魂の契約、あるいは腹ペコの悪魔
彼女の瞳は、俺の魂を焼き尽くすような熱さで貫いた。
「…次のライブ、私と組んで、それを舞台で見せて」
爆笑の嵐が去った楽屋は、耳鳴りがするほど静かだった。壁の非常灯が落とす赤い光が、目の前の少女、桜井詩織の真剣な横顔を不気味に照らし出している。
脳が、理解を拒絶している。自分の最も惨めで、誰にも見せたくなかった死に様を、この少女は「面白い」と言い、「本物の魂」だと断言した。
混乱と、ほんのわずかな高揚感。そして、えぐり出されたばかりの傷口を白日の下に晒してしまったことへの、後悔に近い恐怖。
返事が、喉の奥で塊になる。
その沈黙を破ったのは、土足で踏み込んでくるような能天気な声だった。
「いやー、マジで痺れたッスよ! 風間ちゃん!」
派手な柄シャツを着た支配人の坪倉さんが、興奮を隠せない様子でずかずかと入ってきた。その目は、値踏みするような光でギラついている。
「君の才能は本物だ。俺が保証する。あのステージにはダイヤの原石が見えた。うちで楽なスター街道、歩まないか?」
坪倉さんは俺の肩を馴れ馴れしく叩きながら、唾を飛ばす勢いでまくし立てる。
「君は面白い勘違いをしている。才能だけで食えるほど甘くはない。だが、磨けば売れるかもしれない。うちで預かって、プロの作家をつけてやる。成功への最短ルートだ」
一度目の人生で、喉から血が出るほど欲しかった言葉のシャワー。
管理された成功。保証された未来。もう二度と、あの孤独な部屋で凍える心配はない。
足元が、ぐらりと揺れた。
「……ノイズ」
氷のように冷たい声が、坪倉さんの熱弁を叩き斬った。
詩織だった。彼女は支配人を一瞥もせず、俺だけを真っ直ぐに見つめている。
「魂が、濁る」
「は? なんだい、詩織ちゃんは。大人の話に口を挟まないの」
坪倉さんはあからさまに不機嫌な顔をしたが、詩織は全く意に介さない。ただ、その大きな瞳で俺の答えを待っている。
甘い毒か、それとも劇薬か。
二つの道が、目の前に突きつけられていた。
◇
坪倉さんと詩織が楽屋から出ていき、俺はパイプ椅子に崩れるように沈み込んだ。
一人になると、支配人の言葉が甘い毒のように思考を侵食してくる。
『成功への最短ルート』。
一度目の人生で渇望し続けた道。だが、手に入れたのは「独りよがり」という烙印と、誰にも看取られない孤独な死だけ。
自分の内側から生まれるものなんて、信じられるものか。
俺の魂は、とっくの昔に無価値だと判決を下され、処刑されたんだ。
未来の記憶という『カンペ』は、その判決を覆すための唯一の上訴審だったはずだ。それなのに、あの少女は、俺が最も忌み嫌う過去の記憶――あの惨めな死に様こそが『魂』だと言う。
(もう失敗は、ごめんだ)
自分の価値を、誰かに決めてほしい。管理されたレールの上を、ただ歩いていたい。
俺は、自分の存在意義を賭けてでも、このチャンスを掴みたい。
俺は立ち上がり、坪倉さんを追いかけようとドアに手をかけた。
「……お腹、すいた」
背後から聞こえた間の抜けた声に、決意が霧散する。
振り返ると、いつの間にか戻ってきていた詩織が、腹を押さえてうずくまっていた。
「……話の、途中だろ」
「…むり。思考が、止まる。…パフェが、食べたい」
さっきまでの真剣な眼差しはどこへやら、彼女は完全にバッテリー切れを起こしていた。その天才性と社会不適合者っぷりの極端なギャップに、俺は毒気を抜かれて、乾いた笑いが漏れた。
◇
深夜のファミレスは、疎らな客と気だるい空気が漂っていた。
俺の向かいの席で、詩織は巨大なチョコレートパフェを無心で口に運んでいる。その姿は、小動物が冬眠前の栄養を蓄えているかのようだ。
ようやく最後の一口を飲み込むと、彼女は満足げに息をつき、俺の顔をじっと見つめた。
「…で、返事は?」
「あの、審査基準とか、選考プロセスについて、事前に説明は…?」
「……その前に、聞かせろよ。なんで、俺なんだ? 他にも面白い奴はいるだろ」
俺の問いに、詩織はスプーンを置き、少しだけ考えるように視線を彷徨わせた。
やがて、彼女は真っ直ぐに俺の目を見て、淡々と、しかし確信に満ちた声で言った。
「あなたの魂は、死んだ時に一番輝いた。それをもう一度見たい。…それだけ」
脳天を殴られたような衝撃で、呼吸が止まった。
テーブルの上の飲みかけのコーヒーが、微かに波紋を描いている。
俺が最も価値がないと切り捨てた、惨めな過去。孤独と絶望の象徴だった、あの死の記憶。
それを、この少女は「輝いた」と言った。
初めてだった。
一度目の人生を含めて、俺の存在そのものが、肯定されたような感覚。
腹の底から、熱い何かがマグマのようにこみ上げてくる。視界が滲んで、向かいに座る詩織の輪郭がぼやけた。
他人の評価じゃない。用意された道でもない。
俺が俺であること。この惨めな過去こそが、俺だけの武器になる。
そう、こいつが教えてくれた。
「……なあ」
俺は、震える声をなんとか押し殺して言った。
詩織が、小さな首をこてんと傾ける。
「コンビ名、『リトライ』だ。文句あっか?」
一度目の人生をやり直す、俺自身。
もう一度、本気で笑いに挑む、俺たちの始まり。
詩織は数秒、黙って俺の顔を見ていたが、やがて、ふっと人形のような唇を緩めた。
「……いい名前。魂の、響きがある」
彼女はそう言って、静かに頷いた。
会計を済ませ、ファミレスを出る。俺が当たり前のように二人分の伝票を持つと、詩織は何も言わず、ただ俺の後ろをついてきた。(こいつ、まさか財布持ってないのか?)
こうして俺たちのコンビ、『リトライ』は始まった。保証された最短ルートも、他人が作る成功も捨てた。俺の手の中にあるのは、一度死んだ惨めな記憶と、隣でコンビニの袋を漁り始めた腹ペコの悪魔だけだ。
……だが、不思議と気分は悪くなかった。
新宿の夜風が、火照った頬に心地よかった。
「なあ」
ふいに、隣を歩く詩織が口を開いた。
「なんだよ」
「お腹、すいた」
「……は?」
俺は思わず足を止めた。さっきファミレスで、俺の頼んだハンバーグセットの付け合わせのポテトまで平らげ、さらにデザートにチョコレートパフェを飲み物みたいに流し込んでいたのはどこのどいつだ。
「お前、さっき……」
「あれは、夕食。これは、夜食」
詩織は至極真面目な顔で、手に持っていたクリームパンの袋を破り、大きな口でパンにかじりついた。もぐもぐと頬張る姿は、小動物のようで、その食欲とのギャップが凄まじい。
「……燃費悪いんだな、お前」
「魂を、使うから」
よく分からない理屈をこねながら、彼女はあっという間に一つ目のパンを胃に収めた。その満足げな顔を見ていると、なんだか毒気が抜かれていく。
カンペを捨てた。
未来という名の、最強の武器を。
その決断に後悔はない。だが、不安がないと言えば嘘になる。羅針盤も地図も持たずに、荒れ狂う海へ丸木舟で漕ぎ出すようなものだ。
一度目の人生。俺は、独りよがりな笑いに固執して沈んだ。
二度目の人生。俺は、他人の成功をなぞることで、魂を失いかけた。
そして、三度目の正直――いや、『リトライ』。
俺は、何もない。空っぽだ。
「……なあ、詩織」
「ん」
クリームパンを咀嚼しながら、彼女がこちらを見る。
「これから、どうすんだ。俺たち」
「どう、とは?」
「コンビ組んだんだろ。ネタ作って、練習して、ライブ出て……やることあんだろ」
「うん」
「ネタは俺が書く。お前は……まあ、なんかやれ」
「うん。魂で、ツッコむ」
「……おう」
魂でツッコむ、ってなんだよ。聞いたことねえよ。
だが、こいつなら本当にやりかねない、という妙な説得力があった。
「で、だ。問題は練習場所だ。声出せるとこじゃねえと……」
一度目の人生では、金がなくていつも公園だった。深夜、カップルの邪魔にならないように隅っこで、凍えながらネタ合わせをした記憶が蘇る。あれはもう繰り返したくない。
「魂が、落ち着く場所がいい」
「魂ね……。具体的には?」
「静かで、邪魔が入らなくて、悟の死に様の解像度が、上がるところ」
「俺の死に様限定かよ! もっとこう、普遍的な練習場所を探そうぜ!?」
「普遍的は、ノイズが多い」
きっぱりと言い切る詩織に、俺は頭を抱えたくなる。こいつとのコンビ、前途多難すぎる。
だが、同時に、心のどこかでワクワクしている自分もいた。
こいつとなら、俺が一度目の人生で見たことのない景色を、見られるんじゃないか。
そんな、馬鹿げた期待が胸を占めていた。
「とりあえず、だ。ネタがないと始まらねえ」
俺は歩きながら、自分の記憶を探る。一度目の人生で、ウケずに捨てたネタ。ライブでスベり倒したネタ。相方に見せる前にボツにしたネタ。ゴミ箱に放り込んだはずの記憶が、やけに鮮明に思い出せた。
(……いや、ダメだ)
俺は頭を振る。
『一度目の人生と同じ選択を決して繰り返さない』
それが、俺がこの世界に戻ってきて、自分に課したたった一つのルールだ。あの時のネタは、あの時の俺の独りよがりな魂の残骸だ。詩織に見せるわけにはいかない。
「新しいノート、買うか」
「ノート?」
「ネタ帳だよ。お前とのコンビの、最初の記録だ」
『リトライ』のためだけの、真っ白なノート。
そこに、俺たちの始まりを刻む。
俺がそう言うと、詩織はクリームパンを飲み込んで、こくりと頷いた。
「うん。……悟の魂の、最初の形」
その言葉が、やけに心地よく響いた。
ちょうどその時、煌々と明かりが灯るディスカウントストアが目に入る。深夜まで営業している、あの安物の殿堂だ。
「よし、あそこで買うぞ」
「うん」
俺たちは、揃ってそちらへ歩き出した。
新しいコンビの、新しいネタ帳を買いに。
それは、保証された未来を捨てた俺が踏み出す、不確かで、だが確かな、最初の一歩だった。




