第三章「実況令嬢」
人というのは、噂が好きな生き物らしい。
貴族会議の翌日から、街の様子が変わった。
変わった、というより——騒がしくなった。
父の屋敷は王都の中心部から少し離れた区画にある。
普段であれば、朝の通りは商人が荷車を引き、子どもたちが走り回るくらいの、のどかな風景だ。
ところが翌朝、私が窓から外を眺めると、屋敷の門の前に人だかりができていた。
『おっとここで屋敷前に野次馬集結! 実況令嬢の人気、早くも沸点に達しつつあります!』
「沸点はやめてくださいませ……」
私は窓から慌てて顔を引っ込めた。
しかし遅かった。
門の外から、わあっという歓声が上がった。
どうやら窓に現れた私の顔が見えたらしい。
リナが飛んできた。
「お嬢様! 今日も朝から人が来ておりまして、もうすでに昨日の倍は……」
「倍」
「倍どころか三倍かもしれません」
私はそっと額に手を当てた。
昨日の朝刊が一面だったのだから、当然といえば当然かもしれない。
だが当然だとわかっていても、心の準備というものが追いつかなかった。
朝食を終えて居間へ移ると、父が新聞を三紙並べてテーブルに置いていた。
「全紙に出ている」
父の言葉は短い。
私は三紙を順番に手に取った。
王都の大手紙『王都朝報』には『実況令嬢、貴族の腐敗を一刀両断』とある。
中規模の『市民の声』には『神託か、魔術か——謎の実況声の正体』という見出し。
そして夕刊系の読み物紙『社交界通信』に至っては、一面に私の似顔絵まで描かれていた。
似顔絵は、まあ、上手かった。
上手かったが、頭上に音符のような波線が描いてあり、そこから「前代未聞のやらかし」という文字が出ていた。
私の似顔絵から出ている言葉がそれだった。
『おっと似顔絵付きで掲載! 画力も高く好意的な描写です! キャラクター人気、うなぎ登りの予感がします!』
「うなぎ登りにならなくていいんですの……」
父が静かに紅茶を飲んだ。
何も言わなかった。
優しさなのか諦めなのか、判別がつかない沈黙だった。
◆
問題は、外出しなければならない用事があったことだ。
父の遠縁にあたるフォルスター子爵家への挨拶回りが、以前から予定されていた。
婚約破棄という事態を受けて先方から「ご心配しております、ぜひ顔を見せに」という手紙が届いていたため、断るわけにもいかない。
馬車で出かけることにした。
できるだけ目立たないよう、地味な外套を羽織った。
帽子も深めにかぶった。
『おっとここで変装を試みるミレイユ嬢! しかし伯爵令嬢の所作と美貌は隠しきれません! むしろ地味な服装が品の良さを際立たせているというジレンマ!』
「黙ってくれたら隠せますのに……!」
馬車に乗り込む前から、すでに通りの人々がこちらを見始めていた。
実況の声が聞こえているのだろう。
一人が気づき、二人が振り返り、あっという間に人垣ができた。
「実況令嬢だ!」
「本物だ、本物がいる!」
「おい昨日の新聞の!」
嬉しそうな声だった。
害意はないとわかった。
わかったうえで、私の顔は盛大に赤くなった。
恥ずかしいというのとも少し違う。
ただひたすら、穴を掘って埋まりたい気持ちだった。
馬車がゆっくりと動き出した。
人々が手を振っている。
私は窓の外を向かないようにしながら、背もたれに深く沈み込んだ。
◆
フォルスター子爵邸に着くと、子爵夫人が玄関まで出迎えてくれた。
五十代の、丸みのある笑顔が印象的な女性だ。
「まあミレイユちゃん! 大変だったわねえ、アルベルト殿下ったら本当に失礼な! でもね、あの実況は痛快だったわよ? うちの旦那なんか朝刊を読んで笑い転げてたんだから」
子爵夫人は私の両手をぎゅっと握った。
笑顔が本物だとわかったので、少しだけ肩の力が抜けた。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ただ……あの実況は、わたくし自身にも止め方が」
「止めなくていいわよ! むしろ続けて!」
「は」
「だって昨日の貴族会議でしょ? 宰相があんなものを隠し持っていたなんて、庶民には絶対知らされなかったわよ? あなたのおかげで明るみに出たんだもの」
子爵夫人の言葉に、私は少し黙った。
確かに——という気持ちと、だからといって——という気持ちが、胸の中で半々にせめぎ合った。
『おっとここでフォルスター子爵夫人、主人公に対して力強い肯定を送りました! ミレイユ嬢、意外にもこれが初めての全肯定に動揺しております! 照れているのかもしれません!』
「動揺などして……少しはしておりますわ」
子爵夫人が声を立てて笑った。
さっぱりとした笑い声だった。
◆
帰り道、馬車の窓から街を眺めながら、私はぼんやり考えた。
実況令嬢。
その呼び名が嫌いかと聞かれれば、嫌いだと答える。
恥ずかしいし、望んだものではないし、毎朝起きるたびにまだ続いているという現実に打ちのめされる。
でも。
宰相が隠していたものが、表に出た。
誰も知らなかったことが、明らかになった。
それは確かに起きたことだった。
『おっと主人公、少しだけ前向きな思考が生まれました! 成長の兆しです! しかし次の瞬間に「でも恥ずかしいものは恥ずかしい」という気持ちが押し返してきました! 正直です!』
「……正直なのは認めますわ」
馬車が王都の大通りを抜けるとき、一枚の立て看板が目に入った。
どこかの印刷屋が作ったらしい。
木の板に大きく書いてある。
『本日の実況令嬢情報・入荷しました』
新聞の号外らしきものが、その脇に山積みにされていた。
それを買おうと人々が列を作っていた。
私は窓から目を離した。
◆
一方で、王太子アルベルト殿下の状況は——という話が、翌日の新聞に掲載されていた。
リナが持ってきた『社交界通信』の第三面に、小さな記事があった。
『王太子殿下、支持率急落——先週比で四割減との試算も』
私は記事を三回読んだ。
三回読んでも内容は変わらなかった。
『おっとここで元婚約者の現状が判明! 舞踏会での婚約破棄宣言が完全に裏目に出ております! 証拠なしの断罪は印象が悪すぎた模様! 自業自得という言葉がこれほど似合う状況もそうそうありません!』
「……自業自得は、否定しませんが」
否定はしない。
しないけれど、口に出すのは少し気が引けた。
私は意地悪な人間ではないつもりだ。
なのに心の声はわりと容赦なく正確で、それがそのまま外に出てしまうのだから、どうにも取り繕いようがない。
記事にはさらに続きがあった。
殿下が先日の舞踏会後、例の赤いドレスの令嬢——リディア・コーネル男爵令嬢と公の場で並んで歩いたことが目撃されており、新たな婚約候補として注目されているという。
『おっとリディア・コーネル嬢、次の婚約候補として急浮上! 赤いドレスが印象的だった、あの令嬢ですね! なお主人公は今この瞬間、怒りよりも「ああやっぱり」という納得が七割を占めております!』
「七割は……正確ですわね」
三年間の婚約期間で、私はなんとなく気づいていた。
殿下には「華やかな女性」への憧れがあり、それは私に向けられていなかった、ということを。
だから怒りよりも納得が先に来る。
それが少し、悲しかった。
『なお残りの三割は、やっぱり少し悲しい、という感情で構成されています』
「……言わなくていいんですのよ、そこまで」
声に出すつもりはなかったのに、出てしまった。
リナが部屋の隅で、そっと目を拭くような仕草をした。
私は見なかったことにした。
その夜、私は文机に向かって日記を書いた。
書くことで、少し整理がつく気がした。
心の声は外に流れてしまうけれど、文字なら誰にも届かない。
それが今の私の、唯一の逃げ場だった。
ペンを走らせながら、ふと思う。
この実況という力は、いったい何なのだろう。
なぜ突然目覚めたのか。
なぜ止まらないのか。
どこまで続くのか。
何もわからない。
わからないまま、今日も夜が更けていく。
『本日の実況、以上でございます。明日もミレイユ嬢の実況にご期待ください』
「期待していただかなくて結構ですわ」
私はペンを置いた。
窓の外、王都の夜空に星が出ていた。
静かな夜だった。
頭の上の声だけが、少しも静かでなかった。




