004.暴食の石棺
左右の壁に燭台が設置された通路が続いている。両脇の灯りが規則正しく並んで、アリスが手元に広げた階層図を照らしている。コツ、コツと、これまた規則正しくアリスの履いているブーツが石畳を叩いている。
アリスが迷宮に入ってから一時間ばかり経っただろうか。
ローデリカの説明通り、解除された罠が顕わになっており、壁面にはところどころ鉄製の何らかの絡繰りが顔を覗かせている。それに、階層図も正確なもので、今のところ問題は発生していない。
迷宮にいるというだけで若干の恐怖は感じているが、人の手が加えられ管理されていることが分かるので、それだけでも気持ちは楽だった。
目指すは第十階層まであるうちの第五階層。今は第二階層を歩いている。
地下に十階分も空間があると考えるとかなり大規模に感じるが、話によるとこの迷宮は小規模な方らしい。近年出現した迷宮や、国軍、白金階級の冒険者が駆り出される迷宮には百階層を超えるものもあるとのことだ。
そんなローデリカから教えてもらった知識をぼんやりと思い出しながら、階層図に目を落とす。
目的地の第五階層、その最深部に部屋が一つあるのが分かる。広さもそれなりのものだろう。部屋の中心には何かを示すように印が書かれている。これがいわゆる、「魔物を生み出すための装置」である魔結晶を示す印だ。これを定期的に破壊してやらねばならない。なんでも、破壊した側から新たに結晶が生まれてくるらしい。その成長速度はまちまちだが、結晶が生まれた瞬間から、「魔物を生み出すための装置」として機能する (小さいうちは発生頻度も低く、魔物の個体としての強さもそれほどではないらしいが) ので、見つけたら壊すのが冒険者の間での常識だ。
というのを、かつて教本で読んだことがある。今回の依頼は、この魔結晶の欠片を持ち帰ること。これこそが依頼を遂行した証拠になるのだそうだ。
階層図を見るに、どの階層も複雑ではあるのだが、二百年の経験と知識が蓄えられているゆえ、最適経路と現在地がすぐに分かるように表記してある。迷ってしまうこともないだろう。それに、現状魔物にも遭遇していない。これはアリスの持ち前の運の良さのおかげかもしれないが、第五階層に近づけばそれなりに魔物も出てくるようになるのだろう。
不意に、ぎゅるると辛そうにお腹が鳴った。
昨日依頼を受けて、今朝方組合の馬車で移動してから迷宮に入ったので、組合を発ってからは七、八時間程度経っているはずである。お腹も空いて当然だ。
アリスは壁に凭れるようにして座り込むと、ローデリカに持たされた乾パン口に放り込んで、水筒の水を一口飲んだ。ふやけた乾パンを咀嚼して、水と一緒に胃袋に流し込む。そして、塩味が強い干し肉を一齧りしてから、もう一度乾パンを水で流し込んだ。
「ふう」と無意識にため息が漏れ出る。
緊張しているせいか、呼吸がどこか浅く感じる。心臓の打つ音がいつもよりも鮮明に聞こえる。
それでも、やらねばならないのだ。これを乗り越えなければ自分は成長できない。人に助けてもらってばかりではダメなのだ。自分の足で歩けるようにならなくては。
「……よし」
誰に聞かせるでもなくその一言で気合を入れると、もう一度立ち上がって歩みを進めていく。
初めて魔物に遭遇したのは第三階層に差し掛かった時だった。
各階層は階段で繋がっていて、降りてすぐ通路に入る形になっている。階段の幅と各階層の通路幅では階段の方が横も縦も狭くなっている。つまり、階段を下りて通路に出るところは死角になっている部分が多い。
この迷宮ではそういった死角に気をつけてと、ローデリカに念を押された。そうしなければ、いくら探索済みの迷宮でも命を落とすと。
第一階層から第二階層に続く階段を下った後、アリスは階段側から通路に向かって、持たされていた小石を投げた。件の魔物は動くものに反応するらしいのだが、特に魔物が出てくる気配はなかった。振り返って確認してみても、通路角にも、天井にも何もいなかった。
だが、今回は違った。
また同じように通路側に向かって石を投げる。石が通路に出て燭台の灯りを浴びた瞬間、天井から何かが伸びて石を絡めとった。それが獲物でないことに気づいてか、半透明な腕?から石を吐き出した。
吐き出された石は湿っていた。
アリスは鞄から大きめの瓶を一つ取り出す。瓶の中に入っているのは塩だ。これが、件の魔物に効くのだ。コルク栓を外して、瓶を両手でしっかりと握る。
魔物は天井に張り付いている。そのままでは手も足も出ない。だから一度、地面に落ちてもらう必要がある。
アリスは小さく息を吸い込むと、足に力を入れた。そのまま、全速力で走り出す。
通路に入った瞬間、頭上を見上げる。魔物の姿を眼中に捉える。やはり、ローデリカから教わった通りの魔物がそこにはいた。半透明の体。水分量が多くて粘性のある軟体動物。天井にべったりと張り付いているそれが少しずつ剥がれ、重力に従って落下してくる。
魔粘体生物だ。肉食寄りの雑食性で、迷宮の天井に張り付いて獲物が通ったところに覆いかぶさり、溶かして捕食する。
要は落下してきたスライムに触れてしまったらその時点で死が確定する。
アリスは正面に向き直って駆ける。魔物に触れられずに駆け抜ければアリスの勝ちだ。
通り過ぎたアリスのすぐ後ろを、スライムが落下する。橙色の灯りを受けて輝くアリスの後ろ髪を掠める。瞬間、まるで火に水を掛けたような短い悲鳴が聞こえた。
掠めただけで、アリスの金髪が溶けたのだ。アリスは「ひっ」と息を漏らしながらもなお走る。心臓は飛び出す勢いで脈を打ち、冷や汗が滲む。
背後でべちゃりと気色悪い音がした。地面に落下したのだ。
次にスライムが取る行動は、教本にも載っていたしローデリカにも教えてもらっていた。
獲物を逃したスライムは、不定形の体を自在に操り触手を伸ばして獲物を絡めとる。
そうなる前に、アリスは走るのをやめてすぐに後ろを振り返る。構えていた塩入り瓶を、中身がスライムにかけるようにして全力で振り下ろす。
塩は勢いよく瓶から飛び出し、散り散りになってスライムに降りかかった。
アリスは塩をかけると、その結果を確認するまでもなく全力で走って、塩の山から距離を取った。
触手が伸びてくる気配はない。アリスはゆっくりと振り向くと、少しずつ萎んでいくスライムが見えた。その様子を、気が抜け地面にへたり込んだ姿で、口を半開きにして眺めていた。
五分ぐらいそうしていただろうか。未だに呼吸は整わず、心臓は激しく脈打っている。初めての魔物退治。成功の実感が湧くよりも先に強い疲労感がこみ上げ、消えずに残った恐怖心が未だにアリスの心を支配している。
一度深呼吸をして、唾を飲み込む。ゆっくりと立ち上がって震える足で塩の山に近づいた。
襲ってくる様子はない。それもそうだった。近づいて様子を確認してみれば、塩に水分を奪われて、スライムは見る影もなく消え去っていた。
その時になってようやく、アリスは安堵した。なぜか涙が溢れた。
他の冒険者から見ればたかがスライム一匹かもしれないが、アリスにとってはされどスライム一匹なのだ。これは大きな、とても大きな一歩なのだ。
振り返れば、対処の仕方だって正確だった。これで自惚れるつもりはないが、迷宮に対してトラウマを抱えた状態で、しかも初めての魔物退治でここまでやってのけたのだ。上出来の結果だろう。
アリスは涙を袖で拭った。視界はちょっとぼやけたままだが、前進する力は戻ってきた。足の震えも抜けてきた。
荷物を背負い直すと、アリスは再び、階層図を見ながら通路を歩み始めた。次に魔物が出てきても大丈夫だと自分に言い聞かせながら。
もちろん、慢心はしない。上下左右に意識を配る。視線を巡らせる。罠がないというだけでも注意力は魔物に全集中できる。魔物の気配を見逃さぬように息を吞んで進んでいく。
ブーツが通路の石畳を規則正しく叩く。
コツ、コツと。コツ、コツ、コツ。コツ、コツ――カツッ。
規則的な音に交じって聞こえた、少し軽い足音をアリスは聞き逃さなかった。アリスは周囲を警戒するように立ち止まる。
魔物――はいない。うめき声も聞こえなければ足音も聞こえない。スライムが這いずり回る音もしない。
罠はそもそもあり得ない。すべての罠が発見済みかつ解除済みなのだから、罠であるはずがない。罠であるはずが、ないのだ。
嫌な予感がした。ブーツ越しに左足の裏に違和感があった。そっと足を持ち上げてみる。馬目地に敷き詰められた石畳が一枚、抜けていた。
それが分かったときにはもう、アリスの足場は崩れていた。
甲高い悲鳴と共に、アリスは崩れた石畳と一緒に下に落ちていく。どうやら穴になっているようで、人間が二人通れる程度の穴がずっと下まで続いている。その穴を、アリスは転がり落ちる。
先ほどまでの前向きな気持ちは消え去り、恐怖だけがアリスの体中に拡がる。
落ちる。落ちる。落ちる。
罠はなかったはずだとか、あの真下は空洞ではなく地面になっているはずだとか、そういうことを考える暇もなかった。
ただ恐怖に包まれ、意識を奪われ、気がつけば穴を転がり落ちながら気を失っていた。
§
シャルルと蜥蜴種のシャッテンが迷宮の中で足を止めたのは、前方の壁に開いた穴から何かが飛び出してきたからだ。
足を止めた瞬間、シャルルは魔物だと警戒する。剣を抜き、目の前に出てきた生き物に切っ先を向ける。
「シャルル殿、人間です」
シャッテンにそう制止され、その姿を眼中に収めたシャルルは「本当だね。ごめん、僕も驚いちゃって」と詫びを入れた。
人間が出てきた穴は、この階層に住む芋虫型の魔物の巣穴だ。穴からは人間と一緒に直方体に切り出された石がいくつも転がり落ちてきた。
「これ、さっき倒した大きな芋虫の巣穴だよね。なんで人間が出てくるのかな」
シャルルはしゃがみ込むと、壁に空いている大きな穴を観察する。穴は人間が二人通れる程度の大きさでシャルルが確認した限り、上方に穴は伸びているようだった。この人間も、この穴を転がり落ちてきたのだろうと推察する。
「不思議ですな。ここは未踏の迷宮。吾輩どもが初めて足を踏み入れ、調査を行っているはずなのですが」
シャッテンもしゃがみ込む。シャルルとは違い、眼前で倒れる人間を観察する。
「シャッテン、その人に怪我は?」
「おや、シャルル殿にしてはお優しいですな。腕と胴に打ち身、それから頭を何かでぶつけたようです。多少の出血がありますが、大事には至りませぬ。今は気を失っているだけですな」
「そうか。こういうとき、治癒魔法が使えるメンバーがいると良かったんだけど」
「応急処置であれば、吾輩も心得があります故」
シャッテンは腰の革袋から包帯を取り出すと、頭を持ち上げて包帯を巻いた。血が白い包帯に滲む。
「ひとまずはこれで。組合に戻ったら医者に見せましょう」
「その辺りは頼むよ」
「承知いたした。しかしこの娘、どこかで見たと思えば、昨日シャルル殿に声を掛けた娘ではありませぬか」
「そうなの?」
シャルルは一度振り向くと、「確かに似てる気がするね」とぼそりと呟いて、再度穴の方に向き直った。
「ええ。吾輩、可憐な娘の容姿は忘れぬ故」
「とんだ発情蜥蜴だ。僕はきみが人間に危害を加えないか心配だよ」
「加えませんとも。吾輩にも常識と良識はあります」
鼻を鳴らすシャッテンに、シャルルはため息交じりに「それならいいけど」と返事をした。
「とりあえず、調査は中止だ。ゲールとカーリィと合流する。シャッテンはその子を背負ってほしい。組合に一度戻る」
シャルルが立ち上がって歩き出す。
「承知いたした。お任せあれ」
シャッテンは少女の両腕を掴んで背負うと、シャルルの後に続いた。




