↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂漠の記憶  作者: 鶴見 遙
PR
2/2

異郷の夕陽

砂漠の発電所での暮らしが始まった。


見知らぬ町、乾いた風、異国の食べ物。そして、言葉も信仰も異なる人々との出会い。


湾岸戦争の記憶がまだ生々しく残る、1990年代初めのサウジアラビア。


そこで目にしたのは、ニュースの画面からは決して伝わらない、人々のささやかな日常だった。


これは、遠い砂漠の国で過ごした、若き日の記憶である。


挿絵(By みてみん)


 その日の午後、上役が声をかけてくれた。

「何もないんじゃ生活できないだろ。町まで行こう」

 ぼくの荷物はまだロンドンにあり、手元には替えの服も日用品もなかった。

 クラヤ発電所のキャンプから最寄りの町、アル・コバールまではおよそ百キロ。

 それでも、そこにしか“町”と呼べる場所はなかった。


 車は砂漠の一本道を進んだ。

 窓の外では、地平線の彼方まで同じ色の大地が続いている。

 道路脇には、かすかに草のようなものが生えていたが、

 それが生きているのか乾いているのかも分からなかった。


 アル・コバールに着くころには、日が傾き始めていた。

 建物の影が長く伸び、街の輪郭が夕陽に溶けていく。

 ぼくはその風景を眺めながら“生活する”という言葉の意味を、もう一度考えていた。


 アル・コバールの町は、昨日いたマニラとどこか似ていた。

 熱気と喧騒、車のクラクション、そして人いきれ。

 けれども、ここには湿り気がなく、空気の中に砂の粒が混じっていた。

 街の中心には巨大なショッピングモールがあり、冷房の風が外の熱を忘れさせてくれた。


 ぼくはそこでシャツやズボン、短パンなどを買いそろえた。

 どれも見慣れない色と形だったが、背に腹は代えられなかった。

 試着室の鏡に映った自分は、少し場違いな観光客のようにも見えた。


 モールの外では、果物をその場で絞って飲ませる店が賑わっていた。

 冷たいマンゴーやオレンジの香りが、砂の匂いに混じって漂う。

 シシカバブの屋台からは煙が上がり、香辛料の刺激が鼻をくすぐった。

 当時の日本にはまだなかった光景だった。

 異国の喧騒の中に、ぼくはようやく人の暮らしの匂いを感じた。


 買い物を終えてモールを出ると、外の光はすでに傾いていた。

 車に戻る途中、遠くの空に夕陽が沈みかけているのが見えた。

 砂漠の空は広く、雲ひとつない。

 その一面が、金色から橙色、そして深い紅へと、刻一刻と色を変えていく。


 湾の向こうには小さな港があり、

 船の影が静かに水面を滑っていた。

 砂の上を渡る風が、どこか甘い匂いを運んでくる。

 たぶん果物屋の搾った果汁か、シシカバブの煙だろう。


 ぼくは立ち止まり、しばらくその光景を眺めていた。

 暑さも疲れも、そのときだけは不思議に消えていた。

 異国の喧騒の中に、確かに“暮らし”が息づいている。

 その当たり前の風景が、なぜか胸に沁みた。


 ――その夕陽を見つめながら、

 ぼくはこの地での長い日々の始まりを、まだ知らずにいた。


 その夜、キャンプの外に出ると、風が熱を含んでいた。

 昼間の名残が砂の上に漂い、遠くの発電所の明かりが滲んでいる。

 空には星がいくつも浮かんでいたが、どれも低く、近い。

 夜の静けさに包まれると、ここが地球の果てであることを、体の芯で感じた。


 翌朝から慌ただしい日々が始まった。


 午前六時、発電所の門を通ると、すでに空は白く輝いていた。

 鉄の階段を上がると、金属の壁が太陽を反射してまぶしかった。

 機械の振動音が低く続き、耳の奥に残る。

 寝不足のまま現場に出て、測定器のチェックを行い、

 ヤシーンという名の現地スタッフと英語で確認を重ねた。

 現地スタッフのヤシーンは、いつも穏やかな笑みを浮かべていた。

「日本では、神様は一人か?」

 そんな問いを、彼は真顔でしてきた。

 ぼくは少し考えて、「多分、たくさんいる」と答えた。

 彼はしばらく黙り、それから笑った。

 

 ヤシーンは多くを語らなかった。

 いつも穏やかに笑い、仕事の指示にも静かに頷いた。

 けれどもその沈黙の奥には、どこか鋭い光があった。

 彼は誰にも媚びなかった。

 上役の前でも、ぼくの前でも同じ表情を保っていた。

 砂漠の風にさらされた石のように、静かで、確かな強さがあった。


 彼が祈るとき、その姿は誰かに見せるためのものではなかった。

 頭を下げ、手を合わせるのではなく、ただ遠くの一点を見つめていた。

 その視線の先に、神がいるのか、それとも自分自身がいるのか、ぼくには分からなかった。

 だが、彼の目の静けさを見ていると、

 この国で生きるということの意味が、

 少しだけ分かる気がした。

 

 ぼくの部下のひとりに、インド人の労働者がいた。

 彼もイスラム教徒だったが、スンニ派だと言っていた。

 ある日、ヤシーンの祈りの姿を見て、ぼくに小声で言った。

「ちょっとおかしいんじゃないの、あれ」

 彼は笑いながら肩をすくめた。

 ぼくはどう返していいか分からず、ただ曖昧に笑った。


 その瞬間、ぼくはこの国の“沈黙の線”を感じた。

 同じ神を信じながら、祈る姿勢ひとつで、互いに距離ができる。

 それでも翌日には、二人は何事もなかったように同じ機器を調整していた。

 彼らにとって信仰は、口にするものではなく、ただ背中で生きるものなのだと思った。

 

 ヤシーンは穏やかな男だった。

 年はぼくより少し上で、仕事ぶりは正確だった。

 後に聞いた話では、彼はシーア派の信徒だった。

 この国ではスンニ派が主流で、彼のような立場の人間は決して多くはない。

 それでも、彼は一度も自分の信仰を口にしなかった。

 ただ、定期的に彼はひとり神に祈っていた。

 彼の目だけがどこか遠くを見ているように感じられた。

 その横顔を見ていると、ぼくは言葉ではなく“沈黙”こそが祈りなのだと知った。


 配線の図面も単位も違い、手探りの連続だった。

 昼には太陽が真上にあり、空気が白く揺れていた。

 食堂ではスパイスの香りが立ちこめ、誰もが疲れきった顔で皿をかき込んでいた。


 夕暮れ時になると、突然どこからともなく声が響き始める。

「アッラーフ・アクバル」――

 それが一日の終わりを告げる合図だった。

 砂漠の風がその声を運び、発電所の配管の影まで染み込んでいく。

 ぼくは作業を止めて、その声をしばらく聞いていた。

 それは祈りであると同時に、この土地の“時”そのもののように感じられた。

 

 夜、部屋に戻ると、熱を帯びた空気がまだこもっていた。

 ベッドの椅子に腰を下ろし、手荷物の中から一冊のノートを取り出した。

 これだけはかろうじて手元に残ったものだった。

 それは日本から持ってきた日記帳だった。

 十代のころから、ずっと書き続けている。

 ここでも、きっとそれが自分を保つ唯一の方法になると思った。


 机の上に置いたスタンドライトの光は弱く、ノートの紙面を淡く照らしていた。

 ペンを走らせるたびに、静かな音が部屋に響く。

「マニラ、スコール、ドバイ、ダーラン、風、熱、光。」

 ただ言葉を並べるだけで、不思議と落ち着いた。

 誰にも届かない記録だとしても、書くことで世界とつながっている気がした。


 ページを閉じると、静寂が残った。

 ぼくは次第に、夜の底へ吸い込まれていった。

異国で暮らすということは、風景や食べ物の違いを知るだけではありません。


そこには、自分とは異なる価値観を持ち、異なる神を信じ、異なる時間の中で生きる人々がいました。


ヤシーンという男の静かな横顔を、今でも時折思い出します。


彼が何を考え、何を祈っていたのか。結局、ぼくには分かりませんでした。


けれども、人間は互いを完全に理解できなくても、同じ場所で働き、笑い合い、日々を重ねていくことができる。


そんな当たり前のことを、ぼくは砂漠で学んだように思います。


あれから三十年以上が過ぎました。


あの町も、あの発電所も、きっと大きく変わったことでしょう。


それでも、夕陽に染まるアル・コバールの街並みと、夜の部屋で開いた一冊の日記帳は、今もぼくの記憶の中にあります。


お読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。