下篇
人は子供の時に、怖い位尊いものを受け取るのです。それは一生自分の中に在って、育ち、成長し、その後の人生全部を支えます。
自分の中のそういうものを忘れるべきではありません。それを忘れる時、人は現在の自分を導いてくれるものを失うのだと思います。
私と父、そしてお婆さんの三人でプラットフォームに立ち、通過する列車を見守った。列車が近付いて来て分かったが、ディーゼル機関車に牽かれている古い客車は、小さくではあるが皆かなり不規則に揺れていた。上下にも左右にも、ばらばらに振れる様に。今思えば、此れは台車がかなり古くなっていて、その輪軸かそれを受けるベアリングが摩耗していた所為だろうと思われる。サイズの小さな小窓がずらりと並ぶ三等車、不規則に窓が配列されている食堂車、そして窓枠や車体の端にリベットがばちばちと打たれている寝台車などが連なっていた。
大体が私の知っている客車というのはくすんだ艶の無い青色で塗装されているが、此れ等の客車は揃いも揃って茶色で、しかもかなり煤けていた。散々蒸気機関車に牽かれ煤煙を浴び続けて来たのだろう。車体側面の鉄板は至る所に歪んだ折線が走り、或いは不自然に水を含んだ様に膨れていた。カーブや勾配登坂、ブレーキ荷重から来る車体の歪みだろう。中には歪みどころか側板の隅が捲れている車輛もあった。旧二等、今の一等を示す白帯を巻いた車輛もある。本当に昔の車輛だった。私はそれらが構内徐行を守ってゆったりと通過して行くのを、口を開けて呆然と見送っていた。他にどうしようも無い。そして窓の中に一人の乗客も居なければ、全く灯りが点いていないのを見て、
「此れは営業運転じゃない」
と何となく判った。私の期待は、完全に裏切られたのである。警笛を短く一つ残して、軈て此の異様な列車は新見方に走り去って行った。
私は一見して異様な此の列車を見た時に、此れは特別の列車だと思った。だから、特別の列車だから、お婆さんがその帰りを待つ息子さんが乗って帰って来るのに相応しい列車だと思ったのだ。お婆さんの息子さんが此処に帰って来るというのは、特別の事なのだ。特別に嬉しく、目出度い出来事なのだ。だからありふれた普通の列車ではなく、斯んな風に明らかに普通ではない列車に乗って帰って来る、そうあるべきだと思ったのだ。しかしそんな子供の私の確信を無視して、私の期待する『特別の列車』はゆっくりと月田の駅を通過して行って仕舞った。
その時、私は此れ以上無い程明らかに自覚した。私が確信したその事というのは、完全に私の願望であっただけで、全く事実と異なっていたのだと。私は全然根拠の有る事を言っていなかったのだと。此れは本当にまだ子供であった私に、強烈な印象と記憶を残した。その時以降、暫くの間私は簡単にものを喋る事が出来なくなったのを憶えている。自分の願いと、現実。此の二つのものが互いに何の連関も無く、それは全く別次元に存在しているものである事を知った様に思うのである。
私は此の『特別の列車』が此の月田の駅に停車せず、停車してそのどれかの車輛からお婆さんの息子さんが降りて来なかったのを、お婆さんにとても申し訳無く思った。私は何とお婆さんに言うべきだろう。私は心の中で何度も何度も、お婆さんに『ごめんなさい』と謝った。しかしそれは言葉に出来なかった。
「あれは、私が若い頃に岡山駅で見た列車です喃。急行列車に使われてた車輛です」
お婆さんが、矢張穏やかな顔と声で言った。
「はい。昔、本線を走っていたやつですね。古くなったので、多分解体工場に行くのでしょう」
其処に駅員が出て来て、説明してくれた。
「はい。あれは廃車回送の列車です。ずっと前に、古くなって山陽本線から此方の支線にやって来て蒸気機関車に牽っぱられていたんですが、もう使われなくなったので、解体工場に運ばれるんです」
私は言った。
「勿体無いよ。あんなに恰好良いのに。古くて、凄く恰好良いよ」
駅員は微笑んで、
「でもな、僕、もう今時斯んな支線で食堂車付けて走ったって、誰も利用しないんだよ。それに二等だって人は乗らない。皆、一番安い三等にしか乗らないんだ」
と言った。
「じゃあ、二等車を三等車として使えば良いじゃないか。三等の料金で乗れる様にして。壊して仕舞うより、まだ良いと思う」
私の此の返事に駅員は暫く黙っていたが、そのうちに大笑いした。
「いやあ、ぼく、鉄道に詳しいな。ファンなのかい? 実はおじさんもそう思うんだ。でもね。車輛として古いってのも本当なんだ。若しもお客さん乗せて走ってる最中にブレーキが効かなくなったり、天井から雨漏りしたら幾ら三等だってまずいだろう? 寿命って言葉知ってるかい? もうあの車輛も年齢なんだ。だから今迄御苦労様って、感謝して送れば可いんだよ」
私は猶も食い下がった。
「昔から頑張って来た車輛なのに……」
「ぼくは優しいな。でも人間でも、鉄道の車輛でも、古くなるのは何うしようもない。有難うって、見送るしかないんだ」
父とお婆さんとは黙って立っていた。私と駅員との会話を聴いていたのか、それとも全くそれを聴いておらず、過ぎ去って行く列車を見送っていただけなのかは私には分からない。しかし父が小さな声でお婆さんに、
「済みません」
と言い、お婆さんが笑顔のまま首を横に振ったのは、はっきりと聞き、また見た。
「今日は来ないみたいです。私は家に帰ります。ぼくも気を付けて家に帰ってね。元気でね」
お婆さんは優しい声で私にそう言ってくれた。
「お婆ちゃん、有難う」
そう私は返事したが、実はもう一つ、どうしても言っておきたい事が有ったのだ。お婆さんは父に蕎麦の礼だろう、何度も頭を下げていたし、父もお婆さんに何度もお辞儀していた。しかし私は矢張、お婆さんに言えなかった。
しかしその刹那だった。私はお婆さんにはもう此れから後、絶対に逢う事は出来ないのではないかという気がした。また此の月田の駅に来たら、お婆さんは息子さんを待って待合室に座っているのではないかとも思ったが、私はつい今しがた、自分の願望が決して現実に繋がる事はない事を体験したばかりだった。それが私の背中を押した。
「今しか無い。もう、逢う事は無いんだ」
私はそう思って、駅舎の外に出るお婆さんを追い駆け、
「お婆さん。息子さんがあの汽車に乗ってるかも知れないなんて言って、ご免なさい」
と謝った。お婆さんは少しだけ驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔になり、
「いいや。親切に、そう思ってくれたんでしょ? 有難う」
と私に言った。私は直ぐに、
「息子さん、帰って来ると良いね」
と言った。しかしお婆さんは私の此の言葉には返事しなかった。くるりと向こうの方を向いてもう歩き出していた。私は黙ってお婆さんの後ろ姿を見送った。すると、後ろからでよく分からなかったが、お婆さんは右腕で両目を擦った様に見えた。私は私の最後の言葉がお婆さんに更に悪い事を言ったのではないかと不安になったが、でも私は心からお婆さんの願いの叶う事を願ったのだ。その気持ちは通じたと思った。駅舎の方に戻ろうとすると、父が此方を見ている。父は駅舎の出口の所から全部を見ていたらしい。真面目な顔をしていたが、私が歩いて近付いて来ると、ほんのりと笑って、黙って頷いた。私は私が間違っていなかったと信じる事が出来て、父にしがみ付いたのだった。
帰りの姫新線の各駅停車の中で、父はとても落ち着いた顔をしていた。私は父の機嫌が良いものと判断した。それで、
「お父ちゃん、月田に連れて行ってくれて、有難う。僕、楽しかったよ」
と礼を言った。すると父は、
「そうか。良かったな。儂も御前と一緒に此の旅行に来る事が出来て、良かったと思ってるぞ」
と言った。父は私の方を見ずに、窓の外を見詰めながらそう言った。
私は子供ながらに、父が此の時本当に私に言いたかった事は何なのだろうと考えた。無論、父は嘘を口にした訳ではない。心にも無い事を適当に喋った訳ではなかった。しかしその言葉は、真実の結論だけを述べたもので、何故その結論に達したかの説明が一切省かれていたのだ。それはその時の私にも分かった。だからその結論に至る経緯を私は知りたくて堪らなかったのだ。あのお婆さんに逢ったから? だから此の旅行は良かったと思うの?」
仮にそう父に問うたとしても、父は何も返事しないか、精々が、
「ああ、そうだ」
と返事する位であろう事は、簡単に予測出来た。
「全部言わないのが、良いのかな」
私はそんな風にも思った。そしてあまりしつこく訊くと、父が怒り出すという事も察しがついた。父は斯ういう言葉寡なの時、あまり人と会話する事を喜ばないのだ。
「黙っていても、ちゃんと解れ」
といった感じなのである。しかしそのうち、私は父が如何に考えているのかを此方から想像するのが面倒になって来た。そして不図思った。
「あのお婆さんは、息子さんに逢えるのだろうか?」
私は今から父と一緒に家に帰る。そしたら母は家で夕食の料理をしながら忙しく働いていて、私達の顔を見て、
「おかえりー、愉しかった?」
と笑顔で訊くのだ。私が、
「うんっ! 面白かった!」
と返事し、父は黙ったまま笑顔で母に向って頷くのだ。そうに決まっている。それ以外の状況は考えられない。そして其処迄考えると、あの月田の駅で息子を待っていたお婆さんが、家に帰ってもその息子がおらず、息子と楽しく話する事も出来ないのだという事が、初めて私の中で実感として湧いて来た。息子に逢いたいだろう。それに、それに……若しかして、他に子供は居ないかも知れない。だったら、あのお婆さんは独りではないか。そんな、家に他に誰も居ないなんて、そんな事が此の世に有るのだろうか。家族が、息子が居るのに、居て何処かに住んでいるのに、お母さんがその子が戻って来るのをあんな風に待っているのに……いや、何故、どうして待たないといけないのだろう? どうして、家族なのに、一緒に住めないのだろう? 私は泣き始めた。そして泣きながら父に問うた。
「お父ちゃん、あのお婆ちゃん、家に他に子供、居るのかな?」
父は私の方を見ずに、かといって今度は窓の外を見るでもなしに、
「居るかも知れんし、居らんかも知れん」
と言った。私は一層泣き始めた。すると父が言った。
「御前にはいつも、お父ちゃんとお母ちゃんが居るな? だから神様に感謝しろ」
私は泣きながら、うんうんと何度も首を縦に振った。
「あのお婆さんに他に子供が居るか居らんか、どっちか分からんけどな、でも居らんかったとしても、それは仕方の無い事なんだ。御前は今日、良い勉強をしたんだ。お父ちゃんが、此れは良い旅行だったと言ったのは、それが理由だ」
私はその後、まだ暫く泣いていた。姫路で父と一緒に駅蕎麦を食べる迄は泣いていたと思う。その後家に辿り着く迄の私の記憶としては、姫路駅の駅蕎麦の麺が、蕎麦ではなくラーメンみたいな麺だった事だけである。食べながらその事を父に言ったら、父が、
「文句が有るなら、食べんで可い」
と言い放ったので、
「ごめんなさーい」
と謝って、一本も残さず麺を食べ切った。後は新快速に乗って、家に帰るだけだった。
しかし此の時の旅行は、私にとってどんなに大きな想い出になった事だろう。正確に謂うと、想い出は想い出なのだが、私がその意味を全部分からないままに、体験だけが先に与えられる想い出になったのである。その後私は随分様々な機会に、事有る毎に此の月田への旅の事を思い出した。そして思い出す度に何か新しい意味が其処に加わって行くのを実感した。判って来るのだ。あの時のお婆さんの仕草の意味、言葉の真意、父が何を思ってそういう表情をしていたのか、また蕎麦を買って来てお婆さんに殆ど無理に渡した事、あの私の口を塞ごうとした父の掌、そういう事が次々に新しく理解出来て来るのだった。私は今迄の自分の人生で、一度の旅が私個人にとって此処迄深い意味を持ち、尽きる事の無い味わいと感謝を生んでくれるといった例を他に知らない。間違い無く、それは私にとって最も尊い体験だったのだ。あのお婆さんに感謝する。
そしてあの旅に一緒に行ってくれた父に感謝する。子供の私は何という尊いものを貰ったのか。それは私が大人になった今も私を包み、守ってくれている様な気さえするのである。
私はその後、もっと大きくなってから一度だけ月田の駅を訪ねた。以前来た時でも駅前に一軒の店も無かった場所なのだ。しかし此の時はもっと寂れていた。最早駅前に建物が無い。皆無である。此れでは何故此処に鉄道の駅が在るのか、誰も分からない。
しかし駅の小さな待合室で私は見た。それは一枚の写真が額に入れられて飾ってあり、それは嘗て此の駅を終着駅にしていた大阪発のあの急行みまさかの写真だった。今はもう日に数える程の普通列車が停車するだけの閑散とした駅になっている。町の衰退も隠し果せるものではない。そんな月田の駅も嘗ては大阪からの急行列車の終着駅だったのだと、それを誇らし気に伝える意図からなのだろうか。私は切ない想いで胸が一杯になった。
あのお婆さんはもう生きてはいまい。それだけの歳月が最早経っている。あのお婆さんとの人生の接点はただあの時だけ、あの偶然の一瞬だけだったのだ。そしてその縁は永遠に失われた。それは切なく、悲しい。しかし、にもかかわらず私はとても豊かな気持ちだった。そしてその自分の豊かさが、自分で努力して獲得した、勝ち得たものではなく、絶対にそうではなく、私が何もしないのに一方的に与えられたものである事を此れ以上無い程明瞭に自覚した。すると、堪え難い感謝の念が溢れて来た。そして此の感謝は、私にあっては瞬時に落涙に繋がるのである。
最早あのお婆さんは居ない。居ないのだ。しかし私にはまだ年齢の行った父が家に居る。母は家で父の介護をしている。私は父の介護を手伝うのだ。何処にも遊びに行かずに手伝うのだ。とてもとても大きなものを、私は遥か昔に父から貰っているのだから。
(了)
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