迷宮蟻街/ドピエル
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親愛なるリアト様
卑賤兵からの賄賂が兵士たちを淘汰しています。
汚職に耐えられない真面目な者はどんどん街を去っています。残るのは倫理観の狂った野蛮人どもや傭兵のように賢しい兵士だけ。彼らは荒くれ者同士で集まり、商売を始めました。当然、表立っては認められないようものであります。
こうなれば傭兵も国属兵もあったものではない。
法も秩序も覚えていたほうが負けです。
わたくしもいつまで耐えていられるか分かりません。
先日、『卑賤兵』たちは組合からも見放されました。こうなれば、国属兵と彼らは軍団を作り上げるでしょう。街を守るための自警団、その建前で集められた力で何をするかは容易に想像がつきます。更なる支配です。怯え、惑う、人々を悪へと導いてゆき、決して抜け出せないように謀るのです。
リアト様はかつて私に、自分の力で物事を動かせと仰られました。
ですが私たちだけでは力が足りません。
どうかそのために、あなた様のお力を貸してはくださいませんか。
詳細はわたくしの使者よりお聞きください。
どうか宜しくお願いいたします。
アルバ商会 フェリ=ディアディス
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皇国第三都市フィロレム。
それはローレッド山脈と首都エルトリアムのほぼ中間に位置する超城塞都市の正式名称であり、イルファンとリアトは日が暮れ落ちる間際、ようやく街が見える丘へとたどり着いた。眼下に巨大な城門と隔離壁が見える。その上には七色に輝く結界術式陣が伸びており、壁の外にはどこまでも広がる汚い町があった。
あれこそが、フィロレムの代名詞である『貧民街』だった。
この街は、とてつもなく広大な貧民街と壁内都市から構成されている。
それはまるで蟻の群れに取り囲まれた芋虫のように。
「城塞がちっぽけに見えるほど広がってるんですね」
「人口は百万を超えるとも聞く。死者の数も知れんがな」
「病気のせいですか?」
「いや、ただの飢えだろう」
聞いた話によれば、大海沿いの地方都市であるフィロレムの人口は元から非常に多かった。だが、病と戦争によって難民が更に押し寄せ、ついには、古くから市民権を持つ者でなければ居住できないほどにまで膨れ上がったのだという。
流れの傭兵や商人などは近隣の小村や小都市などの数少ない宿に泊まることができたが、難民や貧民は行く当てもなく、城壁の外側に簡易の小屋を作っていった。それらを排除することは容易だったが、今の中央大陸で人の移動を制限することは、難民を見殺しにすることと同じ意味を持ってしまう。
そのため有効な手立ては打たれず、また博愛主義の領主が難民の存在を許してしまったことで、フィロレムはもっと多くの人間を取り込み始めた。大都市から毀れた人々が幾人かの傭兵の手引きによって、街を作り始めたのだ。
最初はボロの仮住まいだったが、次第にそれらは柵や門、そして砦と化していた。そうして、歴史に残るほどの貧民街が誕生してしまったのである。
リアトが目を細めて、それを眺めた。
「ここは結界もない無法地帯だ。毎日の様にいさかいが起こっては無意味に人が死ぬ。何もできないなどということは本当はないはずだが、この街の国属兵達は己の利益を優先して、ろくな仕事をしていないのだ。博打に精を出し、麻薬に手を染め、騎士も兵士もそこらの貧民と大差ない暮らしをしている。規模は違えど、利用されて食われる側であることに違いはない。くそ人間ばかりだ」
イルファンは眉をひそめた。
「悪い貴族みたいなのが牛耳ってるんですか」
「いや、悪い傭兵だ」リアトがしかめっ面をした。
「そんな面倒くさそうなことする奴がいるんですか?」
「卑賤兵というのを聞いたことはないか」
あった。
金と自分だけを愛する荒くれ者のことだ。
イルファンは一度だけ会ったことがある。
「その頭の一人がこのドピエルにいるのだ」
「ドピエル?」イルファンが問うた。
「白毒蟻の群れのことだ。この街は湿部で最大級の大きさと複雑さを持っている。そして凶悪だ。毒蟻の巣のようにな。その意を込めて『蟻街』と呼ばれている。私に言わせれば蟻というよりもきりぎりすの群れだがな」
「とてつもない数のきりぎりすですよ」
視界のどこかで、常に人が動いていた。いや、蠢いていたというのが正しいかもしれない。この貧民街では、至る所に人間の姿があった。遥か先に見える城塞まで辿り着くのは戦錬士でも骨が折れるだろう。
ノーラン中の貧民が最後に辿り着く場所、餓人の聖地にして墓場。ここでは他と異なり、地下にも街が築かれているのだと言われていた。地上でこのありさまならば、地下はどんな風なのだろう。イルファンには想像もできなかった。
「それでもこれは、大陸中で起こっていることだ。フィロレムと比べれば小規模だが、事態に歯止めはかからんまま、ますます難民や避難民が増えているという。いずれは城壁の内側も同じようになるのかもしれん」
「どうして止まらないんですか」少女が言う。
「魔獣病で居住地域が減ったのだ。どこの街も結界を張るので手一杯で、貧民街にまで手が届いていない。下手を打てば不満は行き場を失って、街全体を壊してしまうだろうからな。邪魔だと思ってはいても、どこの街主も手を出さない。手を出さないままに人間も街も増えていく。いつか都市ごと食い潰される日まで臆病にかまけているのだ。それが悪いとも言えないが」師匠が冷えた声で続けた。
今日のリアトは饒舌だった。ご機嫌なのだ。
都市に着いたからか、あるいは他に理由があるのか。
「このごちゃごちゃ感は結構好きですけどね」少女が言った。
「私もだ。厄介ではあるが」
「厄介なんですか?」イルファンが問う。
「通り抜けるのもごめんだな」
確かに周囲の空気はぞっとするほど冷たい。
寒さだけではない。人間の猜疑心が放つ、独特の冷気のせいだ。
日が落ちたことで、貧民街の住人も警戒を強めているらしかった。何を恐れているかは想像がつく。魔獣病だ。罹患した者が旅人に紛れていないとは限らない。若い魔獣病への対抗手段は今のところないに等しかった。
そのため、二人が近づくと殺気にも似た気配がこちらに向けられた。
リアトはそれを軽く流して貧民街に立ち入っていく。
イルファンも師匠に続いた。
この街はひどく込み入っているらしく、自分が迷宮の何処にいるのかすぐに分からなくなってしまう。そのため、初めての都市だが高揚感などはなく、むしろ痺れるような緊張が身体をずっと支配していた。
粗造の仮小屋や崩れた石壁、木切れに天幕を張った屋台もどきから視線を感じる。道端に転がる人々は身じろぎしないが眠ってはいない。その枯れた体の下には武器を隠している。愚かな旅人や狂人、そして魔獣を殺すための武器だ。
リアトとイルファンは警戒を怠ることなく奥へ奥へと進んでいった。
開けた場所に出たとき、遠くに城が見えた。
あれがフィロレムの『クスタファルビア』と呼ばれる城塞である。瓦礫の家々の隙間から、くすんだ黒色の塔が何本も見える。古代バルニアの時代から残る城は、薄汚れた巨人の様な大砦、まさに対獣要塞であった。
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クスタファルビアは二千年前、バルニア帝国の時代に築かれた砦だった。
当時のバルニア帝国は中央大陸湿部のほぼ全域を支配していた大国家であり、対抗出来る程に有力な国家は大陸に存在していなかった。そこでは独裁統治が行われていたといわれており、その中でも現在ノーラン皇国のあるグレルト地方は特に厳しい統治が行われた場所だという。
先住民であるグレルト人は度々反乱を企てたため、バルニア人は彼らを弾圧し、ローレッドの向こうにあるファルティア人の土地へ追いやった。その時に建造された原初のクスタファルビアは、帝国冷部の重要拠点、その礎となった。
それゆえ、この砦はグレルト人にとって、故郷との間に立ちはだかる巨大な敵とみなされ、グレルトの民は何度もクスタファルビアを攻撃した。だがしかし、この砦は難攻不落であり、統治者がノーラン皇家に代わってからもそれは続いた。
幾千万もの人間の血を浴びてそれでも尚残る砦。
血と煙で汚れた穢れた城。
故にクスタファルビアは『血餓城』と呼称されるようになる。
ただし、血飢城は実際には人よりも魔獣の血を多く浴びているといわれる。
古代バルニアの時代、バルニア人は積極的に呪域を開拓していった。そのとき、人と魔獣は激しく争い、冷部魔獣や海獣との闘争では血飢城が最前線となった。神話時代の魔獣は人よりも高位であり、その戦いは苛烈を極めたという。
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イルファンは『血飢城』に憧れを抱いていた。
無数の戦錬士や剣術士や魔法士が血飛沫となり散っていった、
そういう場所だと、傭兵達に聞いていたからだ。
太古の魔獣キィラノア=リトによる『赤雨の大虐殺』が起こった忌地にして、魔術師フロン=アギオシュスによる『大規模聖属結界』が張られたノーランの聖地。帝国神話の最前線がここなのだから、見られるものなら見ておきたい。
考えても見れば、旅行はたぶんこれが初めてなのだ。少しくらい観光しても損は無いというか、見ないと損に決まっている。今回の旅の目的が観光でなにが悪いというのか。リアトに悟られたくはなかったが、心はすこし浮ついていた。
「城ってあんなにカッコいいんですね」
「見たいのか」リアトが舌打ちをする。
「もしかして見れないんですか?」
「残念だな。フィロレムに入る予定はない」
「『血餓城』にも行かないんですか?」
少女が目を剥いたが、リアトは無視して言った。
「今日は蟻街に泊まる」
「ここに?」嫌そうにイルファンが言う。
「伝手がある」リアトも嫌そうに言った。
「伝手とかいらないですから街に行きましょう」
「もう遅い。出迎えが来た」
その時になってようやくイルファンは気付く。
貧民達がゆっくりと二人を取り囲み始めていた。
その数は少しずつ増えており、その誰もが目を爛々と輝かせて剣やこん棒を握っていた。目当ては馬か。剣か。金品か。それとも自分たちか。
警戒されたくないので、この街に入る時に胴剣布は脱いでいた。頭剣布はリアトが解くなというので被ったままだが、胴布も着ておいて牽制した方が良かったんじゃなかろうかと少女は思う。真交流の剣術士に襲い掛かる者などいるまい。
「師匠、剣布を出しましょう」
「ふん」リアトが鼻を鳴らす。
「師匠!」
「闘ってもどうせ傷ひとつ負わん」
それはそうかもしれなかったが、それでも二人は狂気染みた表情に完全に取り囲まれているのだった。そろそろ剣を抜いた方がいいとイルファンが背中の柄に素早く手を掛けようとしたその直前、リアトが銅貨を取り出して、投げた。
痩せこけた群れはそれを追って周囲に散る。
なるほど。この街にはこの街の決まりがあるようだ。これで穏便に済むんなら良いけど、とイルファンは安堵したが、リアトは不満げに鼻を鳴らして群衆を睨みつける。表情は険しさを増しており、苛立ちが眉間の皴に表れていた。女は足をたんたんと踏み鳴らしてから神経質そうにきょろきょろと辺りを見回した。
「どうかしましたか」
「頭が出てこんな」
そう言うが早いか、リアトは背の藍剣を抜き放る。
剣を抜いてどうするつもりなのかイルファンにはすぐに見当がついた。
ローレッド山脈の道場ではこの技に何度も苦しめられたからだ。
きりきり。
きり、
強弓を引き絞るような音と共に剣身が蒼白に輝き、殺気が零れる。
ぴぃいいいいん、ぴぃいいいいいんと硬質な音が鳴り響く。
イルファンは顔をしかめて、耳を両手で塞いだ。
大気が共鳴するように震え始めると、魔獣の咆哮にも似た振動が皮膚中を走りまわった。それを受けた餓人たちは恐れをなして悲鳴を上げる。あちらこちらで狂乱が起きている。転んだものは踏みつぶされ、踏んだものも正気を失ったように叫んでいた。そして人々は、頭を抱えたままに路地や家々の隙間へ消えた。
ただ一人を除いて。
その人物を確認すると、リアトは剣の血を払うようにして闘気を霧散させた。呪界に顕れていた力が大気を歪めながら靈界へと返っていく。イルファンはその靈気から師匠の苛立ちを感じ取り、その身を固くした。
「ラフィー。なぜ姿を見せなかった」リアトが問う。
その男は屑だらけの道に一人立っていた。
左目尻に焼け爛れたような傷が一つ。背には長短剣が下がっているから、流派は真交流だろう。歳は三十を半分ほど過ぎたくらいなのだろうか、まだまだ剣を振るうに十分な肉体である。無駄のない身体つきだが猫背。貧民らしく、くたびれたぼろを着てだらけた立ち方をしている。一見すると男は隙だらけだった。
私でも軽く対処出来る程度だろうかと思い直して少女が力を抜くと、男は口元に薄ら笑いを浮かべながらリアトの方へと進んだ。ずるずると左足を重たそうに引きづりながら。ゆっくりと怠そうに。その気だるげな様子が、どこか奇妙に歪んで感じられる。虎が爪を隠して近づいているような気持ち悪さだった。
しかし、どこまで近づいても男から殺気が向けられることはなかった。
「姐さん、いきなり過ぎやしませんか。こっちにだって準備ってもんがありまして。いやぁ疚しいことは何一つないんですがね。知られたくない付き合いなんかもあるもんですからねぇ、ほら、連絡のひとつくらい損はねぇでしょ」男が言った。
「五年前に永遠の忠誠を誓ったろう」リアトが呟く。
『永遠の忠誠』
その言葉は恐らく契約魔法による隷属契約を指す。
内心でイルファンは驚いた。このリアトとそんなものを結びたがる人間が何処にいるだろうか。弟子たる私でさえ、永遠の忠誠だけは御免だというのに。結びたがるはずがない、となれば無理やり結ばされたのだ。
少女はすこしだけ目の前の男が哀れに感じられた。
もちろん、こそ泥の末路としてはマシな方かもしれないが。
「いやぁ、そうは言っても姐さんを見ると体がぶるっちまって動かないんでさぁ。今だって靈気に中てられてちびっちまいそうで。一体全体、何用でさぁ?」
へへへ、と苦笑しながら男が言ったがその弱弱しさは芝居がかっていた。本当にリアトへの恐怖心で動くことも出来ないという感じはしない。やはりこいつは何かを隠している。イルファンは疑いの目を男へと向けるが、彼は目を泳がせることなく、少女へ向かってにやにやと笑いかけた。どこか下卑た感じがする。
「うげぇ」イルファンが言った。
「そこのお嬢ちゃんはあっしのことを……」
「黙れ。その子に喋るな。部屋に案内しろ。それと二日間は情報を漏らすな。首を刎ね飛ばすように命令してやろうか」リアトが吐き捨てるように言った。
「いやそれならお安い御用で」へこへこと男が答える。
少女とその師匠はそのまま男の後を歩いた。
フィロレムの総門からはどんどん離れて、三人は貧民街の奥深くへ入っていく。この男はやはり貧民街の卑賤兵を仕切っているらしく、餓人は遠巻きに見てくるだけで襲ってはこない。それが気持ちよくもあり、気持ち悪くもあった。
神話に出てくる救世主のように貧民の間を通り抜けていくが、もちろんその先には神話のような神殿はない。むしろ、深く入るに連れて、どんどん闇が濃くなっていくのが分かった。夜の闇ではない、もっとどす暗いものでできた闇だ。
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角を曲がりまた角を曲がり、そして角を曲がる。
どこまでも角があり、直線の道は存在しないと言ってもよいほどだった。
「入り組んでますね」少女が言う。
「道は覚えるな。無意味だ」リアトがそれに応えた。
「ドピエルは不定の街でさぁ。迷宮の構造は日毎にばらばらっと変わっちまう。ちゃんと判ってるのはあっしとラドキエラ=デュロイだけさねぇ。まぁあっしは別に覚えてるわけじゃねぇ、魔具の地図を持ってるから迷わねぇだけさぁね」ラフィーはそう言いながらも、地図を見ることなくさっさと進んだ。
「見てないじゃん」
「あっしは勘がいいからねぇ。ほら、そこを右に曲がりな」
「うっ、くさい」少女が足を止めた。
「止まるな」リアトが鋭く言った。
「だってこれ……」
壁の松明から黄褐色の煙が出ている。
それを覗き込めば魔虫が火の中で蠢いていた。人差し指ほどの大きさの芋虫が数十匹だ。イルファンは一瞬胃の中の物を吐きそうになった。
それを見たラフィーが、面白そうに少女に声を掛けた。
「ドルレーン。みんな大好きな油魔虫だぜ。なんせ今じゃ、海獣やらハレイン草から取れる油が高いからねぇ。ドピエルじゃこいつを重宝すんのさぁ。これがありゃどんなに暗い夜もぱぁっと明るくなっちまう、最高の松明さ。腹が減ったら食えるしねぇ」そう言ってラフィーはうごめく芋虫の一匹を口に放り込んだ。
「こいつの臭いに幻惑作用があるから使っているだけだ」
リアトがすかさず、男の言葉を断ずる。
幻惑作用と聞いてイルファンは後ずさりした。恐らく師匠の言っている幻惑作用とは実界的な物だろう。そして実界の物は時に致命的となることがある。
例えば毒。魔術毒で剣術士を殺すことは不可能に近い。強力な術式毒ならば痺れはするが、余程のことがない限り、剣術士は死なない。剣術士の肉体の内側で充満する靈気が、毒を生成する魔術を阻害してしまうからだ。
しかし実体毒は肉体そのものへ浸食を加える。
だから抵抗することもできず、ころりと死んでしまうのだ。
「けけけ。ちゃんと使えば、なぁんも危険はないんですぜぇ。ここの貧民連中はこいつをむさぼり喰って夢を見るんでさぁ。まぁたまには間違って、一生分の夢を見ちまう奴もいますがねぇ。それもまた一興。何が起きるか分かってる人生なんてギリベスにでも食わしちまったほうがマシでさぁ、そうでしょ?」
「イルファン。嗅覚を閉じておけ」
「はい、師匠」
「何なら聴覚も閉じて構わんぞ」
「ひでぇなぁ、姐さん」
単に嗅覚を閉じても実体毒が無効化されることはない。それゆえに戦錬士が嗅覚と呼ぶのは単なる五感のことではなかった。それは、嗅覚に付随するあらゆる意識や感覚のことを指している。たとえば、刺激に対する反射の抑制や、毒物の意識的な阻害までもがおおまかな意味で、『閉じる』と呼ばれた。
であるから、嗅覚を閉じれば、多少は明瞭な視界を得られるというわけだ。
これが即効性のある毒物ならば、五感を制限することに意味はない。
少女が言い付け通りに五感を操ると、少し感心したようにラフィーが息を吐く。五感の操作は戦錬士の中でも傭兵が得意とする領分だが、イルファンはそれを高い精度でやってのけることが出来る。その力量は上級傭兵に劣らない。
「こりゃ凄い。流石は姐さんの弟子さぁ」ラフィーが言った。
「黙っていろ」リアトがすぐさま言い放った。
それからしばらくは誰も話さなかった。
静かに、汚物塗れの階段をいくつも降りて、どんどん深くへと進む。古代遺跡のようでありながらも、何処か生活感を感じる雑多さがある空間だ。灰色の薄い混凝土の壁の向こうからは笑い声や怒号が時折聞こえた。
側溝には赤黒い液体が流れており、上には継ぎ接ぎだらけの布が張られている。もはや方角も、どれだけ歩いたかという時間感覚も失われていた。油魔虫に惑わされたのだろうか、頭がぼんやりとしていて脚も覚束ない。立ち込める鉄錆めいた臭いは、どこか生臭かった。人とも獣ともつかないなにかを感じさせる。なんとなく出した足が固い物を踏みつけ、見てみればそれは大腿骨だった。
頭がおかしくなりそう。
目の前に見えるリアトの踵だけを頼りに、イルファンは歩いていた。ここがもし本当の迷宮――つまり中央大陸に存在する五迷宮のことだ――ならば、とうの昔に少女は魔獣に喰われて幾多の人骨の中に埋もれることとなっていただろう。
絶対に迷宮には入らないとイルファンは、ぼやけた頭で思ったし、そのことを考えるだけで頭に靄がかかったようになった。目の前に不意に光のようなものが見えたと思ったら、ふわふわと壁のなかに吸い込まれて消えていく。
イルファンにはもはやそれが現実なのか幻覚なのかも分からなかった。自分がこういう光景を見たことはあっただろうか。恐ろしく無機的な壁に囲まれて当てどなく、彷徨い歩いたことが。あった。いやおそらくあったのだろう。
だからこんなに苦しいのだ。
どんどん息が苦しくなっていく。
二人、いや三人、いや何人もの声が聞こえた。
笑い声だ。
誰かに囲まれているような気がした。
イルファンは思わず微笑みたくなった。
それが何故なのかもよく分からない。
あぁ、もう黙っていられない。
誰か話しかけてはくれないだろうか。
そう思ってイルファンが泣き言を言おうとした時、
遂にラフィーが迷宮探索の終わりを告げた。
「もう着きやすぜ」
「やっと!? もう迷宮はうんざりよ!!」
「なぁに本物の迷宮はもっとうんざりさ」ラフィーが言った。
イルファンはそれを聞いて下唇をびっと突き出した。
「魔獣が出てくるんなら退屈はしないわ」
「けけけ。それは威勢のいいことで」
「馬鹿にしてんの?」イルファンが噛みつく。
「いやぁ、迷宮ってのは深魔の巣窟ですからねぇ。戦おうと思って戦えるようなものじゃねぇんだぜお嬢ちゃん。死ぬとか生きるとかじゃなくてありゃぁもっと恐ろしいことなんだ。それが嬢ちゃんに分かるとは思えねぇが、自分の信じていること全部がぐちゃぐちゃになるってのはもう、ひでぇもんだ。いやまぁ確かに退屈はしねぇが、退屈する方がどれだけマシなことか分かるってもんさぁ」
深魔についてイルファンは断片的なことしか知らなかった。
だが、連中が魔獣以上に不気味で慈悲を持たないということは知っていた。
街道などに稀に深魔が出た際には、あの荒くれ者の傭兵たちでさえも小屋に閉じこもって震えていたのだから、それは相当に恐ろしい相手に違いない。
幸いにもローレッドにはほとんど現れなかったが、出会った場合には一目散に逃げるのだと、リアトにも言われたことがあった。事実、イルファンは深魔の一片に触れて、血も凍るような思いをしたことがあった。
「迷宮の深魔って危険なの?」ぶるりと少女が震える。
「危険なんてものじゃねぇかなぁ。迷宮深層に出てくる『腑分け』なんざ上級剣術士が何人いても役に立たねぇんでさぁ。ただバラされてそれで終わり、ただの肉と骨の固まりの出来上がりってなもんよ。他にも『人鏡』に『血溜まり』、『蚯蚓』に『骸殻』……どれ一つ生きて帰してはくれねぇ」
何故だかゾッとした。
「嘘でしょ」少女が言う。
「本当さ」
「嘘!」イルファンが恐ろしい剣幕でラフィーを睨みつけた。
「あっしはまぁ、嘘つきではありまさぁ」
「ほらもう着くぞ」リアトが言った。
辿り着いたのは錆びた鉄製の扉だった。それは何重もの鎖や閂で閉じられているように見える。松明を近づけてみると、扉には細かく幾何学模様まで彫ってあった。ということはこれは魔道具。つまり術式を組み込んだ防御魔術の罠だ。
こういったものの存在はローレッドにくる傭兵たちから何度か聞いている。泥棒や陰秘士を追い払う為の防御結界みたいなものは案外と安く手に入るらしく、山の中の何でもない荷箱にも魔法がかけられていることがあるそうだ。
リアトはすっと前に出ると、これまたびっしりと模様が彫られた鍵を無造作に差し込んだ。重苦しい軋音と共に扉が独りでに開くと、腐ったような臭いの空気が漏れだしてくる。それはイルファンの頭を少しばかり目覚めさせた。
「こんなところに泊まるんですか?」
「ご苦労。ラフィー。礼だ」
リアトはイルファンの問いを無視すると、そう言って金貨を数枚ほど男に投げた。それは、まるで殺すかのように、頭部へ向けて的確に投げ打られていた。だがしかし男はそれを片手で器用に掴んで見せる。よく見れば、一枚ずつ指の間に挟んでいる。この動体視力と反応速度は並の中級剣士とは思えなかった。
魔獣と異なって剣士に位の区分は無いのだが、敢えていうならばラフィーは中級上位だろうとイルファンは思った。因みに少女も金貨挟み程度ならば余裕で出来る。なので大きく驚きはしなかった。
「ありがとうごぜえやす。ここで迷ったらお呼びくだせぇ。このラフィーはいつだって姐さんの味方にして忠実なる僕ですからねぇ。あの熱部人やら紫髪に劣っているところなど少しも、ほんの少しもありませんぜ?」ラフィーがにやついた。
「二度と呼ばんさ」リアトが睨む。
「しかしここは来る度になにもかもが変わっているんですから。なんたってそりゃ人造迷宮ですからね。姐さんの心でさえも変わってるでしょうさ」
そう言うと男は下卑た笑みを貼りつけたまま、闇へと消えていった。
ほんの数瞬で気配も消える。
残り香も何もかもが虚空へと去ったのだ。
驚くべきことに少女は既に男の顔も名前も忘れていた。誰だったっけ今の。氷が解けて水となるように、イルファンの記憶から男の輪郭が消失しようとしていた。その奇妙な感覚が、少女に赤い城の記憶を思い出させようとしたそのとき、
リアトがイルファンの様子に気付いて声を掛けた。
「ラフィーだ。忘れるな。あの男は役に立つ」
「うそありえない。今の一瞬で全部忘れてました」呆けた声で言った。
リアトが眉根を寄せて頷いた。
「そういう特質を持っているのだ。二ツ名は『陰迷』のラフィー。あれでもエルトリアムで正規登録された傭兵なのだ。そうは見えんだろうが。それと、一応言っておくがあの男は悪人ではない。狡猾で抜け目が無いだけだ」
それは大抵の悪人が持っている性質なんじゃないか、と思ったが少女は黙っていた。というのも、自分の馴染みの傭兵たちもその程度の性質はちゃんと備えていたからである。それが傭兵というものであり、それが彼らの生き方だとイルファンはちゃんと知っていた。良くも悪くも。
「さぁ中に入れ」リアトが言った。
ゆっくりと開いた扉に少女は飛び込んだ。
それほど狭くはない。
もし斬り合いとなっても十分に動くことは可能な広さだ。
薄明るい室内は思っていたよりも綺麗で整頓されていて、ローレッドと比べれば夢のような空間だった。部屋は三つもあるようだったし、奥まったところには浴室や厠もあった。そのうえ――生まれて初めて体験することに――寝台が二つもあった。これが蟻街の宿だというならば、それほど悪い環境ではない。
欠点はただ一つ。
ここは信じられないくらいに快適そうな場所だったが、
アルレーン並みのすっぱい臭いだけはどうにもならないのだ。
どうやらリアトは生物や食料品を長年放置していたらしい。籠の中には蟲も集らないような魔獣肉がおそらくは腐ったまま放置されていた。結界によって、蠅一匹たりとも侵入していないので部屋は清潔なままだったのだが、そんなことは剣術士にとって、何のなぐさめにもならなかった。
リアトは嫌そうな手つきで肉の入った籠を掴むと、迷宮の廊下へと投げ捨てた。それから壁に取り付けてある術式板を起動させ、手をぱたぱたと振り動かす。奇妙に思って見ていると、部屋の隅から生ぬるい風が吹いてきた。その風は腐臭をなめらかに集めると換気孔へと滑り込んでいった。臭いは少しだけましになった。
リアトはその装置をもう一度動かした。
「それなんですか」イルファンが訝しげに問うた。
「換気装置だ。ここはずっと昔に使っていた隠れ家で、あちこちに術式機械が備えてある。だが大した代物ではない。ああ、そこの箪笥に子ども用に仕立てた服があるから明日のために選べ。汚いなりでは首都には入れんからな」
臭いに顔をしかめながら、リアトが部屋の隅を示して言う。
そこにあった箪笥には今まで見たことのないようなお洒落な服が入っていた。
当然それらは戦闘向きでない服ばかりである。
最初に取り上げたものは、袖口はきつく閉じて、丈が長いために足が開かなかった。流石にこれは着ることが出来ない。少女は箪笥をひっくり返す勢いで適した物を探すことにした。最もイルファンはその手の服の着方を知らなかったから、大抵は着られないという理由で投げ捨てられていった。
しばらくして見つけたものは、胴回りの緩やかな厚手の服だった。元々は白かったのが年月の仕業だろうか、ほんの少しだけ袖口が黄色くなっている。
それでもこの服は美しい。いつもの服と比べればそれが職人の手で丁寧に縫われたことがよく分かる。生地の立派さが分かる。年月を経ても色あせない素晴らしさがその服にはあった。動きやすさを犠牲にしても、それを着てみたいと少女は思った。その代わりに、脚衣は柔軟性と通気性に優れたリャポック(湿魔蜘蛛)の糸で編まれた物にした。機動力は闘いの要だ。それを失うわけにはいかない。
この脚衣に古い革靴を履くので結局みすぼらしさは拭えないだろうが、上が綺麗な分、多少は小ぎれいに見えるような気がした。魔獣皮の胸当てをつければ台無しになるかもしれなかったが、それさえ些細なことのように思えた。
「少し古びているがまぁ目立つほどではない。それで十分だ」
「変じゃないですか?」イルファンがびくびくしながら答える。
「これは市民向けの服装なのだ。傭兵や山越え商人どもの着る旅装ともまた違うもので、動きやすさを考えたものではない。お前にはそういう服を着せてこなかったが、まぁいずれは慣れるだろう。いや、慣れておくことだ」
イルファンは渋い顔をして裾を摘み上げた。
「いつもの服じゃ駄目なんですか?」
「いつもの? こんなものを服だと思うな」
リアトはそう言って、床に落ちている布を爪先で拾い上げる。
それは服、というよりも一枚布を縫った『剣布』だった。
真交流の剣士はこの布をばさりと服の上から被ることで胴剣布とする。そして頭部には、これまた長い白布『頭剣布』を巻き付ける。剣布の下に着る胴下布は、いわば下着であり、普通はこれを数枚着こむのみである。イルファンは下布を二枚しか着なかったので、ローレッド山の寒さは堪えたものだった。
これらの白布は滅多なことでは切れない。だが流派が明らかになってしまう事と、あまりにも礼儀作法に無頓着な服装のために街では敬遠された。少なくとも、胴剣布を都市で常に着ているような剣士はいないとリアトはよく言っていた。
「剣布は隠したい物をすべて隠すには便利だ。だが服としては着れたものではない。服ではなく、戦闘にしか使えん布にすぎんのだ。よく覚えておけ」
多くの真交流剣術士は『剣布』を実用性というよりは一種の証文のような形で用いるという。少なくとも、胴剣布を着ていれば賊に襲われることはないそうだ。イルファンは、リアトの言葉に面倒くさそうに眼を細めた。
「私だって布を服とは思ってるわけじゃ……」
しかし、少女の呟きにリアトはもう答えなかった。
自分の服を選ぶのに夢中になっていたからである。
「私のはどうだろうか。これとか」リアトが言った。
「剣布よりは遥かに良いです」
それはかっちりとした黒服だった。山の中での無骨な印象を消して、特級剣士に相応しい威厳が滲み出る服である。とはいえ、やはり皮鎧をつけるのでちぐはぐになってしまうだろう。そういう意味では微妙だとは思ったがリアトには言わない。イルファンは傭兵とのお喋りで会話の作法というものを学んだのである。
「似合ってます」
「ふむ。少し堅すぎるかとも思ったがな」
師匠が遠くを見つめるような眼で呟いた。
美しいと少女は思った。
リアトの顔立ちはグレルト人とトルポール人の混血のようであり、世間では美人と称される類の凛々しく彫りの深い顔立ちをしていた。その褐色の肌は、砂漠の民のようにきめ細やかで、シミひとつない。とても三十歳には見えない。
それゆえ少女は、たびたびリアトの顔に見惚れてしまう。だがしかし、誰も彼女には寄り付かないだろうということも少女には分かっていた。
なぜなら、強者特有の獲物を捉える眼が、相貌を獣にしているからである。粗暴さにも似た荒々しさ、それがリアトからは零れていた。睨まれただけで腰が抜けるような瞳は、幼いイルファンを何度も貫いたものだった。
とはいえ、今では、自分もそんな眼をしているような気がしていた。
「何を見ている? 稽古でもしたいのか?」
「いや、早めに寝ます」即答した。
「そこの寝台で眠れ。明日の夜にはここを発つ」
剣を、研ぎ汁を浸み込ませた剣布で研ぎながらリアトが言った。イルファンもそれに倣って、頭剣布で愛剣を撫でた。きめ細やかな白布が刃のくすみを消していく。魔鉄の剣ならば一撫でで十分にきれいになる。イルファンもその一度で剣をかたわらに置いた。しかしリアトは、自らの剣を何度も何度も研いでいた。
本当のところ、リアトの用いる蒼神鋼の剣などは研ぐ必要がない。彼女によれば一日研がないだけで剣の重みが変わるらしいのだが、これは眉唾だとイルファンは思っていた。きっと師匠は手が寂しいのだろう。
「あの……明日はフィロレムに入りますか?」少女がおずおずと尋ねた。
「この街に来た目的は敵を見定めることだ。夜までに何も起こらなければそれで構わない。あの街には商人と都市官吏しかいないからわざわざ行く意味はないのだ。貴族も、まぁ会わなくてもいいだろう」面倒くさそうにリアトが言った。
いわく、ノーランでは何処の街もたいして変わらないらしい。皇王の直轄都市には中央から派遣された都市官吏が居て、その人物が都市を統制する。これがクレリア魔法王国やヴェルトヴァン王国ならば事情は少し違う。大都市は国王より任命された諸侯、豪族、貴族が治めるのだとか言われていた。
§
ノーラン国内にも貴族が存在する。
彼らは古い貴族だった。建国時になんらかの功績を立てた家がほとんどで、皇家に連なる者たちもまた貴族ではあるが、彼らは通常は無天皇族と称される。皇族も貴族も幾つもの領地を持つが、彼らが大都市を握ることは無い。大都市は全て皇王の直轄地であり、その管理は、貴族より選任された官吏に任される。
それ故、貴族らがその権利として支配するのは、幾つかの中小級都市と山々や平原、田畑、河などである。土地が財産として継承される際に分割されることはほとんどなく、長男以降の子弟は少々の財と宝物品を受け継ぐのみだった。
この相続にともなっての家督争いは熾烈なもので、比較的思慮深いと言われるノーラン皇国においても毎年のように血みどろの争いが発生する。皇王や官吏はそれを防ぐために、皇都に『調停官』や『上級調停門』を設けたのであるが、適切に機能することはなかった。汚職が絶えなかったために、商人や市民向けの『下級調停門』のほうが余程機能していたというのは、どこか皮肉な話だろう。
§
イルファンとしては、無味乾燥な官吏よりは諸侯の治政というやつの方がなんとなく良いように思えるが、そんなことは実際どうでもよかった。イルファンは別に政治形態を見たいわけではなければ、難しい話をしたいわけでもなかった。
ただ観光したいだけなのだ。
「本当に、観光とかしませんか?」
「しないが騎獣は買っていいかもしれんな」
「明日の昼とか」期待を込めて問う。
「何度も聞かなくていい。基本的にはここで身を休める」
「ひどい……」少女が呟いた。
実のところ、市場で自由に買い物をするのはイルファンの大事な目的で、そのことを少女はまったく忘れていなかった。そして歴史的建造物を見学して回ること、これが次の目的になる。それが出来ないと知って、少女は大きく落胆した。
残念だけど騎獣はいらない。既に愛馬がいるのだし、魔獣に乗るなど正気の沙汰とは思えなかった。観光をしないとなると『血餓城』も見れない。というわけで、本当のところはやはりそれが残念だった。神話の舞台を見たかったのだ。
「観光したいです。『血飢城』とか……」
「煩いぞ、黙れ」リアトが吐き捨てる。
「だって期待してたんですもん」
貧民街で引きこもっているなんて、絶対に退屈に決まっている。
「はぁ、かわいそうな私」
落胆したうえ、手持ち無沙汰になったので、少女は砥石を皮袋から取り出して剣を研ぐことにした。これは普段行わない正式の研ぎだった。頭剣布を用いる簡易なものとは違ってこちらにはコツが必要だ。昔から愛用している魔鉄製のバルニュスはもうあちこちに細かな傷が入っている。靈気を通すだけで痛むからだ。
リアトの剣ならばこうはならない。リアトの愛剣を造る蒼神鋼は、靈気を増幅する素材で出来た特別製の神剣だった。そもそも神鋼製の武器自体が希少だから、自分がそれを手にするのはまだまだ先のことだろう。魔鋼と異なり神鋼は、上級以上の剣士や貴族くらいしか持っていない高級品だった。
当然ながら魔鋼以上の強度と柔軟性を誇る超金属なのだから、剣術士は皆それらを手に入れることを望んでいたが、たいがいがそこに至るまでに死ぬ。さっさとリアトが譲ってくれないかな、とにやけた少女をリアトが見咎めた。
「何を笑っているのだ」
「なんでもないです」イルファンは恐縮して言う。
「お前が望んでいるような観光ならば、またいつかの機会に連れていってやれるかもしれん。残念だが今回はそんな余裕はないというだけだ」女が言った。
「本当ですか?」少女の目が輝いた。
「今回のことが上手くいけばな」
と、リアトは何かをほどきながら言った。
「それは……」
その厳めしい顔の手元には奇妙な色をした剣があった。それがローレッドを出る時に見た剣だとイルファンにはすぐに分かった。厳重に布で巻かれていたそれは、いまや剣身の一部を鞘からのぞかせている。あのときリアトはそれを見せたくないようだったが、今は何かを調べる必要があって剣の覆いを取っているのだ。
その鋼の色は、驚くべきことに美しい『琥珀色』をしていた。
「綺麗ですね」少女が言う。
「術式具だ。やはり傷一つなかったか」リアトが言った。
「何に使うものなんですか」
「今のところは、何かに使うものではない」
その声にはいつもの余裕があまり感じられない。
非常に危険なものを取り扱うようにリアトは剣を鞘に戻した。その剣が隠れるまで、意識が引き込まれていたことに気付かなかった少女は、琥珀が見えなくなると同時に正気に戻った。あれはなんだったのかと考えてもまったく分からない。しかしイルファンが知る限りでは琥珀色の鋼など存在しないはずだった。
「師匠の剣ですか?」
「違う。誰の剣でもない」リアトが言う。
「それって……」
「しっ」
詳しく尋ねようとした瞬間に、リアトが眉をひそめた。何かを感じたように辺りを見回してから浅く、そしてすばやく息を吸う。彼女は剣を素早くくるむと、部屋のあちこちから荷物を集めた。不思議に思っていると師匠が静かに言った。
「今すぐ上方の気を探れ。獣を感じる。私では感づかれる」
「りょーかいです」
いつのまにやら師匠の眼が鋭くなっていることに、少女は気付いた。
すぐに地上へと意識を集中させて、ぼんやりとした気を探る。こうすれば殺気や強大な気を出す者が手に取るように見えるのだ。とは言ってもイルファンが探れるのは精々二弓飛(約四百M)程度のものだった。
少女は集中して敵意を探すが、目当てのものは見つからない。そこら中に怪しげな気配があるが、あれは単なる餓人や国属兵のものだろう。もっと下、近くの方を探ってみてはどうか。奇妙な動きをするもの、敵意を持つものを探る。
「おっ」と少女が声を上げる。
街の地下に、人々に紛れて獣臭い気配が五つあることに気付いたのだ。
魔獣か、それとも別の何かか。
しばらく探ってから少女は結論を出した。
下級魔獣ギリべスだ。
それは狗が魔獣化したと言われている獣だった。ある程度の知性があるために使い勝手が良くて仕込めば非常に強くなる。骨格は猿に少し似ており、猿と狗狼の合いの子と言われても違和感がないほどだった。
跳ぶ様に走り、その豺狼の鋭い牙をもって、群れで獲物を仕留める魔獣。野生でもそれなりに厄介な魔獣であるが、今まさに走り回っているこいつらは野生ではない。いくらドピエルが術式結界や都市城壁の外に建造されているとはいえ、兵や結界を掻い潜って、犬ごときが奥まで入り込むなど有り得ない。
ならば猟犬だ。この狗猿の魔獣はしばしば人に飼われて行動する。獣を操る術を心得る者たちは、ギリべス(魔猟犬)を用いて標的を襲うのである。戦錬士が警戒するとしたら間違いなくそちらの方だった。この五匹にも操獣者がいるのだろうか。イルファンはそれを判断する前にあることに気付いた。
この気配はかなり近い。
ひょっとすると、ひょっとして。
敵がもう、こちらを目指しているかもしれない。ということに。
「師匠! ギリべス五頭です!」少女は慌てて叫んだ。
リアトは予想していたように「狗か」と言う。眼には深い疑念の光が灯っていた。イルファンにはその理由が分からなかったが、リアトは敵について何かを思案しているようであった。目を閉じて、そして開く。しばらく後に彼女は言った。
「予定変更だ、朝には発つ」
その瞬間、扉を生き物が引っ掻く音がした。
迅い。しかしながら力不足のようだった。
竜巻の弾けるような激しい音が一度だけ響いた。扉に刻まれた結界術式を破壊するどころか、むしろ扉に手痛いしっぺ返しを喰らったらしい。ぴちゃりぴちゃりと水の滴るような音だけが廊下に響いている。魔獣の気配はもうない。
立ち上がったリアトは扉を開けると、剣すら持たずに外に出た。
「うわ」少女が言った。
狭い通路にはギリべスの醜い死躰が転がっていた。全身が切り刻まれた様になっており、肋骨が向かいの壁に幾つも突き刺さっていた。内臓とも何とも形容できない肉塊が辺り一面にへばりついており、それが獣に対して行使された魔術――恐らくは嵐属かなにか――の強力さを物語っていた。
陣に触らなくてよかったとイルファンは思った。
流石に肉塊になりたくはない。
ふぅと一息吐いてから、リアトが面倒臭そうにぼそりと言った。
「操獣士を見つけなければならん」
「その必要はないですぜ、姐さん」男の声。
通路のむこうから、不意にラフィーが現れた。
その右手が手品を見せるように動き、物陰から引きずり出したのは一人の男。暗紫の貫頭衣を着た男だ。頸部からは濃い赤がぴゅっぴゅっと吹き出している。どう見たってこれが致命傷だ。操獣士はラフィーに喉首を掻っ切られたのだ。
男の首には、何かの入れ墨が彫られている様に見えた。
犬か、狼か。よく見えないけれど。
その死体とラフィーを交互に見てから、リアトが苛立たしげに舌打ちをした。ラフィーは自らの腰に下げた長短剣をちらりと見せると、にたっと笑った。不思議なことに今の彼は猫背でもなければ足を引き摺ってもいない。先程見せた弱弱しそうな姿は演技だったという事なのだろうか。男は笑いながら近づいた。
「貸しですなぁ」
「お前が情報を流したのだろう」
「へへへ。人聞きの悪いことを仰らないでくだせぇ」
「この男は何処の手だ」
リアトはラフィーを問い詰める。女にとって、この男は昔からちっとも変わっていないように思われた。自らの益になると考えれば、格上でも容赦はしない。自分が置かれている状況を無数の要素から的確に判断する力と、彼自身に最高の結果をもたらす手段を取るという精神性は衰えていないようだった。
忠誠を誓われても信頼はしないが、リアトはその点で男を高く買っていた。
「金貨からするとトルポールですが、操獣士なんてあの国には縁のない話ですからねぇ。まぁただの孤れ傭兵『平原の狗』の連中だと思いやすけど。褒賞金目当てで姐さんを狙ってきたんじゃねぇですかい。どうせまだヴェルトヴァンの組合に手配されてんでしょ」ラフィーは少しあざわらうかのように言った。
「可能性はある」リアトが言った。
それを聞いて、イルファンは不安げに顔をしかめた。
このままエルトリアムに入ったら傭兵に捕縛されてしまうんじゃなかろうか。リアトは我が強いし、冷静に見えて我儘な人だ。だからもし向こうで機嫌を損ねたらめちゃくちゃ困る。最悪の場合は自分まで手配されてしまうかもしれない。
「それって、大丈夫なんですか」少女がおどおどと尋ねた。
「エルトリアムは真交流の街だ」リアトが言った。
それは確かにその通りだった。エルトリアムには傭兵はほとんどいないと噂ではそう聞いていた。だが、たとえ街に傭兵がおらず、組合に捕縛されないとしても、自分の師匠が罪人として手配されているということは快い事態ではない。
イルファンは好奇心と不信感を半々にして尋ねた。
「でもなんで手配されてるんです、」
「つう訳で、頼まれてたモンですぜ」
その言葉を断ち切るようにラフィーが言った。想像していたよりも濁りの無い眼が少女の方を見る。それで彼女は理解した。いまのは目配せだ。師匠が手配されている理由には触れない方が良いのだろう。イルファンは取り敢えず聞かないことにした。いずれ知ることになるだろうから、今でなくても構わない。
「駄賃だ」
リアトも話を捨て置いて、ラフィーに応えた。
彼女は大きな布袋に入った何かを手早く受け取る。そして代わりに金貨を渡した。ちらりと見たところ、袋には魔術用品や保存食料、その他諸々の旅具が詰まっているようだ。予定を延長して寄り道でもするのだろうか。とはいえ出立の時とは違って、四日分の食料や雑貨にしてはやけに多いように思われた。
「中身が気になるかい? 嬢ちゃん」ラフィーがおどけた様に言った。
「まぁ。多すぎるじゃんって思っただけだけど」
「ひどい言葉づかいだ」
「あっそ。私、そういうの好きじゃないから」
相手を敬う言葉づかいなどまっぴらごめんだった。
昔、リアトが留守にしていたとき、本道場から客が来たことがあった。そいつはノーラン皇国の弱小貴族の末男だった。肥満体を晒しており、帯剣もしていない剣術士崩れの男で靈気も薄弱。だが男はリアトが居ないと知るや、護衛と共にイルファンを罵った。苛立ちをイルファンにぶつけたのだ。その時、少女は汚いぼろを着ていたから、山犬、浮浪児、卑賤兵、とひどく言われたのである。
イルファンは師匠の名誉を守るために男らの罵詈雑言にしばらくの間だけ耐えたが、結局、怒りは抑えきれなかった。彼女は男に懇切丁寧に文句を付けた。それに対して、男は「獣が立派な言葉を使うな」と言ったのだ。即座にイルファンは男らを道場から蹴り出して、そのまま、ローレッドの山道に捨てた。
日も暮れかかっていたので、男らは山を下りることも出来ず、それでも火を焚いて野宿するくらいは出来ただろうが、愚かにも彼らは雪狗のねぐらに入り込んで獣に追われることとなった。帯剣もしていない男が呆気なく脚を失ったところでイルファンは助けに入り、気を失った彼を麓の村に返してやったのであった。
そういう次第だから、彼女は余程の好人物でなければ敬わない。
世の中には屑が多いということをイルファンは経験していた。
もっともその経験から言えば、眼前のラフィーは、奇妙な得体の知れなさがあるけれども、男のなかでは比較的ましな部類なのだろうとは思われた。しかし、だからといって信用するほどに、イルファンは能天気で幸せな少女ではない。ラフィーは信用されていないことを知って、それでも笑い続けて言った。
「あの中には昔からの頼まれモンが入ってるってのはどうだ」
「昔からの?」好奇心を剥き出しに、少女が問う。
「そうそう。あっしがまだ傭兵だった頃からの付き合いさ。姉さんは無骨で不愛想な武芸者に見えて、本当はそうじゃないんでさぁ。あのリアト姐さんは実は、」
ラフィーの笑みがいよいよ大きくなる。
「おい」リアトが低い声で言った。
それなりの怒気がリアトからラフィーに向けられていた。
師匠の右手が素早く背中の剣へ伸びていた。
どうやらこの話は禁句のようだった。
ラフィーはわざとらしく頭を掻いて、けけけと笑う。
してやったりという感じである。
一体、あの袋には何が入っているのだろうか。
リアトが口を開く前に、男は左足を素早く下げて右手を胸元につけると深々と頭を下げた。ラフィーはまるで王族にするような宮廷挨拶――それは不抜の意思を示す――を即座に見せたのだ。その仕草に面食らってリアトの動きが一瞬だけ止まってしまう。それを逃さずにラフィーは口を開いた。
「こりゃ口が滑りました。じゃあ、あっしはこれで」
「ちっ」
またもや軽く舌打ちをして、リアトは男を睨みつける。
「茶目っ気は嫌いではないが、どうしようもなく厄介だ。舌を切り取ってやろうか。忠誠を誓った相手を殺すことはできんが、舌くらいなら切れるのだぞ」
「ひぇ。姐さん勘弁してくだせぇな」ラフィーが大げさに震える。
「ちょっと。話途中じゃん」
「イルファン」
と、喉元に突き付けられる剣気に少女は震えた。
軽く手刀を向けられたに過ぎない。だのに、身体が動かなかった。
ぴりぴりと痺れるような気配が全身にじんわりと纏わりついていた。
これは師匠が本気で苛ついた時だと瞬時に察知する。
「すみませんでした」
「嬢ちゃん。もっと姐さんの話が聞きたかったらあっしをお呼びなせぇ。何処に居たって馳せ参じてやらぁよ。こいつは贈り物さ、受け取りなぁ。けけけけ」
「ラフィー、貴様殺すぞ」
軽口に対してリアトが一歩足を踏み込む。
剣が振られる。
だが次の瞬間には、ラフィーは溶けるように消えてしまった。
同時に掌大の鋼板が飛んでくる。イルファンは驚きながらも受け取った。どうやら、あの男の錬度は思っていた以上であるようだった。ほんの遊びとはいえ、リアトの剣を避けるなど簡単に出来ることではないのだから。
「師匠、これなんですか」少女が問うた。
「『簡易端末』だな。術式板を張り合わせた代物で、連絡用に傭兵が用いるものだ。高位のものとは違って『記述樹』には接続できんだろうが、十分に使い物になる。それに奴の手製ならただの端末ではあるまい」リアトが言った。
渡された鋼板は高価そうな術式具だった。表には硝子板がはめ込まれており、裏には幾何学模様がびっしりと描いてある。この手の術式陣の読み方はよく知らない。だがおそらく、遠距離の二点を繋いで合図を送る物だろうと思われた。端末にはラフィーの番号も登録してあった。困った時は連絡しろという事だろうか。
「有効範囲ってあるんですかね」
「魔力はそれなりに持っていかれるかもしれんが、ラフィーの通信網なら皇国内全土で通用するはずだ。驚くべきことに、あいつは連絡網を至るところに張り巡らせているからな。それがあいつの最大の武器とも言っていいだろう」
少女は目を丸くした。
「それって私に渡しちゃってもいいんですか?」
「随分、気に入られたようだな」
呆れたようにリアトが言った。
どうやらそうらしい、とイルファンも思った。
「まったく。ふざけた奴らのせいでこんな時間になってしまった。イルファン、明日はまた忙しくなる。さっさと風呂支度をして床についておけ。遅くまで起きていると『深魔』に魅入られるかもしれんぞ。あいつの話ではないが、ここも一応は迷宮だと認識されているのだ。私がいても安全は保障できんからな」
リアトは廊下の死体を手早く片付けながら扉を開けた。
まだそれほど遅い時間ではないが、イルファンは手早く軽食を腹に入れると、服を脱いで浴室へと入る。リアトがその様子をじっと見つめていることに、少女は気付かない。扉が閉じられて姿が見えなくなると、リアトはようやく嘆息した。
彼女が気にかけているものが何であるのかを知る者は少ない。しかしあのラフィーは『琥珀髪』のイルファンを見ても顔色一つ変えなかった。それはいかなる理由からなのか。ひょっとすると、既に敵の手が及んでいることも有り得た。
残念ながらラフィーは義理で動く人間ではない。
この部屋とて本当に安心できるのか。
気付かれる恐れよりもその心配が勝った。
リアトは集中する。
凄まじい量の靈気が一瞬だけ地上を駆け巡った。
Δ
その夜。
深淵が訪れ、迷宮都市の隅々までが深い濃紺の闇にゆっくりと隠されていく。元々地下に位置するドピエルといえども、地上からの灯が完全になくなればそれはやはり暗いものだった。音も色も静寂だった。
闇の中でリアトは目を開く。二つの寝台の片側には少女が一人。もう一つには誰も横になっていない。リアトはじっと、時が来るのを待っていたのだ。
地上にはほとんど気配がないが、わずかに動く者たちがあった。リアトはそのことを広大な範囲を持つ《探気》によって知っていた。そしてその者たちのなかに、決して見逃せぬ者がいることも知っていた。
立ち上がったリアトは剣を背負うと、夜の匂いと敵の気配を感じながら、恐ろしく静かに扉を開いた。扉の向こうにも色濃い闇が広がっている。これはただの暗闇ではない、いつか味わった迷宮の暗闇だ。ゆえに見通すこともできない。
油魔虫の薄暗い松明さえ、もはや消えていた。この場所を秘匿する為にラフィーが消して回ったのだ。複雑に入り組んだ小道の連なりは、日のある間でも人々を迷わせる。ましてやこんな夜では望んだ場所へは到底辿り着けないだろう。
だというのに、女は迷いなく夜の中へと足を踏み入れた。
しかしその瞳には迷いの色が、ある。
暗がりを歩くうちに、いつの間にやら彼女は地上のよどんだ空気を吸っている。饐えたドピエルの空気は人臭さを滲ませながら、皇国の大気を汚染していた。獣により近い人々の街だというのに、ここにあるのはどこまでも人間の生みだすものなのだ。リアトは気配を消して貧民街を進むと、フィロレムの巨大な門の前で歩みを止めた。大門は夜には開かない。沈黙が辺りに立ち込めていた。
女は立ち止まったまま剣に手を掛けると、静かにそれを抜いた。その動作はいつもイルファンが見ているものとは異なる、隠密の動きである。濃紺の神鋼が夜に溶け込んで剣が少しずつ、すこしずつ、見えなくなっていく。
剣身が完全に消えた瞬間、物音とともに鼠たちが勢いよく走った。
「第七繋者たる私の前で呪を放つか」
数瞬後、開かぬはずのフィロレムの門が開く。備え付けられた門扉がずれ動き、その陰からひとりの男が現れた。右手には長形のバルニュス、深い闇で顔の造作や髪色などは分からないが、男が備えている気配の異質さは伺いしれる。半身に構えた男はわずかな靈気を溢しながら、リアトをじっと睨んでいた。
「ラツィオ=メイン。その内なる感情と相反する冷徹さも、間合いの取り方もすべて、お前の祖父にそっくりだ。もしやここで私を待っていたつもりか?」
「『捨剣』のリアト……やはり戻ってきていたな」男が口を開いた。
漏れ出る声は若くはないが、老いてもいない。
リアトは十数年前の諍いのことを思い出し、男の記憶を浮かび上がらせる。まだあのときのままだというなら、斬り合わずにはいられない。事実、ラツィオが放つ靈気は鋭く磨き上げられている。剣持つ指も今にもかとばかりに震えている。
仮にこいつと闘えばどうなるか。
リアトはその結果を正確に予想することが出来た。
「何の為に戻った」ラツィオが問う。
「それをお前に話す理由はない」
「ならば如何にして聞こうか」
ラツィオが凛とした気を放った。この男には戦闘を行うだけの気があるのだ。となると、よくて相打ち、下手をすれば命を落とす。それがリアトの下した結論だった。眼前の男が強くなったというのではない。自分が弱くなったのだ。相対的にラツィオ=メインの剣は特級剣術士たる自分に届きうる。
だとすれば、戦わぬが吉である。
しかしそれができるものか。
「剣を下ろすなよ」釘を刺すようにラツィオが言う。
「逃げはしない」リアトはそう答えた。
ならば戦わぬことは、できない。頭では闘うべきでないと分かっていても、その剣を下ろすことはできなかった。ラツィオの主であり、リアトの仇敵ローレン=ノーランを許せぬ内は剣先は震えたままでなければならない。
そうでなければ、そうでなければ、
過去のあらゆる闘いが無駄になってしまうような気がしたのだ。
だがそれでも、女の中には闘うことへのある種の恐怖じみた感情があった。
「もう一度問う。今更なぜ戻った」ラツィオが言う。
「為すべきことを為すためだ」リアトが言った。
「それが良くないことなら俺はお前を殺さなきゃならん。ちゃんと答えろ」
「それはできん」リアトが冷たく言った。
その瞬間にラツィオと呼ばれる男とリアトの動きが一瞬止まる。
これが開戦の合図だった。
しぃっと鋭く息を吐いて、剣術士の男が伸ばすように剣を突き出した。
その刃から延びるのは魔剣流の技である。
特殊な魔法によって無数に別たれた槍のような剣先がリアトに向かって奔る。
女はそれを造作もなく、ひと呼吸で弾いた。
だがその隙にラツィオは空を舞っている。
遥か高みから打ち下ろされる一撃は魔剣十剣が一つ。
大量の魔力弾が剣身から幾つも発射され、
その陰に隠した靈気の刃が空を切って落ちてくる。
だが、特級剣術士であるリアトには通じない。
女は軽々と遠撃を掻いくぐると、そのうち幾つかを彼自身へとはじき返す。
されどそれもまた空を切り、ラツィオ=メインは易々と地に降りたった。
これにて両者の動きが再び止まり、
それ故に勝負を決めるのはここからの近接戦闘となる。
ラツィオが一息で極大の魔力刃を形成すると、リアトも破砕剣を発動した。
女の剣から放たれた獣の唸るような音が夜闇を震わせる。
男が剣を振った。
それは実界に現れる剣の間合いよりも三剣長は広い範囲を薙ぎ払う。
だがその瞬間には、リアトの姿はラツィオの真後ろにあった。
驚くべき速度で彼女は敵の背後に回り込んだのだった。
男の背筋を死の予感が走る。
だがしかし、女は愚かしくも剣を下して、静かに言った。
「私の、」
「臆したかリアト!!」
ラツィオは叫びながら腰を低く落とし、
地面を擦るように後方に蹴りを放ち、その体勢を変更した。
体を回転させた力をそのままに、男は剣を打つ。
リアトはその剣を躱せない。あるいは、躱さない。
ラツィオが異常を感じて振りを止めようとした瞬間、
女の片手がさっと動いて男を投げた。
くるり、とラツィオが浮き上がり、即座に地面に叩き付けられる。
驚いた様子で男はリアトを見た。
あまりに素早かったので、ラツィオには知覚できなかったのだ。
「ばかな! 見えん!」男が仰向けのままで叫んだ。
とはいえ、それでもラツィオは流石に上級剣術士である。
男に指先を向けているリアトの左腕から鮮血がこぼれていた。
投げられるその刹那に、彼の剣が閃いたのだ。
「《捨剣》……か」男が呟いた。
「為すべきことはお前を殺すことではない」リアトが言った。
「信じると思うか」ラツィオが顔をゆがめる。
「ローレンにも関係のないことだ」
「なにを、」
その言葉が終わらぬうちに長形のバルニュスが伸びた。
ラツィオは苛立ちに震えながら剣を握っているように見えた。
軽い突き込みであったためにリアトは少し下がって剣を捌く。
「本気か?本気で俺を殺さぬつもりか?」
ラツィオは立ち上がると、本気で不思議そうな顔で言った。
その声にはどこか嫌悪感が込められている。
「逃げはしないが殺しもしない」
「俺がお前の邪魔をすると言ってもか」
リアトは顔をしかめた。
「私が貴様を殺そうとすれば、貴様も私を殺そうとするだろう。それはいつまでも続く。私は殺し合いから降りたのだ。私にはまだまだ死ねない理由がある」
「うーむ。殺さずに終わる因縁などなかったはずだ。お前はどうやら傭兵の世界で生きることに慣れすぎてしまったらしい」ラツィオがぼやいた。
「頼む」リアトが言う。
女と男の視線がぴたりと止まる。
二人は互いを見つめながら、いつしか剣を下していた。
リアトが耐えられなくなったように視線を逸らした。
するとラツィオはつまらなそうに鼻を鳴らして、それから一歩退いた。
「馬鹿にするな。戦う気のない相手を殺す趣味はない。それに、こんなに弱くて脆いものは斬る価値もなければ話相手にもならん。俺もあの頃とは違って、単なる剣でなく皇太子の傍付だ。私情でお前と殺し合いをする酔狂はない」
「助かる」
「殺すときは殺すがな」
その言葉にリアトが目を細めた。
「それは、ローレンが望めばか」
「あぁそうだ――が、しかし戦争はもう終わった。ローレンだってあんな些事には関わらんだろう。まったく何のことはない。俺もローレンもお前と同じ。もはや血に狂った戦錬士ではないということだ。認めよう。認めてやるさ。お前との闘いはこれで終わりだ。つまらん剣に付き合わせてしまって、悪かったな」
男は寂しげにそう言うと、剣を帯に差しなおし、リアトに背を向けた。
この瞬間、憎きローレンの右腕、その命を絶つことも出来た。
だが、リアトの剣腕はもはや震えることを止めていた。
「殺らないのか」
「あぁ」
「なんとも悲しい気分だ」
ラツィオはそう言い残して去った。
腕から流れる血が剣を伝って土を赤く染める。しかし、この暗闇の中では血の色もただの黒と変わりはしなかった。女が左腕に靈気を集めると、見る見るうちに流血が止まっていく。血だけではない。傷も、痛みも、すべて消えていく。
どうしてか、リアトはそのことに苛立ちを感じていた。
仇敵との戦いがほんの数合で有耶無耶になり、誰も死ななかったということ、
それに、窒息するかのような奇妙な苦しさを覚えたのである。
「あれが些事か」女は呟いた。