プロローグ
気が付けば、何も見えない暗闇の中で椅子に座っていた。
今自分がどこにいるのか。なぜここにいるのか。何がどうなってこうなったのか。
疑問が頭の中に次々と押し寄せてくる。
しかし思考がまとまるより先に、手元でほのかに光る四角いボタンへと指が動いていた。ボタンを押し込むと低い機械音が室内に響き渡り、頭上に照明が灯った。
正面は、黒く塗り潰されたような壁。手元には、所狭しと並んだ計器やメーター類、そしてびっしりと配置されたボタンとスイッチの群れ。
照明に照らされてようやく視認できた室内は、想像以上に狭かった。
両腕を広げれば壁に届くかもしれない。天井も低く、立ち上がれば頭が当たるだろう。椅子の座面はくたびれた革張りで、座り心地だけはなぜか悪くない。
——まるで運転席のようだ。
一度そう思ってしまえば、手元に伸びている操縦桿のようなものにも自然と合点がいった。
なんだここは。落ち着いて観察しようとすればするほど、理解の外にあるものばかりが増えていく。
ふと、操縦桿のすぐ横に差し込まれた鍵に視線が止まった。
車のエンジンを始動させるキーのように、鍵穴に刺さったまま放置されている。引き抜いて手に取ると、その重さと質感は確かに記憶の中にあるものと一致した。
鍵には、好きな漫画に登場する魔物「ゴアデビル」と呼ばれる黒い悪魔をデフォルメしたキーホルダーが付いていた。
俺の愛車に付いているものと、まったく同じだった。
「なんで、ここに」
知らない場所なのに、唯一記憶と一致するものが車の鍵だった。
この暗闇の中で、見覚えのあるものがこれ一つだけだという事実が、余計に現実感を狂わせる。
俺はかつてそうしていたように、再び鍵を鍵穴に差し込んで回した。
椅子ごと、全身に振動が伝わってくる。
車のエンジンが始動する時のような感覚。目の前のメーターが一斉に動き出し、周囲の計器類に次々と明かりが灯っていく。
死んでいた機械が一気に息を吹き返したかのような光景だった。計器の針がそれぞれ異なる速度で振れ、どこかから微かな風が流れ込んできた。少し埃っぽい、密閉空間特有の匂いがする。
やがて、正面のディスプレイが点灯した。
そこに広がっていたのは、青一色の世界だった。
何がどうなっているのか、最初はまったく判断がつかなかった。ただの青い壁を映しているのかとも思った。しかし画面を横切る魚のような生き物を目にして、ようやく理解が追いついた。
——水中だ。
口先の尖った魚や、細長い体をくねらせる海蛇のような生物が次々と視界を通り過ぎていく。
どれひとつとして、俺が知っている生き物には見えなかった。
形が似ているようで、どこかが決定的にずれている。魚のように見えるものの鱗は金属質の光を放っており、泳ぎ方も本来の魚のそれとは微妙に異なっていた。水の中を泳ぐというより、水を押し退けて進んでいるような動き方だった。
それ以上に、この水中の「青さ」が常軌を逸していた。
地球の深海が暗く沈んだ黒青であるのに対し、ここの水は光が届いているかのように明るく透き通っている。どこまで続いているのか底が見えない。見えないのに、暗くない。
そのちぐはぐさが、何よりも気味が悪かった。
そのとき、大きな揺れが走った。
「なんだ?」
狭い空間に、自分の声が反響する。
ディスプレイの映像の中、すぐ真横を、五メートルはあろうかという巨大な魚が通り過ぎた。体表は薄い膜のような光沢を持ち、尾びれの一振りで水を大きく押し退けていく。その水流を受けて、この乗り物ごと揺さぶられたのだと理解した。
ここにきて、ようやくわかった。
このディスプレイに映っているのは、どこか別の場所の映像ではない。
この乗り物の外の、今この瞬間の風景だ。
俺は今、水の中にいる。
その巨大魚は、泳いでいった先でさらに大型の鮫のような生物に食いつかれた。鮫の口は横幅だけで二メートル近くあり、巨大魚の胴体に深々と食い込んでいる。
しかし、その鮫もまた異形だった。
流線型の体に似つかわしくない無数の細い触手が背中から生えており、それぞれが水中でゆっくりと蠢いている。目は左右にあるべき場所には存在せず、顔の正面中央に縦並びで三つ。
その三つの瞳が、食事の最中にちらりとこちらを向いた気がした。
——まずい。
俺はすぐに操縦桿を握った。
操作方法などわかるはずもない。ボタンの意味も、スイッチの役割も、何ひとつわからない。しかし今は、あの生物が獲物を食い終える前に動かすしかなかった。
操縦桿を押し込む。視界が下方向へ沈んでいく。周囲の青が深くなった。
——押し込むと潜るのか。
じゃあ引けば浮上か。試すと、視界が上がった。正解だった。
手当たり次第に操作して、曲がることと前進の方法を把握する。
正面にしかないと思っていたディスプレイも、どこかのボタンを押した拍子に左右にも展開された。後方の映像は小窓のような形で一角に表示されており、背後の状況もある程度は確認できるようになった。
とにかく距離を取ることだけを考えて、操作を続けた。
座面の革が体重で沈み、計器のどれかが警告らしき点滅を繰り返しているが、今は無視するしかない。何の警告かわからないものを対処する余裕などなかった。
ここがどこかも、外がどれほど広いかもわからない。ただ、障害物がまったく見当たらないほど広大な水域だったおかげで、操作が覚束なくても何かにぶつかることはなかった。速度もそれなりに出るようで、追われている感覚は次第に薄れていった。
俺はひたすら探し続けた。巨大な生物が近づけないような、浅い場所を。
しかし、一時間以上が経過しても景色は変わらなかった。
得体の知れない魚ばかりが漂う、果てのない水中が続いている。海底も見えなければ、陸の影も見えない。この乗り物の性能ではまだ端まで届かないのか、そもそも端など存在しないのか、判断すらつかなかった。
進めば進むほど、この水域の途方もない規模が体に染みてくる。
地球の海でさえ人間には広すぎるのに、ここはその比ではなかった。
水そのものが、何か別の物質であるかのように感じる瞬間すらある。光の届き方が違う。水の色の層の切り替わり方が違う。深度が変わるたびに、見える世界がまるで別の惑星のそれに入れ替わっていくようだった。
四つ目のイルカに似た不気味な生物の群れに取り囲まれた時は、さすがに終わりを覚悟した。
それぞれの額の中央に、四つ目が縦に並んでいる。左右の二つは普通のイルカのそれに近いが、中央の二つだけが明らかに異質だった。瞳孔が縦に細長く裂けており、まばたきをしない。ただ、じっとこちらを見ている。
しかし、その生物たちは攻撃してくることもなく、興味深そうにこの乗り物の周囲をしばらく行き来した末に、揃ってどこかへ去っていった。
敵意はなかった。ただ、珍しいものを見るような目だった。
水面に近い層ほど小魚が多いことに気づいてからは、浅い場所を重点的に進むようにした。大型の捕食者は深層に多いと判断したからだ。
その読みは正しかったようで、以降、巨大な生物との遭遇はなくなった。
代わりに、半透明な傘のような生物が無数に漂っているのを何度も目にした。くらげに近い何かだったが、傘の内側が幾何学模様に発光しており、群れをなすと水面直下が淡く色づいて見えた。
不気味ではあったが、こちらには一切の関心を示さなかった。
やがて完全に水面まで浮上すると、ディスプレイの向こうに水上の景色が広がった。
どこまでも続く水面。
空の色は、地球のものとさほど変わらない青だった。
その見慣れた色だけが、妙に心を落ち着かせた。
水面に浮かびながら、俺は改めて状況を整理しようとした。
しかし、そもそも「現状の整理」が成立するような情報が何もなかった。わかっていることといえば、自分が得体の知れない乗り物に乗っていること、その外が異様な水中であること。それだけだ。
この乗り物(潜水艦とでも呼ぶしかない)の機能を、まだまともに確認していない。
スイッチやボタンをひとつひとつ試していくと、正面ディスプレイの表示が切り替わった。外の映像が消える。
代わりに表示されたのは、日本語の文字列だった。
【強化項目】
現在選択可能な強化項目は以下です。
・速度
・収納量
・艦内広さ
強化項目は条件を満たすと追加されます。
頭の中が、疑問符で埋め尽くされた。
強化。条件。何が起きている。
答えが一つも出てこない。
俺はその文字を、しばらく眺め続けた。




