37話 「桜の木の下で」
新居に無事引越し、仕事が始まってからというものてんてこ舞いだった。新生活というのは否応なしに忙しい日々を過ごすことになる。
仕事、上司との付き合い、同期との人間関係……。高校の時と変わらず食事の買い物や、家事全般に追われ休む暇も無い。
ちなみにエンジュもパートを持ち働くことになったのだが、履歴書やその他諸々は聞かないことにした。エンジュのことだから、きっとどうにかして人事の質問をかわしたのだろう。
「エンジュの奴、大丈夫だろうな……」
会社の昼休憩に持参した手作りの弁当を頬張る。今日でエンジュの初出勤となる訳だが不安でたまらない。パートのおばちゃんとか怖いんだぞ。
「ただいまー」
午後七時にして帰宅。学校帰りでも体力を消耗したけれど、会社帰りはメンタルがやられることもあって高校の比じゃなかった。本当、先人達には尊敬する。
「お帰りなさい、ヨシ。今日もお疲れ様。忙しいだろうからお惣菜買ってきたわ」
「ありがとう、助かる。着替えてくるからご飯の準備してくれないか?」
「もちろんよ。お風呂も沸かしてあるから、ご飯食べたら先に入っちゃって」
「マジで助かる……エンジュ様様だ」
そんな幸せな日常を何度繰り返しただろう。何度君と季節を過ごしただろう。喧嘩だって当然したし、会社でどうにもいかなくなって塞ぎ込んだ日もあった。俺はどれだけあいつに支えられたことか。
◇◇◇
「……さん。……父さん。起きろってば!」
十数年前の夢を見た気がして目が覚める。左目しか見えない視界には、庭に広がるネモフィラと桜の木。そして、
「……裕人」
俺とエンジュの間に生まれた息子だ。短い黒髪に黒い瞳は視界が欠けること無くしっかりとその目を見据えており、俺のお下がりの着物を着ている。
「なんで泣いてるんだよ。父さんのくせに情けないぞ」
「……本当だ。なんでだろうな」
裕人の頭を撫でながら苦笑する。撫でるなよ、なんて言いながら照れる様はどこかの誰かとそっくりだ。
休日は縁側で休むことが多くなった。それは春の日差しにあてられて朽ちていくようで。それは若くして死を迎えている気がして、あの冬の夜が頭によぎる。
「あ、いた! お父さーん! 裕人ー!」
「げっ」
「あぁ、陽菜か。お帰り……」
瞬間、目が合った。初めて会った時のように、銀色のショートボブに碧い瞳。桜の木の下で、エンジュが娘の陽菜と一緒に微笑んで歩いてくる。
「まーた母さんに惚れてやんの」
裕人の言葉通りだった。自分の顔が赤くなっているのも本当だ。いつまで経っても恋心は変わらないもので。
「お父さん、お母さんに惚れてるの? 惚れてるって何?」
「ふふ、お父さんね。お母さんのことが大好きなの」
「えー! そうなの!? それってラブラブじゃん!」
「ラブラブは知ってるのに惚れてるのも知んねぇのかよ。バカ陽菜」
「バカなんて言わなくても良いじゃん! 裕人のバカー!」
「バカって言う方がバカなんだよ!」
セミロングの銀髪にエンジュと同じ碧い瞳。白いフリルの襟に白いリボン、黒いワンピースを着た女の子は娘の陽菜だ。ちなみに言うと裕人が八歳で、陽菜が七歳。一歳違いの兄妹は、お互いがお互いの親にひっつきながら喧嘩をする毎日で。
「こら、二人とも。喧嘩はするなよ。仲が良いのは父さんも母さんも嬉しいけど、喧嘩ばっかりしてると父さん達は悲しい」
「そうよ。さぁ、仲直りしてご飯にしましょう。今日はせっかくのお花見なんだから」
「むぅ。……ごめんなさい」
「…………ごめんなさい」
「じゃあ食べるか。今日のおにぎりは母さん担当で、他のおかずは全部父さんが作ったんだ」
「お母さん、昨日頑張っておにぎり作ってたのよ」
「父さんだって昨日あんなにいっぱいおかず作ってたんだぞ」
再び子供達の間に火花が散る。それを見越したのか、エンジュは卵焼きに手を出した。
「うん、美味しい。お父さんの卵焼き、美味しいわよ。ヒナ」
「本当だ。母さんのおにぎりも美味しいぞ、裕人」
「いただきます」
「……いただきます」
陽菜は卵焼き、裕人はおにぎりを口に入れる。するとみるみるうちに頬が緩んで美味しいと言わんばかりの顔になる。
「良かった。二人とも嬉しそうで」
「えぇ、私もそう思う。昨日腕を振るったかいがあったわね」
子供だった俺は大人の立場になり、親となった。それがどれほど嬉しくて、初めて生まれた子供達にどう扱っていいか戸惑う日々でもあった。
でも、今は違う。今は何とかエンジュと一緒にこの道を歩んでいける。人生を預けていられる。
君のそばで、共に生きていくことを誓おう。




