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# 第18話 タルタロスの蜘蛛の糸

久しぶりに更新してみました



タルタロス宇宙港のD-30区画は、巨大な格納庫が密集する、まるで迷宮のような場所だった。錆びついたハッチ、油の染みた床、様々な言語が飛び交う喧騒。チャック・マツオカは愛機『セカンドライフ』号を、その薄汚れた一角に押し込めていた。船体にはケレス・ファームでの激戦の痕がまだ生々しく残っていたが、ゾルタンの店に持ち込む余裕はなかった。ここ数日、彼は神経をすり減らし続けていた。


「チャック、脈拍がやや上昇しています。カフェインの過剰摂取は推奨できません」


コクピットのコンソールに投影されたアイリーンが、優雅なアバターで忠告した。その声は、相変わらず穏やかで、チャックの荒んだ精神にわずかな安寧をもたらす。


「分かってるさ、アイリーン。でも、これくらい飲まないとやってらんない」


空になったコーヒーカップを乱暴にサイドテーブルに置く。ケレス・ファームでの一件以来、チャックはヘリオス・エネルギー社、そして背後にいるマーカス・ヴォレンとクラインから、本格的にマークされていることを肌で感じていた。トニーから託されたヘリオス社の不正に関するデータは、彼らの企業倫理を根底から揺るがすものだ。だが、それをどう使うべきか、今はまだ決めかねていた。迂闊に動けば、自分だけでなく、ギルド全体に危険が及ぶ可能性がある。


『セカンドライフ』は緊急避難的にギルドの管理下にある格納庫に隠されていた。表向きはメンテナンスのためという名目だが、航路ログを辿られれば、ヘリオスの私設部隊がすぐに見つけ出すだろう。今はただ、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。しかし、それはチャックにとって最も苦手なことだった。


「アイリーン、周辺の通信記録に不審な動きは?」


「D-30区画周辺で、ヘリオス社系列の民間警備会社『イージス・セキュリティ』の巡回クラフトが、通常よりも高頻度で確認されています。また、私製の傍受システムが複数稼働している痕跡も発見しました。これは恐らく、アークライトの仕業でしょう」


「やっぱりな……」チャックは深いため息をついた。「俺たちがここにいることはバレてなくても、この区画全体を監視して、不審な動きを炙り出そうって魂胆か」


「その可能性が高いです。しかし、この宇宙港の構造は複雑極まりなく、外部からの直接的な侵入は容易ではありません」


「だからこそ、何か別の手で俺たちを誘い出そうとするはずだ」


チャックの悪い予感が現実となるのは、そう長くはなかった。


***


その日の午後、食料の補給と気分転換を兼ねて、チャックはギルド区画にある『スターゲイザー』へと足を運んだ。ママ・ベルの作る『ビッグバン・プレート』だけが、今の彼に唯一の癒しを与えてくれると信じていた。


ダイナーの扉を開けると、いつものように香ばしい揚げ物の匂いと、航宙士たちのざわめきがチャックを迎えた。カウンターの奥では、ママ・ベルが巨大なフライパンを巧みに操りながら、豪快に料理をしていた。


「おう、チャックじゃないか! 随分と久しぶりじゃないか、一体どこで油を売ってたんだい?」


ママ・ベルの張りのある声が、店内に響く。彼女の片腕に嵌められた武骨な義手が、元航宙士としてのキャリアを物語っていた。


「ちょっと面倒な仕事に巻き込まれてましてね、ママ。いつものビッグバン・プレートと、コーヒーを」


チャックはカウンター席に腰を下ろした。いつもの定位置だ。


「物騒な話は聞きたくないね。ほら、今日は特別サービスだ。揚げたてだよ」


ママ・ベルが差し出したプレートには、いつも以上に山盛りの料理が乗っていた。チャックは感謝の言葉を述べ、無心でフォークを動かし始めた。この温かさだけが、心を落ち着かせる。


その時、カウンターの隅でひっそりとタブレットを操作していた人影が、チャックの視界に入った。見慣れた眼鏡の女性。


「エレナ・ソウル……」


チャックは思わずつぶやいた。情報屋のエレナ・ソウルだった。彼女はチャックの声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。変わらず知的な印象を与える、引き締まった表情。


「あら、チャックさん。お久しぶりです。まさかこんな所で会うとは」


エレナは軽く会釈すると、タブレットを閉じてチャックの方を向いた。


「君もこんな所で食事か? いつもはもっと人目につかない場所で仕事してるイメージだったが」


「情報屋もたまには腹を満たさないと死んでしまいますからね。それに、今日はあなたに用があったんです」


エレナの言葉に、チャックの警戒心が呼び起こされる。偶然の再会ではなかったのか。


「俺に? 何の用だ?」


「単刀直入に申し上げます。ケレス・ファームの件で、ヘリオス社が動き出しました」


チャックはフォークを止めた。エレナは周囲に気づかれないよう、声を潜める。


「内部調査と称して、情報漏洩の犯人を徹底的に炙り出そうとしている。そして、その過程で、あなたを接触対象として指定しているようです」


「俺を……? なぜだ?」


「あなたはトニーという技術者と接触した。その事実は、既にヘリオス社の人間も把握しています。彼らは、あなたがトニーから何らかのデータを受け取ったと見ています」


「それは、君の情報か?」


「ええ、私の情報網からのものです。ヘリオス社の内部情報にアクセスできる、いくつかのコネクションから確認しました」


エレナはまっすぐチャックの目を見た。その目は冷静で、嘘をついているようには見えなかった。しかし、チャックは疑念を捨てきれなかった。「信頼と疑念」。今、チャックの心はまさにその間で揺れていた。エレナは信用できる情報屋ではあるが、彼女自身も様々な組織と繋がっている。ヘリオス社が、彼女を利用して自分を誘き出そうとしている可能性もゼロではない。


「彼らはあなたと『話し合いの場』を設けたいと。タルタロスの管理事務所の古い資料保管庫で、人目につかないように会合を持ちたいそうです」


「資料保管庫……?」


D-12区画にある、長年使われていない薄暗い保管庫のことだろう。人通りも少なく、隠れて会うには最適な場所だ。だが、それは同時に、何が起きてもおかしくない場所でもあった。


「私はただ、情報を伝えただけです。どうするかは、チャックさんのご判断に委ねます」


エレナはそう言って、立ち上がった。「そろそろ失礼します。チャックさん、くれぐれもご注意を」


彼女は代金をカウンターに置くと、チャックに背を向け、ダイナーを出て行った。チャックはママ・ベルに目配せし、無言でエレナの席を指差した。ママ・ベルは腕を組み、渋い顔で頷く。


「あの娘は、いつも嗅ぎ回ってるからねぇ。でも、悪い噂は聞かないよ」


ママ・ベルの言葉も、チャックの疑念を晴らすには至らなかった。


『セカンドライフ』に戻ると、チャックはすぐにビショップに通信を繋いだ。


「ビショップ支部長、チャックです。至急ご報告したいことがあります」


「チャックか。無事で何よりだ。ケレス・ファームの一件、ご苦労だった。君たちの働きで、評議会でのヘリオス社の発言力が一時的にだが低下した。感謝する」


ビショップはいつも通り、落ち着いた口調でチャックの労をねぎらった。


「いえ、それよりも、先ほどエレナ・ソウルという情報屋から接触がありました。ヘリオス社が私に接触を求めていると」


チャックはエレナから得た情報を詳細に伝えた。ビショップは黙って耳を傾け、時折、顎に手をやって思案する素振りを見せた。


「……なるほど。ヘリオス社が直接、それも秘密裏に接触を求めてきた、か。確かに、君が持つデータは彼らにとって喉から手が出るほど欲しいものだろう」


「罠の可能性は?」


「当然、否定できない。マーカス・ヴォレンは正面からぶつかるよりも、搦め手を得意とする。クラインの手を借りて、君を罠に嵌めようとしている可能性は高い」


ビショップは冷静に分析した。しかし、チャックは彼の言葉の裏に、何か別の意図を感じ取った。


「支部長は、どうしろと?」


「私としては、君に無謀な行動はしてほしくない。ギルドの航宙士は皆、貴重な戦力だ」


ビショップは一度言葉を切ると、モニターの向こうで僅かに笑みを浮かべた。


「だが……もし、君がその罠に乗るつもりなら、私から一つだけ助言をしよう。D-12区画の資料保管庫は、かつて、旧大戦時代に地下軍事施設へと繋がる隠し通路があったとされている。あくまで噂だがね。万が一の時には、それが役に立つかもしれない」


隠し通路。ビショップはエレナの情報の信憑性には一切触れず、しかし、あたかもチャックが罠に乗ることを前提としたかのような助言を与えた。これは、彼がチャックに危険を冒させ、何かを引き出すことを期待しているということなのか。あるいは、その「隠し通路」自体が、別の罠である可能性も捨てきれない。チャックの心は再び、信頼と疑念の間を揺れ動いた。


「分かりました。参考にさせていただきます」


チャックは通信を切ると、深呼吸をした。エレナの情報、ビショップの助言。二つの要素が絡み合い、チャックの頭の中には一つの仮説が浮かび上がっていた。これは、ヘリオス社とアークライトが仕掛けた罠であり、その先にはチャックの持つデータ、そして彼の命を狙うクラインが待ち構えているだろう。だが、ビショップの言葉は、その罠を逆手に取る可能性を示唆していた。


「アイリーン、D-12区画の資料保管庫について、詳細なデータを。特に隠し通路の有無と、その先に何があるのか、タルタロスの古い設計図や記録を辿って調べてくれ」


「了解しました。しかし、古い設計図は極めて限定的であり、地下施設への言及はほとんどありません。推測の域を出ませんが、軍事機密として秘匿されている可能性が高いです」


「だろうな。でも、可能性がゼロじゃないなら、調べる価値はある」


チャックはそう呟くと、再びコーヒーを淹れ始めた。マグカップから立ち上る湯気を見つめながら、彼は静かに、しかし確かな決意を固めていた。罠に乗る。そして、その罠を逆手に取る。


***


翌日、チャックはD-12区画の資料保管庫へ向かうことを決めた。アイリーンが古い設計図を解析した結果、保管庫の地下に確かに未知の空間が存在する可能性が高いという報告を上げていたからだ。ただし、そこがビショップが言及した「隠し通路」なのかは不明のままだった。


「チャック、あなたの判断は極めて危険です」


アイリーンが何度も制止したが、チャックの決意は固かった。ケレス・ファームでトニーが命を懸けて託してくれたデータだ。決して無駄にはできない。それに、ただ逃げ回るだけでは、事態は何も変わらないだろう。


チャックは『セカンドライフ』を格納庫に残し、小型の電動カートでD-12区画へと向かった。宇宙港の通路は朝から活気に満ちており、輸送用のロボットや航宙士、様々な種族の商人たちが往来していた。人々の目に紛れて進む。


D-12区画は、他の区画と比べて人通りが極端に少なかった。古びた通路には埃が舞い、メンテナンスも行き届いていない様子だ。資料保管庫のハッチは、錆びついた金属製で、一見すると何の変哲もない。だが、チャックはハッチの周囲に、最新型の小型センサーが仕掛けられているのをアイリーンを通して感知していた。


「アイリーン、やはり罠だったな。このセンサー、ヘリオス社製か?」


「いえ、アークライトの特殊部隊が使用するモデルと一致します。彼らはすでに内部に潜伏している可能性が高いです」


「分かった。予定通り行く」


チャックはハッチに近づき、認証パネルに手を置いた。事前にギルドのコネクションを使って手に入れたアクセスコードを入力する。ハッチがゆっくりと開き、内部の冷たい空気がチャックの頬を撫でた。


資料保管庫の内部は薄暗く、金属製の棚が延々と奥へと続いていた。カビと古い紙の匂いが混じり合う。チャックは小型ライトを構え、慎重に足を踏み入れた。


「チャック、後方。2時の方向から微細な熱源反応。人数は2名。武装している可能性があります」


アイリーンが警告する。チャックは動揺を悟られぬよう、ゆっくりと奥へ進んだ。棚の隙間から、何者かの視線を感じる。


「随分と慎重ですね、チャック・マツオカ」


背後から、冷たく低い声が響いた。チャックはゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、額に傷のある冷徹な男、クラインだった。彼の隣には、アークライトの屈強な傭兵が二人控えていた。


「クライン……やはり貴様か」


「残念でしたね。エレナ・ソウルの情報は、私たちからの甘い誘いでした。あなたの持つデータは、私たちヘリオス社にとって邪魔なのです」


クラインは微かに口元を歪めた。その目は、チャックの動揺を見透かすように鋭い。


「トニーの証言を握り潰すつもりか」


「証言? ただの妄言でしょう。それに、証拠はここから消える。あなたもろともね」


クラインは手元の端末を操作した。すると、保管庫の奥から、数体の戦闘用ドローンが起動し、チャックを取り囲むように動き出した。同時に、チャックが入ってきたハッチが、音を立てて閉まった。


「残念だが、ここは一方的なゲームだ。逃げ場はありませんよ」


チャックは絶体絶命のピンチに陥った。しかし、彼の顔に焦りはなかった。


「アイリーン、予定通り。D-12区画の『噂の通路』を開放しろ」


「了解。作戦、開始します」


アイリーンの声が、チャックのインカムに響いた。


「何を言っている?」


クラインは訝しげに眉をひそめた。その瞬間、チャックは床に飛び込んだ。同時に、足元の地面が大きく揺れた。保管庫の奥、廃棄された巨大な情報サーバーの裏側から、轟音と共に重いハッチが持ち上がったのだ。


ハッチの奥からは、錆びついた金属製の通路が、暗闇へと続いていた。ビショップが言っていた隠し通路が、本当に存在したのだ。


「そんな馬鹿な!」


クラインが叫んだ。彼の部下が通路に銃口を向けたが、チャックは既に通路の中へと身を滑り込ませていた。


「追え! 逃がすな!」


クラインの命令で、傭兵とドローンが通路へと突入しようとする。だが、通路の入り口は狭く、複数体が同時に侵入することはできない。


「アイリーン、通路の防衛システムを起動!」


チャックの指示で、通路の天井から小型の自律防衛砲塔が展開された。旧大戦時代の骨董品だが、未だに稼働する代物だった。砲塔から発射されるパルス弾が、傭兵たちの足元をかすめる。


「くそっ! こんなものが残っていたとは!」


クラインは歯噛みした。


チャックは暗い通路をひたすら走った。通路はまるで生き物のようにうねり、途中でいくつか分岐があった。


「アイリーン、この通路はどこに繋がっている?」


「タルタロス宇宙港の地下深くに張り巡らされた、緊急物資輸送用の旧式リニアレール網です。使用されていないため、マップにも載っていません」


「よし。俺たちの計画通りだ」


チャックはニヤリと笑った。これが、罠を逆手に取るための第一歩だった。


通路の先には、錆びついたリニアレールのプラットフォームが広がっていた。そこには、チャックの背丈ほどもある、小型の無人輸送車両が何台か放置されていた。


「アイリーン、あの輸送車両をハッキングできるか? 起動させて、このレール網を暴走させたい」


「理論上は可能です。しかし、システムが極めて旧式であり、制御に時間を要します。また、一度暴走させると、停止させることは困難です」


「それでいい。クラインたちを巻き込んで、この宇宙港を混乱に陥れるんだ」


チャックの目的は、クラインたちを捕らえることではなかった。彼らがチャックを追うことで、他の航宙士たちの目にも止まるようにする。そして、その混乱に乗じて、ヘリオス社とアークライトの繋がりを白日の下に晒すことだった。


「ターゲット確認! 動け!」


後方から、クラインの傭兵たちの声が聞こえてきた。彼らは防衛砲塔の隙を縫って、通路を進んできたのだ。


「時間がない! アイリーン、今すぐだ!」


「了解。メインシステムへのアクセスを開始。30秒で起動シーケンスを完了します」


チャックは輸送車両の一台に飛び乗った。簡素な操縦席には、埃が積もっていた。


「くそっ、チャックを捕まえろ!」


クラインが叫び、傭兵たちが発砲してきた。パルス弾がチャックの頭上をかすめる。


その時、タルタロスの宇宙港全体に、突如として大音量のサイレンが鳴り響いた。


「システム警報! D-12区画、緊急閉鎖! 未確認車両がリニアレール網に侵入しました!」


アイリーンのハッキングによって、宇宙港の管理システムが異常を検知したのだ。これによって、クラインたちがチャックを追ってこの地下に侵入したことが、公のものとなった。


「馬鹿な! なぜこんなことが!?」


クラインは狼狽した。


「カウントダウン、残り10秒!」


アイリーンの声に、チャックは操縦桿を握りしめた。


「クライン! お前たちの悪事は、もう隠せないぞ!」


チャックが叫んだ瞬間、輸送車両がガタガタと音を立てて動き出した。時速はみるみるうちに上がり、錆びついたレールを高速で滑走していく。後方では、傭兵たちが必死にチャックを追いかけようとしていたが、車両の速度には及ばない。


「アイリーン、このレール網は、宇宙港のどこに通じている?」


「複数の区画を横断し、最終的にはD-7セクター、『墓場』の廃棄物処理施設に繋がっています」


「墓場、か。丁度いい」


チャックはそう呟いた。そこはゾルタンのジャンク屋がある場所だ。何かと都合がいい。


輸送車両は、タルタロスの複雑な地下を猛スピードで駆け抜けていく。天井からは水が滴り落ち、剥き出しのパイプがひしめき合っていた。まるで宇宙の血管の中を旅しているようだ。


「メインレールに障害物を確認。複数のメンテナンス用シャトルが停滞しています」


アイリーンが警告する。チャックは操縦桿を握りしめ、冷や汗をかいた。この暴走した車両を、どうやって止める?


その時、チャックのインカムに、聞き慣れた声が飛び込んできた。


「チャック! 無事か、お人好し野郎!」


「レックス!? てめぇ、どこにいやがる!」


まさかのレックスからの通信に、チャックは驚きを隠せない。


「D-7セクターだ! てめぇが墓場に向かってるって話が聞こえてきたぜ! 何やってんだ、ったく!」


レックスの声のバックには、『ラスカル』のエンジンの爆音が聞こえる。


「俺は今、暴走列車に乗ってる最中だ! 止める方法はないか!?」


「暴走列車だぁ!? 派手にやりやがったな、お人好し! ……おい、アイリーン! てめぇが制御してるんだろ? 止める方法はねぇのか?」


アイリーンは少し沈黙した後、冷静に答えた。


「システムは完全に暴走状態です。外部からの介入は困難。しかし、D-7セクターの廃棄物処理施設への直前には、一時的に速度を落とす強制減速レーンがあります。そこに到達すれば、減速は可能でしょう」


「強制減速レーン……よし、レックス、そこに先回りしろ! 俺を回収するんだ!」


「ちっ、金にならねぇ仕事は嫌いなんだがな……分かった! 貸しにしとけよ、お人好し!」


レックスはそう言うと、通信を切った。信頼と疑念の渦中にいたチャックに、思わぬ人物が手を差し伸べてくれた。それも、最も現金な男、レックスだった。彼はチャックを追っていたのだろうか? それとも、別の目的で墓場にいたのか? 今は考える暇はない。


輸送車両は減速レーンに突入し、速度が落ち始めた。プラットフォームが見えてくる。そこには、レックスの愛機『ラスカル』が、既に着陸態勢に入っていた。


「チャック、飛び移る準備を!」


アイリーンが警告する。チャックは車両のハッチを開け、プラットフォームに飛び降りるタイミングを測った。


「そら!」


レックスが『ラスカル』のサイドハッチを開け、手を差し伸べる。チャックは勢いよく飛び降り、そのまま『ラスカル』のハッチへと転がり込んだ。


「危ねえな、お人好し!」


レックスが文句を言う。チャックは息を切らしながら、彼の顔を見た。


「助かったぜ、レックス! 感謝する!」


「感謝なんていいから、貸し、覚えておけよ。さて、暴走車両はどこへ行きやがった?」


チャックが飛び降りた輸送車両は、減速レーンを抜けて、そのまま廃棄物処理施設の深部へと突入していった。巨大なシュレッダーのような機械の奥へと吸い込まれていく。同時に、施設全体に激しい爆発音が響き渡った。


「これで、クラインたちも追ってこれないだろう。そして、宇宙港のシステム全体に、ヘリオス社とアークライトが地下通路に侵入し、航宙士を襲ったというログが残ったはずだ」


チャックは満足げに言った。彼の作戦は成功したのだ。


「フン、派手にやったな。で、俺に頼みたいのは何だ?」


レックスは鼻を鳴らした。金にならない仕事はしない男だが、チャックを助けたのは事実だ。


「この件をビショップ支部長に報告したい。そして、ゾルタンのところに寄って、この『ラスカル』も少し見てもらうついでに、ケレス・ファームのデータも預けたい」


「ゾルタンのじいさんのところか……相変わらずぼったくられるだろうが、ま、いいだろう。ただし、今回は俺も巻き込まれたんだ。見舞金くらいは出すんだろうな?」


レックスはニヤリと笑う。チャックは苦笑しつつ頷いた。


「ああ、もちろんさ。ビッグバン・プレートを奢ってやるよ」


「ちっ、それで許せってか? まあ、いいぜ。今回は特別だ」


レックスはそう言って、『ラスカル』をゾルタンのジャンク屋があるD-7セクターへと向かわせた。


***


『ゾルタン&リナ・リペア』の薄暗いガレージに、『ラスカル』が停められた。ゾルタンは相変わらず口汚く、レックスのシップを「ゴミの塊」と罵りながらも、その腕前は確かだった。リナは興味津々といった様子で『ラスカル』の内部を覗き込んでいた。


チャックはゾルタンにケレス・ファームで手に入れたデータを渡した。古いバックアップシステムに通し、複製を安全な場所に保存してもらうためだ。


「へぇ、ヘリオス社の汚職の証拠か。こりゃ、厄介な代物だな」


ゾルタンはデータチップを指で弾きながら、ニヤリと笑った。


「ビショップ支部長にはもう連絡済みです。あとは、この情報をどう利用するか……」


チャックは考え込んでいた。宇宙港での騒動は、既にタルタロス中に広まっているだろう。アークライトが地下通路に侵入し、チャックを襲ったという事実は、ギルドの航宙士たちの間で波紋を呼ぶはずだ。


「まあ、ビショップのじいさんなら、うまく利用するだろうよ。お前さんは、もう少し休め。顔色が悪いぜ」


ゾルタンの言葉に、チャックは肩の力を抜いた。確かに、数日間の緊張から解放されたことで、疲労がどっと押し寄せていた。


その日の夜、チャックとレックスはダイナー『スターゲイザー』に戻り、ママ・ベルにビッグバン・プレートを注文した。レックスは自分の分の他に、チャックの分も平らげそうな勢いだ。


「まったく、てめぇが暴走列車に乗ってたなんて話、ギルド中で持ちきりだぜ。クラインの野郎も、まぬけな面を晒したもんだ」


レックスが豪快にチキンを齧りながら言う。


「それで、レックス、なぜ俺を助けに来たんだ? 金にならない仕事はしない主義じゃなかったのか?」


チャックが尋ねると、レックスは一瞬フォークを止めた。


「たまたまだよ、たまたま! 俺は墓場で別の仕事があったんだよ! そこに、お前さんの暴走車両が突っ込んできそうだったから、仕方なく助けてやっただけだ!」


レックスは顔を赤くして反論するが、チャックは彼の言葉を真に受けなかった。レックスは金に汚い男だが、仲間を完全に突き放すような真似はしない。それが彼の、不器用な優しさだった。


「ご馳走様。さて、チャック、次は何を企んでるんだ?」


レックスが尋ねる。チャックはコーヒーカップをゆっくりと回しながら、窓の外の星空を見上げた。


「まだ何も。だが、これでヘリオス社もアークライトも、俺を簡単には捕まえられない。ギルドの目が光っているからな」


「そうだな。ビショップのじいさんも、今回の件で評議会でマーカスを追い詰める口実ができたはずだ」


アイリーンがチャックのインカムに囁いた。


「チャック、先ほどビショップ支部長から連絡が入りました。D-12区画の事件について、正式にギルドによる調査委員会が発足したとのことです。マーカス・ヴォレン氏も、この件への関与を否定できない状況に陥っています」


「よし……」


チャックは小さく頷いた。彼の行動は、タルタロスに新たな波紋を投げかけた。クラインが仕掛けた罠は、チャックの機転と、思わぬ人物たちの助けによって逆手に取られ、彼らにとって不利な状況を作り出した。


「お人好し、お前は本当に面倒なやつだぜ」


レックスが呆れたように言った。


チャックは、ダイナーの窓から見えるタルタロスの無数の光を見つめた。この巨大なステーションは、常に危険と隣り合わせだ。だが、その中には、確かな絆と、それぞれの正義が存在する。


彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。ケレス・ファームのデータ、デヴィッド・マイルズの死の真相、そしてアイリーンの出自。パズルのピースは少しずつ集まりつつあった。次の動きは、果たして何になるのか。チャックは、胸に沸き起こる新たな決意を感じていた。


「さあて、ママ、もう一杯コーヒーを」


チャックはカップをカウンターに置いた。長くて、熱い夜は、まだ終わらない。# 第18話 タルタロスの蜘蛛の糸


タルタロス宇宙港のD-30区画は、巨大な格納庫が密集する、まるで迷宮のような場所だった。錆びついたハッチ、油の染みた床、様々な言語が飛び交う喧騒。チャック・マツオカは愛機『セカンドライフ』号を、その薄汚れた一角に押し込めていた。船体にはケレス・ファームでの激戦の痕がまだ生々しく残っていたが、ゾルタンの店に持ち込む余裕はなかった。ここ数日、彼は神経をすり減らし続けていた。


「チャック、脈拍がやや上昇しています。カフェインの過剰摂取は推奨できません」


コクピットのコンソールに投影されたアイリーンが、優雅なアバターで忠告した。その声は、相変わらず穏やかで、チャックの荒んだ精神にわずかな安寧をもたらす。


「分かってるさ、アイリーン。でも、これくらい飲まないとやってらんない」


空になったコーヒーカップを乱暴にサイドテーブルに置く。ケレス・ファームでの一件以来、チャックはヘリオス・エネルギー社、そして背後にいるマーカス・ヴォレンとクラインから、本格的にマークされていることを肌で感じていた。トニーから託されたヘリオス社の不正に関するデータは、彼らの企業倫理を根底から揺るがすものだ。だが、それをどう使うべきか、今はまだ決めかねていた。迂闊に動けば、自分だけでなく、ギルド全体に危険が及ぶ可能性がある。


『セカンドライフ』は緊急避難的にギルドの管理下にある格納庫に隠されていた。表向きはメンテナンスのためという名目だが、航路ログを辿られれば、ヘリオスの私設部隊がすぐに見つけ出すだろう。今はただ、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。しかし、それはチャックにとって最も苦手なことだった。


「アイリーン、周辺の通信記録に不審な動きは?」


「D-30区画周辺で、ヘリオス社系列の民間警備会社『イージス・セキュリティ』の巡回クラフトが、通常よりも高頻度で確認されています。また、私製の傍受システムが複数稼働している痕跡も発見しました。これは恐らく、アークライトの仕業でしょう」


「やっぱりな……」チャックは深いため息をついた。「俺たちがここにいることはバレてなくても、この区画全体を監視して、不審な動きを炙り出そうって魂胆か」


「その可能性が高いです。しかし、この宇宙港の構造は複雑極まりなく、外部からの直接的な侵入は容易ではありません」


「だからこそ、何か別の手で俺たちを誘い出そうとするはずだ」


チャックの悪い予感が現実となるのは、そう長くはなかった。


***


その日の午後、食料の補給と気分転換を兼ねて、チャックはギルド区画にある『スターゲイザー』へと足を運んだ。ママ・ベルの作る『ビッグバン・プレート』だけが、今の彼に唯一の癒しを与えてくれると信じていた。


ダイナーの扉を開けると、いつものように香ばしい揚げ物の匂いと、航宙士たちのざわめきがチャックを迎えた。カウンターの奥では、ママ・ベルが巨大なフライパンを巧みに操りながら、豪快に料理をしていた。


「おう、チャックじゃないか! 随分と久しぶりじゃないか、一体どこで油を売ってたんだい?」


ママ・ベルの張りのある声が、店内に響く。彼女の片腕に嵌められた武骨な義手が、元航宙士としてのキャリアを物語っていた。


「ちょっと面倒な仕事に巻き込まれてましてね、ママ。いつものビッグバン・プレートと、コーヒーを」


チャックはカウンター席に腰を下ろした。いつもの定位置だ。


「物騒な話は聞きたくないね。ほら、今日は特別サービスだ。揚げたてだよ」


ママ・ベルが差し出したプレートには、いつも以上に山盛りの料理が乗っていた。チャックは感謝の言葉を述べ、無心でフォークを動かし始めた。この温かさだけが、心を落ち着かせる。


その時、カウンターの隅でひっそりとタブレットを操作していた人影が、チャックの視界に入った。見慣れた眼鏡の女性。


「エレナ・ソウル……」


チャックは思わずつぶやいた。情報屋のエレナ・ソウルだった。彼女はチャックの声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。変わらず知的な印象を与える、引き締まった表情。


「あら、チャックさん。お久しぶりです。まさかこんな所で会うとは」


エレナは軽く会釈すると、タブレットを閉じてチャックの方を向いた。


「君もこんな所で食事か? いつもはもっと人目につかない場所で仕事してるイメージだったが」


「情報屋もたまには腹を満たさないと死んでしまいますからね。それに、今日はあなたに用があったんです」


エレナの言葉に、チャックの警戒心が呼び起こされる。偶然の再会ではなかったのか。


「俺に? 何の用だ?」


「単刀直入に申し上げます。ケレス・ファームの件で、ヘリオス社が動き出しました」


チャックはフォークを止めた。エレナは周囲に気づかれないよう、声を潜める。


「内部調査と称して、情報漏洩の犯人を徹底的に炙り出そうとしている。そして、その過程で、あなたを接触対象として指定しているようです」


「俺を……? なぜだ?」


「あなたはトニーという技術者と接触した。その事実は、既にヘリオス社の人間も把握しています。彼らは、あなたがトニーから何らかのデータを受け取ったと見ています」


「それは、君の情報か?」


「ええ、私の情報網からのものです。ヘリオス社の内部情報にアクセスできる、いくつかのコネクションから確認しました」


エレナはまっすぐチャックの目を見た。その目は冷静で、嘘をついているようには見えなかった。しかし、チャックは疑念を捨てきれなかった。「信頼と疑念」。今、チャックの心はまさにその間で揺れていた。エレナは信用できる情報屋ではあるが、彼女自身も様々な組織と繋がっている。ヘリオス社が、彼女を利用して自分を誘き出そうとしている可能性もゼロではない。


「彼らはあなたと『話し合いの場』を設けたいと。タルタロスの管理事務所の古い資料保管庫で、人目につかないように会合を持ちたいそうです」


「資料保管庫……?」


D-12区画にある、長年使われていない薄暗い保管庫のことだろう。人通りも少なく、隠れて会うには最適な場所だ。だが、それは同時に、何が起きてもおかしくない場所でもあった。


「私はただ、情報を伝えただけです。どうするかは、チャックさんのご判断に委ねます」


エレナはそう言って、立ち上がった。「そろそろ失礼します。チャックさん、くれぐれもご注意を」


彼女は代金をカウンターに置くと、チャックに背を向け、ダイナーを出て行った。チャックはママ・ベルに目配せし、無言でエレナの席を指差した。ママ・ベルは腕を組み、渋い顔で頷く。


「あの娘は、いつも嗅ぎ回ってるからねぇ。でも、悪い噂は聞かないよ」


ママ・ベルの言葉も、チャックの疑念を晴らすには至らなかった。


『セカンドライフ』に戻ると、チャックはすぐにビショップに通信を繋いだ。


「ビショップ支部長、チャックです。至急ご報告したいことがあります」


「チャックか。無事で何よりだ。ケレス・ファームの一件、ご苦労だった。君たちの働きで、評議会でのヘリオス社の発言力が一時的にだが低下した。感謝する」


ビショップはいつも通り、落ち着いた口調でチャックの労をねぎらった。


「いえ、それよりも、先ほどエレナ・ソウルという情報屋から接触がありました。ヘリオス社が私に接触を求めていると」


チャックはエレナから得た情報を詳細に伝えた。ビショップは黙って耳を傾け、時折、顎に手をやって思案する素振りを見せた。


「……なるほど。ヘリオス社が直接、それも秘密裏に接触を求めてきた、か。確かに、君が持つデータは彼らにとって喉から手が出るほど欲しいものだろう」


「罠の可能性は?」


「当然、否定できない。マーカス・ヴォレンは正面からぶつかるよりも、搦め手を得意とする。クラインの手を借りて、君を罠に嵌めようとしている可能性は高い」


ビショップは冷静に分析した。しかし、チャックは彼の言葉の裏に、何か別の意図を感じ取った。


「支部長は、どうしろと?」


「私としては、君に無謀な行動はしてほしくない。ギルドの航宙士は皆、貴重な戦力だ」


ビショップは一度言葉を切ると、モニターの向こうで僅かに笑みを浮かべた。


「だが……もし、君がその罠に乗るつもりなら、私から一つだけ助言をしよう。D-12区画の資料保管庫は、かつて、旧大戦時代に地下軍事施設へと繋がる隠し通路があったとされている。あくまで噂だがね。万が一の時には、それが役に立つかもしれない」


隠し通路。ビショップはエレナの情報の信憑性には一切触れず、しかし、あたかもチャックが罠に乗ることを前提としたかのような助言を与えた。これは、彼がチャックに危険を冒させ、何かを引き出すことを期待しているということなのか。あるいは、その「隠し通路」自体が、別の罠である可能性も捨てきれない。チャックの心は再び、信頼と疑念の間を揺れ動いた。


「分かりました。参考にさせていただきます」


チャックは通信を切ると、深呼吸をした。エレナの情報、ビショップの助言。二つの要素が絡み合い、チャックの頭の中には一つの仮説が浮かび上がっていた。これは、ヘリオス社とアークライトが仕掛けた罠であり、その先にはチャックの持つデータ、そして彼の命を狙うクラインが待ち構えているだろう。だが、ビショップの言葉は、その罠を逆手に取る可能性を示唆していた。


「アイリーン、D-12区画の資料保管庫について、詳細なデータを。特に隠し通路の有無と、その先に何があるのか、タルタロスの古い設計図や記録を辿って調べてくれ」


「了解しました。しかし、古い設計図は極めて限定的であり、地下施設への言及はほとんどありません。推測の域を出ませんが、軍事機密として秘匿されている可能性が高いです」


「だろうな。でも、可能性がゼロじゃないなら、調べる価値はある」


チャックはそう呟くと、再びコーヒーを淹れ始めた。マグカップから立ち上る湯気を見つめながら、彼は静かに、しかし確かな決意を固めていた。罠に乗る。そして、その罠を逆手に取る。


***


翌日、チャックはD-12区画の資料保管庫へ向かうことを決めた。アイリーンが古い設計図を解析した結果、保管庫の地下に確かに未知の空間が存在する可能性が高いという報告を上げていたからだ。ただし、そこがビショップが言及した「隠し通路」なのかは不明のままだった。


「チャック、あなたの判断は極めて危険です」


アイリーンが何度も制止したが、チャックの決意は固かった。ケレス・ファームでトニーが命を懸けて託してくれたデータだ。決して無駄にはできない。それに、ただ逃げ回るだけでは、事態は何も変わらないだろう。


チャックは『セカンドライフ』を格納庫に残し、小型の電動カートでD-12区画へと向かった。宇宙港の通路は朝から活気に満ちており、輸送用のロボットや航宙士、様々な種族の商人たちが往来していた。人々の目に紛れて進む。


D-12区画は、他の区画と比べて人通りが極端に少なかった。古びた通路には埃が舞い、メンテナンスも行き届いていない様子だ。資料保管庫のハッチは、錆びついた金属製で、一見すると何の変哲もない。だが、チャックはハッチの周囲に、最新型の小型センサーが仕掛けられているのをアイリーンを通して感知していた。


「アイリーン、やはり罠だったな。このセンサー、ヘリオス社製か?」


「いえ、アークライトの特殊部隊が使用するモデルと一致します。彼らはすでに内部に潜伏している可能性が高いです」


「分かった。予定通り行く」


チャックはハッチに近づき、認証パネルに手を置いた。事前にギルドのコネクションを使って手に入れたアクセスコードを入力する。ハッチがゆっくりと開き、内部の冷たい空気がチャックの頬を撫でた。


資料保管庫の内部は薄暗く、金属製の棚が延々と奥へと続いていた。カビと古い紙の匂いが混じり合う。チャックは小型ライトを構え、慎重に足を踏み入れた。


「チャック、後方。2時の方向から微細な熱源反応。人数は2名。武装している可能性があります」


アイリーンが警告する。チャックは動揺を悟られぬよう、ゆっくりと奥へ進んだ。棚の隙間から、何者かの視線を感じる。


「随分と慎重ですね、チャック・マツオカ」


背後から、冷たく低い声が響いた。チャックはゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、額に傷のある冷徹な男、クラインだった。彼の隣には、アークライトの屈強な傭兵が二人控えていた。


「クライン……やはり貴様か」


「残念でしたね。エレナ・ソウルの情報は、私たちからの甘い誘いでした。あなたの持つデータは、私たちヘリオス社にとって邪魔なのです」


クラインは微かに口元を歪めた。その目は、チャックの動揺を見透かすように鋭い。


「トニーの証言を握り潰すつもりか」


「証言? ただの妄言でしょう。それに、証拠はここから消える。あなたもろともね」


クラインは手元の端末を操作した。すると、保管庫の奥から、数体の戦闘用ドローンが起動し、チャックを取り囲むように動き出した。同時に、チャックが入ってきたハッチが、音を立てて閉まった。


「残念だが、ここは一方的なゲームだ。逃げ場はありませんよ」


チャックは絶体絶命のピンチに陥った。しかし、彼の顔に焦りはなかった。


「アイリーン、予定通り。D-12区画の『噂の通路』を開放しろ」


「了解。作戦、開始します」


アイリーンの声が、チャックのインカムに響いた。


「何を言っている?」


クラインは訝しげに眉をひそめた。その瞬間、チャックは床に飛び込んだ。同時に、足元の地面が大きく揺れた。保管庫の奥、廃棄された巨大な情報サーバーの裏側から、轟音と共に重いハッチが持ち上がったのだ。


ハッチの奥からは、錆びついた金属製の通路が、暗闇へと続いていた。ビショップが言っていた隠し通路が、本当に存在したのだ。


「そんな馬鹿な!」


クラインが叫んだ。彼の部下が通路に銃口を向けたが、チャックは既に通路の中へと身を滑り込ませていた。


「追え! 逃がすな!」


クラインの命令で、傭兵とドローンが通路へと突入しようとする。だが、通路の入り口は狭く、複数体が同時に侵入することはできない。


「アイリーン、通路の防衛システムを起動!」


チャックの指示で、通路の天井から小型の自律防衛砲塔が展開された。旧大戦時代の骨董品だが、未だに稼働する代物だった。砲塔から発射されるパルス弾が、傭兵たちの足元をかすめる。


「くそっ、こんなものが残っていたとは!」


クラインは歯噛みした。


チャックは暗い通路をひたすら走った。通路はまるで生き物のようにうねり、途中でいくつか分岐があった。


「アイリーン、この通路はどこに繋がっている?」


「タルタロス宇宙港の地下深くに張り巡らされた、緊急物資輸送用の旧式リニアレール網です。使用されていないため、マップにも載っていません」


「よし。俺たちの計画通りだ」


チャックはニヤリと笑った。これが、罠を逆手に取るための第一歩だった。


通路の先には、錆びついたリニアレールのプラットフォームが広がっていた。そこには、チャックの背丈ほどもある、小型の無人輸送車両が何台か放置されていた。


「アイリーン、あの輸送車両をハッキングできるか? 起動させて、このレール網を暴走させたい」


「理論上は可能です。しかし、システムが極めて旧式であり、制御に時間を要します。また、一度暴走させると、停止させることは困難です」


「それでいい。クラインたちを巻き込んで、この宇宙港を混乱に陥れるんだ」


チャックの目的は、クラインたちを捕らえることではなかった。彼らがチャックを追うことで、他の航宙士たちの目にも止まるようにする。そして、その混乱に乗じて、ヘリオス社とアークライトの繋がりを白日の下に晒すことだった。


「ターゲット確認! 動け!」


後方から、クラインの傭兵たちの声が聞こえてきた。彼らは防衛砲塔の隙を縫って、通路を進んできたのだ。


「時間がない! アイリーン、今すぐだ!」


「了解。メインシステムへのアクセスを開始。30秒で起動シーケンスを完了します」


チャックは輸送車両の一台に飛び乗った。簡素な操縦席には、埃が積もっていた。


「くそっ、チャックを捕まえろ!」


クラインが叫び、傭兵たちが発砲してきた。パルス弾がチャックの頭上をかすめる。


その時、タルタロスの宇宙港全体に、突如として大音量のサイレンが鳴り響いた。


「システム警報! D-12区画、緊急閉鎖! 未確認車両がリニアレール網に侵入しました!」


アイリーンのハッキングによって、宇宙港の管理システムが異常を検知したのだ。これによって、クラインたちがチャックを追ってこの地下に侵入したことが、公のものとなった。


「馬鹿な! なぜこんなことが!?」


クラインは狼狽した。


「カウントダウン、残り10秒!」


アイリーンの声に、チャックは操縦桿を握りしめた。


「クライン! お前たちの悪事は、もう隠せないぞ!」


チャックが叫んだ瞬間、輸送車両がガタガタと音を立てて動き出した。時速はみるみるうちに上がり、錆びついたレールを高速で滑走していく。後方では、傭兵たちが必死にチャックを追いかけようとしていたが、車両の速度には及ばない。


「アイリーン、このレール網は、宇宙港のどこに通じている?」


「複数の区画を横断し、最終的にはD-7セクター、『墓場』の廃棄物処理施設に繋がっています」


「墓場、か。丁度いい」


チャックはそう呟いた。そこはゾルタンのジャンク屋がある場所だ。何かと都合がいい。


輸送車両は、タルタロスの複雑な地下を猛スピードで駆け抜けていく。天井からは水が滴り落ち、剥き出しのパイプがひしめき合っていた。まるで宇宙の血管の中を旅しているようだ。


「メインレールに障害物を確認。複数のメンテナンス用シャトルが停滞しています」


アイリーンが警告する。チャックは操縦桿を握りしめ、冷や汗をかいた。この暴走した車両を、どうやって止める?


その時、チャックのインカムに、聞き慣れた声が飛び込んできた。


「チャック! 無事か、お人好し野郎!」


「レックス!? てめぇ、どこにいやがる!」


まさかのレックスからの通信に、チャックは驚きを隠せない。


「D-7セクターだ! てめぇが墓場に向かってるって話が聞こえてきたぜ! 何やってんだ、ったく!」


レックスの声のバックには、『ラスカル』のエンジンの爆音が聞こえる。


「俺は今、暴走列車に乗ってる最中だ! 止める方法はないか!?」


「暴走列車だぁ!? 派手にやりやがったな、お人好し! ……おい、アイリーン! てめぇが制御してるんだろ? 止める方法はねぇのか?」


アイリーンは少し沈黙した後、冷静に答えた。


「システムは完全に暴走状態です。外部からの介入は困難。しかし、D-7セクターの廃棄物処理施設への直前には、一時的に速度を落とす強制減速レーンがあります。そこに到達すれば、減速は可能でしょう」


「強制減速レーン……よし、レックス、そこに先回りしろ! 俺を回収するんだ!」


「ちっ、金にならねぇ仕事は嫌いなんだがな……分かった! 貸しにしとけよ、お人好し!」


レックスはそう言うと、通信を切った。信頼と疑念の渦中にいたチャックに、思わぬ人物が手を差し伸べてくれた。それも、最も現金な男、レックスだった。彼はチャックを追っていたのだろうか? それとも、別の目的で墓場にいたのか? 今は考える暇はない。


輸送車両は減速レーンに突入し、速度が落ち始めた。プラットフォームが見えてくる。そこには、レックスの愛機『ラスカル』が、既に着陸態勢に入っていた。


「チャック、飛び移る準備を!」


アイリーンが警告する。チャックは車両のハッチを開け、プラットフォームに飛び降りるタイミングを測った。


「そら!」


レックスが『ラスカル』のサイドハッチを開け、手を差し伸べる。チャックは勢いよく飛び降り、そのまま『ラスカル』のハッチへと転がり込んだ。


「危ねえな、お人好し!」


レックスが文句を言う。チャックは息を切らしながら、彼の顔を見た。


「助かったぜ、レックス! 感謝する!」


「感謝なんていいから、貸し、覚えておけよ。さて、暴走車両はどこへ行きやがった?」


チャックが飛び降りた輸送車両は、減速レーンを抜けて、そのまま廃棄物処理施設の深部へと突入していった。巨大なシュレッダーのような機械の奥へと吸い込まれていく。同時に、施設全体に激しい爆発音が響き渡った。


「これで、クラインたちも追ってこれないだろう。そして、宇宙港のシステム全体に、ヘリオス社とアークライトが地下通路に侵入し、航宙士を襲ったというログが残ったはずだ」


チャックは満足げに言った。彼の作戦は成功したのだ。


「フン、派手にやったな。で、俺に頼みたいのは何だ?」


レックスは鼻を鳴らした。金にならない仕事はしない男だが、チャックを助けたのは事実だ。


「この件をビショップ支部長に報告したい。そして、ゾルタンのところに寄って、この『ラスカル』も少し見てもらうついでに、ケレス・ファームのデータも預けたい」


「ゾルタンのじいさんのところか……相変わらずぼったくられるだろうが、ま、いいだろう。ただし、今回は俺も巻き込まれたんだ。見舞金くらいは出すんだろうな?」


レックスはニヤリと笑う。チャックは苦笑しつつ頷いた。


「ああ、もちろんさ。ビッグバン・プレートを奢ってやるよ」


「ちっ、それで許せってか? まあ、いいぜ。今回は特別だ」


レックスはそう言って、『ラスカル』をゾルタンのジャンク屋があるD-7セクターへと向かわせた。


***


『ゾルタン&リナ・リペア』の薄暗いガレージに、『ラスカル』が停められた。ゾルタンは相変わらず口汚く、レックスのシップを「ゴミの塊」と罵りながらも、その腕前は確かだった。リナは興味津々といった様子で『ラスカル』の内部を覗き込んでいた。


チャックはゾルタンにケレス・ファームで手に入れたデータを渡した。古いバックアップシステムに通し、複製を安全な場所に保存してもらうためだ。


「へぇ、ヘリオス社の汚職の証拠か。こりゃ、厄介な代物だな」


ゾルタンはデータチップを指で弾きながら、ニヤリと笑った。


「ビショップ支部長にはもう連絡済みです。あとは、この情報をどう利用するか……」


チャックは考え込んでいた。宇宙港での騒動は、既にタルタロス中に広まっているだろう。アークライトが地下通路に侵入し、チャックを襲ったという事実は、ギルドの航宙士たちの間で波紋を呼ぶはずだ。


「まあ、ビショップのじいさんなら、うまく利用するだろうよ。お前さんは、もう少し休め。顔色が悪いぜ」


ゾルタンの言葉に、チャックは肩の力を抜いた。確かに、数日間の緊張から解放されたことで、疲労がどっと押し寄せていた。


その日の夜、チャックとレックスはダイナー『スターゲイザー』に戻り、ママ・ベルにビッグバン・プレートを注文した。レックスは自分の分の他に、チャックの分も平らげそうな勢いだ。


「まったく、てめぇが暴走列車に乗ってたなんて話、ギルド中で持ちきりだぜ。クラインの野郎も、まぬけな面を晒したもんだ」


レックスが豪快にチキンを齧りながら言う。


「それで、レックス、なぜ俺を助けに来たんだ? 金にならない仕事はしない主義じゃなかったのか?」


チャックが尋ねると、レックスは一瞬フォークを止めた。


「たまたまだよ、たまたま! 俺は墓場で別の仕事があったんだよ! そこに、お前さんの暴走車両が突っ込んできそうだったから、仕方なく助けてやっただけだ!」


レックスは顔を赤くして反論するが、チャックは彼の言葉を真に受けなかった。レックスは金に汚い男だが、仲間を完全に突き放すような真似はしない。それが彼の、不器用な優しさだった。


「ご馳走様。さて、チャック、次は何を企んでるんだ?」


レックスが尋ねる。チャックはコーヒーカップをゆっくりと回しながら、窓の外の星空を見上げた。


「まだ何も。だが、これでヘリオス社もアークライトも、俺を簡単には捕まえられない。ギルドの目が光っているからな」


「そうだな。ビショップのじいさんも、今回の件で評議会でマーカスを追い詰める口実ができたはずだ」


アイリーンがチャックのインカムに囁いた。


「チャック、先ほどビショップ支部長から連絡が入りました。D-12区画の事件について、正式にギルドによる調査委員会が発足したとのことです。マーカス・ヴォレン氏も、この件への関与を否定できない状況に陥っています」


「よし……」


チャックは小さく頷いた。彼の行動は、タルタロスに新たな波紋を投げかけた。クラインが仕掛けた罠は、チャックの機転と、思わぬ人物たちの助けによって逆手に取られ、彼らにとって不利な状況を作り出した。


「お人好し、お前は本当に面倒なやつだぜ」


レックスが呆れたように言った。


チャックは、ダイナーの窓から見えるタルタロスの無数の光を見つめた。この巨大なステーションは、常に危険と隣り合わせだ。だが、その中には、確かな絆と、それぞれの正義が存在する。


彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。ケレス・ファームのデータ、デヴィッド・マイルズの死の真相、そしてアイリーンの出自。パズルのピースは少しずつ集まりつつあった。次の動きは、果たして何になるのか。チャックは、胸に沸き起こる新たな決意を感じていた。


「さあて、ママ、もう一杯コーヒーを」


チャックはカップをカウンターに置いた。長くて、熱い夜は、まだ終わらない。

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