12月の破綻(承前二)
「文句は言わせないわっ!」
斜め上方からの斬撃。咄嗟に腕を上げ、頭部を守ると共に腹筋に力を入れる。
「ぐううっ!」
脇腹に激痛が走り一瞬、呼吸が止まりかける。
躊躇いが無い。戦意を失わせるのではなく、確実に俺を行動不能にする気だ。
だが―――
「く、く、くくく」
そうでなくては、面白くないっ!
「そうだ、そうだっ! 楽しくないか、貴様はっ! 憎い俺を打ち据えることがっ! 俺は楽しいぞっ! こんな楽しいことも知らずに、何の人生かっ!」
「黙りなさいっ!」
もう一度、同じコースの攻撃! 甘いなあ!
左手で受け止めながら、一気に距離を詰める。しかし敵もさるもの、すかさず離れようとする。だが気付いていないな。貴様の後ろには、
「っ! 壁っ!」
「油断大敵!」
すかさず薙刀を持ち上げ、壁に右手で抑えつける。この隙に…
「ちぃっ」
しかし相手も右手を薙刀から外し、顔面をガードする。
拙い。接近し過ぎて俺は有効打が放てないが、向こうは金的を攻撃できる。ならば―――
痛む左手で相手の右手を掴むと、その柔らかそうな腕に
噛み付く。
「っ!」
顔が恐怖に歪むのが見える。
俺の歯が皮を破る感触が伝わる。
血が流れ込み、口中を満たすのを味合う。
……ああ。
痛みに歪む顔。恐怖と憎悪を宿した視線。それらが俺の下腹を刺激する。思わずその白くて細い首を、握り潰したいとの衝動が沸き起こる。
だが。
そう、だがなのだ。
それよりもずっと、喉を粘つきながら流れ落ちる液体が俺の意識を奪う。
いや。舌が、歯茎が、喉が、食道が、そして胃袋が。触れたところが熱を持ち、脳髄を貫いて、ひたすらに意識に訴えかけて支配する。
―――そうだよな。そうだよな。そうだよな。
うん、今までの興奮だって嘘じゃない。本当に楽しいし、楽しかった。
でも、ああそうだ、やっぱり嘘だったんだろう。
だって、ほら、見えているの俺の敵じゃない。
「肉」だ。「餌」だ。「食い物」だ!
もう一度、口中に満ちた液体を飲み込む。顎に力を込めて、肉の感触を味わう。
もう堪らない。もう我慢できない。
美味い。
喰いたい。
この肉を!
「ひっ」
「退がれぇ、イカレ野郎!」
ぎきっ
「ぎぎゃああぁぁ!」
右腕に激痛が走り、口を離してしまう。
「大丈夫ですか、先輩っ」
「私なら、大丈夫よ……」
突然現われた別の「餌」が、喰らおうとしていた「餌」を奪う。喰いたい。
「このイカレ野郎! 俺だけじゃなく先輩までも!」
騒ぐな。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。
「注意して! 何か様子が変よ!」
美味そうな「餌」が叫び、肉の固そうな「餌」が俺の前に立つ。喰いたい。喰いたい。
「邪魔をする気か」
喰いたい。喰いたい。抵抗を愉しむ気にもなれない。
「当たり前だろう!」
竹刀を前に出し、構える。喰うなら、何処が好い? 何処が好い!
「そうか」
喉が好い。薄い皮膚が上気して、血が透けて見える。そこから血が流れ、溢れ出す。血で腹を満たしながら、細い筋肉を噛み千切ろう。ぶちぶちとした食感は、後ろの「餌」とはまたきっと違う。肉の固さを楽しみながら、形を喪うまで噛み続ける。ああ、喰いたい。美味いだろう。美味いに違いない。だから俺は、俺は、喰いたくてたまらない!
動かない右腕を無視し、左腕を顔面に伸ばしながら喉を狙う。左腕は迎撃されるが、一気に近づき喉笛に噛み付く!
「ぎぎぎぃ!」
「甘く見るなあっ!」
狙った場所と違う。奴は右腕だけで竹刀を使い、左腕で顔を庇った。だから今、俺が噛み付いているのは左腕。でも
「このまま…!」
ぎぐゅり
ここでも好い! 肉だ! 肉だ! 噛み千切る!
「痛っ」
「早く離れて!」
みちみちみち、ぶっ
皮を破り、血管が切れ、血が流れ出す。
くいものだ!
喰らう、喰らう、喰らう、喰らう、喰らう、喰らう!
「さっさと離せイカ」
じゅう、じゅう、じゅる
溢れる血を啜る。涎と共に喉を通り、胃へ進む。早く喰らわなければ零れてしまう。
「ひっ…」
「放せ。放せよっ、イカレ野郎!」
暴れだす「餌」。動くなぁ! 喰えないじゃないか!
怒りが、不満が、何より飢えが口を突く。
「もっと」
口一杯に頬張っているから、篭った声しか出ない。
「もっとだ」
俺の声で「餌」の動きが緩やかになる。
「な、何だ?」
緩やかになった分、俺にも余裕が生まれる。
「もっと喰わせろ」
余裕が出来たから、怯えた目を向ける「餌」と視線を合わせて、
告げる。
「おまえを」
「餌」の動きが止まり、
「ひっ」
短く声を上げ、
「ひぎゃあああああああああああああああああああああ!」
叫び出した。
「離れろっ! 離れろっ! 離れてくれえっ!」
「ぐがっ」
急に暴れだした所為で、振り払われてしまう。
「よるなっ! よるなっ!」
「落ち着いて! 落ち着いてえ!」
騒ぎ立てる「餌」ども。まだまだ足りない。もっと喰いたい。喰いたい。喰いたい! 喰いたい!!
「喰らう、喰らう、喰ら」
「全員止まれえっ!!」
突如響き渡る声。
何が俺の食事の邪魔をっ!
目を遣れば……あれは教師か。
「ぎ、ぎ、ぎぎいいいいいいいいいい!」
折角の、折角の食事をぉぉぉぉぉ!
歯をがちがちと鳴らし、喰い足りぬ思いを身体が吼える。
目の前の「餌」どもを見る。喰いたい! 喰いたい!
だが、しかし……
「うぐおおおぉぉぉぉぉ」
ぎりぎりと歯噛みしながら、必死に耐える。今ここで襲ってはこの先、機会にめぐり合えないかも知れん!
「貴様ら…」
目の前の「餌」どもに話しかける。
「な、何?」
腕から流れる血をハンカチで押さえながら「餌」、ではなく女が応える。
「さっさと手当てして貰え」
「どういうこと?」
「もう終わったという事だ。貴様らの理想を含めて、な。終わったのならば全てを捨てなければならない。ただ、それだけの事だ」
そう言い捨てて、出口へと向かう。無念だ。口惜しさに涙が滲む。
「待てよ!」
振り向くと、男の方が同じく腕を押さえながら立っていた。
「俺は納得いかない! 納得いかないぞ!」
馬鹿らしい。
「馬鹿だな、貴様は。文句があるなら後日、来い。ただな、喧嘩は禁止されているんじゃないか、風紀委員?」
これ以上、馬鹿馬鹿しい事に巻き込まれたくないので、足早に出口へ向かう。丁度、出口の所に教師が居る。ついでにあいつらの事を頼んでおこう。
「すいません。あそこの二人」
そう言って奴らを指差し、
「出血しているので、手当てをお願いします」
これを聞くと、救急箱を持って走っていった。これで大丈夫だろう、痕は残るかもしれないが。
「喉が渇いたな…」
腹も減っているし、口の中は血だらけだし。ふむ、ジュースでも買いに行くか。
廊下はそこ等中、怪我人とその手当てをしている連中で溢れ返っていた。それほど長い時間争っていたとも思えないが、結構な人数に登るようだ。…俺が原因のも何人か居るかもしれない。
幸いな事に自販機の周囲は誰もいなかった。体育館から少し離れていることと、保健室と同じ並びに無いからだろう。人込みはもう、うんざりだ。どうせ喰えない「餌」は、見たくも無い。
ズボンのポケットを探ってみる。左腕はかなり痛み、右腕に至っては全く動かない。しかも先刻の乱闘で小銭を落としたかもしれない。不利な条件だらけだが…。っと、一発で見つかるとはラッキーだな、まったく。
左手で小銭を入れ、左手で選び、左手で取り出す。だが左手だけでは蓋を開けられない。
「しまったな…」
どうしようか?
「おいっ、どうした?」
悩む俺に向かって声が掛けられる。どうやら通りがかりの教師のようだ。…利用させて貰おう。
「いやぁ、ジュース買ったんですけど、右腕が使えないんで、どうしようか考えていたんですよ」
「この時間帯での購入は禁止されている筈だろう。ま、今日は特別だぞ」
「すいませんねぇ」
蓋を開けてもらい、受け取る。口の中の血を洗い流す為、泡立ててから飲み込む。
「右腕が使えないってどうし、っておい、顔が血だらけだぞ!」
「これですか? 大丈夫ですよ」
「大丈夫な訳ないだろう! 早く診て貰わないと!」
「大丈夫ですって、俺の血じゃないから」
「俺の血じゃないって! …俺の血じゃない?」
「そうですよ。俺の血じゃないですよ」
慌てふためいていた教師を尻目に、再びジュースを呷ったのだった。