第56話 星奈の浴衣
夏休みも半ば。
朝から元気だったセミも、夕方になって少しだけ鳴き声を落ち着かせていた。
オレンジ色に染まり始めた住宅街。
俺は家の前に立ちながら待つ。
「まだかな……」
口に出した瞬間、自分で苦笑する。
落ち着かない。
通りを吹き抜ける夏の風が浴衣姿の人たちを揺らし、遠くから祭り囃子が微かに聞こえてきた。
太鼓の音。
屋台の賑わいを想像させるざわめき。
ああ、もう始まってるんだな。
だけど、俺はまだ歩き出せない。
今日は1人じゃない。
大切な人と一緒だから。
玄関の扉へ自然と視線が向く。
開く気配はまだない。
スマホを取り出して時間を確認しようとして、またしまう。
いや、催促みたいになるのは嫌だ。
待とう。
待つ時間すら今日は悪くない。
そんなことを考えていると――
ガチャッ。
ドアが開く音がした。
「お待たせしました!」
聞き慣れた明るい声。
思わず顔を上げる。
「……っ」
言葉が出なかった。
玄関から姿を見せた星奈は、ネイビーの浴衣に身を包んでいた。
夜空みたいに落ち着いた色合いの浴衣。
そこへ白や淡い水色の花が咲くように描かれていて、派手じゃないのに不思議なくらい目を引く。
亜麻色の髪はいつもより少しだけまとめられ、小さな髪飾りが夏の夕日にきらりと光った。
細い首筋。
浴衣から覗くうなじ。
歩くたびに揺れる袖。
全部が自然で。
全部が綺麗だった。
普段制服で見慣れているはずなのに。
いや、見慣れているからこそ分かる。
今日の星奈は別人みたいだった。
可愛い。
いや、それだけじゃ足りない。
思わず見惚れてしまうくらい、美しかった。
「どうですか?」
星奈がくるりとその場で一回転する。
浴衣の裾がふわっと揺れて、帯のリボンも一緒に踊る。
そのまま俺の前で止まると、少しだけ上目遣いになった。
「似合ってますか?」
その目が分かりやすすぎる。
褒めてほしい。
そう言葉にしているみたいだった。
だけど、自信がないわけじゃない。
きっと褒めてもらえるって期待してる。
だからこその笑顔。
その期待を裏切る理由なんて、一つもない。
俺は改めて星奈を見た。
頭の先から足元まで。
髪飾りも。
浴衣も。
帯も。
下駄も。
全部。
しっかり目に焼き付ける。
「ああ」
自然と笑みが浮かぶ。
「すごく似合ってる」
「……」
「可愛いし、綺麗だし……正直、最高に似合ってる」
「えっ」
「星奈にぴったりだ」
飾るつもりなんてなかった。
本当に思ったことをそのまま口にしただけ。
だけど、その1言だけで十分だったらしい。
「えへへっ。ありがとうございます」
星奈の頬がふにゃっと緩む。
さっきまで少しだけ緊張していた表情が、一瞬でほどけた。
目尻も柔らかく下がる。
口元も隠しきれないくらい嬉しそうに上がっていた。
まるで「褒めてもらえた!」って全身で喜んでいるみたいだ。
その笑顔があまりにも可愛くて、俺までつられて笑ってしまう。
「そんなに嬉しい?」
「はい!」
即答だった。
「昨日からずっとドキドキしてたんです」
「そんなに?」
「宗春さんが『似合ってない』って言ったらどうしようって」
「言うわけないだろ」
「でも、不安になるじゃないですか」
星奈は照れ隠しみたいに笑う。
「好きな人に見てもらうんですから」
「……」
心臓が1拍遅れた。
そんなことを笑顔で言うな。
反則だろ。
俺が言葉を失っていると、星奈は首を傾げた。
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
なんでもある。
可愛すぎる。
今日の星奈は危険だ。
祭りへ行く前から心臓が持ちそうにない。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
俺たちは並んで歩き出した。
住宅街を抜けると、浴衣姿の家族連れや友達同士が同じ方向へ向かって歩いている。
みんな笑顔だ。
夏祭りって、それだけで人を浮かれさせる力がある。
「人、多いですね」
「毎年こんな感じだな」
「楽しみです」
星奈は俺の少し前を歩き、時々振り返って笑う。
下駄に慣れていないのか、歩幅はいつもより小さい。
カラン。
コロン。
下駄の音が夏の夕暮れに心地よく響いていた。
「足、大丈夫か?」
「少しだけ歩きにくいです」
「無理するなよ」
「はい」
そう返事をした直後だった。
「あっ」
小さく身体が傾く。
慣れない下駄でバランスを崩したらしい。
俺は反射的に腕を伸ばした。
「っと」
「きゃっ」
星奈の身体を支える。
柔らかい浴衣の感触が腕越しに伝わった。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
星奈は照れたように笑う。
「助かりました」
「今日は転ばないように気を付けないとな」
「そうですね」
少し歩いてから、星奈がおずおずと口を開く。
「あの……」
「ん?」
「手、つないでもいいですか?」
少し恥ずかしそうな声。
「転ばないように」
最後に小さく付け足した。
その言い訳が可愛くて笑ってしまう。
「もちろん」
俺が手を差し出すと、星奈は嬉しそうに両手で包み込むように握ってきた。
「えへへ」
「そんなに嬉しい?」
「はい」
また即答。
「こうして歩くの、好きなんです」
「俺も」
その1言だけで十分だった。
星奈は照れくさそうに笑って、指先へ少しだけ力を込める。
手の温もりが心地いい。
そのまま2人で歩いていると、祭り会場の入り口が見えてきた。
提灯が並び、赤い灯りが少しずつ夜を照らしている。
屋台から漂う焼きそばのソースの匂い。
焼き鳥の香ばしい香り。
甘いりんご飴。
綿あめを抱えた子どもたち。
金魚すくいでは歓声が上がり、射的では景品を取って喜ぶ声が響いていた。
「わぁ……!」
星奈の目がきらきら輝く。
「すごいです!」
「毎年来てるのに?」
「宗春さんと来るのは初めてですから」
その1言だけで、今年の夏祭りは特別なものになった。
「最初、どこ行く?」
「うーん……」
星奈は屋台を見渡して、子どもみたいに目を輝かせる。
「あれも食べたいですし」
「あっちも気になります」
「金魚すくいもしたいです」
「射的も」
「あとチョコバナナ!」
「全部じゃん」
「全部です!」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ今日は全部回ろう」
「本当ですか?」
「時間はたっぷりあるしな」
「やったぁ!」
星奈が俺の腕へぎゅっと抱きつく。
浴衣姿で見せる無邪気な笑顔。
さっき家の前で見惚れた笑顔とはまた違う。
子どもみたいに嬉しそうで。
でも、やっぱり可愛い。
「今日はいっぱい楽しもう」
「はい!」
提灯の灯りの下。
浴衣姿の星奈は誰よりも楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ながら、俺は思う。
今年の夏祭りは。
きっと、一生忘れない。




