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八月に抱き締める恋


俺たちは、七月に手を繋いだ線路沿いを、並んで歩き始めた。

日影が多いその道には、人通りがほとんどない。


「――結構……怖いんだ……」


ふいにポツリと飛び出した小楠さんの一言に、俺は戸惑った。


「怖い……?俺が?」


小楠さんはうつむいている。


「私は勉強しなきゃだし……

早瀬君は……大学生で、インカレのサークルも入ってて……モテるし……」


「モテねェし!何言ってん……」


「私が、お付き合いしますって答えて……

でも、遠距離みたいなお付き合いで……

結局、私が振られたら……」


俺は何か言おうとした。

が、必死に言葉を探す小楠さんの顔を見て、

言葉はどこかに消えて行った。


「――それで、受験まで落ちたら……

私……どうして、そんなに傷つかなきゃいけないのかな……」


「そんな、仮定の話……」


「仮定?」


小楠さんはキッと俺を凝視した。

その素朴な瞳は、怒りではなく――苦しみと痛みで溢れかえっていた。


「仮定じゃない。

私にとっては、仮定じゃないよ。

――仮定じゃないよ。


仮定だなんて……どうして言えるの?」


――仮定じゃないか。

そんなこと――


俺は息苦しくなって立ち止まる。


「どうすればいいの?

どうすれば――俺は――」


俺は掠れる声を振り絞る。


「俺は――小楠さんを振るとか、振らねェとか、そんなん考えらんねェ。

さっき、小楠さんに振られたと思って、俺……

死ぬかと思ったのに……」


「私は、早瀬君に好きになってもらえるような人間じゃない。」


俺は目を見開いた。


小楠さんが……


――小楠さんが泣いている。


***

小楠さんは、静かに、顔を歪めて、泣いていた。


「さっき泣いたのは早瀬君でも――次に泣くのは、また……」


俺の目の前を、棚橋の顔が通り過ぎる。


「また、私だよ――それで、

――私だけがまた、落ちる。

これは、仮定じゃないよ。


予定だよ。」


「よく分かんねェ……」


俺は髪の毛を掻きむしる。


「俺は、結局今、

振られてんの?


――小楠さんに付き合ってもらえないってこと?」


「……」


小楠さんはうつむいて、かばんの招き猫をいじり、

何か言おうとしている。

俺の胸にキシキシと音を立てて氷が広がる。


俺は氷の海から逃れようと、ただ足掻く。


「何が怖いの?

小楠さんは予定って言うけど、俺にとっては仮定だし――

あり得ねェ仮定だし――」


「戸塚さんの弟が予備校通ってて」


急に話が転がって来る。


「戸塚さんに、早瀬君が予備校に来て、私と会ってるって言ったみたいで……

前にMINEが来た。

――早瀬君と付き合ってるの?って。」


「俺が告白した後?」


小楠さんは小さく首を横に振る。


「もう少し前……」


小楠さんは、思い決めたように俺の顔を見た。


「早瀬君はお散歩サークルに入っていて、早瀬君狙いの子がいるとか……

戸塚さんも早瀬君が気になるから、はっきりさせたいって。


そのときは、どうして早瀬君が、

私に会いに来てくれるかなんて、よく分かってなかったから、

私は付き合っていないし、

小川先生に会うついでに教えてくれてるだけだと思うって、返信した。」


「ハァ?」


俺は開いた口が塞がらない。


「何だそれ。

戸塚さんとか、俺狙いとか、全然知らねェよ。

そのサークルに入ったのは、街に詳しくなって案内できるようになるって言われて……

小楠さんを……」


俺は不意に泣きたい気持ちになった。

が、何とか飲み込んで続ける。


「小楠さんが合格したら――合格してなくてもいいんだけど、

小楠さんを案内して、歩きてェなって思ったから入ったし……」


「それでも……早瀬君は、女子から狙われてるし……」


「だから、俺、狙われてねェし!

サークルは、散歩イベントのときに顔出ししてるだけ。


――でも、


俺、サークルを辞める。」


「え?」


小楠さんが目を丸くする。

苦しそうな目の色に、ほんの少し光が差す。


俺の胸にも、光が差す。


「後、よく分かんねェけど、

俺、モテたことなんかねェよ。


告白されたことも、

付き合ったこともねェし、

童貞だし。」


小楠さんが真っ赤になる。

俺は一縷の望みにすがって、足掻き続ける。


「後は、小楠さんが怖いのは……あ、遠距離ってやつか。

――小楠さんが受験勉強中だから、付き合っても、たまにしか会えねェのは分かってる。


でも、次に会うときは、太田数学三周した後とか、

全国模試の後とか、目標決めてさ……」


小楠さんは再びうつむく。

俺は、マックのフライドポテトを思い出す。


「質問会しよう。また、マックとか……ロッテリアとか……モスとか……」


ハンバーガー尽くしの俺の提案に、小楠さんはうつむいたまま笑顔になる。


「――フライドポテトは頼みそうだね。」


「おー、それは必須。」


俺は一歩だけ、小楠さんに近づいた。


「俺さァ、告白してから今日まで、

夜勤のバイト入れまくって、大学の図書館にこもってて……

もし、俺と付き合ってくれるなら、

会えねェときはそんな感じにする。

で、小楠さんに、ハンバーガーセットを奢るし。」


「アハハハハ!」


俺の必死の、迷走極まる提案に、とうとう小楠さんが笑い出した。


日陰の道に、少し涼しくなった風が吹き抜けていく。


俺はもう一歩、小楠さんに近づいた。

少し手を伸ばせば、届く距離だ。


小楠さんは、ひたすら招き猫をいじる。


「はっきりさせて欲しい、小楠さん。」


俺は、もう一度、俺自身を、

審判の前に引きずり出した。



「俺は、小楠さんのことが好きです。」



小楠さんは、息まで止めた。



「――俺と、付き合ってください。」



小楠さんは唇を噛んでうつむいた。


俺の全身が凍っていくようだ。

大した時間じゃないのに、恐ろしいほど時間が長い。


小楠さんは、招き猫をいじる手を止めて、ゆっくりと口を開いた。


「お付き合いは――――


――――できません。」


俺は、


真っ暗になったのか、

真っ白になったのか、


泣いていいのか、

笑えばいいのか、


浮いてるのか、

沈んでいるのか、


自分でも、顔から血の気が引いていくことが分かる。


チラリと俺を見た小楠さんは、

慌てふためいたように、パッと顔を上げた。


「あ、早瀬君、あのね!

違う、あの……友達というか……

今みたいな感じで……いるのはどうかなって……」


「……友達なんだろ……」


俺は目を逸らす。

慰めなんか――


「だめかな……?

合格発表まで、同じだよ……

太田数学三周目で会うとか、質問会とか……

付き合っていても、友達でも、やることは同じ……」


「違う……全然……小楠さんが彼女だって、言えねェし……」


「あ、そこは、そうだけど、それでいいんだもん……」


小楠さんは、ヒョイと俺に近づいて、「歩こう」というように地面の方を指差す。


俺はノロノロと歩き出す。


――――スルリ


その瞬間、俺は小楠さんを勢いよく見下ろした。


俺の指に、小楠さんが指をそっと絡めてきたのだ。


俺は何かが喉で引っ掛かって、一言も出てこない。


「受験勉強で大変だけど、

私には、

気になる人がいて、

その人は頭が良くて、

応援してくれて、

勉強を教えてくれて、

背が高くて、

かっ……こよく……て……」


俺の顔がワッと熱くなる。

小楠さんは少し呼吸を整える。


「その人のためにも、

受験勉強を頑張るって……

そういうのは、駄目なのかな……」


「……気に……俺……」


舌がもつれて言葉が詰まる俺を見て、

小楠さんはちょっと吹き出した。


「うん、私の気になる人が、早瀬君。」


小楠さんが指にキュッと力を込める。


その小さな指の、

小さな仕草が、

俺に無限の希望と力を

与えてくれるような気がした。


俺も、指に力を込めた。


「付き合ってるとか……彼女とか……じゃねェけど……」


俺は言葉を探す。


「待ってていいって……ことだよな?」


「うん!」


小楠さんは大きく頷いた。


でも、すぐに静かな声で付け足す。


「待たなくてもいいってこと。」


俺は「そんな…」と言いかけたが、

適当な仮定など、今の彼女の前では無意味なんだ。


俺は黙った。

その代わり、指ではなくて、

手をしっかり繋いだ。


小楠さんは、俺が繋いだ手を動かさなかった。


***


日陰を選んで、目的地もなく俺たちは歩き回り、

町の外れの、見たことのない神社の森に行き着いた。


シェシェシェシェ……

上から押されるような蝉の声。


さすがに引き返そうと足を止めた瞬間、

小楠さんの孤独な声が耳に刺さった。



「――もし、誰か好きな人とかできたら、

ちゃんと……教えてね。」


俺の胸に太い木の杭が打ち込まれた。


それは、俺の痛みじゃない。


――小楠さんだ。


この言葉を言わなければいけない小楠さんの痛みが、

強烈に俺に伝わったのだ。


人通りのない、神社の森のそば。


俺と小楠さん。


夏の木陰の石段に吸い込まれる蝉の声――――



―――――



気付けば俺は、


細くて柔らかくて


少し汗で湿った


彼女ではない小楠さんを


無我夢中で


抱き締めていた


――どこかから聞こえた、

車のドアをバンと閉める音にハッとする。


俺の腕にすっぽりと包まれた小楠さんは、

動かず、小さく固まっている。


俺は、腕の中の小楠さんをそっと見下ろす。


小楠さんは、ほんの少し俺を見上げたが、すぐにうつむいた。


そして、うつむいたまま、俺のシャツの胸元をキュッと掴み、

小さくつぶやいた。


「本当なの――


早瀬君は、待たなくていいから。


――明日戸塚さんと付き合っても……いいから。」


「なんで……そこまで言うの……」


「それが、私が、お付き合いを断ったってことだから。

――早瀬君が、自由だってことだから。」


俺のシャツを掴んだまま、小楠さんは続ける。


「――分かってるし。」


「え?」


「――分かってるし……分かってるし……」


「え……?」


小楠さんは、微かに震え、必死に泣くのを堪えている。


俺は、どうしていいのか、

抱き締めたことがだめだったのか、

謝るべきなのか、

何か聞けばいいのか、

もう一度抱き締めればいいのか、


――頭の中に濁流が渦巻く。


俺は、俺のシャツを掴む小楠さんの手にそっと触れてみる。


「分かってるって……何を?」


かすれた声で尋ねる俺。

小楠さんは切なそうに首を横に振りながら、震える声で言う。


「自分が……一番分かってるし……


だから、早瀬君は待たなくてよくて、自由だって――


ね、ハイ、


これで、早瀬君も了解ですね。」


最後はおどけるように小さく言って、

小楠さんは、俺の手とシャツから、自分の手を離した。


――俺の抱擁など、なんて無力なんだろう。

俺は打ちのめされそうだ。


誰が?


何が?


世界の中の、この小さな、気立てのいい女の子に、

こんなことを言わせる?


――他愛ないやり取り、

――罪のないからかい、

――無邪気な比較、

――振りかざす正論、

――避けられない勝敗、

――確実に過ぎる時間、

――聡明すぎる性格……


俺は、行き場のない手を固く握りしめる。


気付けば、小楠さんは、神社の大きな木陰を出て、

無遠慮に降り注ぐ太陽と、照り返す熱気の中から、俺を振り返っている。


俺は蝉の鳴き声に押し出されるように、一歩進む。

小楠さんは、俺に背を向け、前を向いて歩き出す。


ふいに、俺は、

全く違う、高い場所から、

真っ暗な闇の縁に歩いていく小楠さんを見ているような気がした。


***


その瞬間、俺は転がるように走り出し、

手を伸ばして、

小楠さんを後ろから引き寄せるように、思い切り抱き締めた。


「分かった……

分かった……小楠さん、

俺が待たなくていいことは分かったから……」


俺は、小楠さんの首元に顔を埋めた。


「もう、

俺のことで、

これ以上、

小楠さんは、

傷つかないで、

いい。」


抱き締める手に、ただ、祈りを込める。


「小楠さんは、今、

誰とも付き合ってなくて、

早瀬って奴からたまに勉強教えてもらってて、

毎日毎日、

努力して、

受験勉強をしている――


今は、それだけで、

それが――今の俺たちの……

一番なんだもんな。」


俺は、腕をほどき、そっと小楠さんと向き合う。


小楠さんは、うつむいたまま、

ほんの少し笑顔になって、

かばんの招き猫をキュッと握りしめた。


***


俺たちは、駅に向かって歩き始めた。


俺は、小楠さんの手をしっかり握って言った。


「誰も見てないときは、手ェ繋いでもいいよな。」


小楠さんは黙っている。

俺は慌てた。


「あ……駄目?付き合ってねェし……?」


俺の慌てぶりに、ようやく小楠さんがクシャクシャッと笑った。


「早瀬君が決めていいよ。」


「じゃあ、つなぐ。絶対つなぐ。」


俺が熱心にたたみ掛けて手を繋ぎ直したから、

小楠さんはいよいよクシャクシャッと笑う。


俺は、心の中に、温かくて甘い飲み物が満ちていく気がした。


線路沿いに吹く夕暮れの風は随分爽やかだ。


小楠さんにもっと笑って欲しい。

俺は、繋いだ手を大きく振ってみたり、引っ張ったりする。

「エェ?」と言いながら小楠さんが笑う。


――これで、いい。


「小楠さん、腹減らねェ?

マック行かねェ?

質問会もできるし。

――あ、今から予備校行くんだっけ?」


「ううん、今日は予備校行かないから……

質問会したいな。

――早瀬先生に会った理由を作らないと。」


言いながら、自分で笑う小楠さん。


「おー、やったぜ。

上書きできる。」


「上書き?」


「あー、いや、俺、さっき、マックで泣いてたから……」


「エッ?マックの中で?」


「椅子に座って、

なんか、冷えちまったポテトの前で……」


「ポテト……私が……」


小楠さんが遠慮がちに俺を見る。


「私が来なかったから……?」


「あり得ねェし、この年で、マックで泣くとか……」


思わずぼやく俺に、小楠さんはバツが悪そうにしている。


「ごめん……今度、T線に文句言っておくから……

『電車止めたから、早瀬先生が泣いちゃった』って!」


「俺ダセェ!」


通り過ぎる普通電車の走行音と俺たちの笑い声が、

風に乗って小気味よく混ざり合う。


「小楠さん。」


笑顔のままで小楠さんは俺を見上げる。


「二次試験まで、質問会しような。」


「うん!

じゃあ、この後、マックで予定立てていい?

受験まで後何回、質問会できるかな……」


「小楠さん。」


「なあに?」


「――二次試験終わった日に、返事聞かせて。」


回送電車がカタンコトンと通り過ぎる。


小楠さんは真面目な表情で目を逸らし、

回送電車を見送りながら静かに言った。


「うん……


――ごめんね。」


小楠さんの真面目な横顔が、

こんなにも綺麗だとは思わなかった。


俺は初めて小楠さんを見る思いで、目を凝らす。


俺はもう、

どうして「ごめんね」が彼女の口から出たのか、

考えようとは思わなかった。


今からマックで質問会をして、

終わったら、

冷えたフライドポテトを、

俺が、小楠さんに食べさせてあげる。


もう今は、それで十分だ。


***


夏はすぐに過ぎる。


秋が来れば、


――もう、受験の日はすぐそこだ。



異世界ファンタジーです▼当社比夢中度100%⋆。˚✩

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 ※完結まで執筆済み。


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