中編
子供の頃というのは他人に出逢う時でもあります。自分と全然異なる、想像もつかない条件環境で生きている人間に白紙の心の自分が出逢うのです。考えてみれば、それは凄い事ではないでしょうか。怖い程です。
しかしそれが子供の裡に大事なものを創って行くのです。私は、真実の純粋はそういう体験に拠って深められるものと信じます。折れて砕けるのではなく。
「お父ちゃん、本当に此の先にまだ町なんてあるのかな?」
私はすんでのところで父にそう問い掛けそうになったが、口には出さなかった。言えば、
「そんな所に来たいと言ったのは御前じゃないか!」
と言われる事は目に見えていたからである。
うねりながら線路は続いていた。私は『線路は続くよどこまでも』の歌を思い出したが、どうも違うと思った。此の歌の線路というのは、私の中では何処迄も平原を真直ぐに続く感覚だったからだ。ところが此の路線はうねうねと蛇の様に曲がりくねっていて、今にも何処かの山の裾野で終点といった感じだった。私は、
「謎めいた月田への道は険しいのだ」
などと思っていた。
中国勝山を過ぎると、愈々(いよいよ)次が問題の終着駅、月田だった。既に車内は私達の他に殆ど客が居ない。ほぼ全員が中国勝山で降りて仕舞ったのである。私は最後尾車両の一番後ろ、デッキの部分に居て、流れ去る左右と後方の光景を交互に、必死になって観ていた。時刻表には何も書いていなかったが、若しかしたら月田の駅から分岐する、今はもう廃止された支線があったかも知れないからだ。そういう支線があったからこそ、急行みまさかは大阪から月田迄来る事になっていたのかも知れない。此れは子供の私の仮説にしては上出来で、かなり根拠の有るものの様に思えた。しかし実際には言った様に、単に列車運用の為に月田を終着駅にしただけなのであり、月田から出ている支線などというものは今も昔も無い。無論、私は左右の乗降口の窓の外に何一つ、それらしいものを見出せなかった。列車の減速がはっきりして来て、終着月田の車内放送が流れた。私はどきどきしながら、デッキから低いホームに降りた。
到着した月田の駅には、それこそ何も無かった。
「此処に、何が有るというんだ」
別に父は怒ってはいなかったが、心底不審な顔をした。
「いや、何も無いと思う。何で急行が此処を終着駅にしていたのか不思議だったんで、来てみたかっただけなんだ。ごめんね」
私がそう言うと父は呆れた様な顔をしたが、何故か次の瞬間、とても優しい顔になった。そして、
「そうか、そうか。まあそういう事もあるだろうな。御前の想い出になれば、それで可いさ」
と言った。若しかして父も子供の頃、同じ様な経験が有るのかも知れない。此処迄の汽車賃は結構しただろうが、それでも絶大な出費とまでは行かないだろう。何せ三等なのだから。
私はプラットフォームの端から端迄歩いてみた。そして構内のポイント用の転轍機が駅舎改札口付近に有るのを見て触りたかったが、遉にやめた。此れを触ったら事件になる。子供の私にもそれ位は判っていた。そのうちに私達を此処迄運んで来た急行みまさかは、折り返し普通列車で中国勝山方面にしずしずと出て行った。後には、都会では絶対に経験出来ない静寂が残った。
さて、困った。余りにも何も無さ過ぎる。此れでは父に申し訳が立たない。申し開きをする必要は無いのだが、それにしても私の恰好がつかない。此れでは、私が完全に馬鹿ではないか。帰りの列車迄まだ二時間有るのだ。父は無言で私の後ろに従いて来ていたが、一度大きな伸びをして両腕を上げ、
「駅前に出てみないか」
と言った。駅前には何か店があって、せめて何か食べられるかも知れない。
「うんうん、行こうよ」
そう言って私は父を連れ出す様に駅前に出た。しかし此れがまた凄かった。一軒の店どころか、抑々(そもそも)家が無い。小屋の様な建物が二、三在ったが、皆普通の民家と謂うよりは何だか物置といった感じで、人の気配がしなかった。日曜日の所為だろうか。
「うーん」
父は唸って暫くした後、
「此れでは、母さんに土産も買えんなー」
と言った。本当にその通りだった。しかし謎は深まった。何故斯んな駅が大阪からの急行列車の終着駅なのだろう。家も人も無いではないか。従って、客もいないではないか。駅前にバス停が有るが、発車時刻表を見ると日に三本。最後の手段で、私は駅員に直接訊いた。
「駅員さん。急行みまさかは、どうして此の月田駅が終点なの?」
駅員は不思議そうな顔をして、
「それは僕にも分からない。昔、みまさかが準急だった頃から此の月田迄来ていた。だからその頃にはそれなりにお客さんの数が多かったんじゃないかな」
「どうして少なくなったの?」
「いやあ、それは分からないよ」
私は待合室のベンチに座り、父に謝った。
「お父ちゃん、ご免なさい。此処、本当にただの田舎の駅なだけみたいだ」
私がそう言うと、父は噴き出した。
「お父ちゃんは最初からその心算だったぞ。それを承知で来たんだ。だから謝んな。謝らんで可い」
私は父が怒らなかったのでほっとした。すると直ぐに、隣のベンチにお婆さんが一人座っているのに気が付いた。私は何とか別の話題を作りたかったのだと思う。私は此のお婆さんに話し掛けた。
「お婆ちゃん、汽車待ってるの?」
「ああ、はい」
「何処迄行くの?」
「いや、何処にも行かんです」
私が意味が判らないという顔をして黙っているとお婆さんは、
「汽車の着くのを待っとるんです」
と言い、更に続けて、
「息子が帰って来るかも知れんのです」
と言った。
此のお婆さんは子供の私にも敬語を使ってくれた。私はそれがとても嬉しかった。
「知れないっていうのは、若しかしたら帰って来ないかも知れないの?」
「へえ、夏の間に一遍だけ帰るって事でしたから、いついつ帰って来ると決まっている訳じゃないんです」
「でも、それなら帰って来る日を訊いて、その日に待ってれば良いじゃない」
お婆さんは微笑んで、
「いや、いつ帰って来れるかは息子にも分からんです。あんまり訊くと、怒りますしな」
私は何故その息子さんというのが、自分がいつ家に帰って来る事が出来るのか分からないのかが不思議で、またそれを訊いたら何故その息子さんが怒るのかがもっと不思議で、何も返事が出来なかった。答えに困ったので、
「ふーん」
と返事しておいた。そして暫く黙っていると、別の事を訊いてみたくなった。
「お婆さんは此の近くに家が在るの?」
「はい。と言っても、私の脚で歩いて三十分程はかかりますがな」
「どうして、斯んな所に住んでるの?」
「それは、昔から私の家が此処に在るからですがな」
「ふーん」
私は、此のお婆さんが私の事を、街に住む金持ちの息子だと思っているのではないかという気持ちがちらと頭に浮かんだが、それでも私がそう思っている事を知られたくなかった。そしてまた、
「ぼくは此処に何しに来たの?」
と問われるのが怖かった。此処に私が来た本当の理由は、実にふざけていて恥ずかしいものだという気がしたからである。しかし実際には、お婆さんは私にそんな問いを発しなかった。お婆さんは半分寝た様に静かに、穏やかに私の質問に応じていただけだった。
「お婆さんの息子さんって、今幾つ?」
「もう三十過ぎです喃」
「僕のお父ちゃんよりも少ないね。でもどうしてその息子さんはお婆さんと一緒に此処に住んでないの?」
「此処は、働く所が無いですから。だから街に働きに行ってるんです」
「ふーん」
「ぼくには、まだ一寸早いですかな? 斯ういう話は」
そう言って、お婆さんは私を見てにっこりと笑った。駅舎の入口付近で『じじじっ』という音がしたので私はそちらの方を振り向いた。どうやら蝉が入り込んで来たらしい。
「あっ、あれ、蝉じゃない?」
「蝉です喃。ぼくには珍しいですかな?」
「うーん。家の近くにもいっぱい居るけど、でも捕まえた事はまだ無いよ」
「蝉は、噛みも刺しもせんから、幾らでも捕まえられるでしょ?」
「うん。でも、何だか可哀想で……」
「蝉が?」
「うん。お父ちゃんが言ってたけど、蝉って凄く短い間しか生きられないって。だからそのままそうっとしておくのが良いんだって。だから僕は捕まえないんだ」
お婆さんは私の横に立つ父の方を見て、微笑んだ後、父に軽く頭を下げた。父もそれに応じた。父は私とお婆さんとの会話を、ずっと横で黙って立って聴いていた。時々父の顔を見ると、父はとても厳しい顔をしていた。しかしそれが何かに怒っている顔でない事は、私にもはっきりと分かった。私が調子に乗って、子供のくせに大人のお婆さんに遠慮なく喋っているのを怒っているのではないのだ。父は厳しい顔をしていたが、其処には、特に目頭の辺りに、とても悲しそうな何かが混じっていた様に思う。
「そうですな。蝉はそうっとしておいてあげるのが、一番良いです」
そのうちに、父は駅の外に出て行った。私は気になったので、駅舎の出口の壁の陰に隠れてこっそりと父の後を目で追った。父は駅の外に出ると何かを探している様に見えた。父は小さな駅前通りを折れて、私を駅に残したまま道路沿いに見えなくなって仕舞った。私は父に置き去りにされたなどと思う程に小さくはなかったので、暫く此処で待ってろという意味なのだろうと大人しく待っていたが、そのうちお婆さんは小さな鞄から封筒を取り出し、その中に入っていた便箋を読み始めた。私はその様子を見ていて、
「息子さんからの手紙?」
と尋ねた。お婆さんは、
「はい」
と返事してまた読み始めた。便箋は二枚しか無く、お婆さんは二、三回繰り返して読んでいた。
「ねえお婆ちゃん、息子さんに逢いたい?」
私はお婆さんにそう訊こうかと思ったが、それは悪い事の様な気がして、その言葉を呑み込んだ。断っておくが、はっきりと悪い事だと判断して遠慮したのではない。何となくぼんやりと、それこそ私が此処月田に来た動機と同じ位はっきりとしない『雰囲気』だけで、私は問うのやめたのである。此の時の事を思い出すと、私は今でも子供の、ものを感じる感覚の力は凄いと思うのだ。子供はそれをまだ言葉で説明出来ないだけなのだ。それを表現する語彙と文法、文章を自分の裡に持っていないだけの事で、感じ考えている内容は大人とそんなに違わないのだ。私が横でもじもじしていると、お婆さんは、
「私が勘違いしているのかと、時々読み返してるんですがな」
と、微笑んで言った。私が黙っていると、
「やっぱり、今年の夏に一回帰るって書いてあります」
と続けて言った。私は我慢出来なくなり、
「ねえ、自分のお母さんが斯んなに待ってるのに、どうして息子さんは帰って来ないんだろうね。僕なら、直ぐに帰るけどな」
と言った。
私は別に嘘を言ったつもりは無かった。本心だったのだ。しかし本当の本当は、それは嘘だった。嘘というのは、私がその時口にしたかったのは、本当は、
「息子さんが早く帰って来ると良いね」
だった。だが私はそうは言わなかった。言えなかったのだ。私はお婆さんと会話の受け答えを続けたかったのではなく、お婆さんを慰めたかったのだ。私は自分が現実に口にした内容に何らの興味は無かった。此のお婆さんを励ましたかっただけだった。しかし、お婆さんは私の言葉の後には何も言わなかった。黙ってまた手紙を封筒に入れ、無言でそれを鞄に蔵った。其処に父が戻って来た。手に何かお土産みたいなものをぶら提げている。私は家族への土産かと思い、それが何かを知りたかったが父は直ぐに、
「お婆さん、息子の相手になって下さって有難うございました。失礼ですが、此れを」
と、何処か開いていた商店で買った蕎麦を束にしたものをお婆さんに差し出した。
「いえ、斯んな事をして頂いては、此方が困ります」
「しかし、息子の夏休みの良い想い出を作って頂いたのですから。今日、此処迄来た甲斐が有りました」
そう言って、父はかなり深く頭を下げて半ば無理矢理、お婆さんに蕎麦を受け取らせた。
私はその様子を見ていたが、父がとても丁寧に言葉を選んで話をしていたので、若しかして此のお婆さんはとても偉い人なのではないかと思った。しかし直ぐにそんな事は忘れて仕舞って、プラットフォームに出てみると、近くで踏切の警報機の音がする。踏切は見えないのに、警報機の音だけがするのだ。何処に踏切が在るのだろうとホームからのり出して上り下りの両方を眺めた。すると中国勝山方面から見た事も無い、変わった列車がやって来るのが見えた。駅員が、
「おーい、ぼくっ! 列車が通るから、もっと内側に入って!」
と私に注意したので、私は飛び退いて白線のずっと内側に下がった。先頭はよく見掛けるオレンジ色のディーゼル機関車だったが、その後方に連なる客車が私の知らない客車だった。カーブを曲がって来るのでそれがよく見えた。私は他の事を忘れて、一遍に興奮して仕舞った。あれは何だろう、何という列車だろう。斯んな田舎の支線には、斯んな客車の列車が走っているのだろうか。
遠目に見た五、六輌の客車は、皆一様に古かった。今時の最新型の優等車輛ではなく、子供の眼にも明らかに古く傷んでいた。しかしそれが何故か私には、特別な、異様な、普通の客は乗車する事が出来ない、格の違う高級な列車の様に思えたのだった。此れは本当に、何故その時私にそう見えたのか、そう思えたのかを今でも説明する事が出来ない。
私は駅舎の中に飛んで入り、父親に、
「お父ちゃん、変な列車が来る! 一緒に観て!」
としがみ付き、父親をプラットフォームに誘った。そしてお婆さんにも言った。
「お婆ちゃん、息子さん、あの列車に乗ってるかも知れないよっ!」
此の時、父が私を厳しい表情で見詰めた。いや睨んだと謂うべきだろう。しかし私はそれに気付いただけで、最早接近して来る此の奇態な外観の列車に全注意が行って仕舞っていたので、何も怖くはなかった。父の右手が動いた。その先は多分間違い無く私の口を塞ごうとしたのだと思う。しかしお婆さんが笑顔で、
「そうですか。どれ」
と待合室のベンチから腰を上げて立ち上がったと同時に、父の掌は私から遠ざかって行ったのだった。私は何故かその瞬間の光景を、父の右の掌の動きを、その後永く完全に明瞭に記憶していた。
ブログには他の作品と、日々更新の手紙を記載しています。
https://gaho.hatenadiary.com/