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未来の自分から能力を前借りする俺は、どっちも諦めない  作者: 綴木 灯
何も諦めない

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1/25

三秒の返済

朝食の途中で、リオの右手から力が抜けた。


持ち上げかけていたジャムの瓶が、こつん、と皿に戻る。


向かいにいたヴァンは眉ひとつ動かさなかった。代わりに、湯気の立つポットを自分の側へ引き寄せる。


「何秒」


「三」


昨日、三秒だけ未来の自分から握力を前借りした。


前借りした時間ぶん、あとで同じ力が使えなくなる。


いまが、その三秒だった。


「短いな」


「三秒しか借りてないから」


リオは右手を膝に置いた。


リオは一度、指を握り込もうとした。


まだ力が入らない。


ヴァンが黒パンをひと口かじる。


もう一度。


まだ。


三秒目が終わったところで、ふっと力が戻った。


リオはジャムの瓶をつかむ。


今度は持ち上がった。


「終わり」


ヴァンはポットを戻した。


「これで?」


「握力の返済は終わり。脚が一秒、平衡が一秒、まだ返済待ち」


返済待ちが積み上がるほど、次に前借りできる時間は減る。


未返済で持てるのは、全部合わせて十秒までだ。


「未返済は二秒。なら今日は、まだ大きく一回くらいだな」


「一回あれば、だいたい何とかなる」


「昨日もそれ言ってた」


「何とかなっただろ」


ヴァンは答えず、黒パンをちぎった。


そのタイミングで、宿の入口が勢いよく開いた。


冷たい朝の風と一緒に、濡れた外套の男が入ってくる。食堂を見回し、奥の卓にいたリオたちを見つけると、そのまま真っ直ぐ歩いてきた。


「冒険者のリオとヴァンって、あんたらか?」


ヴァンがパンを置く。


「そうだけど」


男はほっとした顔をした。


「薬箱を取ってきてほしい。北の旧中継所だ」


「旧中継所?」


リオはジャムを塗る手を止めた。


「あそこ、昨日の増水で閉めたはずだろ」


「閉めた。人も出した。……つもりだった」


男は息を整えるように一度唾を飲んだ。


「上の倉庫に、防水の薬箱が一つ残ってる。熱病用だ。昼の放水が始まったら、下の階は完全に沈む」


ヴァンが窓の外を見た。


空は明るい。けれど、北の方角だけ雲が低い。


「放水まで?」


「鐘二つ。急げば間に合う」


「報酬は」


リオが聞くと、男は一瞬だけ顔をしかめた。


ヴァンが横目で見る。


「聞くだろ、そこは」


「助かる」


男が提示した額は悪くなかった。


むしろ、朝食を途中で切り上げるには十分だった。


リオは残った黒パンを二つに折り、片方を口へ押し込む。もう片方を布に包んで腰袋へ入れた。


ヴァンが立ち上がる。


「返済待ちは、脚と平衡だったな」


「うん」


「また借りるなら、先に言えよ」


「必要なら」


「必要でも先に」


「はいはい」


「今日は、大きく借りるのは一回で済ませろよ」


「分かったって」


リオは笑って、椅子の背に掛けていた短剣帯を取った。


*


北の旧中継所は、町から歩いて半刻ほどの場所にあった。


川沿いの荷を積み替えるために使われていた石造りの建物で、いまは半分が水に囲まれている。


岸には小舟が一艘つながれ、依頼人の男がそこで待つことになった。


「俺も行く」


と男は言ったが、ヴァンが首を振った。


「泳げる?」


「……いや」


「じゃあ外」


男は不満そうだったが、反論はしなかった。


リオは腰の巻き縄を確かめる。


ヴァンは長槍の石突きで足元を叩きながら、水の中へ入った。


膝まで。


三歩先では腿まで。


床が見えない。


「右」


ヴァンが言う。


「左、抜けてる」


リオは頷いて、ヴァンが槍で探った場所へ足を置いた。


中継所の扉は、水圧で半分しか開かなかった。


二人で押し込み、体を横にして中へ入る。


建物の中は暗く、壁際を濁った水が流れていた。


「上の倉庫」


ヴァンが短く言う。


階段はまだ残っている。


二階へ上がると、水音が少し遠くなった。


薬箱はすぐに見つかった。


棚の一番上。


木の箱に金属の縁がつき、蓋には赤い封蝋が残っている。


リオが持ち上げる。


「重い」


「持てる?」


「持てるけど、これ抱えてあの水は嫌だな」


「嫌で済むなら持て」


「はい」


そのときだった。


下から、三度。


金属を叩く音がした。


二人とも動きを止める。


少し間があいて、もう一度。


三度。


ヴァンが先に階段へ向かった。


「人だ」


リオも薬箱を抱えたまま続く。


一階の奥。


水の向こうに、鉄格子のような保守扉があった。


その向こう側で、男が肩まで水に浸かっている。


「おい!」


ヴァンが叫ぶ。


男が顔を上げた。


「こっちだ! 扉が歪んで開かない!」


保守員か測量役らしい。腰に工具袋が下がっている。


ヴァンは水へ入り、扉まで進んだ。


槍を差し込み、力をかける。


鉄が軋む。


開かない。


「蝶番じゃない。向こうの留め具が噛んでる」


ヴァンが言う。


「裏へ回れる?」


リオは周囲を見た。


正面の通路は水で塞がれている。


横に細い整備棚。


その上を辿れば、奥側の階段へ回り込めそうだった。


ただし途中の床板が数枚落ちている。


下は流れの速い水路だ。


薬箱を抱えては無理だ。


薬箱を置いて男を助けに行けば、戻る頃には水位が上がる。


ヴァンも同じ計算をしたらしい。


「箱は捨てる」


即答だった。


「人から出す」


リオは返事をしなかった。


箱。


扉。


壁。


二階から岸へ伸びる古い荷役索。


窓の外を通って、川岸の滑車台まで続いている。


まだ切れていない。


リオは薬箱を床へ置いた。


「箱、流す」


ヴァンが振り返る。


「何?」


「上の荷役索。外まで通ってる」


「台車は錆びてるだろ」


「台車はいらない」


リオは腰の鉤を外した。


太い荷役索に掛け、二度引く。


保つ。


薬箱の取っ手へ短縄を通し、鉤に結ぶ。


ヴァンは一目見て、窓辺の余り縄を取った。


「そのまま送ったら支柱に突っ込む。減速つける」


短縄にもう一本を足し、窓枠へ一巻きする。


それから外へ身を乗り出した。


「おい! 索の終端、支柱の内側に立て! 箱が来たら取っ手をつかめ、索には触るな!」


岸の男が慌てて移動する。


リオはヴァンを見る。


「完璧」


「送るのはお前だろ」


リオは窓を開けきった。


「薬箱、そっちへ送る!」


外の男が両腕を広げる。


「来い!」


ヴァンが減速縄を握った。


リオは押した。


薬箱が荷役索を滑る。


最初は遅い。


途中から一気に速くなった。


「速い!」


岸から声が飛ぶ。


「ヴァン!」


「分かってる!」


ヴァンが縄を締める。


箱の速度が落ちた。


岸の男がどうにか抱き止める。


ヴァンは一度だけ箱の行方を確認すると、もう保守扉へ向き直っていた。


「で。裏へ回れるか」


リオも整備棚を見る。


普通に渡れば、時間がかかる。


濡れた板の上を慎重に進み、欠けたところを縄で越える。


その間にも水は増える。


「回る」


「借りる?」


「借りる」


ヴァンの表情が変わる。


止める気配ではない。


何を、どれだけ使うか待っている。


リオは板の端へ片足を置いた。


「脚、四秒」


息を吸う。


「平衡、四秒」


合計八秒分の未来が、いまの四秒へ重なる。


一歩。


板が沈む。


いつもなら一歩使って立て直す傾きを、足首と腰が半歩で押し返した。


二歩。


欠けた床板の手前で踏み切る。


右足が奥の梁を捉える。


滑る。


けれど、流れた重心を脚が強引に引き戻す。


三歩。


壁を蹴る。


濡れた手すりを越える。


四秒が終わるころには、リオは奥側の階段へ飛び込んでいた。


上乗せが消える。


脚はいつもの脚に戻る。


あとは自分で走ればいい。


リオは階段を駆け下り、保守扉の裏へ回った。


「留め具どれ!」


向こうから男が指を差す。


「下! 水の中!」


リオは腕を突っ込んだ。


冷たい。


見えない。


指先で金属を探る。


一つ。


違う。


二つ目。


噛んだ留め金。


引く。


動かない。


「ヴァン!」


「いる!」


扉の向こうから返事が来る。


「押して!」


槍の柄が鉄扉へ当たる音。


リオは留め金を引いた。


ヴァンが押す。


一度。


二度。


三度目で、金属が外れた。


扉がこちらへ弾ける。


水と一緒に男が流れ込んできた。


リオが腕をつかむ。


ヴァンが反対側から肩を引く。


「立てるか!」


「たぶん!」


「たぶんは禁止!」


「立てる!」


「よし!」


三人で階段へ戻る。


背後で何か大きなものが崩れる音がした。


リオは振り返らなかった。


*


外へ出たとき、岸の男は薬箱を抱えていた。


服は泥だらけだったが、箱は無事だった。


「取れた……」


息を切らしながら、男が言う。


「落ちるかと思ったぞ!」


「落ちても防水」


「そういう問題じゃない!」


ヴァンが吹き出した。


助け出した男は地面に座り込み、咳をしている。


それでも薬箱を見ると、目を丸くした。


「それも持ってきたのか」


「先に外へ出した」


リオが言う。


男は中継所を振り返った。


水位はもう、入ったときより明らかに高い。


「普通、どっちか諦めるだろ」


リオも振り返った。


沈みかけた建物。


泥だらけのヴァン。


岸で薬箱を抱えた依頼人。


座り込んでいる男。


全部ある。


「まだ両方あったから」


そう言うと、ヴァンが少し目を細めた。


「その顔やめろ」


「どの顔」


「次もやれると思ってる顔」


リオは薬箱へ目をやった。


それから、助け出した男を見る。


「やれるときは」


ヴァンはため息をついた。


でも、その口元は少し笑っていた。

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