上編
子供の頃近くの踏切で見た、どこだか全く判らない、知らない駅名。何とも魅力的でした。私はそこに自分の憧れを勝手に積み上げました。
子供の時願いが叶って嬉しかったのは、若しかしたらその願いの期間がとても長かったからではないでしょうか。中々叶わなかったからではないでしょうか。
嘗て運行されていた国鉄の急行みまさかは、京阪神と中国地方の山間を結ぶ列車だった。
子供の頃の私が踏切で通過する列車を眺めていると警報機が鳴り、複々線の下り外側線にランプが点いて、彼方大阪方に何となく肌色と朱の色が見える。そして、
『がーーーーっっ!』
という、電車よりもずっと大きな騒音を立てて神戸方に走り去って行くディーゼル急行の中の一本だった。ディーゼルエンジンが激しい唸りを立てている所為か、非常に速い速度で走っている様に見えた。
その頃はまだ踏切で列車を観ていて楽しい時代だった。東に向かう昼行の優等列車は新幹線の開通で完全に絶滅して仕舞っていたが、西行きはまだまだ健在で、朝から午前中にかけては九州から関西圏に戻って来る夜行列車がその優雅で颯爽とした姿を幾らでも見せてくれた。私はそれを楽しみに、しばしば日曜日の朝になると踏切に見物に行ったのである。何しろまだ子供だ。小学校の二年生か三年生。逆立ちしたって、お年玉を五年貯めたってそんな遠くには旅行出来ない。況してや寝台列車など夢のまた夢である。私は指は銜えていなかったが、指を銜えて踏切でそれらを眺め、子供の夢を遠くに運ぶそんな列車に心を奪われていたのである。同じ想いを経験した同世代の人間には、解説無しでその気持ちを判って頂けると思う。しかし九州方面への『大物』に混じって、割合に近所に行く優等列車もあった。此れなら一、二年の貯金で何とか手が届く。急行みまさかはそんな地味な列車の一本だったのである。
お金が無い小学生が存分に楽しめる旅。それは時刻表を見る事に尽きる。もう完全にそれに尽きるのだ。本当に旅行に行くお金が無かったので、小学校低学年男子の私は時刻表の上で徹底的に旅をした。もうそれは涙ぐましい程である。私は行った事も無い旅先の光景を無暗に想像した。夢で何度も終着駅を見た。だから大人になってから初めて行った駅であるのに、その駅に着く前からその駅の記憶が先にあって、夢の中のその駅の光景と現実のそれとの差に幻滅する事を繰り返した程である。時刻表が、いや遊ぶ金が無いという現実が、どれだけ少年の心の想像力を豊かにするものかという、此れはまたとない証明ではないだろうか。子供には可哀想であるが、その教育的効果は私の身に歴然として明らかである。だから私は少年の頃に寝台列車で遠く迄旅する事が出来なかった事を此れ以上無い程残念がると同時に、その事をそれで正しかったと、私の為になったのだと、今納得しているのである。
地図も徹底的に見た。大時刻表の先頭付近に有るあの鉄道地図である。あれだけ見てよくページに穴が開かなかったものだ。だから金の無い鉄道ファンの子供程、よく駅の名を知っている。此れは本当は、
「おおっ、凄いねー、偉いねー」
或いは、
「大したもんだね。好きなんだね」
などと気楽に褒めてやるべき事ではなく、憐れむべき事情なのである。そんな風に暮らしていた私は、或る日踏切で変わったものを見た。
がーがーと騒音を立ててディーゼル急行が西に向かう。相変わらず、見ていてもそのエンジンの必死の音が楽しい。その先頭車両の行先表示板には『月田』と書いてあった。走り去る急行列車の側面の列車名称にははっきりと、『急行』『みまさか』と書いてある。急行みまさかというのは津山から更に西の奥の中国勝山の方に行く列車ではなかったか。しかし月田というのは聞いた事の無い駅名だった。そんな駅があの方面に有っただろうか。そう思った私は家に帰って早速時刻表で調べ始めた。調べてみると、中国勝山駅の西隣に、確かに月田という駅が在る。しかし今迄鉄道雑誌でも見た事の無い駅名だった。何の話題にもなった事が無い。月田の隣の中国勝山は大きな駅でそれなりの街の規模も有る様だったが、私は急行みまさかが何故其処を終着駅にしているのかに疑問を感じた。
「その、月田という駅には何が在るのだろう?」
今にして思えば、此れは単純に列車運用上の必要性からであって、その月田駅で折り返して普通列車として運転する事だけが目的だったのに違いない。そういう列車の運用は全国に多々有った。別に、大阪から直接に月田迄お客さんを運ぶのが目的な訳ではないのだ。しかしそんな事が子供である私にどうして想像出来よう。私は謎めいたその行先への想いを、滅多矢鱈と膨らませた。またちょうどその頃、テレビのドラマで金田一耕介のシリーズを毎週やっていて、私や同学年の友人達はそれに夢中になっていた。それが此の謎めいた終着駅への空想を不自然に膨張させたのだ。
「一体何故、そんな場所を終着駅にしたのだ」
「国鉄は、その月田に何か面白いものが在るのを、わざと秘密にしているのだ。乗って行った人間にだけ、それが分かる様に……」
子供の想像力というのは果てしないものだ。其処に謎が加われば子供はもう完全にその虜となり、夜寝る前にも布団の中でその事を想い続ける様になるのだ。実際、此れは覿面だった。私は社会科で配布された日本地図帳の中国地方の中国勝山の近辺を何度も見た。終いには虫眼鏡で地図帳のその月田近辺を執拗に眺めまくった。
「おい、御前何をしとる」
家で父親が不審そうに私に尋ねた。
「地図帳を詳しく見てるんだ」
「虫眼鏡で見な見えん様な町を探しとるんか?」
「うん、小さな町」
暫くして父は私に言った。
「うーん、何処の町か知らんが、虫眼鏡でしか見えん様な町なんか、地図帳には描いてないと思うぞ」
「見たいんだ」
「あんまり近目してたら、眼ぇ悪ぅするぞ」
私は夕食に呼ばれたがそれでも調べるのを止めなかったので、父にも母にも怒られた。そして早々に食事を済ませ、また続けて地図を調べ始めた。父は私に尋ねた。
「何処なんだ? 何処を探してる?」
「月田」
此の時、父の表情がなくなった。父の顔の動きは止まったのだった。それは勿論、父が月田という町を知らなかったからだ。知っている筈が無い。しかし私にはそれが何とも謎めいていて、何か父が私に重大な事を隠していて、その謎が月田という町に関係している、その謎が月田の町に隠されている様に感じられたのだ。
「とうとう、月田という町の存在に気が付いて仕舞ったのか」
とでもいった感じなのである。完全に金田一耕介シリーズの観過ぎである。その影響をまともに受けて仕舞っている。しかし、子供は自分の判断が正常なものか誤っているものかを照らし合わせる基準を持っていない。それがまだ自分の内側に構築出来ないでいるのだ。何しろ新聞も読まずテレビのニュースも見ず、大人と話す事なんて学校の先生と親以外には居ないのだから、趣味の分野ならまだしも世間常識としての知識を仕入れる場所も機会も無いのだ。冷静に考えてみれば此れは全く無理の無い事なのである。
私の想像は愈々(いよいよ)膨らんだ。何度まだ見ぬ月田駅を夢に見た事か。あまりに何回も月田駅の夢を見るので、私は例によって本当に月田駅を訪問する前に、既に月田駅の駅舎、プラットフォーム、駅構内全景,到着直前の窓外の風景まで自分の中にイメージ出来て仕舞っていた。此れが子供の純粋な処、恐ろしい処なのだ。子供というのは其処迄やるのだ。知識が無いという事は即ち想像に歯止めをかける限界が存在しないという事なのだ。
「姫路迄、新快速にしよう」
父は私の願いを聞き届けた。即ち私と二人で月田駅迄行ってみる事を承知してくれたのである。無論経費父持ちで。私は一銭も出さないで可いのだ。しかし父の経費節約は徹底している。確かに急行に乗れば乗車券の他に急行料金が要るが、新快速なら乗車券だけで済む。姫路から姫新線に入る分はやむを得ないにしても、姫路迄は全く同じ山陽本線を走るのだ。距離で料金の違う急行料金を可能な限り安くする為に、父は斯く言ったのだろう。
「そんな……みみっちいよ。お父ちゃん」
「嫌なら行かんぞ」
スポンサーの要求は絶対だ。私はその指示に従わざるを得なかった。神戸駅迄の東海道本線の複々線外側、詰まり特急や急行列車が走る線を通って、並み居る駅々を『がーーーーっっ!』という騒音と共に通過したかったが、その夢は脆くも潰えた。しかしまだ見ぬ謎の月田駅への訪問の希望は燈っているのだ。私は気を取り直して、旅行当日迄月田駅を繰り返し夢見る事に決めた。
出発当日、父と私とは勇んで最寄りの国鉄の駅から西行きの普通列車に乗った。勇んでいたのは私独りだが、滅多に遊びに出ない父もそれなりには楽しんでいたと思う。何しろ我が家は、子供三人親二人とお婆ちゃんの一家六人が、さして大きくない会社に勤めている父の給料に頼って生きていたのだから、此れは仕方が無い。父は銭湯上がりに絶対に私に飲み物を買って飲ませてくれる事をしなかった。諸他一切、絶対に私に物質的な贅沢はさせてくれなかったが、父自身も殆ど、いや全くと言っても可い程に遊ぶという事をしなかった。だから父は決して責められるべきではない。例え私が顔を歪めて何度請願しても銭湯上がりにフルーツ牛乳を飲ませてくれなかったとしても、それでも矢張父の方針が正しかったのだ。それは勿論納得している。そんな事情であったから、父も母も休みの日に何処かに遊びに行くという事が無かった。従って父も此の得体の知れない行先の旅を楽しみにしていたに違い無いのだ。
日曜日の朝の明るく気持ちの良い陽射しの中を、新快速は快調に姫路迄飛ばした。途中須磨の海岸がとても綺麗だったが、私の頭と胸の中は最早完全に謎の町月田への想いで一杯だったので、何も目にも耳にも入らない。此れは集中力というものだろうか、それとも何かそれとは違う別のものだろうか。私は今でも此れを時々悩むが、どちらにせよ子供の私の心を全て奪う程の魅力に憑りつかれ、私は吾を忘れていた。
「なあ、御前。月田なんて駅を、何で知ったんだ?」
「踏切で列車が通るの観てたら、急行で月田行きってのが有ったんだよ」
「ほう、まだ目が悪くないなあ。走っている列車の行先表示板がちゃんと読めるんだからな。そういうの、動体視力って謂うんだぞ」
「別に目が良い悪いなんてどうでも可いよ」
父は笑って言った。
「そんな事はない。眼は大事なんだ。お父ちゃんを見てみい。眼鏡かけたら見えん、外したら見えん。斯うなってからでは遅いぞ」
「ねえ、お父ちゃん。お父ちゃんは何処かに遊びに行きたいとは思わないの?」
「ああ、儂は家で御前ら家族と一緒に居るのが一番良いからな。行くとしたら、普通は自転車で弁当持って何処か近くに行くのが良いな」
「ふーん」
今想えば、父との会話はとても大切なもので、何気ない言葉の中に父らしいゆったりした、そして枉げない強い意志がはっきりと感じられる。それは大人になった今の私が、心から父を慕い尊敬する理由そのものだ。しかしその時の私は、特に此の時は目前に迫る謎にもう地に足が着かない感じだったので、勿論そんな事は雰囲気にも感じ取る事が出来なかった。此れは無理も無い。しかし、それでも惜しくて堪らなくなる時が有るのだ。父と過ごした時間が。其処には、私が味わい感謝すべき事が一杯有ったのだ。いや、多分そういうもので満ちていて、そういうものしか無かったのだった。
真実は斯んな風に、後からその意味を教えてくれる事が有る。先にまず現象や事実だけを与えて、ずっと時間が経った後にその事の自分にとっての意義を示すのである。現象や事実だけを与えられた時に自分がその意味を理解出来ようが出来まいが、そんな事は一切お構いなしなのだ。此れは残酷とも謂えるかも知れない。しかし後になって次第次第にその事の意義が明らかになって来る時、それはその瞬間に全てを与えられるよりもずっと心の奥深く迄届くのだ。そしてそれが何十年にも亘って続くのだ。此れは途方も無い祝福なのだと、今の私は思っている。
姫路で後からやって来た急行みまさかに乗り換える。折角急行に乗ったのだが、姫新線は単線の本当の田舎の路線だった。普通列車や快速を走りながら追い抜く光景も見る事は出来ず、何だか急行列車に乗っている気分になれなかった。
それに、此の事を言っておかねばならない。何も客観的に重要な事ではないのだが、子供の頃の私、いや、今の年齢になっても私という人間の精神の、どうしても際立った特徴である様に思えてならない事なのであるから。
姫路から乗った急行みまさかの車輛は古びていた。冷房も無く天井で扇風機が廻っている。床も壁も何ともいえず古びて汚れていて、青色のモケットのシートも、所々擦り切れて地が出ている。さっき迄乗っていた急行券不要の新快速の方が、どう見てもどう考えても新しく綺麗で、デザインも洗練されていた。普通なら、
「急行料金を払って乗るのだから、車内設備もそれなりに良いものでなければおかしい」
と思い、そういう不満を持っても良さそうなものである。実際そう判断する人は多いだろう。しかし私はそうではなかった。何故かその古びていて汚れているものの方をこそ、尊いと感じたのだった。
「其処には、今迄の歴史が詰まっている。昨日今日生まれてぽっと出て来たものではないのだ。沢山の人の想いが此処に残っている」
此れは此の月田行きの時に乗った急行みまさかに限らない。私は日常自分が接する物に就いて、何かにつけてそう感じるのだった。私の小学校の友達は一人残らず、新しくて見栄えのするものの方が好きだった。此の事の為に私は毎回密かに心細い思いをしたものだ。小学生の子供にとって自分の嗜好が他人に一切理解されず、共感を得られないというのは非常につらい事である。いや、大人であっても此れはそうだろう。しかし私の価値観は私に厳命した。
「自分が良いと思うものを良いと思い続ける。確かにそうだと疑わない。それが出来ないでいて、どうして此れから先、ちゃんと生きて行く事が出来るのか」
此れは若しかしたら現在の私が昔の子供の頃の私を誇張して認識しているのかも知れない。しかしそれにしては、私はその瞬間に強い印象を受け過ぎている。それをはっきりと記憶する事が永きに過ぎている。そうではあるまいか。そうではないだろうか。
「どうだ。急行は良いか?」
そう父が私に問うた時、私は心から、
「うん、お父ちゃん、有難う」
と言った。
また窓外の鄙びた、淋しい感じの風景は慥かに魅力的だった。途中停まる停車駅も、何だか家の近くの東海道本線の駅とはまるで違う。明らかにプラットフォームが低い上、植え込みには何の花も無く側線の軌条も黒く錆びており雑草に埋もれかけている。
「人が、少ないのかなあ」
私が何気無くそう言うと、
「そうだ。此処ら辺は住んでる人が少ないんだ。それでもちゃんと人が生活してる」
「うん。でも、どうして住んでる人が少ないの?」
父はそれには何の返答もしなかった。私は住む人が少ないという事の意味が、その理由が分からなかったのだ。そして通過する駅の退避側線に入り込んで遊んでいる地元の子供達の姿を見て、自分も斯ういう田舎に住んでいたら線路の中に入って遊べるから良いのに、などと思っていた。
津山で沢山の客が降りて、車内は一気に空いた。そして其処を出ると、車窓は一層山間部という感じになった。少ない家の数がなおも少なくなったし、何となく線路が街中を走っていない。山また山、谷と川を駆け巡っているだけだった。
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