獄
まだ深夜とは言わないが、十二分に暗いこの時間。合儀肺助はいつも通り修行のため、川沿いの小屋を訪れた。今日は、この小屋で祈祷を行ったのち禊を行うためである。小屋の玄関はそのまま脱衣所にもなっている。そこで、肺助はまずは着物を脱いだ。その時である。
――きい。
しっかり閉じたはずのドアが軋み、開く音がした。
「え……え……?」
そして、肺助は目を丸くした。
「阿賀谷戸……先輩?」
小屋の戸を開け入ってきた少女に、肺助は素直に驚いた。本日突然病院から消えたと聞く、阿賀谷戸命その人がそこに立っていた――間違えようのない真っ黒な髪に白い肌、楚楚とした雰囲気と、それらから大いに逸脱した大きな胸と尻が真っ白な道着の下からもその存在感を主張する。
「どうしたんですか、肺助さん」命香はきょとんとして、肺助の様子を見つめた。
「い、いや……別に、なんでもないですが……」
肺助の視線は右往左往。
(そういえば、なんか勝手に今生の別れ気分でいたけどそんなわけないか!)
と反省する。
「もしかして、わたしのこと幽霊とか思ってる?」
そんな肺助に飽きれたのか、ふう、と息を吐いて命香は肺助の手を取った。外が寒かったからか、命香の細い指先はかなり冷えていて現実感がない。
「わ、肺助さんの手、あったかい」
命香は暖でも取るように肺助の手をぎこちなく揉む。肺助は体の全く異なるところが熱を帯びるように感じた。命香の手は、驚くほどしっとりとしていて柔らかい。なおかつ、そんな彼女の手に、自分の熱が移っていくことが肺助の感情をおかしくする。
「もしかして、わたしの手、冷えすぎてて実感わかない?」
命香は真剣な眼差しで肺助の顔を覗き込む。
(ち、近い……)
肺助の心臓の音が、否が応でも跳ね上がる。泳ぐ視線は、勝手に命香の顔や白い首、そして鎖骨から、胸に至ったり至らなかったり。
「そういうわけでは……」
しどろもどろに肺助が答える。すると、いよいよ業を煮やしたのか、命香は、ぐ、と肺助の手を引っ張り、彼の手をずぶりと暖かくて柔らかな感触の中に沈めた。
「え」肺助は絶句した。
水のように不定形でいて、それでも確かに「かたち」を持ち、湯のように暖かく……そして、その奥に自分以上に早い鼓動を感じる。
「これで、わかったでしょ?」
肺助の手の平は、命香の左胸の上にしっかりと密着していた。柔らかな感触だけではない、その中に確かに固く緊張したものすら感じている。はっとして命香の顔を見ると、真っ赤になって目を潤ませていた。
「……黙っていられるとわたしも恥ずかしいですけど。聞いてますか?」
「あ、いや、その……いいお加減で……」
肺助は意味が分からないことを口走っていた。それにつられ、命香は思わず破顔した。
「なにそれ」
「ごめんなさい……」
肺助は再びそっぽを向いて答えた。それより、これから手をどかすのが正解なのか、いっそのこと揉みしだくのが正解なのかが知りたかった。とにもかくにもずっと掌中には得も言われぬ柔らかさと重さが収まっている。手の内側と命香の胸の間にはどちらのものとつかない汗がすでにたっぷりと間を満たしていた。
(勘弁してくれ、どうすりゃいいんだ、何が正解なんだ)
「ねえ、これだけ? 好きなんじゃないの? いつもちらちら見てたくせに」
途端、肺助の脳裏を掠めるのは、家の中で常に無防備に谷間や体のラインを晒す清楚な雰囲気の癖にド痴女と言わざるを得ない命香の痴態の数々であった。当然、そのすべてを肺助はばれないように観察していたつもりであった。だが。
(ばれてたんかい!)
肺助はそれだけで恥ずかしくてもう頭が爆発しそうであった。巡る血流が髪の毛一本一本の根元から吹き出しそうであった。
(あんな薄着でうろついたら見るだろ!)
「ねえ、なんか言ってよ。わたし……」
肺助の思考はあらぬ方向へ飛び散っていたが、もう上目遣いにそんなことを言われてしまえば、終わりであった。肺助は正解を理解した。否、なんかもう間違えててもいいや、と思ったのである。修行なんて知るか、なーにがちゃんとした呪術師になる、だ。ここが修行用の禊場だなんて関係あるか。終わりだよ終わり。解散解散! 合儀肺助閉店のお時間である。これからは夜営業が始まるのだ。合儀肺助は、その柔らかな乳房をより堪能すべく指先を大いに動かしたかった。
「へえ、借金も返さずにそういうことだけは立派にやろうとするんだ、はいぴーって」
勿論、その『夜営業』の始まりとは、今この首に、日本刀さえなければ、の話である。
「夜風さん……?」
思い当たる人間は一人しかいなかった。肺助の背後に人の気配がある。そして、それを肺助は知っていた。厳密に言うと、背中に当たる二つの感触に覚えがあった。だが、あの時とは違って、その双丘を収める下着の感触がない――なんというか、生感が道着越しにあった。
「さいてー。勝手に二人で乳繰り合っちゃって」
外耳を撫でる暖かな吐息とともに夜風和留の囁きが肺助の鼓膜を舐めた。
「いや! これはそういうわけじゃ!」
肺助は思わず手を離し、命香から離脱する。すると、図らずもより和留の胸の感触が背中に食い込む。背筋がゾクゾクと震えた。
「ねえ、十五円は?」
「あ」
肺助は思い出す。平時の時ならいざ知らず、修行の時に十五円は持ち歩いていなかった。
「じゃあさ、十五円は直接返してもらおっかなあ」
右手に刀、左手は肺助の胸から腹を撫でていく。
「やっぱり。前から思ってたんだけど、はいぴーの体って結構いけそう」
「ねえ、肺助さん、わたしは……?」
命香が再び肺助の手を取る。日本刀などお構いなしらしい。肺助はもう頭が色んな意味で割れそうであった。鼻の奥の血流が増し、めきめきと開いていく。よくよく聞くと二人は双子なので当然だが、声もよく似ている。それが前と後ろ、両面から切ない声を上げるのだから詮方なし。ウルトラバイノーラル状態である。
「あ、あの……」肺助は喉の奥から悲鳴になり損ねた息を漏らすのみ。
その様子に、命香は無理やり日本刀を掻い潜って肺助に密着した。命香の太腿が肺助の股に絡まった。
「おうふ」一気に下半身に熱が籠る。
「お姉ちゃん、いいでしょ、今日はちょっとぐらい」
「うーん、まあ、妹の頼みなら仕方ないか」
日本刀が下げられる。肺助は漸く自由に呼吸ができるような気がした。否、無理である。顎の下に命香の顔がある。潤んだ瞳に、長い睫毛が見える。これに、鼻息など当てられない。
「初めてが姉妹で同時ってのも、まあいいっか。ギャルっぽくて」
どこの何がギャルっぽいのかはわからないが、日本刀も去り、肺助の命の危機はなくなった。だが、別の意味での危機が訪れていた。そう、障害は何もない。つまり、夜営業再開である。
「夜営業再開! って、肺助は思ってるんだろうね、いけ好かないなあ。ああ、なんていけ好かないんだ、この淫乱姉妹は」
命香と和留の両手を掴み、最後の乱入者が割って入る。
「わたしのこと、忘れてない?」
「せ、瀬路原……」
同じく白い道着を着込んだ瀬路原ノツルが、肺助の横を陣取り肺助に前後から絡みつこうとする双子姉妹の両手を締め上げていた。
こうしてこの場に、三人の女が集結した。




