第一章 絶対零度のシミュレーション
放課後の教室。西日が長く伸びて、使い古された机の傷をオレンジ色に浮かび上がらせている。僕はひとり、理系のワークに残された最後の難問に取り組んでいた。シャーペンの芯が紙を削るカリカリという乾いた音だけが、静まり返った空間に響く。
「……はぁ。アンタ、まだそんな非効率な解き方してるわけ?」
背後から飛んできたのは、氷の礫のような声だった。
振り返らなくてもわかる。幼馴染の一ノ瀬 澪だ。彼女は僕の隣の席まで歩み寄ると、手に持っていたスクールバッグをドサリと机に置いた。その衝撃で、僕のシャーペンの先がわずかに滑り、数式の上に余計な一本線を引いてしまう。
「……一ノ瀬か。これは非効率なんじゃなくて、公式の導出過程を再確認しているだけだよ。基礎を固めるのが結局は最短ルートだからね。」
「ふん、理屈っぽい。そんなんだからアンタはいつまで経っても『モテ』の期待値がゼロなのよ。もっとこう、スマートにパパっと終わらせなさいよ。見てるこっちがイライラするわ。」
彼女はきれいな眉をこれでもかと寄せ、僕を睨みつけた。
一ノ瀬澪。長い黒髪をさらりと揺らし、意志の強そうな瞳を持った彼女は、学年でも一目置かれる美少女だ。だが、僕に対してだけは、幼稚園の頃からずっとこの調子だ。言葉のトゲは年々鋭くなり、最近ではまともに視線を合わせることすら難しい。
僕の心の中で、密かに構築している『澪・好感度シミュレーター』の変数を更新した。
【事象:放課後の接触】
【発言内容:人格否定および能力への疑問呈示】
【視覚情報:不快感を示す眉間の皺、および拒絶を示す腕組み】
【結論:現在の好感度はマイナス273.15。計算するまでもなく、絶対零度だ】
論理的に考えれば、これほど嫌われている相手と一緒にいるのは、お互いの精神衛生上よろしくない。
「一ノ瀬。そんなに僕の顔を見るのが苦痛なら、無理に話しかけなくてもいいんだ。君の貴重な放課後の時間を、僕への文句で消費するのは時間の無駄だよ」
「なっ……!誰が苦痛なんて言ったのよ!私はただ、アンタの要領の悪さが目に余るから、親切心で指摘してあげてるんでしょ!」
彼女が顔を真っ赤にして立ち上がった。その勢いで椅子がガタンと大きな音を立てる。
ほら見ろ、また怒らせてしまった。僕が正論を言えば言うほど、彼女の血圧は上昇し、期限は急降下する。このままでは、幼馴染という細い糸さえ、いずれ破綻するのは明白だった。
「……悪い。今日はもう帰るよ。これ以上、君のストレスを増やしたくないから」
僕は逃げるようにノートを閉じ、カバンに詰め込んだ。彼女が何かを言いかける前に、僕は教室のドアへと足を向ける。
背後から、「ちょっと、待ちなさいよバカ蓮……!」という鋭い叫びが聞こえたが、僕は足を止めなかった。
教室に残された澪は、今に泣きそうな顔で自分の熱くなった頬を両手で抑え、力なく椅子に座り込んだ。
「……バカ。私のほうが、アンタのせいでストレス限界だっての……」
彼女の視線の先には、蓮が座っていた空席がある。
彼女のスマートフォンの待ち受け画面が、通知の振動で一瞬だけ光った。そこには、数年前の夏祭りで、照れながら二人で並んで写った写真が、大切に設定されたままになっていた。




