愛
暴力的かつ、やや性的なシーンが含まれます
「愛しているんだ」
男は遠目に見続けていた少女をついに呼び止めた。少女からすれば藪から棒といった話でしかないが、男の顔は既に浮かれている。
しかし彼との接点など数えるほどしかない少女は戸惑うことしかできない。なにより男の浮かれきった表情に薄気味悪さを覚えてしまう。
恋とは夢見心地で、まるで美しいお屋敷の花畑に包まれたように豊かな気分にしてくれるものだ。けれど、夢では暮らせない。憧れた物語を幾度も反芻しながらも、つらい現実を見つめてきた少女にとってそれはごく自然な解釈だった。
考えなしに語られる愛ほどヒステリックで安っぽいものがないと少女は考えていたのだ。
今までの男との関わりも、今の陶酔したような表情も、少女の思う恋慕とは到底かけ離れたものなのである。
──野花を野花のまま愛せない人と過ごしたって、花が枯れてしまうよりもずっと早く現実に敗れてしまう。
恋慕についてそう考えるから少女は訪ねた。
「あなたは何のために生きるの? 何のために私を愛するの?」
男の答えは、少女や命を美しく尊いものだと言うばかりで要領を得ない。きっと彼は現実に破れ、今は私で夢を見ているのだ。愛されるというのは決して、辛いことや愛し合えない現実を蔑ろにするものではない。彼女はそんな風に考えて、男の興奮を怒りに変えないよう注意しながら断った。
しかし男は少女を理解するどころか、もどかしいと言ったふうに残念がり、あまつさえ少女を叱ってみせた。
「君のためだ」と言って。まるで自分自身だけ正しく、そして許されるとでも思っているかのように。
しかし普段は温厚である少女は『脅し』や『辱め』を向けられることだけは許せない質だった。
両親から受けてきた毒を含む小言は棘となり、両親から離れた今でも影から彼女の胸をじくじくと傷める。
いつとはなく彼女は拒絶という形を持って、他人の御都合から操作をされたり、否定をされたりする事から身を守るようになっていたのだ。
「うるさい!」
だから少女は思わず鋭い声で、ぴしゃりと男を制してしまった。
その男は、にわかにほうけた。そして突如乾いた音が響く。
男が少女を平手で打ったのだ。
男は歯をむきながら烈火の如く怒り、言葉もなく繰り返し彼女をぶつ。
やがて掌は拳に変わり鈍い音が二度三度響いてやんだ。
痛みに耐えかねた少女の謝罪のためではない。口を切った彼女の血におそれをなして止めたのだ。
「君が乱暴だから、僕も乱暴に返してしまった。ごめんね。」
謝っているのか謝っていないのかもよくわからない口頭を爛々とした目のまま繰り返し、腫れ始めた少女の頬をなでる。
(なぜ愛おしそうに撫でるのか。なぜ傷つけた相手に容易く触れられるのか)
(汚らわしい)
(汚らわしい!)
と、そう思う程に彼女の胸から恐怖が溢れて、身体を震わせてしまう。
(私の涙はお前への嫌悪だ! 私の震えはお前への怒りだ!)
(だから私の涙をお前が拭くな! 私の震えをお前が気遣うな!)
──少女は、現実を生き延びる術に長けている。目標を定め、そのために何かを切り捨てる事に長けている。
今ここで諸悪の根源たる男から何をされても自らの命が一番だと目標を決めた今、少女はじわじわと妖しくなる男の愛撫を拒絶することを耐えた。
涙が溢れることを止められずとも、身体の震えを止められずとも……。
死にたいと思っても、死ぬことも痛いことも、やはり恐ろしかったのだ。
「大丈夫、すぐに怖くなくなる。僕は優しいから」
一人舞台で都合の良い台本に酔いしれて、ぬけぬけと男はそう言った。
少女はこの男を今すぐにでも殺してやりたかった。けれど力が及ばない。男の愛撫でこみ上げる吐き気を歯を噛んで飲み込む。
「こんなに熱くなってる、気持ちいいかい?」
指を深く挿し込みそう言う男は、いつの間にか陰部を曝け出していた。
(うるさい。うるさいうるさい。)
少女は、怒りのまま瞼の裏で物語を見る。
力を得て、目の前の男をなぶり殺しにしてやるのだ。徹底的に後悔させてやりたい。だから、そんな物語を見る。
生理的に受ける快楽の高潮とともに少女の憎悪もまた頂点に達したとき、彼女の意識は途絶えた。
◎
少女が男にぶたれてから半時ほどした後「人の死体がある」と通報を受けて駆けつけた警官が見たのは、熟れきって腐れた果実のように丸く腫れた男と、少女のものと思われる下半身だった。
「先輩これ……」
「ああ、信じ難いがこの男は生きているな」
なぶり殺しにされたと思うほうが自然な程の姿ではあるが男は生きていた。浅い呼吸を繰り返し、小さな声でヒュウヒュウと呻いている。
「少なくとも正気があるとは思えんが、災いの前に準備をしなければならん。お前、撮影したら監査の魔術科に連絡して死に損ないを引き取ってもらえ」
「うええ、あんま見たくないですねこれ。てか先輩! これズボン履いてないですよ! うわ一番怪我がひどい」
「だから死に損ないと言ったんだ。とっとと済ませろ!」
死臭とは異なった悪臭が風に運ばれ先輩と呼ばれた男は顔をしかめる。魔術的な素養は平均以下の彼だったが、魔法の感知だけは突出して優れていた。
その彼が、半分残された少女の肉体から感じ取っていたのは悪魔の痕跡だった。
未だ謎の多い悪魔に関するサンプルは貴重な資料となることだろう。たとえ骸に過ぎないものだとしても、これから受けるであろう研究は間違いなく身体の持ち主にとって辱めに違いない。
男はそう考え心のなかで深く頭を下げながらも、手際よく魔導具によって現場の痕跡を回収していった。
綺麗になった現場の隅には魔法の瓶で一輪、花が添えられている。邪を払うその花は遅すぎた事に詫びるように、所在なさげに揺れていた。
悪魔になって初めての等価交換、不死の祝福の代償に不治の呪いです。
え? どう見たって身元不明の男が悪魔の等価交換の貴重なサンプルだった場合にどんなことをされるかって?
さあ、わからないなあ……。まあ、死なないからダイジョーブダイジョーブ




