第54話 海で不意打ちキス
水平線の向こうへ太陽がゆっくり傾いていく。
昼間は眩しいほど青かった海も、今はオレンジ色の光を映して穏やかに揺れていた。
「もう夕方ですね」
星奈が海を眺めながら、小さく笑う。
「あっという間だったな」
俺たちは海から砂浜へ戻ってくる。
足元の砂は少しひんやりしていて、波打ち際を歩くたびに海水が足首へ触れた。
振り返れば、さっきまで遊んでいた場所が夕日に照らされてきらきら輝いている。
今日は本当に遊び尽くした。
海を泳いだり。
浮き輪を押し合って笑ったり。
砂浜で休憩してかき氷を食べたり。
途中では波が思ったより高くて、星奈が俺の腕へ慌ててしがみついてきたこともあった。
「きゃっ!」
そんな声を上げながら笑う星奈につられて、俺まで笑ってしまった。
そのあとも水を掛け合って遊び、最後は2人とも全身びしょ濡れ。
星奈の水色の水玉模様の水着も、海水を含んで少し色が濃く見える。
肩まで伸びた亜麻色の髪も濡れていて、毛先からぽたぽたと雫が落ちていた。
俺も同じだ。
髪は潮風で乱れ、肩や胸には乾き切っていない海水が残っている。
タオルで何度拭いても完全には乾かない。
「宗春さん、今日はいっぱい遊びましたね」
「だな。腕がちょっと重い」
「ふふっ。私もです」
星奈は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見るだけで、今日は来てよかったと思えた。
昼間、屋台へ向かった星奈がナンパされ、困った表情を浮かべていた姿。
あの場面も思い出す。
あの時は放っておけなかった。
ただ、それだけだ。
俺にとっては当たり前のことだった。
「そろそろ帰るか」
「はい」
俺は砂浜へ敷いていたビーチタオルを持ち上げる。
何度かパンパンとはたくと、細かな砂が夕日に照らされながら舞い上がった。
折り畳み、バッグへしまう。
飲み終えたペットボトルもまとめる。
忘れ物がないか1通り確認してから肩へバッグを掛けた。
星奈も自分のカバンを片手で持ち上げる。
「準備できました」
「じゃあ行こう」
2人で砂浜を歩き始める。
その時だった。
「あ、宗春さん、待ってください」
「ん?」
俺は振り返る。
星奈は1歩だけ近付いてきた。
何か言いたそうなのに、すぐには口を開かない。
代わりに、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。
右。
左。
少し離れた場所。
近くでは家族連れが荷物をまとめている。
学生らしいグループは写真を撮り合っていた。
カップルも何組か歩いている。
星奈はその様子を確かめるように何度も視線を動かした。
「どうした?」
「……少しだけ」
「?」
さらに1歩。
俺と星奈との距離が縮まる。
潮風に乗ってシャンプーのような優しい香りがふわりと届いた。
「今回もナンパから助けてくれてありがとうございました」
そう言うと、星奈は少しだけ照れたように笑う。
「いや、別に礼なんて——」
言い終わる前だった。
星奈はもう1度だけ周囲を確認する。
誰もこちらを見ていない。
そう判断したのか、小さく頷いた。
そして——。
俺の左頬へ、そっと顔を近付ける。
ふわりと揺れる亜麻色の髪。
夕日に染まった横顔。
次の瞬間。
柔らかな感触が左頬へ優しく触れた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
温かなぬくもりが肌へ伝わる。
海風とはまったく違う柔らかさ。
驚いている間に、その感触はすっと離れていった。
星奈は少しだけ頬を赤く染めながら微笑んでいる。
「お、おい! 星奈!!」
俺は思わず左頬を押さえる。
そこだけ熱を持ったような気がした。
「こんなところで何やってるんだ!」
「えへへ」
星奈は悪戯が成功した子どものような笑顔を浮かべる。
「だって、お礼ですから」
「だからって急に——」
「誰にも見られてませんよ?」
「そういう問題じゃない!」
俺が慌てるほど、星奈は楽しそうだった。
肩を小さく震わせながら笑っている。
「宗春さん、顔が真っ赤です」
「赤くなるだろ!」
「ふふっ」
夕焼けの海を背にしたその笑顔は、今日1番輝いて見えた。
昼間に見せていた無邪気な笑顔とも違う。
どこか照れくさそうで、それでいて嬉しそうな笑顔。
そんな表情を向けられると、怒る気にもなれない。
「今日は本当に助かりました」
星奈は改めてそう言った。
「だから、ありがとうございます」
「……気にするな」
「気にします」
即答だった。
「私にとっては、とても凄い嬉しかったんです」
真っすぐな瞳。
その視線から冗談ではないことが伝わってくる。
俺は頭をかきながら苦笑した。
「彼女が困ってたら助けるだろ」
「宗春さんらしいですね」
「そんな大したことじゃない」
「私にとっては大したことなんです」
そう言って星奈は少しだけ胸を張る。
それから、いたずらっぽく目を細めた。
「それに」
「ん?」
「まだお礼が終わってません」
「……え?」
俺が固まる。
星奈はくすっと笑った。
「続きの口は家に帰ってからやりましょうね!」
「なっ——!」
言うだけ言って、星奈はくるりと踵を返す。
「待て!」
「待ちませーん!」
水玉模様の水着姿のまま、星奈は砂浜を軽やかに駆け出した。
夕日に照らされた砂を蹴り上げながら、楽しそうに笑っている。
「宗春さん、早く帰りますよー!」
「おい、逃げるな!」
「捕まえてくださーい!」
「そんなこと言われても砂浜じゃ走りにくいんだよ!」
「私は平気です!」
星奈は振り返り、後ろに腕を組みながら満面の笑みを浮かべる。
その笑顔は今日1日で何度も見たはずなのに、不思議と何度見ても見飽きなかった。
俺はため息をつきながらも笑ってしまう。
「やれやれ……」
結局、俺もそのあとを追い掛ける。
夕焼け色に染まる砂浜を2人で駆ける。
波の音が静かに響く。
潮風が心地いい。
遊び疲れているはずなのに、不思議と足取りは軽かった。
少し先を走る星奈が振り返る。
「宗春さん!」
「なんだ!」
「今日は最高の1日でした!」
「ああ!」
その言葉に嘘はなかった。
朝から夕方まで思い切り遊び、笑って、少しだけドキドキして。
そんな夏の初日は、夕日に包まれながらゆっくり終わっていく。
「……本当に、困ったやつだ」
俺は少しだけ熱の残る左頬へ手を当て、小さく笑った。




