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目が覚めたら芸人だったので天下とってみた  作者: おぷっち


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12/17

劇薬と道標

鳴りやまない拍手の残響が、まだ耳の奥で渦を巻いていた。地下のライブハウス特有の熱気と汗の匂いが混じった空気が、肌にまとわりつく。狭い楽屋で、桜井は子供のように目を輝かせていた。

「風間さん、すっげー!マジでウケましたね!俺、鳥肌止まんないっすよ!」

達成感の余韻が、彼の全身から溢れ出している。俺は「ああ」と短く応えながら、口の端に笑みを浮かべた。だがその笑顔の裏で、ライブ中に疼きだした頭痛の残滓と、ポケットの中にある異物の感触が、冷たい現実を突きつけていた。黒田から渡された、四つ折りの小さなメモ。それが放つ不吉な重みが、高揚感を密やかに蝕んでいく。



その時、楽屋のドアが音もなく開いた。

現れたのは、黒田だった。舞台上の狂気的な熱量は消え、今は氷のような冷静さがその全身を支配している。楽屋の喧騒が一瞬で凍りついた。

「一度きりの奇跡。だが、お前たちはとんでもない火種を撒いた」

黒田はブライトの漫才を、静かに、しかし刃物のような鋭さで評した。その言葉に含まれた嫉妬と、わずかな畏怖の色を俺は見逃さなかった。

「んだよ、アンタに何がわかんだよ!」

桜井が牙を剥く。純粋な怒りだった。俺たちの笑いを、相方を侮辱されたことへの、混じり気のない反発。

俺はそんな桜井の肩をそっと抑え、黒田をまっすぐに見据えた。この男はただ、俺たちを貶めたいわけじゃない。

黒田は俺の視線を受け止めると、ふ、と息を漏らした。そして楽屋を出ていく間際、重い声で言い放った。

「そのメモは劇薬だ。使い方を間違えれば、お前は今度こそ再起不能になる」

バタン、と閉まったドアが、重い宣告のように響いた。



楽屋に二人きりになると、先程までの熱気が嘘のように冷え切っていた。桜井が心配そうにこちらを見ている。俺はポケットから例のメモを取り出した。指先が、わずかに震えている。

意を決して、ゆっくりとメモを開く。

そこに書かれていたのは、たった三文字の名前だった。



『九条 蓮』



その名前を目にした瞬間、世界から音が消えた。

脳裏に、一度目の人生の光景が焼き付くようにフラッシュバックする。薄汚い居酒屋の個室。向かいに座る相方の、怯えと罪悪感に歪んだ顔。そして、その隣で完璧な笑みを浮かべていた男――九条蓮。

『君のネタは、僕がもっと輝かせてあげるよ』

嘲るような、憐れむような声が耳の奥で蘇る。俺の魂だったはずのネタが、ヤツの口から語られるたびに、観客は熱狂的な笑いに包まれた。俺はそれを、客席の隅で、ただ呆然と見ていることしかできなかった。夢も、相方も、未来も、すべてを奪われたあの日の絶望。

「……っ、ぅ」

立っていられなかった。息が詰まり、視界が白く点滅する。俺は壁に手をつき、崩れ落ちる身体をかろうじて支えた。浅い呼吸が喉をひりつかせる。冷たい汗が背中を伝うのが分かった。忘れたはずの、いや、忘れたふりをしていただけのトラウマが、牙を剥いて心臓を食い破ろうとしていた。



「風間さん?」

桜井の声が、遠くで聞こえる。いつもの天真爛漫さは消え、静かで、真剣な響きを持っていた。温かい手が、震える俺の背中をゆっくりとさする。

拒絶されるかもしれない。この重すぎる過去を打ち明ければ、この光のような男は俺から離れていくかもしれない。その恐怖が、喉を締め付けた。それでも、もう一人で抱えることには限界だった。

「……一度目の人生で、俺のすべてを奪った男だ」

絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、惨めだった。

桜井は何も言わなかった。ただ、黙って俺の言葉を待っている。詳細を問いただすでもなく、同情するでもない。その沈黙が、何よりも雄弁に彼の覚悟を伝えていた。

やがて彼は、俺の震える肩を力強く掴んだ。

「なら、決まりっすね」

真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳が俺を射抜く。

「そいつが俺たちの次の敵だ」



数日後。四畳半のアパートに、マネージャーの田村が血相を変えて飛び込んできた。

「風間! 桜井! 見ろこれ! 白石プロデューサーから正式なオファーだ!」

息を切らしながら突き出されたのは、深夜番組の企画書だった。複数の若手芸人が看板を背負って競い合う、勝ち抜き形式のネタバトル番組。ゴールデンへの登竜門とも言える、最高のチャンスだった。

「すっげー! やりましたね、俺たち!」

「いけるぞ! これで天下盗るぞお前ら!」桜井と田村が沸き立つ。

だが、俺は企画書の一点から目が離せずにいた。その片隅に印刷された協賛企業のロゴ。一度目の人生で俺を『ブラックリスト』に載せた企業のそれに酷似していた。そして、そこに書かれた番組のメイン司会者の名前に、全身の血が凍りつく。



『MC:九条 蓮』



最悪の敵が、最高の舞台で、テレビの向こう側で完璧な笑顔を浮かべていた。

絶望的な戦場。だが、隣には桜井がいる。俺たちは並んで、手の中の企画書と、画面の中の男を見つめていた。目に宿るのは、もう恐怖ではない。

唇の端が吊り上がるのがわかった。



「最高の舞台じゃねえか。地獄の底から引きずり下ろしてやる」



俺の呟きに、隣の桜井が力強く頷く。

10年前、この四畳半で孤独に絶望を抱えていた俺はもういない。

本当の戦いがここから始まる。

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