004
「どんなのがいい?」
怖くないのがいい。その要求が通れば、どれだけ楽だろうか。
僕は幽霊の類が大の苦手だ。
過去に目撃してしまったとか、危ない目に遭ったなどの経験があるわけではないが、存在を想像するだけで怖気が走る。心霊特番のテレビコマーシャルのせいで五分ほど動悸が治まらなかったこともあるので、生まれ持った気質なのだろう。
もちろん、怪談のほとんどが作り話だと、頭では理解している。しかし、何度自分に言い聞かせようとも、それらを見聞きしてしまった後は脳裏に浮かぶ恐ろしげな映像を払拭できず、しばらくは見えない脅威に怯えながらの生活を強いられてしまう。
根性では絶対に乗り越えられない。僕にとって怪談とは、底知れぬ恐怖の象徴そのものだ。
「あ、そうだ。今日、栗皮に聞いたんだけど」
いよいよ始まってしまう。
「最近この辺りに口裂け女が出るらしいよ」
「……口裂け女?」
「そ、あの有名なやつ。パッと見はマスクを着けた綺麗な女の人なんだけど、取ってびっくり口が頬まで裂けてましたっていう都市伝説」
「……それだけ?」
「口裂け女ってそういうもんでしょ」
「はあ。そうなんだ」
なんだか拍子抜けである。変に勿体つけるから、とんでもなく恐ろしい話が飛び出してくるのではないかと無駄に緊張してしまった。
マスクをした人ならそこら中に居るし、口が他より大きいだけの女性を怖いとは思わない。情報元の栗皮さんも、偶々特徴の合致する人に遭遇して面白おかしく囃し立てただけだろう。
一時はどうなることかと思ったが、随分と平和に解決できた。安心感で自然と口元が緩む。
そんな僕の反応がつまらないのか、赤錆さんはむすくれた顔になってスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、何やら画面をいじり始めた。
「こんなの」
目の前にスマートフォンを突きつけてくる。
画面には、口が頬どころか耳の付け根まで裂け、鰐のような鋭い牙を剥く化け物の憤怒の表情が映し出されていた。
「ひぇ」
あまりの恐怖に尻が浮く。絶叫を堪えた自分を褒めてあげたいくらい衝撃的な画像だった。
「整形手術が失敗して、こんな風になったらしいよ」
「い、いいからそれどかしてよ」
「は? 包介ってこんな安っぽいやつにもビビるの? 無意味に白目剥いてるとこなんて、如何にもてきとうじゃない」
赤錆さんは小馬鹿にするような目でじっくりと怯える僕を鑑賞した後、やけに鈍い動きでスマートフォンをしまった。
「口裂け女ってね、出会った人に向かって、私、綺麗? って尋ねてくるんだって。雰囲気は美人だし突然聞いてくるもんだから、大抵の人は綺麗ですって答えるの。そしたら急にマスクを剥いで、これでも? って。そこで悲鳴を上げたら終わり。隠し持っていた刃物で息の根を止めるまで永遠に追いかけてくるらしいわ」
「……不細工って答えたら?」
「女の人にそんなこと言う奴が無事で済むわけないじゃない。当然殺されるわね」
そんなの、出会った時点で終わりじゃないか。
「まあ、ハッキリ言って全然怖くないけどね。色々設定があるんだけど、百メートルを六秒で走るなんてどう考えてもおかしいでしょ。チーターと同じレベルよ。刃物で刺し殺すっていうのも全然特徴活かせてないし、全体的に作り込みが甘いのよね。撃退法もいっぱいあるし」
「え、撃退できるの」
「うん。一番有名なのは、ポマードって三回唱えるやつ。手術を担当した医者がポマードで髪を整えてたらしくて、単語を聞くとトラウマが蘇るんだって。あとは、べっこう飴を投げつける、とかかな。ちょっと可愛い対処法よね」
外出時はべっこう飴を持ち歩くことにしよう。作り話であることは重々承知だが、安心を買うと思えば安い出費だ。
あの恐ろしい相貌が高速で駆けてくる光景を鮮明に想像してしまった僕に、準備をしない選択肢はない。
「包介って口裂け女も知らないんだ。じゃあもしかして、メリーさんの電話も知らない?」
「……知らないけど」
「へえ。メリーさんの電話っていうのは」
「ちょっ、ちょっと待って。さっきの話で十分反省したからさ、今日はこれくらいにしてくれないかな」
口裂け女だけでも一杯一杯なのに、追い打ちをかけられたら今度こそ眠れなくなる。
誠意を込めて頭を下げると、赤錆さんは退屈そうに息を吐き、ゆったりとした所作で足を組み替えた。妙に貫禄のある動きは、映画で見たマフィアのボスと似ている。
「あのねえ、なんであたしがわざわざ怖い話してるか分かってる?」
「そ、それはもちろん。僕が赤錆さんの靴を汚したからだろ」
「そう。包介はあたしの大事な一張羅を汚したわけ」
「あれ? 昨日は違うの履いてなかった?」
じろりと睨めつけられたので慌てて黙る。口答えは許されていない。
「要は、あたしは深く傷ついたってこと。それだけのことを仕出かしておいて、小話一つで許されるなんて虫がよすぎるでしょ」
「そ、そんな」
あれだけ怖い思いをしたのに。責苦はまだ続くというのか。
「当然、耳を塞いだり、目を閉じたりするのはなしだから」
「……はい」
「よし」
言い付けなんて無視してしまえばいい。しかし、事の発端が自分にあるという負い目から強く反発することができない。赤錆さんの焦げ茶色の瞳は嗜虐的な光を帯びており、映り込む僕の顔は死期を悟った蛙よりも青ざめている。
いよいよ、本日二度目の怪談が始まってしまう。
「メリーさんの電話は、ある少女が体験した話。その少女は幼い頃、両親にねだって外国製の人形を買ってもらったの。フランス人形って言った方がイメージしやすいかな。まあ、リカちゃん人形とかよりも精巧に作られた高価な人形をイメージして。それで、少女は人形にメリーって名前を付けてすごく可愛がってたんだけど、年をとるごとにだんだん遊ばなくなっていったの。まあ、いつまでもお人形遊びしてるわけにはいかないし」
「赤錆さんも辞めたの? あんなに好きだったのに」
「は? いつの話よ」
恐怖を紛らわせるために挟んだ軽口は、にべもなく切り捨てられた。
彼女にとって、僕を強引に巻き込んだおままごとは既に過去の記憶であるらしい。
「……ふん、続けるわよ。それから何年か経った後、父親の転勤で少女の引っ越しが決まった。準備の途中、少女は久しぶりに人形を見つけたけど、ほったらかしてたせいかボロボロになっていたから、いい機会だと思って処分することにしたの。ほんとに雑に、ゴミ捨て場にぽいって捨てた。昔はあんなに可愛がっていたのに薄情な話よね。ところで、神道では物には魂が宿るとされているけど、それじゃあ粗雑に扱われた人形は持ち主のことをどう思うのかしら?」
別の話題で話を濁す余裕など、とうになくなっていた。
緊張で乾いた喉に無理矢理飲み込んだ唾液が引っかかる。赤錆さんの声は液体のように柔軟に、余すことなく僕の脳内に染み込んできて、聞いてはいけないと分かっているのに彼女から目を離すことができない。
「引っ越しが無事に終わって新しい土地に慣れた頃には、人形のことなんてすっかり忘れていた。そんなある日の夜、少女の家に電話がかかってきた。いつもは親が出るんだけど、その日は生憎仕事でまだ帰ってなかったから少女は渋々電話を取ったの。もしもし、もしもし、どちら様ですか。けど、いくら待っても相手は無言。しばらく待ってもそのままだから切ってしまおうと思ったその時、幼い女の子の声で、わたしメリーさん。今、ゴミ捨て場に居るの。それだけ言って電話は切れた。悪戯にしては不気味よね。だって、メリーは少女がゴミ捨て場に捨てた人形の名前だもの。少女が気味悪く思っていると、間を置かずにまた電話がかかってきた。恐怖心から誰かに縋りたくなったのね、お母さんからの電話だと思い込んだ少女は反射的に受話器を取ってしまった。もしもし、お母さん? でも、電話の相手はお母さんじゃない。わたしメリーさん。今、駅の前にいるの。わたしメリーさん。今、公園の前にいるの。わたしメリーさん。わたしメリーさん。わたしメリーさん。少女はどうにかなりそうだった。メリーさんの言った場所は全部、家の近所にあるものだから。メリーさんと名乗る相手は最後に、わたしメリーさん。今、あなたの家の前にいるの。そしてまた、電話が切れた。悪戯にしては余りにも手が込んでる。電話の相手はストーカー? それとも本当にメリーさんなの? 何が何だか分からなくなって、少女は電話線を力づくで引っこ抜いた。これでもう電話はかかってこない。そのはずなのに、呼び出し音が鳴る。少女はほとんど発狂して受話器を乱暴に取って、見えない相手を怒鳴りつけた。あなた一体何なのよ、いい加減にして。でも、電話は繋がっていなかった。電話線は少女が抜いたんだから当然よね。じゃああの時、部屋に響いた音は何だったのか。どうして着信音じゃなく、呼び出し音が鳴ったのか。ねえ、包介。電話はどこからかけられていたのかな」
赤錆さんが僕の耳元に口を寄せる。
「わたしメリーさん。今、あなたのうしろにいるの」
「わ゛ぁぁぁああ!!」
よく通る微声が脳に深く突き刺さり、全身に渦巻いていた恐怖が爆発した。震えていた両足が跳ね上がり、支えを失った体が大きく反り返る。
ベンチからひっくり返ってしまった。
赤錆さんは僕の醜態に満足し、腹を抱えて笑っている。
「あははっ、ビビり過ぎだって。メリーさんで叫ぶ人、初めて見た」
本当に怖かった。
何とか体を起き上がらせるが、後ろに誰か立っているような気配がして首を動かすことができない。
「ふふっ。でもこの話、よくできてるよね。構成は分かりやすいし、じわじわ迫ってくる恐怖も上手く表現してる。だから有名なんだろうけど」
一頻り笑った赤錆さんは乱れた呼吸を整えながら淡々と批評を述べる。怪談を話し終えた後の彼女の癖だ。自分で話していて怖くならないのか。すぐに切り替えられる冷静さが只々羨ましい。
しかし、今は赤錆さんの講釈に耳を傾けている場合ではない。
今日を乗り切るために聞くべきことは他にある。
「……対処法は?」
「は?」
「た、対処法だよ。その、メ、メリーさんに襲われたとき、どうやって身を守ればいいのかなって」
人形を買ったことも捨てたこともないが、万が一ということがある。話の真偽はともかく対策を把握しておかなければ、一生後ろを振り返られなくなりそうだ。
「知らない」
「へ」
そんな。口裂け女には、ちゃんと対策が用意されていたのに。僕は死ぬまでメリーさんの脅威に怯えながら生きていかなければならないのか。
僕を恐怖のどん底に突き落とした張本人は、一仕事を終えたような爽やかな顔で両腕を伸ばした後、満足げに息を吐いた。
「だって作り話だし。少女がその後どうなったかも分からないのに、対策が用意されてるわけないじゃない。まあ、二次創作にはないこともないけど」
「本当!?」
「うわっ、何はしゃいでんのよ」
こんなに恐ろしい怪談を元に創作活動を行うなんて正気の沙汰とは思えないが、今の僕には天の恵みに等しい吉報である。
居住まいを正して赤錆さんに体を向けると、彼女は咳払いをしてから人差し指をぴんと立てた。
「オチの解釈を変えて、後ろを取られたから終わりって考えるの。そしたらほら、色々方法が思いつくでしょ。例えば、壁にぴったり背中をつけるとか。それでメリーさんが壁に埋まっちゃう話は面白かったな」
なるほど。たしかに、メリーさんは人形という実体を持つため、壁などの物質に干渉してしまう。
体格では人間が勝っているのだ。視認さえできれば生存の確率はぐんと上がり、侵入経路を限定できる分、有効な手立てとなろう。
「あとは携帯電話を持つことね。家の電話じゃ逃げ場はないけど、携帯なら電話がかかってきても人通りの多いとこに逃げ込めるでしょ。どう、包介。携帯欲しくなった?」
「……うん」
べっこう飴に加え、また買うものが増えた。
母さんには何と説明しよう。命に関わるからと正直に話しても、納得してもらえる自信はない。
「はい、これで話は終わり。靴は……そうね、また今度でいいか」
「大丈夫なの?」
「撥水スプレーかけてるから拭けばどうとでもなるわよ」
「えっ!?」
今までの拷問はなんだったんだ。
不当な処罰に声を上げようとしたが、赤錆さんの視線に制され、大人しく縮こまる。今日の僕はずっとこんな調子だ。
「また降り出しても嫌だし、早く帰ろ」
赤錆さんがベンチから元気よく跳ね降りる。
話し込んでいるうちに雨はすっかり上がっていたが、空は相変わらず分厚い雲に覆われたままだ。
油断すると降り始めてしまいそうなので、遅れないようにゴミと荷物を取り纏めて立ち上がる。
「あ」
慌てていたせいか学ランの端がささくれに引っかかり、少しだけ解れてしまう。
良くないことが起こりそうな、そんな一抹の不安を抱きながら、僕達は曇天の下へ踏み出した。




