサンダルと数本のビニール傘が刺さった傘立て以外に物は置いていない。
無人の家。はっきり言葉で表すと、心許なさがより一層と押し寄せてくる。
「……はあ」
母さんが戻るまでの時間をどう乗り切るべきか。
普段なら宿題を片付けるところだが、孤独からくる不安のせいでまったくやる気になれない。
「はあ、嫌だなあ」
鞄を放って制服もそのままにソファに体を投げ出す。手近にあったリモコンでテレビを点けてみるが、夕暮れの時間帯は都心部を取り上げた情報番組ばかりで興味を惹かれるものはない。すぐに電源を落としてソファに体重を預け直す。
静寂を取り戻した室内に秒針の規則的な音が響き始める。普段は気にも留めない微音のはずが、いやにうるさく聞こえる。気晴らしに何かつまもうとコンビニ袋の中のチョコレート菓子に手を伸ばしかけたところで、ふと背筋に視線を感じた。
反射で振り返るが、がらんとした居間の光景があるばかりで、危惧する怪物の姿はない。
神経質になり過ぎだ。メリーさんの電話は作り話だと、赤錆さん自身が言っていたじゃないか。
頭を振ってこびりついた幻影を払う。無理にでも明るい気分を作らないと精神が参ってしまう。
そうだ、久しぶりに昔の小説を読み返そう。落ち着かない気持ちは別の何かに集中して忘れてしまうのが一番だ。読み終える頃には母さんも帰ってくるだろうし、宿題は明日早起きして片付ければ問題ない。
早速、本を取りに自室に向かおうと立ち上がった瞬間。
じりりりりりり。
「うわっ!」
突如として固定電話の着信音が鳴り響いた。歩き出そうとした矢先の出来事だったので、驚いて尻餅を突いてしまう。
「びっくりした」
誰に見られたわけでもないのに、照れ隠しの独り言が口を衝いて出る。すっくと起き上がり、やかましく鳴り続ける電話の液晶を見ると、知らない番号が表示されていた。
怪談を聞いた手前、否が応でもメリーさんの存在が連想されるが、まさか怪異が通信会社と契約して番号を取得しているということはないだろう。つまりこの電話は、人の手によってかけられたもので間違いない。
しかし、どこからかかってきたのだろうか。
市外局番が携帯電話に使用されるものなので、ガス会社や水道局といった公共機関である可能性は低い。母さんや赤錆さんは登録済みなので、数字ではなく名前で表示されるはずだ。
となると、相手先はセールスか間違い電話に絞られ、それならば敢えて受け取る必要もない。申し訳ないが見送らせてもらうことを決め、電話が鳴り止むのをじっと待つ。
三十秒ほど経った後、留守番電話サービスに切り替わった。
「あっ、あ……、と、……さ、い」
通信環境が悪いのか、言葉が掠れてよく聞き取れない。セールスにしては元気がないし、間違い電話だろうか。
「おっ、おっ、……は、…………ね。わ、…………と、おっ、……あっ、いやっ、…………へっ」
電話に顔を寄せ、耳を澄ませてみてもはっきり聞こえない。言葉尻に混ざった笑い声に薄ら寒いものを感じる。
「あ、そっ、……ら、コンビニ…………見えた……一人か…………」
コンビニ、という単語が辛うじて拾えた。
登下校中の買い物は校則で禁止されているので一応周りを気にしてはいたのだが、誰かに見られていたのか。
「……、ね。ほ、…………、そ、そそそそ……、今から、そっち…………」
ぞわりとした怖気が走り、全身の皮膚が一斉に粟立つ。
今からそっち、と確かに言った。
聞き間違いではない。
今からそっち。
まさか、そんな。あり得ない。
だって、あれは作り話だ。そもそも恨まれる心当たりなんてない。
違う。そんなわけない。
「あっ、最…………。え、……へへ。わっ、……、メ……リ……」
嘘だ。なんで。
これはまるで本物の。
メリーさんの電話。
まさか、本当にメリーさんに狙われるなんて。
脅威に怯える一方、心のどこかで襲われるはずがないと油断していた。息が苦しい。冷えた汗が背筋を伝い、両足が凍りついたように動かなくなる。瞳が小刻みに揺れ始め、周囲の輪郭が朧気になってきた。
「あっ、そ、そ…………、わたし、……家に…………。……、え…………、家、わ、…………家……、……いい……、……て」
家。
メリーさんはすでに、この家に侵入しているというのか。聞いた話よりもずっと化け物地味た速さだ。いざ直面して、その恐ろしさを改めて実感する。
引き攣った笑みを浮かべて躙り寄るメリーさんの幻影が脳裏を埋め尽くし、遂には膝が笑い出した。石のように固まった首筋から伝播する筋肉の痙攣が強制的に奥歯を噛み締めさせる。
誰か、頼むから悪い冗談だと言ってくれ。
縋る気持ちで念じても誰かに届くわけがない。僕はこのまま、為すすべもなく殺されてしまうのだろうか。なぜ標的に選ばれたのかも分からないまま、一人きりで死んでいくのか。
いや、違う。
諦めるな。僕はまだ、母さんに何一つ返せていない。
このまま死ぬわけにはいかない。生き残るために何をすべきか、冷静に考えろ。
「ふぅ──」
震える息を吐ききって薄く空気を吸い込む。
恐怖で麻痺した思考回路に酸素が巡り、末端の神経が僅かに感覚を取り戻す。
大丈夫。落ち着け。冷静になれ。
僕は戦える。
脳から発せられた電気信号が両足に伝わるのと同時に、自室に向かって一直線に駆ける。流れる景色に素早く視線を這わせるが、廊下にメリーさんの姿はない。
まだ間に合う。
ベッドに飛び乗り、壁を背に入り口を見据える。
家への侵入を許してしまった以上、ここから逃げ出すのは難しい。それに、僕一人が逃げられたとしても、事態を知らず帰宅した母さんが餌食になってしまうかもしれない。
だからこそ、ここで仕留める。正面から打ち倒す。
今日、赤錆さんからメリーさんの怪談を聞けたのは僥倖だった。酷く怖い思いをしたが、こうして対抗策を実行に移せている。
背後の空間を潰した以上、メリーさんの攻撃方向は限定され、襲い掛かってくる瞬間を視認できる可能性は高くなる。怪談の内容が正しければメリーさんは人形としての実体を持っていて、ならばこちらの突き蹴りにも多少は効果があるはずだ。
やれる。やるしかない。
もう一度深く息を吐き出して、両の拳に力を込める。
油断なく張り巡らせた警戒の糸が部屋の隅にまで足を伸ばし、ひりついた空気に感覚が溶けていく。
極限の集中状態。
秒針の間隔が長い。体内を回る血液の音が聞こえるような気さえする。
それが災いとなった。
研ぎ澄まされた神経は背中にのしかかる重みを疑いようもなく明確に感じ取ってしまった。
後ろに何かがいる。
まるで最初からそこにあったかのように音もなく、それは唐突に現れた。
最初から間違えていた。迎え撃つなんて思い上がりも甚だしい。それらは人知を超えた存在であるからこそ伝説と形容されるというのに。
都市伝説。怪異。
僕なんかが敵う相手じゃなかったんだ。
後ろのそれが口を開いたのが分かる。
「わたし今、包介くんの後ろにいるの」
人は恐怖でも気を失う。
知りたくなかった知識を身をもって経験した僕の意識は、呆気なく暗闇の底へ落ちていった。




