176:エピローグ
調合室の扉がノックされる。資料を用意していた手を止めて「どうぞ」と返事をすれば、茶髪の女性が入室してきた。
彼女の名前はミラ。ここ、フラリア支部で働く街の調合師だ。
――魔王討伐から、二年。正規の王属調合師となった私は、今年の春からフラリア支部で働いている。
旅の中で見つけた夢である“街の調合師たちへの支援”を少しずつ形にするために、私は地方支部への異動を願い出た。昨年一年は王都で働き、後輩のアイリスとバジリオさんもすっかり一人前になった今年の春、異動願いが聞き届けられたのだ。
街の調合師たちを支援したいという話はカスペルさん含め上司にずっと話していて、その結果が今年度からのフラリア支部への異動だったので、王都に近いこの街で――つまりは上の目が届き監視がしやすい場所で――とりあえず始めてみろ、ということなのだと受け取っている。とにかくまずはこの地で何らかの結果を出さなければ、道は開けない。
ミラは私に何通かの手紙を差し出してきた。
「ラウラさん、あなた宛にお手紙が」
「ありがとうございます」
受け取ったのは封筒が四通と、絵葉書が一通。
裏返して、差出人の名前を確認していく。
(チェルシーと……こっちはリナ先輩ね)
リナ先輩は私と同じタイミングで正規の王属調合師へ昇格し、地元近くの支部に異動となった。魔王が各地に残した傷がまだ癒えきっていない今、王属調合師の支部への出張が増えているのだ。まだまだ回復薬の需要は高い。
チェルシーは今年の春、晴れて昇格試験に合格、王都で後輩たちの面倒を見ている。アイリスたちの代から採用枠は拡大されたままで、多くの後輩に囲まれ、忙しくも充実した日々を送っているようだ。
彼女たちとは定期的に手紙のやり取りをしていた。今日はこんなことがあった、こんな調合法を見つけた、今度また一緒にお茶をしよう――等々、交流は続いている。
(これはバジリオさんとアイリス……)
直接の後輩であるバジリオさんとアイリスは現在王都に身を置いており、二人ともそれぞれ、後輩の教育係に任命されたようだった。
バジリオさんの毒薬の知識は王属調合師の中でも重宝されていると聞く。一方でアイリスは相変わらず自由気ままにやっているようで、しばらく昇格試験を受けるつもりはないらしい。正規の王属調合師になれば今より自由な時間が減るのが嫌だとか、どうとか。
四通の手紙は終業後、寮でゆっくり読んで返事を書こう。
最後、絵葉書に手を伸ばす。水彩のような淡いタッチで描かれた風景画に、差出人の名前は見ずとも分かった。
(ルカだ!)
――ルカーシュとはこの二年間、一度も会っていない。しかし彼は世界を旅する途中、旅先の風景を描いた絵葉書を小まめに送ってきてくれるのだ。
元気? 体に気を付けてね。
添えられているのはそんな短いメッセージだけだ。しかしそれだけで十分だった。幼馴染が元気にやっているのならば、それ以上嬉しいことはない。ただルカーシュは居場所を転々としているから、こちらから返事を出せないのは歯がゆかったが。
絵葉書には見慣れない街並みが描かれている。少し古めかしい、和を感じる街並みだ。おそらくオストリア国内ではないだろう。
「素敵な絵葉書ですね。どなたからですか?」
背後から問いかけられて、私は自慢するように絵葉書を顔の横に持ってきた。そして笑う。
「自慢の幼馴染」
ミラが「幼馴染?」と首を傾げた瞬間、部屋の時計が定刻を告げた。
午後三時。おやつの時間――ではなく、勉強会の時間だ。
私は机の上の資料を慌てて鞄に入れる。
「勉強会に行ってきます」
私に与えられた調合室は二階。勉強会が開かれるのは、一階の玄関に一番近い調合室だ。私は駆け足で部屋を出る。
――勉強会。街の調合師たちを集めて定期的に行われる講習、と言った方が近いかもしれない。私が抱いていた夢である“街の調合師たちへの支援”の一つとして、フラリア支部にきてすぐ取り掛かったことの一つだ。
まず参加者を集めるために、近隣の街や村を訪ねることから始めた。最初こそ怪訝な顔をしていた調合師も多かったが、こまめに足を運んだ結果、今では常時四、五名ほどの調合師が勉強会に参加してくれている。今日は薬草の見分け方について、主に座学で学ぶ予定だ。
階段を駆け下りて、勉強会会場となっている部屋に入室する。すると私を出迎えてくれたのは五人の調合師。その内四人は見慣れた顔で、残り一人は初めて見る顔だった。
一番の古株であるヴェッツィ村のカルメンが、新顔の少女を引き連れて挨拶に来た。
「ラウラさん、今回もよろしくお願いします。それで、今日は新しい子が来ていて……」
「ブーマラ村で調合師をしています、アイナといいます」
アイナと名乗った少女は柔く微笑んだ。
評判が評判を呼ぶ、とまではいかないが、近隣の街や村の調合師たちの中で、少しずつこの勉強会の存在が知れ渡り始めているようだ。今では遠くの村から足を運んでくれる人もいる。
「私はラウラ。今日は来てくれてありがとう、アイナ。分からないことでも相談事でも、できる限り力になるから」
握手のつもりで右手を差し出せば、強い力で握り返された。こちらを見つめる目も爛々と輝いているし、やる気があるというか、かなり意欲がありそうだ。
彼女たちが席についたのを確認してから、本日の勉強会を開始した。
勉強会はまだ数える程度しか行っていない。そのため、内容はとても初歩的なものだ。薬草の見分け方から、調合の基礎的な知識。独学ですべてを学んできた彼らは知識に偏りが見られたり、独自の調合方法を編み出していたりする。知識に縛られないが故に、柔軟な発想を持っている彼らとの交流は、私にとっても大きな刺激となった。
私が作成した資料を基に座学を行い、薬草園で実際の薬草を観察し、質問に答える。――それだけで、あっという間に二時間が過ぎてしまう。
ふぅ、と一息ついたところで、終業時間の鐘が鳴る。五時だ。日が落ちる前に、彼らを帰らせなければ。
「もうこんな時間。今日はここらへんで解散にしましょう」
ありがとうございました、と調合師たちは頭を下げ、帰り支度を始めた。今日の勉強会が少しでも役立ってくれたらいいな、と思いつつ私も後片付けを始める。
パタパタ、と今日初めて来た調合師――アイナが駆け寄ってきた。
「あの、ラウラさん、質問が――」
なんでしょう、と答えようとしたときだった。調合室のドアが開き、
「ラウラ・アンペール殿がここにいると聞いたんだが」
聞きなれた声が鼓膜を揺らした。
私は慌てて扉の方を振り返る。そこにいたのは、黒髪の男性――
「アルノルト!?」
思わず私は駆け寄った。すると彼はほんの少しだけ表情を和らげる。
――アルノルト・ロコ。優秀な調合師である彼は、今は王都でかつてのカスペルさんのような、若手調合師を束ねる立場についていた。そんな彼がなぜフラリアにいるのだろう。
「ど、どうしてフラリアに?」
「支部長殿に野暮用があったんだが、ここで勉強会をしていると受付で耳にしてな」
つまりは様子を見に来てくれたらしい。
フラリアと王都。そう距離は離れていないが、お互い仕事が忙しく久しぶりの再会だ。以前顔を合わせたのは、私が所用で王都を訪れたときで――それこそ、三か月ほど前だろうか。
あのときは十八歳の誕生日をアルノルト含め王都の友人たちに祝ってもらった。十八歳はこの世界で言う成人で、ディオナやエルヴィーラ、マルタまで駆け付けてくれたのだ。ルカーシュも顔こそ見られなかったが、三枚綴りのお祝いの手紙を送ってくれて。とても思い出深い一日だった。
三か月ぶりの再会に喜び跳ねそうになる心を落ち着かせる。まだ勉強会は終わっていない。
「後片付けが終わってからで構わない?」
「あぁ」
許可をもらってから、私は先ほど質問をしに来てくれたアイナを振り返る。すると彼女は顔を赤らめて、ぶんぶんと首を振った。
「い、いえ! 自分のことはお気になさらず!」
「俺が勝手に来ただけだ。優先されるべきは君だろう」
怯えさせないようにだろう、いつもよりいくらか高いトーンでアルノルトは言う。
最近二十歳を迎えた彼はもう立派な大人の男性だ。二年前の線の細さもすっかりなくなって、貫禄すら感じる。片側の前髪を上げているから余計そう見えるのだろう。若い調合師を束ねる立場になる際、なめられないように――なんて理由で髪型を変えたようだが、その必要はなかったように思えてならない。
恐縮するあまり口を閉ざしてしまったアイナからどうにかこうにか質問を聞き出して、一通りの説明を終えた。そうすれば彼女はお礼を口にしてそそくさと調合室から退出していく。まるでアルノルトを怖がるように。
本人比ではあるが、怖がらせないように努力していたのにな――なんて思い、ついつい笑ってしまう。だって、アルノルトが君、なんて二人称を使ったのは初めて聞いた!
「ふふふ」
「何を笑っている」
「アルノルトが“君”って言ったのがおかしくて」
アルノルトはため息をつく。そして腕を組んで、苛々しているのか右の人差し指で腕をリズミカルに叩いた。
「……俺の姿を見てかなり萎縮していた。“お前”なんて呼びかけたら、泣き出しかねないと思っただけだ」
その眉間には皺が寄っていた。もはやそれは、彼の癖だ。
三か月前会ったときに「最近は頭痛がひどい」なんてぼやいていたが、この癖のせいもある気がする。立場的に頭を悩ませることが多いのは重々承知の上だが。
アルノルトに示すように、自分の眉間を指先で数度叩く。
「眉間の皺、いつまで経ってもとれませんね」
「そういう性格なんだ。これでも皺が薄くなったとお前の同期に言われたが」
「チェルシーが言うなら、そうなのかも」
チェルシーは昔、アルノルトにうまく声をかけられないようだった。それは尊敬からか、単純に怖がっていたのかは分からないが、彼女が面と向かってそんなことを言えるようになるぐらいには、アルノルトも丸くなったのだろう。
立場的に、彼は新人たちに大いに恐れられているとリナ先輩が手紙で教えてくれた。鬼上司だか、鬼教官だか、影では好き勝手言われているらしい。けれど同じ手紙の中で、リナ先輩は「アイツも随分柔らかくなったわね」と綴っていた。彼の過去を知る人は、皆そう言うのだ。
笑って会話を切り上げて、私は勉強会の後片付けを再開した。とはいっても今日は調合を行わず座学だったから、片づけなければならないものもごく僅かだ。
文献を重ねて、よっと持ち上げる。瞬間、横からアルノルトに奪われた。
あ、と思ったのもつかの間、彼は私から奪った文献に目を落とし、ぽつりとつぶやく。
「……街の調合師たちへの指導、うまくいっていると聞いた」
「まだまだです。始めたばかりで私も向こうも手探りだし、ここでうまくやれなければ正式な許可も降りない。正直、見通しがかなり甘かったなぁ」
フラリア支部に来てからというもの、自分の見通しの甘さを痛感している。
順調に勉強会の輪は広がっているが、正直自分一人で見られるのは五人が精いっぱいだ。勉強会の準備に時間がかかり睡眠時間を圧迫するし、早急に街の調合師同士で勉強会を行える環境を整えなければ、自分が体を壊してしまいかねない。場所の提供はするとして、次々回あたり自分抜きでの勉強会を提案してみようか、とは考えているものの、それにしたって全員で取り組むための課題を用意しなければならないし――
自分で言い出したことだ。弱音は吐けない。けれど時折どうしても、後ろ向きの心が顔を出す。
「だが、確実に前へ進んでいるんだろう」
そういうとき、アルノルトはいつだって力強い言葉をくれるのだ。
「……そうですね。もう一生をかけるぐらいの勢いでやるしかないかも」
ふぅ、と息をついて笑いかける。しかしアルノルトは笑い返してくれることはなく、それどころか視線を落とした。
「俺ももう少し身軽な立場だったら手伝えたんだが」
先ほどよりも落ち込んだように、本当に残念そうに言うものだから、私は思わず笑ってしまう。
きっと彼は心の底からそう思っている。真面目で、優しいひとだから。
「出世しちゃったから無理ですよ。王都の調合師をきちんとまとめてもらわないと」
言えば、彼の眉間にぎゅっと皺が寄った。口元も引き結ばれている。
こういう表情をするときのアルノルトは、怒っているのではなく拗ねているのだ。だからフォローも込めて再び口を開く。
「その気持ちだけで嬉しいです」
そうすればアルノルトはようやく口元を緩めた。
――その後、調合室の前までアルノルトは文献を運んでくれた。彼はこれから支部長に用があるというので、扉の前で文献を受け取って、支部長室へと向かうアルノルトを見送る。用事が終わった後、改めて私の調合室を訪ねてくれるとのことだった。
それまでに片付けておかなければ、と私は慌てて調合室へ入る。するとミラが手伝うために待機してくれていたので、今日ばかりは彼女の好意に甘え、二人で後片付けを始めた。
「ラウラさん、ご機嫌ですね?」
「そう?」
指摘されて、思わず頬が赤らむ。
そんなにあからさまな顔をしていただろうか。恥ずかしい。けれどミラの言う通り、今の私はご機嫌だ。
適当にごまかして、後片付けを再開する。――と、十分ほど経った頃、背後で扉が開く音がした。そして、
「ラウラ」
振り向くより先に呼びかけられる。アルノルトの声だった。
私は手を止めず、顔だけそちらに向けて問いかけた。
「もう終わったんですか?」
「あぁ」
随分と早い。わざわざアルノルトが出向いてきたのだから、もう少し長話になると踏んでいたのだが――
まだ片づけが終わっていないのは目に見えて明らかだったため、アルノルトは「手伝うか」と声をかけてきた。それを断って、もう少し待っていてほしいと告げるべくアルノルトに視線をやり――そのすぐ横で、ミラが目を輝かせているのに気が付いた。
どうしたんですか、と問いかけるより先に、ミラは声を震わせて尋ねる。
「あ、あなた様は、まさか、あのアルノルトさん!?」
「あの?」
アルノルトは怪訝な顔をした。
彼は有名人だ。優秀な調合師として、そして勇者一行の一人として。その整った容姿も相まって、わざわざアルノルトを訪ねに王都を訪れる女性もいるほどだと聞く。全く相手にしていないから安心しなさい、とリナ先輩が手紙で教えてくれたのはフラリア支部に来てすぐのことだった。
私より年上で、普段はとても落ち着いているミラだが、やはり有名人を前にすると興奮するんだなぁ、なんて微笑ましく思っていたら、
「ラウラさんと付き合ってるって本当だったんですね!」
とんでもない爆弾が落とされた。
「なっ!? おいラウラ!」
アルノルトが焦ったようにこちらに顔を向ける。
私は顔の前でぶんぶんと大きく手を振った。
「えっ、私何も言ってませんよ! 名前すら出してないです!」
「……それはそれでどうなんだ」
アルノルトの名前は有名すぎる。下手に口に出せば――更に親し気に呼び捨てで呼んでいるなんて知られれば――いろいろと面倒なことになるのだ。そのため私は極力彼の名前を出さないようにしていた。先輩、だとか知り合い、だとか表現のしようはいくらでもある。
だから、私の口からアルノルトと付き合っているなんて言ったことはほとんどない。それこそチェルシーやリナ先輩、ディオナたちぐらいだ。それなのになぜ、ミラが私たちの関係を知っているのだろうか。
「いやいや、我々の間では有名な話ですよ! 天才くんと天才ちゃんのカップルだって!」
天才くんと天才ちゃん。なんだか懐かしい単語に、アルノルトと顔を見合わせて苦笑した。
「……カスペルさんか」
カスペルさんは昔、私のことをアルノルトの彼女だと勘違いしていた。そのときは一体なぜそんな勘違いを、なんて本気で思ったけれど――まさかその勘違いが本当になる日がくるなんて。
私たちの上司であるカスペルさんには、アルノルトの方からそれとなく伝えておく、ということになっていた。そこまで堅苦しい職場ではないから、交際に許可を取らなければならないなんてことは一切ないが、隠しておくのもなんだか気が引けて。
そもそも私たちは付き合っていることを隠しているわけではない。ただ自分たちから積極的に公言していないだけであって、周りに知られたところで特に困ることはないのだが――ただただ、気恥ずかしい。いたたまれない。それだけだ。
目を輝かせるミラを横目に急いで後片付けを終えて、私たちは二人フラリア支部を後にした。
「俺がラウラの名前を出す度に変な目で見られる意味がようやく分かった……」
「あはは……なんか居た堪れませんね」
がっくりと肩を落とすアルノルトに同意する。“変な目”で見られているということは、大方周りの人々には私たちの関係がばれているのだろう。
フラリア支部の人たちも知っているのかと思うと、なんだかむずがゆい。どこまで天才くんと天才ちゃんの話は広がっているのか――
「先日ディオナが王都を訪ねてきたが、会ったか?」
この空気を払しょくしようと新たな話題を振ってきたアルノルトに、私はすかさず頷く。
数週間前、ディオナとマルタがわざわざ会いに来てくれたのだ。今は二人とも気ままに旅をする身。特に急いだ用事はないようで、ゆっくりと数日間フラリアに滞在し、賑やかで楽しい毎日を過ごした。
「はい。数日間滞在して行きましたよ。マルタも一緒に」
「……俺に会いに来たときにはディオナ一人だったな」
ぼやくようにアルノルトは言う。フラリアでマルタは「いいお宝の噂を聞いた」と言っていたから、きっと王都へは寄らず、そのままお宝の許へ急いだのだろう。
苦笑しつつも、私は王都にいる人々について尋ねる。
「ヴェイクさんは相変わらずですか?」
「あぁ。騎士団長という立場なのに一向に落ち着く気配がないと、オリヴェル殿が嘆いていた」
「ヴェイクさんらしいですね」
ヴェイクの国内を巡る旅は二年で一応の終了を見たらしいが、任務の合間合間に各地を訪れているようだ。実際まだ復興まで時間がかかる街も存在する。そんな中で、直接国の騎士団長が訪ねてきたとなれば、人々の士気も上がるはずだ。
国民としては嬉しい行動だが、副団長オリヴェルさんからしてみれば、度々一人で姿を消す団長の補佐は大変だろう。その心労は察して有り余る。
不意に、「そうだ」とアルノルトは何かを思い出したように声を上げた。
「ヴェイクがユリウスの噂を街で聞いたらしい。用心棒……傭兵としてそこそこやっているようだ」
ユリウス。その名前に私は目を丸くする。
彼とはまだ、あの日以来一度も会えていない。故郷の弔いが終わった後、各地を転々としているようだ。先日フラリアを訪ねてきたマルタは、旅先で偶然再会して以来、度々顔を合わせると言っていたが、ディオナは会っていないと言っていた。傭兵として忙しくしているのだろうか。
どうであれ、元気でやっているようならよかった。
「そうなんですか! マルタは時々会ってるみたいだったけど……」
「波長が合うのかもな」
「そうかも」
悪友のような関係というか、お互い軽口を叩き合える関係が心地良いようだった。故郷を失ったユリウスにとって、そういった存在は大きいだろう。
よかったなぁ、と安堵して、次に脳裏に浮かんだ顔は隣を歩くアルノルトに似た少女、エルヴィーラだった。彼女と最後に会ったのは三か月前。私の誕生日会に出席してくれたのが最後だ。そのとき会った彼女はまだ幼さが抜けきらないながらも、美しい女性へと成長している真っ最中なのが見てとれた。
「エルヴィーラちゃんは相変わらずですか?」
「あぁ、精霊研究のために相変わらずあちこち飛び回っている。今はメガーナの街にいると言っていたな……最近はアカリがついていてくれていると聞いたが」
アルノルトの瞳に不安の色がのぞく。いくら強力な魔力を持つ英雄といえど、アルノルトからしてみればかわいいかわいい妹だ。それもまだ成人前の。一人で旅に出るのは最後まで反対していたが、押し切られた今も、心配はつきないようだ。
しかし、正確にはエルヴィーラは一人ではない。とても心強い存在がついてくれている。――そう、水の精霊であるアカリが。
「はい。随分おしゃべりが上手になりました」
今では十歳前後の子どもぐらいにはスムーズに話すことができる。アカリの故郷ともいえるフラリアには、精霊の住処にある入口を通じて、今でも時々遊びにきてくれるのだ。
「今度また王都に寄ると手紙に書いてあった。タイミングが合うようなら、顔を見せてやってくれ」
「ふふ、楽しみ」
会話が一段落したところで、ちょうど私がフラリアで寝泊まりをしている寮に到着した。
王都で使用していた部屋と似た作りの自室にアルノルトを招きいれる。お茶をいれるので座っていてください、と声をかけて、私は今日送られてきた手紙を机の上に置いた。
アルノルトは私の言葉通りソファに座ると、机の上に置かれた手紙の中に“それ”を見つけたらしい。お茶の準備をする私の背中に問いかけてきた。
「この絵葉書は、ルカーシュか」
目線はお茶をいれるカップのまま、確かめることもせずに頷いた。絵葉書、とアルノルトが表現した時点で、答えは決まっている。
湯気が立つカップを二つ持ち、ソファに座るアルノルトへ近づく。想像通り、彼はその手にルカーシュが送ってきてくれた絵葉書を持っていた。
隣に腰掛け、カップを渡す。
「ここは……どこでしょうね。たぶん、オストリア国外だと思いますが」
「見事な絵だな。俺には相変わらず落書きを送ってくるが」
――そう、ルカーシュはアルノルトにも定期的に絵葉書を送っているようなのだが、そこに描かれているのは美しい風景絵ではなく、落書きらしい。王都に行ったときに一度見せてもらったが、おそらく動物のようなものが描かれていた。黒のインキでぐるぐると乱雑に描かれたそれが本当はなんだったのか、結局分からずじまいだ。
こんな落書きを送られる心あたりはないのか尋ねてみたところ、旅立つ前日に喧嘩をした、とアルノルトは言った。その喧嘩の原因がなんなのかは教えてくれなかったが、まだ仲直りはできていないらしい。
「まだ仲直りしていないんですか?」
「向こうが勝手に拗ねているだけだ」
そういうアルノルトもどこか拗ねたような表情をしていた。
彼と幼馴染は、お互いに親友と言っていいはずの間柄なのに、どうにもうまく噛み合わないのだ。ボタンが掛け違う、というか。大切に思っているのは傍から見ても明らかなのだが――それもまた、彼ららしいというべきか。
「……もう、二年も会っていません」
ぽつり、と呟く。そうすればアルノルトはカップを机の上に置いて、私を見た。
「旅立つ前に会ったきりか」
「はい。やっぱり寂しいですね。こんなに会えなくなるなんて、想像していなかったから」
二年も会えていない。きっとルカーシュは大きく成長していることだろう。
寂しい。けれど幼馴染が幼馴染らしく、本人が望む道を歩けているのならばそれが一番だ。
アルノルトは瞼を伏せた。長いまつげが震えている。
「そうだな。俺も……寂しいよ」
「……素直」
驚きに思わずこぼした。
アルノルトはちらりとこちらを一瞥してから、自嘲するような薄笑いを浮かべる。
「いい加減素直にならないと逃げられると、最近母に脅されてるんだ」
ぱちり、ぱちり。数度瞬いて、私は首をひねった。
話が見えない。
「逃げられるって、誰に?」
「お前の他にいないだろう」
素直にならないと、私に逃げられる?
――確かに、今でも特にリナ先輩から、本当にアルノルトでいいの? なんて冗談めかして聞かれることがある。不愛想で、不遜で、不器用で。なるほど確かに世間一般で言う理想の恋人像からはかけ離れているかもしれない。
けれどこの二年、私は恋人としても、人としても、アルノルトに対して強い不満を抱いたことはなかった。もう少し人当りを良くすれば物事がスムーズに進むのではないか、と思ったことは何度かあるが、言ったところですぐに解決する問題でもない。それに本人も自覚はあるのだろう、先ほどのアイナへ見せた気遣いのように、少しずつ、本当に少しずつだが、改善されているように思うのだ。
つまりは、ここ二年の間でアルノルトに嫌気がさしたことはないし、あまりよくない表現だが、他の人に目移りするようなこともない。逃げるという考えはこれっぽっちも浮かんでこなかった。
私にとって、彼はずっと唯一のままだ。
「別に逃げませんよ? アルノルトが素直じゃないことはもうとっくの昔に分かってますし……」
目を見て言えば、アルノルトの頬がいくらか赤くなる。照れ隠しからか、目線を斜め下に下げてアルノルトは続けた。
「……それでも、だ。ラウラの優しさに甘えるなと言われた」
正直ピンとこなかったが、きちんと私のことを考えてくれるのは嬉しかった。ただありのまま伝えたころで、変なところで真面目な彼は納得しないだろう、と頭を悩ませる。
さて、どう切り抜けるべきか、と考え――あるアイディアが脳裏に浮かんだ。それは名案のように思えた。
「それじゃあ、素直になる練習しますか?」
「練習?」
今度はアルノルトが首を傾げる。
私は「はい」と頷いて続けた。
「一日一回、誰相手でもいいので素直になってみる、とか」
提案に、アルノルトは口を噤んで目を丸くした。
言い出したときは名案だと思っていたが、すっかり表情から感情が抜け落ちた様子の彼に、にわかに不安になる。呆れて言葉も出ないのだろうか。
「子どもっぽかったですか?」
眉尻を下げてアルノルトを見上げる。――と、不意に右手を取られた。
アルノルトの指先が、口元にかかった横髪を耳にかけてくれる。そしてそのまま頬を一度、二度、優しく撫でられた。
顔が近づく。息がかかる。眼鏡のレンズ越しに黒の瞳がこちらを射抜く。そして、
「――好きだ」
唇が触れ合う距離で告げられた言葉。あ、と思ったときには唇に熱が触れて、すぐさま離れていった。
――好きだと言われて、キスされた。
自分の身に起きたことを自覚すれば、どうしたって頬が赤らむ。目の前でどこか得意げに口角を上げるアルノルトを憎らしく思った。
「破壊力やばいので、予告してください……」
自分から言い出したことだが、素直になったアルノルトの破壊力はすさまじい。普段はきりりと引き締められた表情が甘くとろけるその瞬間は、いつまで経ってもなれない。
――けれど、ダメージを受けたのは私だけではないようだ。すぐ近くにあるアルノルトの顔も赤くなっている。自分から仕掛けておいて自爆するなんて! あぁ、おかしい。愛おしい。
「ラウラ」
思わず笑ってしまった私を咎めるように名前を呼んでくる。こんな至近距離で睨まれたって、もうちっとも怖くない。
頭突きする勢いでおでこを合わせて、私は微笑んだ。
「好きですよ、私も」
そう言えばアルノルトも私も耳まで真っ赤に染め上げるんだから、つくづく私たちは恋やら愛には向いていない。
一体いつになれば慣れるのだろう、とも思う。けれど急がず、私たちらしくゆっくり進んでいきたい。焦る必要はない。だって、時間はたくさんあるのだから。
首に腕を回して目の前の体に勢いよく抱き着く。すっかり私に抱き着かれることに慣れたアルノルトは、いつものように背に腕を回し、ぎゅうと強く抱きしめてくれた。
***
それは、ある晴れた日のこと。
まだ始業の鐘が鳴るより前、調合室で準備をしていた私に、ミラがためらいがちに声をかけてきた。
「ラウラさん、あなたに会いたいと、エッセン村の調合師が。今受付で待たせています」
ミラに言われて、私は受付まで駆け付けた。するとそこで私を待っていたのは、私とよく似た色の髪を持つ一人の少女。
彼女は私の姿を見るなり、赤の瞳を輝かせた。
「エッセン村で調合師をやっています! ここで、王属調合師の方が調合について教えてくださるって聞いて……」
彼女の手がぎゅう、と胸の前で握りしめられる。緊張しているのだろう。
安心させるように、私は努めて柔らかく微笑んだ。
握手のつもりで右手を差し出す。しかし少女は私の手を握るより先に、大きく頭を下げた。
「わ、わたしを、弟子にしてください!」
――その姿に、かつての自分の姿を重ねる。
私もこうして身一つでお師匠に弟子入りした。きっと彼女はかつての私のように、ひどく緊張しているに違いない。
弟子にしてください。言われる側になって、初めて気がつく。単刀直入にそう懇願されるのは、思いの外悪い気はしない。あのときのお師匠も、少しは嬉しく思ってくれていたのだろうか。
口元に笑みを敷いて、自分がそうしてもらったように、優しく少女の言葉を受け入れた。
「どうぞ、入って。まずは私の調合室でお話しましょう」
少女はバッと顔を上げる。そして叫ぶように言った。
「お師匠!」
――お師匠。
まさか、自分がそう呼ばれる日が来るなんて。
なんだか不思議で、くすぐったくて、思わず笑ってしまう。
「あはは! 師匠なんて、大それたものじゃないけど……」
私は改めて少女に向き直る。そして、尋ねた。
「あなたのお名前は?」
「ローラと申します。えっと、あの」
彼女が言い淀んだのを見て、そういえば自己紹介がまだだったと思い出す。
すぅ、と小さく深呼吸をしてから口を開いた。
「私は――」
――私の名前はラウラ。ラウラ・アンペール。出身はエメの村という、小さく閉鎖的ではあるがあたたかな村だ。
年齢、十八歳。職業、王属調合師。将来の夢は、各地の調合師の支援をすること。
勇者様の幼馴染という幸運の元にこの世界に生まれ、この世界で生き、そしてこの世界で命尽きる。
始業の鐘が鳴る。この鐘が目の前の彼女にとって、祝福の鐘となればいいと願う。
――さぁ、新しい一日の始まりだ。
こうしてラウラ・アンペールの人生は、これからも続いていく。
たくさんの新しい出会いと共に。
長い間お付き合いくださり、誠にありがとうございました!




