第五章「おっと国家機密漏洩だー!」
すべての始まりは、一枚の地図だった。
いや、正確には——地図を持ったままうっかり間違った扉を開けた私の、方向音痴が原因だった。
その日、私はクロード卿に連れられて王宮の一角を訪れていた。
実況に関する能力調査の一環で、王宮付きの魔術師団に話を聞きに行くという名目だった。
魔術師団の執務室は東棟の三階にある。
私はクロード卿の二歩後ろを歩きながら、渡り廊下の途中でふと足を止めた。
「……ヴァルナー卿、魔術師団はこちらでしたか?」
「いいえ。一つ手前の角を曲がります」
「あ……では、わたくし、一つ先の角を曲がってしまいまして」
クロード卿が振り返った。
彼の目が「なぜ離れたのですか」と語っていた。
口には出なかった。
口には出なかったが、目が全部言っていた。
「申し訳ありません。戻ります」
踵を返しかけた、その瞬間、私が来た方向の扉がひとりでに開いた。
いや、正確には——扉を開けようとした人と、廊下を歩いていた私が、見事に鉢合わせた。
扉を開けたのは、銀髪の老将軍だった。
胸に勲章をいくつも重ねた、いかにも大物という風格の人物だ。
老将軍は私を見た。
私は老将軍を見た。
開いた扉の向こうから、複数の声が聞こえた。
地図を広げる音、羽根ペンが走る音、そして——
「北方の第三関所ですが、兵力の再配置を——」
扉が開いている。
その向こうは広い部屋で、軍服を着た人々がテーブルを囲んでいた。
壁には大きな地図が貼られ、そこには王国の国境線と、矢印が書き込まれていた。
軍議だ、と気づくのに、三秒かかった。
「……失礼いたしました、わたくし道を間違えて——」
下がろうとした。
本当に、下がろうとした。
しかし。
『おっとここで王国軍部の作戦会議に主人公が乱入! これは大変! しかし今見えた地図、北方への進軍ルートが一本しか描かれていませんね! あの地形、ガルナ渓谷を通るルートですが、東側の山道を使えば三方向から挟撃できますよ!? この作戦、敵に地形を知られていたら終わりますねぇ!』
室内が、しん、と静まり返った。
私も固まった。
クロード卿が廊下の向こうから早足でこちらへ来るのが見えた。
来るのが早かった。
早かったが、実況は彼より速かった。
老将軍の顔が、みるみるうちに変わった。
驚きが、それから困惑が、最後に——鋭い何かが、その目に宿った。
「……今の声は」
「も、申し訳ありません、これはわたくしの実況で、意図的なものでは——」
『さらに申し上げますと、この作戦書を起草した人物、現在この部屋に三名おりますが、そのうち一名、左奥の席の方、先ほどから非常に落ち着かない様子ですよ! 地図の件を聞いてから顔色が変わりました! これは——』
「黙れ!!」
怒鳴り声が飛んだ。
部屋の左奥から、中年の軍人が立ち上がった。
その人物の顔が、汗ばんでいた。
声が裏返っていた。
室内の全員の視線が、その人物へ集まった。
私は息を呑んだ。
◆
その後の展開は、私には少し早すぎた。
怒鳴った軍人が逃げようとした。
クロード卿が廊下から飛び込んで取り押さえた。
その動作があまりにも迷いなかったので、私はただ壁際に立ち尽くしていた。
老将軍が静かな声で命じた。
「拘束しろ。尋問にかける」
拘束された軍人は何か叫び続けていたが、連行されていく扉の向こうへ消えた。
部屋に残ったのは、私と老将軍と、数名の軍人たちだった。
老将軍が私の前に立った。
背が高い。
顔に刻まれた皺の一本一本が、長い年月を物語っていた。
「ローゼン嬢だな」
「……はい。ミレイユ・ローゼンと申します。本日は大変なご迷惑を——」
「迷惑ではない」
老将軍は静かに言った。
「あの者の素性は、以前から怪しいと思っていた。だが証拠がなかった」
「……」
「そなたの実況がなければ、我々はあのまま欠陥だらけの作戦を実行し、北方で多くの命を失っていたかもしれぬ」
重い言葉だった。
私は返事ができなかった。
『おっと老将軍バルドウ元帥、主人公に対して正式な評価を下しました! 迷惑ではないとの言葉、これは本心です! 主人公、予想外の言葉に言葉を失っています! 珍しい!』
元帥がわずかに目を細めた。
実況を聞いたからではなく——笑いをこらえているような表情だった。
「実況令嬢とは、よく言ったものだ」
「恐縮でございます」
「褒めているのだ、遠慮するな」
元帥は短く笑った。
それから、クロード卿に向かって言った。
「ヴァルナー。この令嬢の護衛、しっかり頼むぞ。これほどの能力、敵の目に留まらないはずがない」
クロード卿は背筋を正して答えた。
「はい。その点については、すでに最大限の注意を払っております」
元帥が退室した後、部屋には私とクロード卿だけが残った。
しばらく沈黙が続いた。
沈黙の中で、私は徐々に現実を飲み込もうとしていた。
うっかり道を間違えた。
軍議に乱入した。
スパイが発覚した。
この流れに、必然性が見当たらなかった。
「……ヴァルナー卿」
「はい」
「わたくし、何かとんでもないことをしましたか」
クロード卿は少し間を置いた。
「結果的には、よいことをしました」
「結果的には、という部分が気になりますわ」
「意図的ではなかった、という意味です」
「はい、意図的ではありませんでした」
「わかっています」
彼はそう言いながら、長いため息をついた。
今まで聞いた中で、一番長いため息だった。
◆
事件は翌日、軍部の内部で処理されたが、そのさざ波は静かに広がっていった。
拘束された軍人が敵国の工作員と繋がっていたことは、数日後に上層部の間で確認された。
私はその詳細を直接知らされたわけではなかったが——
『なお本日の王宮内部情報によりますと、拘束されたレーマン大佐の背後には敵国ヴァルガ王国の情報部が関与していたとの調査結果が出た模様です! 国内に複数の協力者がいた可能性もあり、軍部は現在全部署を再調査中とのことです!』
リナが紅茶を運んできた手を止めた。
父が新聞から顔を上げた。
クロード卿がこめかみを押さえた。
「……ローゼン嬢」
「はい」
「それは今どこから」
「わかりません。見えたものが出てくる、としか」
クロード卿は静かに立ち上がり、窓の外を確認した。
それから扉を確認した。
それから私を見た。
「今後、その種の情報が出た際は、すぐに私に報告してください」
「わかりました。ただ、いつ出るかはわたくしにも——」
「わかっています。ただし出た後でいいので」
「……善処いたします」
彼のこめかみがまた動いた。
善処、という言葉への反応だと、最近わかってきた。
善処、と私が言うたびに、彼の顔のどこかが微かに動く。
おそらく、善処という言葉を信用していない。
信用していないが、反論する根拠もない。
そのジレンマが顔に出ているのだろう、と私は思っていた。
『おっと騎士団長、主人公の「善処」という言葉に対してすでに条件反射的な反応が形成されています! これは一種のトラウマ形成とも言えます! 一週間足らずでここまで来るとは、なかなかのペースです!』
「……一週間です、まだ」
クロード卿が、珍しく自分で言葉を返した。
実況に対して自分から反応したのは、これが初めてだった。
私が少し目を丸くすると、彼は小さく咳払いをして視線をそらした。
「失礼しました。独り言です」
「……はい」
『おっとここで騎士団長、実況に対して思わず口を挟みました! 防衛線が少しずつ崩れています! 苦労人化が着実に進行中です!』
「……」
クロード卿は今度は何も言わなかった。
ただ窓の外を向いたまま、もう一度、静かにため息をついた。
その横顔を見ながら、私はふと思った。
この人は、本当に真面目な人なのだ。
真面目すぎるくらいに真面目で、だからこそ私の実況という理不尽に対しても、怒鳴りもせず、投げ出しもせず、ただ淡々と対処し続けている。
それが少し、すごいと思った。
思ったが、口には出さなかった。
出す前に、実況に先手を取られるのが嫌だったから。
『おっと主人公、何か言いたそうにして結局やめました! 珍しい自制心の発揮です! 何を考えていたのでしょうか!』
「……なんでもありませんわ」
クロード卿がこちらを見た。
何も言わなかったが、少しだけ目が柔らかかった。
気のせいかもしれなかった。
気のせいかもしれなかったけれど、私は自分の頬が少し熱くなったので、慌てて紅茶を飲んだ。
熱かった。
いろいろな意味で。




