二度目の開幕ベル
焼け付くようなスポットライトの熱。マイクが拾う自分の荒い息だけが、やけに大きく聞こえた。満員のライブハウス。そのはずなのに、そこは墓場より静かだった。
放った渾身のボケは、誰の耳にも届かなかったかのように空気を漂い、霧散する。客席の最前列、腕を組んだ男が侮蔑の視線を向けてくる。その隣の女は、あからさまに欠伸を噛み殺した。冷え切った視線、ひそひそと交わされる嘲笑。それが千本の針となって全身に突き刺さる。
ああ、まただ。また、スベってる。
隣に立つ相方の顔が引きつっているのが、視界の端に映った。ごめん。心の中で呟いた言葉は、音になる前に喉の奥で消えた。熱気と、何かが焦げるような匂い。そして――視界を塗りつぶす強烈な光と、金属が軋む轟音。誰かの悲鳴。最後に脳裏をよぎったのは、どうしようもない後悔だけだった。
「――ッ、うあ!」
叫び声と共に、俺、風間亮は跳ね起きた。
全身をびっしょりと濡らす汗が気持ち悪い。心臓が警鐘のように激しく脈打っている。死んだはずだ。自暴自棄になって飛び出した道路、容赦なく突っ込んできたトラックのヘッドライト。あの衝撃と痛みは、間違いなく本物だった。
なのに、俺は生きている。
見慣れた天井の染み。いや、見慣れていた、と言うべきか。壁紙に染み付いたタバコのヤニと、コンビニ弁当が腐ったような酸っぱい匂い。ここは、俺が芸人を目指して大学に入った頃に住んでいた、四畳半の薄汚いアパートだ。希望と絶望を煮詰めて、焦げ付かせたような部屋。
ズキリ、とこめかみが痛む。死の瞬間のショックが、まだ頭蓋の内側で反響している。吐き気がこみ上げ、慌てて口元を押さえた。
何がどうなっている。混乱する頭で部屋を見渡す。散らかった床には、バイト代をはたいて買い集めたお笑い雑誌の山。隅には、親から譲り受けた旧式のブラウン管テレビ。何もかもが、十年以上前の記憶のままだ。
まさか。
震える手で壁に目をやると、家電量販店のロゴが入ったカレンダーが掛かっていた。そこに印刷された数字に、息が止まる。
十年前。俺が大学に入学した、あの年の四月。
夢か。そう思うしかなかった。だが、力任せにつねった頬に走る鋭い痛みだけが、これが紛れもない現実だと告げていた。俺は、死んで、戻ってきた。芸人として大成することなく、誰にも笑われず、惨めに生涯を終えた俺が、すべての始まりの場所に。
呆然としたまま、テレビのスイッチを探す。しかし、主電源のランプは消えたままだ。電気が止められてるのか。舌打ちしながら玄関へ向かい、錆びついたブレーカーを無理やり押し上げた。
部屋に戻ってリモコンを押すと、砂嵐の音と共に画面がぼんやりと光る。映し出されたのは、当時人気絶頂だった大御所芸人のトーク番組だった。
軽快なトークでスタジオを沸かせるその姿を、俺はただ眺めていた。観客席が映る。その一瞬、見覚えのある顔が横切った気がした。ストイックなまでに笑いを追求していた、若き日のライバル。才能を見出してくれたはずの、あの敏腕プロデューサー。だが、それは幻だったかもしれない。
やがて、大御所芸人が真顔になって語り始めた。
「笑いってのはな、結局、誰かの明日をちょっとだけ照らすためのもんだ。自分だけが気持ちよくなっても、それは芸じゃねえ、ただの自己満足だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
自己満足。そうだ、一度目の俺は、それだった。自分の才能だけを信じ、自分のやりたい笑いだけを追い求めた。相方のアドバイスに耳を貸さず、客の反応を無視し続けた。その結果が、あの墓場のようなライブハウスだ。誰の心にも響かない、独りよがりの残骸。
俺は、誰のために笑いを作りたかったんだ?
いつの間にか、俺は自分を笑わせるためだけにネタを書いていた。観客も、相方さえも、自分の才能を証明するための道具としか見ていなかった。
その傲慢さが、俺を孤立させ、殺した。
込み上げてくるのは、過去の自分への激しい怒りと、そして、もう一度やり直せるという事実への、震えるほどの感謝だった。
俺は、間違えた。だが、今度こそ。
静かにテレビを消し、窓の外を見る。ありふれた住宅街の風景が広がっていた。この退屈な日常のどこかにいる誰かを、腹の底から笑わせる。そのために、俺は戻ってきたのかもしれない。
ふらつく足で、洗面所へ向かう。
水垢で曇った鏡を覗き込むと、そこにいたのは十歳若い俺だった。まだ世間を知らず、夢だけを信じて疑わなかった頃の、青臭い顔。頬はこけ、目の下には隈がうっすらと浮かんでいるが、その瞳の奥にはまだ消えない光があった。
一度目の人生で、俺はこの男を裏切った。その才能を、情熱を、踏みにじり、絶望の淵に突き落とした。
鏡に映る自分の顔が、無惨な最期を遂げた未来の自分の顔と重なる。熱いものがこみ上げ、頬を一筋、涙が伝った。
だが、もう泣いている時間はない。
俺は鏡の中の自分を、まっすぐに見据えた。
「…お前はもう一人じゃない。俺がいる」
声が、わずかに震える。
「もう二度と、お前を独りにはさせない。お前の才能を、俺が一番知ってる。だから……今度こそ、お前を天下に連れてってやる」
鏡の中の俺が、静かに頷いた気がした。それは過去の自分との和解であり、未来への宣誓だった。
部屋に戻ると、俺の視線は部屋の隅に積まれた、ある紙切れに吸い寄せられた。
大学のキャンパスで半ば強引に押し付けられた、お笑いサークルの新歓ライブのチラシ。
一度目の人生で、俺はこの舞台で歴史的なまでにスベり倒した。それが、すべての失敗の始まりだった。プライドをズタズタにされ、俺は観客を、大衆を、見下すようになった。
俺はそのチラシを手に取る。インクが滲んだ安っぽい紙。そこに記された日付は、一週間後を指していた。
これが、二度目の人生の最初の舞台だ。
俺は、口の端を吊り上げて不敵に笑った。
「…今度は、爆笑させてやる」




