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第5話 雨上がりの虹と、至高のウェディングケーキ

「じ、ジュリアン様……? マリア……!?」


大ホールの重厚な扉を突き破るようにして飛び込んできた人影に、シャルロットが思わず肩をすくめる。

その瞬間、彼女の腰を抱くヴェインの腕にぐっと強い力がこもり、シャルロットの華奢な身体を完全に己の厚い胸の中へと抱き込んだ。


「シャルロット! お前、こんなところで男の膝に乗って何を遊んでいるんだ! お前が屋敷を捨てて逃げ出したせいで、子爵領の作物は一粒残らず枯れ果て、井戸水は腐り落ちたんだぞ! 今すぐ屋敷に戻ってクッキーを焼き、粉砕して畑に撒け! 公爵閣下をどんな狐惑の毒で騙したかは知らんが、攻撃魔法の一つも使えない無能が、この最高峰の公爵家に相応しいわけがないだろう!」


ジュリアンは血走った目をギラつかせ、汚い唾を散らしながら怒号を上げた。その着衣は泥と汗で皺だらけになり、かつての気取り屋の面影はない。領地の破綻と莫大な負債により、精神的に限界まで追い詰められているのは明白だった。


その脇で、派手なドレスを泥で汚したマリアもキーキーと甲高い悲鳴を張り上げる。


「そうよ、お姉様! 嘘をついて公爵閣下に甘えるなんて身の程知らずですわ! 戦闘の役にも立たないクッキー焼きの下女の癖に、公爵夫人なんてお笑い草ですわよ!」


二人の醜い喚き声が、高天井の大ホールにけたたましく響き渡る。


——静寂。


次の瞬間。


ドォォォォォォンッ!!!!!!


大ホール全体の天球が凄まじい軋みを上げ、大気が物理的な質量を持った不可視の重圧となって、一瞬で室内に叩き落とされた。足元の石畳に微細な亀裂が入るほどの激しい魔圧。


「ひっ……!? ガ……ッ!?」


ジュリアンとマリアは膝の皿を割らんばかりの勢いで床へ崩れ落ち、悲鳴すら上げられずに這いつくばらされた。呼吸すら許されない高密度の殺気が、二人の胸郭を容赦なく押し潰す。


見上げる先——ソファからゆっくりと立ち上がったヴェインの双眸は、まるで凍りついた極北の氷河のように冷徹で、絶対的な死の気配を孕んで二人を見下ろしていた。


「……誰の許可を得て、我が城で汚い地獄の声を張り上げているのだ? 泥ブタども」


低く、地鳴りのように腹へ響く声。

それだけでジュリアンたちの皮膚から血の気が完全に引き、唇は紫色に変色していく。


「ぐ……っ、こ、公爵閣下! 騙されてはいけません! その女は我が家を追放された、ただの役立たずで……っ!」

「黙れ。我が最愛の婚約者シャルロットを、二度とその汚い口で侮辱してみろ。一瞬でその舌を引き抜き、全身の骨を粉砕して頭から肉みじんにしてやる」


ヴェインの背後から、噴出する漆黒の魔力とともに赤黒い古龍の幻影が立ち上り、大気を揺らすような凶悪な咆哮を上げた。

ジュリアンとマリアは恐怖のあまり失禁し、ガクガクと顎を狂ったように震えさせる。


「君たちが『無能』と蔑んで投げ捨てたシャルロットの焼き菓子……それこそが、我が身を苛んでいた不治の『龍血の呪い』を根こそぎ浄化し、我が公爵家に無限の繁栄をもたらした『創世の神聖魔力』の結晶だ。彼女こそ、皇国が数百年間待ち望んでいた伝説の真なる【聖女】なのだよ」

「せ……聖女……!? あ、あんなクッキーしか焼けない陰気な女が……!?」

「フン、まだ気づかなかったのか? 君たちの領地が今まで豊かだったのは、シャルロットが日常的に焼いていた菓子と淹れていたお茶の余波で、地脈の不浄が完璧に浄化されていたからだ。生地を焼き上げる際の熱伝導と水分の相変異に伴い、彼女の高純度な神聖魔力が大気と地下水脈へと拡散されていたのだよ。彼女という極上のシステム基盤を追放したことで、君たちの領地は本来の腐りかけた不毛の地に直行しただけに過ぎん」


ヴェインは冷酷に言い放つと、パチンと優雅に指を鳴らした。


「子爵家の長年の税金滞納、領民に対する不当な虐待、ならびに皇国の聖女に対する不敬罪および不当追放の罪により——ジュリアン子爵家は本日をもって爵位を剥奪、全財産を没収とする。二人には北方の極寒の鉱山での終身強制労働を命じる。連れて行け」

「な……っ!?!? そんな……! 助けてシャルロット! 僕たちは婚約者だったろう!?」

「お姉様! 助けて! 私、冷たい鉱山なんて嫌よぉぉぉぉっ!!」


泥と涙に塗れて見苦しく叫ぶ二人だったが、一切の容赦なく黒甲冑の親衛隊たちに両腕を拘束され、ズルズルと大ホールの外へ引きずり出されていった。


シャルロットは静かにその光景を見送り、小さく息を吐いた。

かつて自分を苦しめ、虐げてきた家族。だが、現在のシャルロットの心には、一片の未練も哀しみも残っていなかった。


「シャルロット、怖かったか?」


ヴェインが威圧感をすっと消し去り、壊れ物を扱うように優しくシャルロットの手を包み込む。


「いえ……ヴェイン様が守ってくださったから、少しも怖くありませんでした。それに……私、自分の本当の居場所がどこなのか、はっきりとわかりましたから」


シャルロットが心からの笑みを浮かべると、ヴェインの胸に耐え難いほどの愛おしさがこみ上げた。彼はシャルロットを力強く抱きしめ、その額に深い誓いのキスを落とした。


*


ヴァルハイト城の大聖堂には、数日前の雨など幻であったかのように、眩い太陽の光が降り注いでいた。

澄み切った蒼穹に、大きな七色の双虹が鮮やかに架かる。ヴェインの冷気魔法で上空に微小な氷晶を整列させ、光魔法の屈折率を高度に計算・干渉させて創り出された、完璧にコントロールされた気象魔法の極地たる吉日。


今日、皇国史に永久に刻まれる世紀の結婚式が執り行われていた。


パイプオルガンの重厚で清らかな音色が聖堂内に響き渡る。

高窓から差し込む日光が、ウエディングドレスに身を包んだシャルロットを眩いばかりに照らしていた。


最高級の純白シルクと繊細なベルギーレース、そして贅沢に散りばめられた本真珠。

かつて酷使されて荒れ果てていたシャルロットの手は、毎日のハーブオイルのケアとヴェインの手厚い愛によって、白磁のように滑らかで美しい手に生まれ変わっていた。


白銀の飾りが施された漆黒の礼服に身を包んだヴェインは、階段を登ってくるシャルロットの手を恭しく取ると、感極まったように琥珀色の瞳を潤ませた。


「綺麗だ……シャルロット。世界中のどの宝玉よりも、君の方がずっと美しい」

「ヴェイン様も……すごく素敵です」


神父の前で交わされる永遠の誓い。

そして、挙式後の盛大な披露宴のメインイベント——それは、新婦自らが大厨房に立ち、完璧な魔力循環のもとで焼き上げた伝説の『ウェディングケーキ』のお披露目だった。


ガラガラと音を立てて運ばれてきたのは、高さ一メートルを超える、豪華絢爛な三段仕立ての生クリームケーキ。


絹のように滑らかな純白の生クリームの波紋。甘酸っぱい摘みたての真っ赤な苺。

側面には繊細な砂糖工芸(シュガークラフト)で模した美しい薔薇の花々が咲き誇り、最高級バニラビーンズの甘く濃厚な香りが広場全体を満たしていた。


「さあ、最初の共同作業だ」


ヴェインとシャルロットが一緒に大刀のような儀礼用ナイフを握り、ケーキの第一層へと滑り込ませる。

すうっ……と吸い込まれるように刃が入り、フワフワのスポンジと濃厚なクリームが綺麗に切り分けられた。


そして、お決まりのファーストバイト。

シャルロットが銀のフォークに大きなケーキの一片を載せ、頬を染めながらヴェインの唇へと運ぶ。


「あーん……してください、ヴェイン様」

「あー……」


パクリ。


ヴェインがケーキを口に含んだ瞬間——!!


——ドォォォォォォォンッ!!!!!!


大聖堂の上空に、巨大な祝福の光の柱が天を突くように立ち上った!


口の中でしゅわっと解ける極上のスポンジケーキ。濃厚でありながら後味が奇跡的なほど軽やかな生クリームの甘みと、甘酸っぱい苺の果汁が口内で弾け飛ぶ。


その瞬間、披露宴に参列していた何千人もの貴族や兵士たちの全身から、溢れんばかりの活力と幸福感が爆発した。

長年の持病が即座に完治し、老兵の曲がった腰が伸び、魔法使い達の枯渇していた魔力が一瞬で全快する。国家規模の膨大な医療・維持コスト(ヒーリングコスト)が、この一口によって一瞬で「ゼロ」へと上書きされた瞬間であった。


「う、美味すぎる……!! なんだこの美味さは!!」

「体が……長年苦しんでいた古傷の痛みが消えたぞ!?」

「これぞまさに、天界の神々すら嫉妬する至高の祝福(アンブロシア)だーっ!!」


参列者たちが歓喜の声を上げ、地鳴りのような拍手が巻き起こる中、ヴェインは愛おしさが限界を突破した。

彼はシャルロットの細い腰を引き寄せると、その口元に残った生クリームごと、彼女の唇を深く、激しく奪った。


「ん……っ!? ヴェ、ヴェイン様……っ! んチュ……っ」


甘いクリームの味が二人の口内で混ざり合い、熱い舌が絡み合う。甘美な痺れが全身の神経を駆け抜けていく。


深く長いキスの後、顔を真っ赤にして息を荒らげるシャルロットを、ヴェインは愛おしげにお姫様抱っこで抱き上げ、耳元で甘く囁いた。


「ヴェイン様!? みんなが見ています……っ!」

「構わん。君があまりにも愛おしすぎて、もう我慢の限界だ。……さあ、部屋へ戻ろう、我が愛しい聖女様」


ヴェインはシャルロットを腕の中に大切に抱きすくめながら、深く熱い眼差しで見つめた。


「これからの人生、毎日私に美味しいお菓子を焼いてくれるか?」


シャルロットはヴェインの首にそっと腕を回し、心からの満面の笑みを浮かべた。


「はい……! ヴェイン様が美味しそうに食べてくださるなら、私、一生いくらでも焼き続けます!」


雨上がりの大空には、どこまでも鮮やかな七色の双虹が架かっていた。


(ふはは、素晴らしい。これで我が軍の兵站維持コストは恒久的にゼロ、かつ魔力の最大出力は1000%を超える。シャルロット、君を狙う隣国の大帝国など、明日にも市場データごと踏み潰して世界を平定して見せよう。……まずは手始めに、明日提出される軍事予算書の数字をすべてゼロに書き換える手続きからだな)


ヴェインの脳内では、すでに世界秩序をハックするための次なる戦略シミュレーションが完了していた。


追放された無能な少女と、冷酷と呼ばれた公爵様の、世界で一番甘くて知的な溺愛生活は、世界を震撼させながらどこまでも永遠に続いていくのだった。


(完結)

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