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メビウス  作者: 綾野祐介
1/4

メビウス1日目

メビウス 1 綾野祐介


 昨日とほとんど変わらない今日が始まる。

そして多分明日も今日とほとんどかわらない

だろうと漠然と思っていた。


 勤め先に向かうために電車に乗った。折り

返しの始発電車なので必ず座れる。新快速の

2つ目の停車駅に着く少し前で架線の連結の

関係なのかいつでも一瞬停電する。いつもの

ことなのだが、その日は少し違っていた。何

か違和感があった。言葉では説明できない。

 背中がむずがゆいような感じとでも言うの

だろうか。降りる駅は4つ目だ。少し手前で

停車の為に電車がスピ-ドを落とした。電車

がホ-ムに入ったので席を立った。

 しかし、電車が止まらない。県庁所在地の

駅なので快速電車は勿論、新快速電車も必ず

止まるはずの駅だった。


「あれ?止まらない。」


 独り言のように呟いたが、周りの誰も気に

とめようともしない。電車はすぐにトンネル

に入ってしまった。トンネルを通過すると

県外だ。それなのに誰も騒ぎもしない。毎日

毎日乗っている同じ電車のはずだった。何か

がおかしい。


「あの、大津には止まらないんですか?」


 すぐ横に立っていた中年のサラリ-マン風

の男の人に尋ねてみたが、怪訝そうに睨みか

えしただけで、返事をしてくれなかった。


 やがてアナウンスが入った。


「次ぎは終点、終点。」


 終点と言うだけで駅名を言わない。暫くし

て電車は駅に止まった。乗客は全て降りるよ

うだ。最後の一人になって慌てて私もホ-ム

に下り立った。大津の次の駅なら山科のはず

だ。しかし、見慣れない駅だった。山科では

ない。ロ-カル線の駅のようだ。線路もいつ

のまにか単線になっていた。


「あの、ここはどこでしょうか?」


 駅員に聞いてみた。また例の怪訝そうな顔

で無視するだけだ。しかたなく改札をでた。

自動改札ではなく定期を見せるとそのまま通

してくれた。ふと定期を見てみると始発~終

点の定期になっていた。何がなんだか解らな

い。

 駅前の通りには寂びれた感じの商店街が並

んでいた。時計を見てみると午前9時ちょう

どだった。大津の次の駅に降りたのだから辻

褄は合う。


「そうだ、事務所に電話いれないと。」


 思いついて携帯で事務所に電話を入れた。

呼出音は鳴るのだが誰も出ない。この時間に

誰も居ないことは有り得ないはずだ。やはり

何かがおかしい。公衆電話でもう一度かけ直

してみた。結果は同じだった。誰も出ない。

電話は繋がる。でも誰も出ない。


 駅前の店を見てみた。喫茶店が一軒、クニ

-ニング屋らしき店が一軒と続く。喫茶店に

入ってみることにした。


「いらっしゃい。」


 いかにも面倒げに若いウエイトレスが見向

きもせずに声をかけた。入ってすぐの席に越

しを下ろすと安物のコップに入れた水をどん

とテ-ブルに置きながら、


「まだ早いんでろくな食べ物はできませんけ

ど。」


 と無愛想に言った。私は縋るように聴いた。


「あのう、ここはいったいどこなんです

か?」


「ここはどこって、あんたへんなひとね、頭

大丈夫?」


 頭が変になりそうなことは確かだが、まだ

大丈夫だとは思っている。


「確かに変になりそうなんだけど本当に此処

が何処かわからないんだよ。教えてくれない

か。大津の駅を過ぎたところまでしかはっき

りしていないんだ。」


「おおつ?、それってどこよ。」


「大津は滋賀県の県庁所在地じゃないか。」


「しがけん?、解らないわ。」


 ふざけている様子はない。本当に解らない

ようだ。すると一体。


「じゃあここはどこなんだ?」


「ここは****よ。決まってるじゃな

い。」


「なんだって?、もう一度言ってくれ。」


「だから****だって。お客さん注文する

の、それともからかいに来たのどっち?」


 肝心のところがどうしても聞き取れない。

知っている名前のようなのだがはっきりしな

い。


「わかったよ、そう怒るなって。ホットコ-

ヒ-をひとつたのむよ。」


 ウエイトレスはぷぃっと奥へ引っ込んでし

まった。


 私は途方に暮れてしまった。訳が解らなく

降りた駅が終点で、入った店の店員は大津も

滋賀県も知らない。夢か幻か何かの大掛

かりな冗談か。しか私一人を騙したりからか

っているにしては大掛かり過ぎる。やはり夢

か。実際にはまだ電車の中だろうか。ま

さか、と思いつつ頬を抓ってみた。古典的な

方法だ。


「痛てっ。」


 痛い。少なくとも現実味があるようだ。無

気味なものを見るように恐る恐るさっきのウ

エイトレスがホットコ-ヒ-を運んできた。

味わいもせず飲み干してレジに立った。


「350円です。」


 千円札を出した。


「お客さん、なにこれ?」


「何って千円札だけど?」


 ウエイトレスは私が渡した千円札をヒラヒ

ラとさせて、


「いい加減にしてくんない?、冗談にも程が

あるわよ。」


という。何を怒っているのかさっぱり解らな

い。


「何を怒ってるんだよ?」


「あのね、千円札は伊藤博文、これは夏目漱

石。夏目漱石のお札なんてないのよ。どこで

これ作ったの?」


「なんだって!」


 冗談を言っているようには見えない。とす

るとまさか時代が違うのか。


「このお札を知らないのなら、いま何年な

の?」


「こんなお札は見たことも聴いたこともない

し、今年は昭和73年。解ったらちゃんとし

たお金ではらってよね。」


 昭和73年!


「昭和73年って昭和天皇は生きてるの?」


「昭和天皇はだいぶ前に亡くなったわよ。元

号は変わらなくなっただけでしょ。あなたホ

ントにどうかしてるわ。」


「これならいいかな。」


 私はなけなしの小銭を集めて350円を支

払った。しかし、夏目漱石や福沢諭吉が使え

ないならもう一文なしと同じだ。これ以上聞

くとつまみ出されそうなので店を出た。商店

街を歩きながら考えた。


 平成10年だから昭和73年で時間の経過

はあっている。とすると何かがずれているん

だ。SF小説に出てくるパラレルワ-ル

ドなのか?

 何が現実で何が虚構なのか。頭の中で様々

なものがぐるぐる回って来た。本当におかし

くなりそうだ。


 商店街を駅とは違う方向へ歩いてみた。

 すると妙なことに気づいた。私の今来た方

向に駅が在ったはずなのに今振り返ってみる

と靄がかかっていてよく見えない。そして今

向かっている方向にもやはり靄がかかってい

てよく見えない。

 自分がいる前後約50m程度がハッキリし

ているだけだ。商店街の裏にもビル街とかが

在ってもよさそうなものだが、ここにも靄が

かかっている。

 なにかがおかしい事には違いないのだが、

ここまでおかしいと夢としか思えなかった。

ただ足元には確かに地面があり、周りのもの

に触れると本物としか思えない触感がある。


「どないせぇっちゅうねん。」


 関西弁で嘆くしかなかった。暫く歩くと前

を横切る人影があった。何処かで見た事が在

る気がする。


「ちょ、ちょっとそこの人、ちょっと待って

ください。」


 呼びかけたのが聞こえない筈がない距離な

のだが、全く無視して男は急ぎ足で民家に入

っていった。

 表札を見ると「渡辺」とある。確かに何処

かで会ったことがある顔だった。どうも思い

出せないのだが。

 私は思いきって呼び鈴をおしてみた。


(ピンポン、ピンポン)


 直ぐに家の住人が出てきた。さっき入った

男の妻らしい。


「何か?」


「いえ、ちょっと今そこで渡辺さんをお見か

けしたものですから立ち寄ってみたただけな

のですが。」


「お知りあいでしたか、どちら様でしたでし

ょう。」


「綾野、綾野祐介といいます。ぜひ渡辺さん

とお話したいのですが。」


 私の言葉が妙に歯切れが悪いのと、口調が

切羽詰ったものなので彼女は不信に思ってい

るようだ。


「ちょっとお待ちください。」


と言い残してドアを閉めてしまった。暫らく

出てくる様子も無い。仕方無しにドア越しに

叫んだ。


「渡辺さん、私の話を聞いていただけません

か?人助けすると思ってお願いします。なん

か、へんなところに迷い込んだようで本当に

困っているんです。」


 大声で叫んでいると、ドアを閉めたまま向

こうで声がした。


「そんなに大きな声を出されたらこっちが困

ります。いったい何なんですか。私は綾野な

んて方知りませんけど。」


「ごめんなさい。でも私には見覚えがあるん

です。それと、何だかよく判らない世界に迷

い込んじゃったみたいなんですよ。助けてい

ただけませんか?」


 私の本当に困っていそうな口調にほだされ

てか、これ以上大声を出されては迷惑だと思

ったのか、渋々家の中へと案内された。ごく

普通の一般家庭だ。30年ローンが5年ほど

終わって返済がステップして上がったばかり、

と云うような雰囲気である。


 一応和室の客間に通された。床の間が有る

独立した和室で、客室以外使い道が無く、殆

ど人の出入りの無い無駄なスペースだ。

「本当に助かります、私にはもう何が何だか

判らなくなってしまって。」


 この家の主人、渡辺氏は私より5,6才は

上だろうか、そろそろ四十代に乗るかどうか

の年齢に見える。物静かそうな人だ。髭は童

顔を隠すつもりらしいが、あまり似合ってい

るとは云い難い。奥さんは丁度私の同じ位だ

ろうか。どちらかと言えば美人の部類に入る

だろう。少しぽっちゃりとしているところが

愛嬌があってよい。


「こっちのほうこそ、何が何だか。もう一度

云いますけれど私の方はあなたをいっこうに

存じ上げませんが。」


「私は渡辺さんに見覚えがあるんですが、ど

うもはっきりと思い出せないんです。それと

ここが一体何処で、今が一体何時なのか、そ

れすらよく判らないんですが。」


 既に不信そうな眼差しで私を見ていた渡辺

氏が、更に不信の目を深めた。


「それで私にどうしろと?」


 渡辺氏の言葉は当然のことだった。ただ私

にもその回答は用意されていない。


「私を助けていただけませんか?何でもいい

んです。何かを見つけるきっかけになること

を探しているのです。」


「そうおっしゃられてもねぇ、具体的にどう

しろ云ってくだされば、こちらもそれ相当

の。」


 そこで、渡辺氏はふと考え込んでしまった。


「そもそも何で私が見ず知らずのあなたに何

かをしなければいけないんですか。何か危う

く騙されそうになった気分ですね。用が無い

ならお引き取りいただけませんか?」


 渡辺氏は急に怒り出してしまった。そこに

お茶を運んできた奥さんが割って入った。


「あなた、こちらの方は酷くお困りのような

のに助けてあげてもよろしいんじゃなくて?

あなたに見覚えが有ると仰ってらしたことで

もあるし。」


 先ほどの態度とは一変して今度は急に親切

になってしまった奥さんにこちらの方が呆気

に取られてしまった。 


「わかったよ、そんなに怒らなくてもいいじ

ゃないか。それで、綾野さんでしたか、私に

どうしろと?」


「基本的なことを教えていただけませんでし

ょうか。まず、今は何時なのでしょう。」


「何時とは、日にちのことですか。今日は昭

和73年6月30日の火曜日です。それか

ら?」


 昭和73年と言うことを除けば私の記憶と

違いは無い。


「ここは一体何処なのでしょうか?」


「ここは」


 渡辺氏が話し出そうとしたそのとき、台所

のほうからバタバタと走る音がした。奥さん

がこっちに走ってきたらしい。何かあったの

だろうか。


「どうした?」


 渡辺氏の問いかけにドアをあけた奥さんの

手には小ぶりの包丁が握られている。


「なんだ、お前、いったいどうしたんだ。」


 奥さんの目には憎悪の炎が燃えているかの

ようだった。包丁をこちらに向けて興奮気味

に部屋に入ってきた。


「あなた、この男はね、我が家にとっての厄

災そのものなのよ。わからないの?ノストラ

ダムスが予言していたとおり、7の月に災い

を運んできたのよ。」


 無茶な話だ。大体、1999年は来年のは

ずだ。


「それは来年の七月の話だろう、落ち着いて

包丁を渡しなさい。」


「違うわ、今年は私達にとって数え年で19

99年なのよ。」


 言い分が訳が判らなくなってきた。とりあ

えず、この場は渡辺氏に任せて逃げるに限る。

渡辺氏と私の係わりにも興味があったのだが

それどころの騒ぎではなかった。


「すいません、これで失礼します。奥さんに

は落ち着かれてからよろしく言っておいてく

ださい。」


 なんとか、その場を逃れて私は家の外へと

出た。


「あの男を放っておくとこの世界が滅びるの

よ。あの男は厄災そのものなの、あなたには

判らないの?」


 家の中からヒステリックに叫ぶ声が聞こえ

る。私はあわててその場を立ち去った。

 しかし、何だろうか。あの奥さんの急変は

理解できない。最初おびえるようにしていた

かと思うと急に親しげになったり、最後は包

丁を振りかざして飛び掛って来たりと、支離

滅裂だ。


 私は元来た駅の方角とは違う反対の方へ走

った。後ろを振り返るとあの夫婦がそろって

こちらへ走ってくる。冗談ではない。今度は

夫婦ともに手に包丁を握っていた。私は慌て

て全速力で逃げ出した。

 しかし、何時までたってもハッキリと見え

るのはまっすぐに伸びる商店街の道だけだ。

このままでは夫婦をまくことは出来ない。私

は思いきって靄のかかる横道へ飛び込むこと

にした。なにか行動を起こさなければこの現

実を打破できない、と走りながらも考えた結

論だ。

 横道にそれると気圧が変わったような妙な

感じがした。ドーム球場に入った時のようだ。

少し走るとまた商店街に出た。さっきの商店

街に似ている。が、微妙に違うような気もす

る。幸い、夫婦の追ってくる気配はなかった。


 私は降りた駅の方向へと進んだ。何かが違

う。確かに似てはいる。だが、違いは気づけ

ば簡単なことだった。道の左右が逆転してい

るのだ。商店街に出て、駅の方向は右だった

はずだが、どうやら逆に歩いているような気

がする。

 私は思い切って逆の方向へと走った。さっ

きの商店街もそうだが、ほとんど人が居なか

った。丁度来た道を戻るぐらいの時間を歩い

たところでやはり駅に着いた。さっき降りた

駅と微妙に違うようだが、それほど違うわけ

でもなさそうだった。


 私は駅の改札を抜けようとして定期券を出

した。例の「始発~終点」の定期券だ。


「ちょっとお客さん、それでは乗れません

よ。」


 駅員に止められてしまった。どこが悪いの

だろうか。


「これでは乗れませんか?」


「ふざけないでください。これは偽造でもし

たのですか?それなら罪になりますよ。」


 不穏な雰囲気になってきたので、私は直ぐ

にその場を辞した。仕方が無い。この定期で

はさっきの駅からしか乗れないのだろうか。

戻るしかないのか。

 私はもと来た道を遡ることにした。それで

何とか家まで辿り着ければよいのだが。

 こっちの道の商店街に曲がった脇道は直ぐ

に判った。ここから来たのだから、またここ

から戻ればいい筈だ。問題はさっきの渡辺夫

婦だ。まだ居るかも知れない。

 恐る恐るもと来た道に戻ってみた。建物に

隠れて覗いてみると、居た。渡辺夫婦だ。ま

だ二人して包丁をもったまま私を探している

ようだ。


 私は少し様子を見ることにした。どうも妙

だ。二人は脇道には決して入らない。それど

ころか、脇道があることにさえ気が付いてい

ないように見える。もしかしたら、彼らはこ

ちらの道でしか生きられないような存在なの

か。

 在り得なかった。だが、私がここに居るこ

と自体が、私の中では在り得ない状況なので、

そんなことも在るのだろうか。

 もしそうなら、渡辺夫婦からはこっちの脇

道にさえ逃げ込めば見つかる心配は無い。と

すると私の感覚で言うところのもっと左の方

向に行ったところからこの道に戻って最初の

駅に向かおう。

 私は直ぐにさっきの道に戻って右へと進ん

だ。最初の道に戻る脇道を探したがなかなか

見つからない。もしかしたら、さっきの脇道

しかないのだろうか。


 感覚的に云うととっくに駅を過ぎてしまっ

ている感じのところで、やっと脇道を見つけ

た。なにか倍ほど歩いたような気がした。

 脇道に入ってもとの道に出た。直ぐ近くに

渡辺夫婦が居た。


「そんなばかな。」


 私はどこかを一周してしまったのか。


「居たわ、あなた。あそこよ。」


 妻のほうに見つかって私は慌てて脇道に入

った。


「あっ消えた。どうしちゃったのかしら、本

当に消えてしまったわ。」


 夫婦にはやはり脇道が見えないようだ。し

かし、どういうことなのだ。右へ右へと歩い

ていて見つけた脇道は最初の脇道だったのか。

それとも渡辺夫婦が二つ目の脇道まで移動し

ていたのか。

 確かめる術はひとつ、全力で走って次の脇

道を見つけることだ。結果は見えていそうな

気もするが。


 私は死に物狂いで走った。普段運動を怠っ

ていたのが災いして足元は覚束ない。それで

も精一杯走って脇道を見つけた。直ぐに入っ

てもとの道に出ようとしたが、出来なかった。

直ぐそこに渡辺夫婦が居たからだ。

 私は何度目になるのか、また途方に暮れて

しまった。埒があかない。駅への道は塞がれ

てしまっている。

 私はしばらく、息を整えるために座り込ん

だ。そしてもう一度最初から考えてみた。


 朝起きて会社に行くために電車に乗った。

そこまでは、いつもと同じだ。電車が大津駅

に止まらなかった。そこからおかしい。なぜ

止まらなかったのか。そういえば草津の駅近

くで妙な感じがした。違和感があった。あの

とき何かの一線を越えたのだろうか。こっち

の世界ともとの世界との境界線を。

 私はひとつの可能性を見つけて、こっちの

道の駅へと向かった。左へと進んで液に着い

た。駅で新しい定期券を買うことを思いつい

たのだ。

 現金は使えない。キャッシュカードが使え

ればいいのだが。


「野洲駅までの1ヶ月定期を下さい。」


 私は駅員に言った。駅員は案の定怪訝な顔

で答えた。


「やす駅、そんな駅はありませんが。」


 やはり実在する駅名では買えない。


「いや、すいません。始発から終点までで結

構です。」


「それならそうと早く言って下さい。」


 駅員は少し怒ったような顔で機械を操作し

定期券を発行してくれた。


「一万五百円です。」


「じゃあ、これで。」


 私がクレジットカードを出すと、駅員はご

く普通に手続きをした。


「翌月一括支払いでいいですね。」


「はい。」


 ありふれた、風景だ。私は買えた定期券で

改札を通った。

 電車を待っていると暫くして新快速が入っ

てきた。この駅は終点かあるいは始発駅なの

で、電車は折り返し運転をするのだ。来た電

車からは数人が降りただけだった。この人た

ちはいったいどこから来て何処へいくのだろ

うか。

 電車は暫く走ってトンネルに差し掛かった。

あの妙な違和感があった。そして、車内アナ

ウンスが流れる。


「まもなく大津、大津です。お出口は左側に

なりますのでご注意ください。」


 聴きなれたアナウンスだ。戻れた。

 電車は直ぐに大津駅に着いた。私の知って

いる街だ。

 事務所に向かった。時間はもう午後の3時

になっている。遅刻どころの騒ぎではない。

 事務所に着いて直ぐに私は上司に呼ばれた。


「どうしたんだ、綾野君。連絡もなしにこん

なに遅刻してくるなんて君らしい無いじゃな

いか。」


「課長、実は大変な目にあったのですが、お

話ししても信じていただけないと思います。

ただの遅刻にしておいていただけませんでし

ょうか。」


 課長はどうも納得いかなさそうだったが、

事実を話す訳にはいかなかった。自分自身で

も信じられないことなのだから。


 私はどうも仕事に実が入らないので、その

日は早々に帰宅することにした。明るいうち

に家に帰るのは久しぶりだ。私が駅から家ま

での道を歩いていると少し前を男性が歩いて

いる。家の近くの住人だろうか。こころ当り

がなさそうだった。そういえば、最近裏の筋

に引っ越してきた人がいたか。

 歩くのが早い私は直ぐにその男性に追いつ

いてしまった。追い抜いたとき、その男性が

声をかけてきた。


「綾野さんじゃありませんか。」


「はい、綾野ですけど。」


 振り向いて私は驚愕した。


「この間、引越しのご挨拶に寄せていただい

た、渡辺です。いつもこの時間にお帰りです

か?」


 渡辺氏だった。そうだ、引越饅頭を届けに

きたとき一度会った。そして、あの渡辺氏で

もあるのだ。見た覚えがあった筈だ。


「わっ渡辺さん、変なことを聴きますけど、

今日どこかでお会いしました?」


「いいえ、今日はずっと勤め先にいましたが、

何か?」


 いいえ、なんでもないです。そうだ、どこ

から引っ越していらしたんでしたっけ。」

 聴くのが少し怖かったが、思い切って聴い

てみた。


「****ですよ。急に転勤になりまして

ね。」


 やっぱりそうだ。私には聞き取れない。引

越しの挨拶の時も聞いたような気がしたが、

どうも聞き取れなかった覚えがあった。


 ここはどこなのだろうか。私が元居た街な

のだろうか。それとも似ているだけで違う街

なのだろうか。妙に自信が無かった。

 本当に私は戻ってきたのだろうか。それと

も・・。

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