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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
メアリさんの留守番電話
3/60

003

 今日は散々な一日だった。

 壮絶な場面を目撃された僕達は、朝っぱらから青褐(あおかち)先生に、学生の意義や若者の性の乱れについて長々と説教され、疲弊しきった状態で一時限目の授業に臨むことになった。

 慣れない早起きに心労が重なった体で、満足に授業を受けられるはずもなく、開始早々に居眠りしてしまったのだが、不運なことに一時限目は数学で、担当は青褐先生である。

 短時間で二度の問題を起こした僕に先生は激怒し、連続して呼び出されることとなった。

 それだけならまだ耐えられる。落ち度があったのは僕自身であるし、叱責もやむを得ない。

 予想外だったのは、生活態度の矯正という名目で給食を先生の隣で食べるよう指示されたことだ。

 年頃の男子にとっては重すぎる刑罰である。

 必死に恩情を懇願したのだが、先生が首を縦に振ることはなく、絶望の給食時間を迎える羽目になった。

 クラスメイトの含み笑いの中、青褐先生の隣で行う食事はみじめの一言に尽きる。

 苦手な物から先に食べる癖を指摘され、教室の真ん前で栄養価と三角食べの成り立ちについて説明されたときは顔から火が出る思いだった。

 午後もからかわれ続けた僕の心はぼろぼろに磨り減ってしまい、すべての授業が終了した今も鉛のように重く落ち込んだ気分を振り払えないでいる。

 本当に疲れた。

 今朝は珍しく片足が濡れるだけで済んだから、良い一日になると思ったのに。鞄に詰め込まれた教科書も心なしか草臥れて見える。


「包介くーん、呼んでるよー」


 呼び声の先に重たい頭を向けると、入り口付近で屯する女子の集団の中に赤錆さんの姿を見つけた。

 今朝は色々あったが、長く苦しい時を過ごした後では遠い昔のように感じる。恥部に触れた張本人を前にしたというのに、気まずさや羞恥心はまったく湧いてこなかった。

 鞄を持ち上げて鈍い足取りで赤錆さんの元へ向かう。

 立ちはだかる女子の壁の前をどう潜り抜けるか考えていたら、隙間から赤錆さんの腕が伸びて僕の体を引き寄せた。


「包介くんと丁って、ほんと仲良いよねー」

「もしかして付き合ってる?」

「そんなんじゃないってば。じゃ、また明日ね」


 ぐっと引っ張られ、つんのめるようにして前に出る。

 赤錆さんは朗らかな笑みを浮かべていたが、二の腕を掴む手には力が込もっている。

 僕のような男と関係を邪推されて腹が立ったのだろうか。だとしたら申し訳ない。

 連れられるままに廊下を進み、階段を降りたところで赤錆さんが振り返る。


「包介って女子から名前で呼ばれてるんだ」

「まあ、言いづらい苗字だからね」

「ふーん」


 聞いてきた割に素っ気ない返事だが、赤錆さんの感情は秋空よりも変わりやすいので気にする必要はない。

 投げ捨てるようにして解放された片腕を摩りながら、さっさと歩く赤錆さんの後を追う。

 そのまま微妙な距離感を保ちながらついて行っていると、ほどなくして玄関前の広場に到着した。


「そういえば、傘どうすんの」

「まだ分からないだろ」

「どうせ盗まれてんだから。今のうちにお願いしとけば?」


 玄関口から見える外の景色は相変わらずの雨模様で、僕の傘が無事である可能性は低い。強がってはみたが期待していない自分がいることも確かだ。

 やはり、盗難を防ぐには手元に置き続けるしかないだろう。教室に傘を持ち込めないか青褐先生にもう一度相談してみようか。

 半ば諦めの気持ちでスニーカーに履き替え、傘立てを確認する。

 案の定、僕の傘はどこかに消えていた。隣の赤錆さんの傘は無事なのに。世の不条理を押し付けられた気分になる。


「ほら、言った通りでしょ」


 赤錆さんが横に並んで得意げに鼻を鳴らす。

 にやけた顔が腹立たしいが、背に腹はかえられない。


「……傘、入れてもらえないかな」

「最初から素直に言えばいいのに。ほんとバカね」


 僕のお辞儀に満足したらしく、赤錆さんは自分の傘を差し出した。

 淡いピンク色のそれを見て思わず顔が強張るが、贅沢は言っていられない。


「文句あんの」

「いや、可愛い傘だなあと思って」

「きも」


 心ない言葉に少しだけ傷ついたが、気を持ち直して外に出る。

 近くで見ると雨の粒はかなり小さい。この分なら傘をささなくても支障はないが、身嗜みに気を払う赤錆さんはそうもいかない。

 彼女はもう自分で傘を持つつもりはないようだし、相合傘は避けられない。

 できるだけ目立たない位置に移動して、こっそり傘を広げる。


「なにコソコソしてんのよ」

「一応、相合傘になるからちょっと恥ずかしくて。赤錆さんも僕なんかと噂になったら困るだろ?」

「は? なるわけないでしょ。頭おかしいんじゃない」

「……ごめん」

「謝る暇があったら足を動かす」


 尻を鞄でど突かれ、渋々歩き出す。

 くすくす笑う周りの生徒達には、気疲れでげっそりした僕の顔がさぞ愉快に映ったことだろう。隣の赤錆さんは頻りに肩をぶつけてくるし、全然落ち着かない。

 彼女の歩調に合わせながら校門を抜けて帰路につく。学校が終わって間もないせいか、下校中の生徒は疎らだ。

 それから、車の跳ね上げた水飛沫に膝から下をぐっしょり濡らされたり、赤錆さんに尻を叩かれたりしながら歩いているうちに、通学路に一軒だけあるコンビニを見つけた。

 普段なら素通りするが、今日は母さんの帰りが遅い。晩ご飯を買っていく必要がある。


「コンビニ寄ってもいい?」

「なんで」

「まあ、ちょっとね」


 てきとうにあしらってコンビニへ進行方向を変える。傘を持っているのは僕なので、移動の主導権を行使できるのだ。

 利かん坊の赤錆さんを自分の意思で動かせることに歪んだ悦びを感じていると、勘のいい彼女はむっとして僕の尻たぶをつねった。

 痛みはほとんどないので気にせずコンビニの軒下に入り、傘を畳んで赤錆さんに渡す。


「え、あたしもついてく」

「傘、盗まれるかもしれないし。すぐ戻るから待ってて」


 盗まれ慣れている僕ならまだしも、赤錆さんが同じ目に遭うのは可哀想だ。

 それに彼女は、母さんみたいなお節介を焼くことがある。スナック菓子一つ買うにも小言を言われるので、外で待っていてもらった方が都合がいい。

 赤錆さんが口を開く前に尻を摘んだ手を除けて、自動ドアをくぐる。

 買うものは大体決まっていて、カップ麺とチョコレートのお菓子、目に付いた飲み物二つを適当に選べば終わりだ。

 気怠げな店員のお兄さんに料金を払って素早く退店する。


「遅い」


 三分もかからなかったと思うが、赤錆さんの評価は厳しい。詫びの品を買っておいてよかった。


「付き合わせちゃってごめん。お詫びにこれ。ココアで大丈夫?」

「許したげる」

「ありがとう。途中の公園で飲んでいこうか。あそこのベンチって屋根ついてたよね」

「丁重にもてなしなさい」


 尊大な態度の赤錆さんを連れて再び雨の下に身を晒す。

 とうとう霧吹き状にまで小さくなった雨粒は知覚できないほど細やかだが、赤錆さんは隣でいそいそと傘を広げている。

 また気恥ずかしい時間を過ごさなければならないようだ。周りに人がいないことを確認してから、傘を受け取って歩き始める。


「あ、カップ麺」


 道路に気を配っている隙に袋の中身を覗かれた。

 デリカシーに欠ける行いを視線で咎めてみたが、赤錆さんは太々しく鼻を鳴らすだけで、反省の色はまったく見えない。僕が同じことをしたら絶対怒るのに。


「体に悪いからやめろって言ったじゃない」

「たまにはいいだろ」


 母さんもそうだが、どうして彼女達はカップ麺を毛嫌いするのだろう。早くてそこそこ美味いので、そんなに悪いものじゃないと思う。


「そんなの食べるくらいならウチで食べてけばいいのに。ママもいつでも来てって言ってたよ」

「普段はちゃんとしたもの食べてるから大丈夫だって」


 赤錆さん一家には随分とお世話になっていて、ご馳走になったことも何度かあるが、それが常習化することは避けたい。

 甘えることに慣れてしまえば、今の関係が崩れてしまう。自分達でできることは極力頼りたくない。

 赤錆さんは納得していない意思を眉間の皺で表しているが、放っておけば治るはずだ。

 若干ひりついた雰囲気に気がつかないふりをしながら数分歩いたところで、目的の公園が見えてきた。

 大きな汽車の遊具があることから、きしゃぽっぽ公園と呼ばれている公園だ。小さな子供達に人気のある遊び場所だが、悪天候のせいか今日は僕達の他に誰もいない。

 水溜りを跨いで公園に入り、無人のベンチに腰を下ろす。アーチ状の屋根が架かっているので濡れる心配はない。

 傘を畳んで立てかけて、ビニール袋からココアと自分用の缶コーヒーを取り出す。

 少しだけ、見せつけるようにしながら。


「はい、どうぞ」

「ありがと。……包介、コーヒー飲めるの?」

「え? ああ、うん」


 食いついた。

 思惑に気付かれないように、平静を装って返事をする。

 僕が買ったのは微糖の缶コーヒーだ。

 今回のおごりは赤錆さんのご機嫌取りもあるけれど、本当の狙いはコーヒーが飲める大人な一面を印象付けることにあった。

 赤錆さんはどうにも、僕を子供扱いしているきらいがある。

 それが普段の横暴な振る舞いに繋がっているのだとしたら、大人な僕を演出することで扱いが改善するはずだ。

 もちろん、ブラックコーヒーの方が効果的だと考え試し飲みもしてみたが、僕の舌には苦すぎた。苦味控えめの微糖は妥協案とも言えるが、渋い色合いの缶は十分に大人っぽいと思う。


「あたし、缶の微糖は甘すぎるからあんまり好きじゃないけど」

「え!?」


 赤錆さんは僕より大人だった。

 こんなことなら、僕もココアにしておけばよかった。缶のプルタブを開けてやけくそ気味に流し込む。ほどよい甘さに感じるのは、僕の舌が子供だからだろうか。


「……久しぶりにコーヒー飲みたい。ちょっと頂戴」


 僕の返事を待たずに赤錆さんが横から缶を掠め取る。回し飲みは行儀が悪い気がしてやらないようにしているが、赤錆さんはお構いなしだ。

 彼女は音を立てずにコーヒーを啜ると、僕にココアを差し出した。


「包介、ココアの方が好きでしょ。はい」


 僕のくだらない見栄は最初からお見通しだったようだ。

 得意そうに細められた瞳に僕の姿はどう映っているのだろうか。憧れの紳士然とした大人の男でないことは確かである。

 ココアを受け取ってストローに口を付けると、赤錆さんは薄く笑った。


「じゃあ交換」

「え、僕まだ一口も飲んでないよ」

「遅いあんたが悪いのよ」


 缶を押し付けられてしまえば断ることはできない。

 渋々ココアを返すと、赤錆さんは満足そうに飲み始めた。

 この程度の我が儘は日常茶飯事だ。諦めの溜め息を噛み殺して缶コーヒーを呷る。


「はあ、ご馳走さま」


 一足先に飲み終えた赤錆さんがカップを置く。

 僕の方はまだ中身が残っているが、なんとなく空気を読んで同じように缶を脇に置く。

 彼女は物憂げな目でそれを眺め、短く息を吐いた。


「包介はこの後どうすんの」

「この後? うーん、普通に帰って本でも読もうかな」

「つまんな」

「つまらなくはないよ」


 書籍から学ぶことは多い。

 小説や雑誌、実用書に専門書と種類は様々だが、そのどれもに著者の思想や知識が詰め込まれている。

 本とは謂わば著者の人生の集大成と言えるもので、対面することなく人々の経験に触れられるのは読書ならではの魅力だ。

 実践派の赤錆さんには上手く伝わらないかもしれないが、一つの趣味の形として理解してもらいたい。

 もっとも、僕がいくら力説したところで気持ち悪いの一言で切り捨てられるのがオチだ。自分の言葉が悲しくなるくらい軽いことは、嫌というほど自覚している。


「……やっぱりウチ来たら? ご飯とかは別で」

「いや、遠慮しとくよ。もうすぐ四時になるし」

「時間は関係ないでしょ?」

「あると思うよ。ほら、遅くまでいると御両親のご迷惑になるから」

「気にしないって言ってるじゃん」

「僕が気にする。心遣いはありがたいけど、それに甘えるのは良くないと思うから」

「あっそう!」


 赤錆さんが語尾を荒げて立ち上がった。よく分からないが、うっかり地雷を踏んでしまったようだ。


「包介っていっつもそう! いくら誘っても言い訳ばっか。嫌なら嫌って言えばいいじゃん!」

「嫌なわけじゃないよ。僕は、急に訪ねたら迷惑になるだろう、って一般論を話してるだけで」

「じゃあ前から約束してればいいってこと!?」

「それは都合によるけど」

「ほらやっぱり!!」


 たしかに僕は付き合いが悪いが、だからといって強制される筋合いはない。

 しかし、頭に血が上った赤錆さんとまともに話せるとは思えない。

 このまま言い合っていても平行線が続き、最終的に僕が殴られる未来が目に見えている。場を収めるにはこちらが折れるしかない。


「……分かった。それじゃあ、次からは気をつける」

「次っていつ」

「え、日にちまで決めるの?」

「当たり前でしょ!!」

「怒鳴らなくても聞こえるよ……」

「あんたがイラつかせてんのよ!!」

「わ、分かったよ、ごめん。ええっと、来週で空いている日はある?」

「来週? 来週……そうね、日曜なら空いてる」

「休日はちょっと」

「はあ!?」

「あ、あの、僕、私服ダサいからさ。制服の方が嬉しいな、なんて」


 休日はしっかりと睡眠を取り、学校に向けて体調を整えるのが僕の信条だ。

 遊ぶ約束をした日の赤錆さんは、やたらと早くに起こしに来て、夕方までみっちり振り回されることになるので非常に疲れる。彼女には悪いがここは譲れない。


「分かったわよ。それじゃ、月曜日……は用事あるから、火曜日。それならいいでしょ?」

「うん。火曜日でお願いします」


 どうにか折り合いがついたみたいだ。

 太々しくベンチに腰を下ろす赤錆さんを見ていると、約束一つ取り付けるには過剰な心労がどっと押し寄せて来た。

 このままではとてもやってられないので、コーヒーでも飲もうと缶に手を伸ばす。


「あっ」


 手が滑った。

 使い古された表現だが、実際に経験するのは初めてかもしれない。

 僕の指先は濡れた缶の表面を舐め、すり抜けたそれは地面に向かって落下した。

 僅かに残った中身が溢れて、敷かれた砂利が濁った茶色に塗り潰されていく。

 それだけなら、もったいないで済んだ。

 しかし、雨の日の僕は、そんな安い不運では収まらない。

 溢れたコーヒーが赤錆さんの靴先を濡らしている。


「ねぇ包介。これ、どうするの」


 あやすような柔らかい声音。

 だというのに、冷や汗が止まらない。


「は、はい。洗って返します」

「そうね、洗えば落ちるわね。でも、あたしが言いたいのはそういうことじゃないの。分かるよね?」

「……はい」


 頭や腹を叩かれるのは、それほど苦ではない。いずれ痛みはひいていく。今朝の股間への強打も思い出すだけで縮みあがりそうになる一撃だったが、苦闘の末に乗り越えることができた。

 だが、赤錆さんが下す処罰はそんな優しいものではない。

 赤錆さんは僕が最も苦手とするものをよく知っていて、それを容赦なく振り翳す冷徹さを併せ持っている。

 彼女は僕の青白く変色しているであろう顔を舐め回すように観察した後、丸く大きな瞳を獰猛に細め、にっと口角を吊り上げた。

 桜色の唇が仄かな水気と共に開かれて、薄く息を吸い込むのが見える。


「ねえ、今日はどんな怪談がいい?」

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