呪
「わたしのこと、忘れてない?」
「せ、瀬路原……」
同じく白い道着を着込んだ瀬路原ノツルが、肺助の横を陣取り肺助に前後から絡みつこうとする双子姉妹の両手を締め上げていた。
「ねえ、前から思ってたんだけど、そろそろわたしのこと、ノツルって呼ばない?」
「そ、それは……」
肺助の目は右に左に泳ぎっぱなしである。
「寂しかったなあ。元気になった後、わざと肺助の家に行かなくしてみたのに」
「え? それは……」
「でも、いいよ。肺助に追いかけてもらうのはやめた。わたしから追いかけに行くことにしたからさ」そういって、ノツルは肺助の左上腕に頬をべったりと乗せた。否、左側から肺助に抱き着いたのである。
「それって、どういう」肺助はたじたじかつそわそわと歯切れが悪い言葉を口の中で揉む。上腕には、なんだか久しい幼馴染の熱で燃え上がっていた。
「ほら、それで? 呼んでよ。前からずっと、わたしだけ肺助のこと名前で呼んでるんだよ?」
恥ずかしいじゃん、とノツルは言った。その声は明らかに震えている――彼女もまた、言葉とは裏腹に緊張しているのだ。
もしもこの時、ノツルがいつものようにどこか上から目線で脅すようであったら、結果は違ったかもしれない。だが、この時のノツルは肺助にどこか哀願するようであった。普段見かけぬ幼馴染の態度に、肺助は全身の血管が緩むのを感じた。
「の、ノツル……」
「ま、一応合格ね。ほら退いた退いた、幼馴染の登場だよ。あとから来た奴らは帰れ帰れ」
ノツルはそう言って、命香と和留を追い出そうと手を振った。
「ちょっと、十年ぶりの姉妹の時間邪魔すんの?」
和留が文句を言う。
「じゃあそれは姉妹水入らずで、外にでも行ってください」
ノツルはさらに体を擦り入れる。だが、剣客と呪術師相手には分が悪そうである。
「いや! ちょっとまって! いろいろと進みすぎじゃないでしょうか!」
そうして三人が姦しくしている間に、肺助の頭に残ったわずかな冷静な部分が声を上げた。脂汗が頭にも背にも胸にも首にも浮いてざばざばと流れていく。肺助は天を仰ぐのみ。
「何が?」「別に」「どしたん」
そして子女三人は同時に首を傾げる。
「いや、これは、何かがおかしい……もしかしてこれは、なんらかの呪術……? あれか、まだ阿賀谷戸わくわく正統陰陽師ランドの変な夢が……」
肺助は目をきつく閉じて言う。すると、三人はけらけらと笑い出した。
「もしも、そうだったら?」
「でも、別によくない?」
「だってさ、三人で話し合ったことだし」
そして、思ってもみぬ答えに、肺助は今度こそ凍り付いた。どういうこと?
「大丈夫。お父さんの呪いじゃないよ。これは、わたしの計画。お父さんが失敗したのは、呪いの軸を肺助さんの心の在り様にしたから。でも、わたし達三人が手を取り合えば……」
「いや、わたしと和留ちゃんおいてダッシュしたの誰だよ」
ノツルは抗議の声を上げたが、命香は甘い吐息を漏らして肺助へより強く体を預けるのみ。
「はいぴーの家の表札、どうなってるだろうね」
「命香先輩すごかったよ、一発で剥がしてたもんね」
「暗いのにちゃんと接着しててさ、びっくりした」
――表札。
肺助は思い出す。最初に命香が行っていた合儀家を乗っ取る呪術のことを。
「この呪術は公認だから、肺助さんの気にすることじゃないよ」
「どこの誰のなんの公認なんだ! 気にするわ!」
肺助は怒鳴ってみたが、それでこの状況がどう変わるのだろう。そして、もしも仮にこれが呪術で引き起こされた自称であったとするならば、狙いは一体何なのか。何もわからなかった。
だが、その時唐突に、肺助はあることに合点がいった。
「――あれは、歌だったんだ」
〽アイラヴ・呪術
ラヴ・フォー・呪術
(中略)
こっちに来ちゃ嫌 まだ早い
嘘・来ていいよ ゆっくりね
『君に夢中なちゅ、スローペースなのろい愛』
作詞・作曲・合儀肝悟朗
罪斗罰総合記念病院にいた、肝悟朗の唇の動き。
呪ひは世にみちみちて、人の心はとらはれぬ。
後を恋ひ、先を焦がれ、思ひはとどまるところなし。
相争ふさまを見れば、まじなひ師も手を垂れ、陰陽の道も声を失ふ。
あはれ、衆生の煩悩、いまだ尽きることなし。
病室で阿賀谷戸天森が口走っていた謎の詞。そして、よく聞き取れなかった『呪』に続く言葉の正体を察す。
「そうか、これが……」
肺助が言おうとしたその言葉。それを少女達が喘ぐように接いでいく。
「呪術恋愛戦線」「山奥に隠れていた陰キャ呪術師の俺が都会から来た陰陽師美少女に狙われる」「異能バトルラブコメ」
まるで何か、より大きな力によって言わされるように彼女達はこの語を口走る。
「でもさ、確かにまだ早いかもだけど、そういうのとすっ飛ばしちゃうのが『呪い』でしょ?」
そうだ、今まで合儀肺助は呪いを悪しきものとしてひたすら跳ね除けてきた。だが、それが本当に正しかったのだろうか。彼は呪術師である。そういう在り方を決めたのだから、呪いやまじないを否定するのはあまりに青いのではないか――では、赤とは何か。否、青いの反対は赤いでよいのか。
「――肺助さん、ここまで女の子にさせて、何もしないの?」
この脱衣所の、唯一の明かりが消える。
肺助は、そのまま夜闇に飲み込まれながら、この世に満ちる呪いについて考えてしまう。
完




