魂の在処、光の隣
学生会館の喧騒が嘘のように、夜の空気は冷たく澄んでいた。新歓ライブの熱気はとっくに肌から消え去り、風間亮の頭の中では、二つの言葉が不協和音を奏でながら反響していた。
『完璧な設計図だ。だが、魂がない』
黒田剛の、射抜くような視線と共に投げつけられた言葉。それは一度目の人生で、才能の枯渇を指摘され続けた日々の記憶を容赦なく抉り出す。
『天才じゃないすか!』
対照的に、桜井健太の曇りのない賛辞は、忘れかけていた自尊心をくすぐる。だが、その手放しの称賛は、黒田の言葉によって穿たれた穴を通り抜け、虚しく響くだけだった。
成功はした。計算通り、観客は沸いた。しかし、それは魂のない人形の舞踊だったのか。俺が失った十年は、そしてこれから歩む二度目の人生は、結局のところ空っぽのままなのか。答えのない問いが、春の夜の闇に溶けていく。
不意に、背後から荒い息遣いと駆ける足音が聞こえた。振り返るまでもない。ライブの興奮をそのまま全身にまとったような熱量が、近づいてくる。
「はぁ、はぁ……風間さん!」
案の定、桜井だった。その瞳はまだ舞台の上のライトを宿しているかのように輝いている。
「風間さん、俺とコンビ組んでください!」
真っ直ぐな言葉。真っ直ぐな瞳。その純粋さが、亮の心の最も深い場所にある古傷を、無防備に踏みつけた。
一度目の人生。信じていた相方にネタを盗まれ、夢もプライドもズタズタに引き裂かれた、あの日の光景がフラッシュバックする。人を信じることの愚かさ。才能に寄りかかられることの重さ。
――もう二度と、同じ選択は繰り返さない。
「……無理だ」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。桜井の瞳から、きらめきがすっと消える。亮は構わず背を向け、早足に歩き出した。一人になりたかった。この熱量から、期待から、過去の亡霊から、逃げ出したかった。
しかし、桜井は諦めなかった。言葉は発しない。ただ、数歩後ろを、一定の距離を保ってついてくる。その無言の圧力が、亮の焦燥感を煽る。
(なんでついてくるんだよ……!)
足を速めても、角を曲がっても、その気配は消えない。まるで、自分の過去から逃れられないと告げられているようだ。ふと、視界の端に古びた雑居ビルの看板が映った。『Bar 月影』。地下へと続く、吸い込まれるような暗い階段。
一度目の人生で、何度か足を運んだことがある。ここなら、さすがに諦めるだろう。亮は衝動的に階段を駆け下り、重厚な木製の扉に手をかけた。
カラン、と控えめなベルの音が鳴る。バーの中は、外の喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。磨き上げられたカウンターと、バックバーに並ぶボトルのラベルだけが、間接照明を鈍く反射している。マスターが静かに会釈する。亮がカウンターの隅に腰を下ろすと、間髪入れずに再びベルが鳴った。
息を呑む気配。ためらいがちに、桜井が店に足を踏み入れてきた。
その姿を認めると、マスターは表情を変えずに、亮の隣の席を指で示す。桜井は恐縮したように頷き、ゆっくりと隣のスツールに腰掛けた。
気まずい沈黙が、二人の間に横たわる。マスターは何も聞かず、それぞれの前に水を入れたグラスを置くだけだ。親からの仕送りで食費を切り詰めて捻出した金で、こんな場所に来るべきではなかった。ましてや、こいつの分まで払うことになったら、来週まで食パンの耳をかじる生活が確定する。そんな現実的な思考が、亮の苛立ちを増幅させた。
どれほどの時間が経っただろうか。先に沈黙を破ったのは、桜井だった。
「……あの、俺、難しいことは分かんないですけど」
ポツリと、しかし芯のある声だった。亮は視線をグラスに落としたまま、耳だけを傾ける。
「風間さんのネタ見て、明日も頑張ろうって思えたんすよ。それって、魂がないとできないことじゃないですか?」
曇りのない言葉だった。策略も、お世辞もない。ただ、彼が感じたままの事実。
その一言が、黒田にかけられた冷たい呪いを、じんわりと溶かしていくようだった。魂。そんな大層なものがあるのかは分からない。だが、確かに届いていた。たった一人にでも、届いて、その明日の背中を、ほんの少しだけ押すことができた。
一度目の人生では、決して得られなかった手応え。完璧な笑いを求めて、誰の心にも届かず、孤独に朽ちていったあの十年。
不意に、目頭が熱くなるのを亮は感じた。慌てて水を呷り、込み上げる感情を喉の奥に押し込める。
心の氷が、音を立てて砕けていく。まだ、こいつを信じると決めたわけじゃない。コンビを組むと決めたわけでもない。だが。
「……お前の笑いを、もう少し見てみたい」
気づけば、言葉が口をついていた。桜井が驚いたように顔を上げる。
亮は、まだ燻る過去のトラウマを自覚しながら、言葉を続けた。盗まれるかもしれない。裏切られるかもしれない。その恐怖は、まだこびりついて離れない。それでも、この目の前の純粋な光から、目を逸らしてはいけないと思った。
「次の週末、時間を空けろ。お互いに、『こいつと組みたい』と思わせるネタを一本ずつ作って見せ合う。それで判断する」
それは、桜井の覚悟を試す試験であり、亮自身が過去を乗り越え、もう一度人を信じるための、か細い蜘蛛の糸だった。
桜井の顔が、みるみるうちに輝きを取り戻していく。「はい!マジすか!やります!」と声を弾ませ、何度も頭を下げた。その姿は、疑うことを知らない子犬のようだった。
希望に満ちた顔で桜井がバーを去った後、店内には再び静寂が戻った。亮は残っていた水を飲み干し、勘定を済ませて席を立とうとする。
その背中に、マスターが静かな声をかけた。
「お前さん、今度は『光』の隣を歩く覚悟はできたのかい?」
その言葉の意味を、亮はまだ測りかねていた。ただ、その声色には、単なる祝福ではない、何か重い響きが含まれている。
桜井という才能は、間違いなく光だ。しかし、その強すぎる光は、隣に立つ者の影を濃くし、時にその存在そのものを焼き尽くす。
新たな挑戦の扉を開けた先に待つものが、希望だけではないことを暗示するように、マスターの言葉は静かなバーの空間に深く沈んでいった。




