010.迷宮から出た先で
地上に出るまでの間、魔物には一度たりとも遭遇しなかった。歩いて、階段を登ってを繰り返しているうちに出口に着いた。
罠の類も見当たらなかった。もしかしたらシャルルたちが解除したのかと思い尋ねると、「そもそも罠がなかったんだ」とシャルルは答えた。『暴食の石棺』のような、あからさまな人工物を模した迷宮とは違い、この迷宮が虫の巣穴であることを考慮すれば、確かに罠の類は無いだろう。道も基本的に一本道で、時々分かれ道とその先にある小部屋のようなところがあるだけだった。
地上に出てみると、木々の隙間から満天の星空がアリスたちを見下ろしており、辺りでは多様な虫の合唱が聞こえる。そこに風に揺られた木々のざわめきが混ざって、より一層自然の合奏の様相を呈していた。
「馬車がないね。ゲールたちも無事地上に辿り着いて、中央の組合に向かったみたいだ」
そう言いながら、シャルルは迷宮入り口の傍らに設営された四角垂状の天幕の中へと入っていった。「炎を」と呪文を唱える声が聞こえる。ランタンに火を点したのか、天幕が淡い琥珀色に光った。その中にシャルルの影が映る。
「きみも入ると良い。ゲールたちが迎えに来るまで待とう」
その言葉に、アリスは「でも……」と戸惑いの声を上げる。
あまりにも普通に言葉を交わしているせいで忘れがちになってしまっていたが、シャルルから見たアリスはただの化け物だ。それも、見た目が極めて不快な。普通だったら、一緒にいるのだって苦痛なはずだ。
「気を遣わなくていい。言っただろう? きみを無事送り届けるのが僕の今の仕事だ。そんなきみを一人外に放り出すわけにはいかない」
シャルルはそう言っているが、それはつまり、彼自身はアリスという化け物と一緒にいることを我慢しているのと同義ではないのか。仕事だからと割り切っているだけではないのか。
そうまでして、彼に守ってもらうほどの価値があるのか。
そんな逡巡と共に、わずかな沈黙が流れる。
「……分かった。それじゃあこうしよう。僕は外で見張りをする。その間にきみは天幕の中で休むんだ。これなら文句はないだろう?」
アリスは下を向いた。それはそれで駄目だと思った。
今回、誰よりも戦って疲弊しているはずなのはシャルルだ。彼だって人間である以上、疲労はするし休みたいはずだ。それをただの我儘で潰すのは忍びない。
アリスは俯いたまま天幕に入る。
「……ごめんなさい。我儘を言ってあなたを困らせたかったわけじゃないの」
「僕の方こそごめんね。あんな話をされて気にしない方が無理な話だ」
そう言ってシャルルは笑って見せた。
灯りの下だと彼の表情がよく見える。そういえば彼は、迷宮で二人になって以降、フードをずっと外している。
「フード、被らないのね」
まだ少し湿っている外套に目を向けながらアリスは言う。
「……僕にとってのフードは、単純に人と視線を合わせないようにするためのものなんだ。顔をふと上げたときに目が合わないように、視線を気取られないように、僕の内側に踏み込まれないように」
シャルルは右手を傍らに置いていた革袋に突っ込むと、何かを取り出す。それを一つ、アリスの方に放る。反射的にそれを受け取る。干し肉だった。
「お腹も空いているだろう? 食べておくといい」
そう言って、シャルルは干し肉を齧っていた。アリスは「ありがとう」と言って、シャルルに倣って齧りつく。硬いそれを何とか嚙み千切って咀嚼する。炎の揺らめきと、木々の騒めきだけがアリスとシャルルの間に流れる。
「……他の人は、シャルルの呪いのこと知っているの?」
結局嚙み切れなかった肉片を一気に喉に押し込んでからそんなことを尋ねる。
「ゲールとシャッテン、それからカーリィには教えてある。気づいているかもしれないけど、僕が彼らと徒党を組んでいるのは、彼らが化け物に見えないからなんだ。彼らの持つあの姿で、僕の目には映っている」
「カーリィは腕が翼だけど、それ以外はすごく人間みたいよ。彼女は化け物に見えないの?」
「見えないね。この呪いはおそらくだけど、僕の『権能』が最大限力を発揮するための補助機能のようなものだと思うんだ。なんでも斬れるのに、『権能』の保持者が躊躇してしまったら意味がないだろう?
例えば、大切な人が賊に襲われていて、賊が人間の姿だったせいで殺すのを躊躇ってしまった、その隙に大切な人を喪った、みたいな。あるいは、僕自身が賊に襲われたときに躊躇いなく自分の身を守るためかもしれない。剣の女神リオナが何を思って僕にそんな施しをしたのかは分からないけど」
そう言いながら、シャルルは荷物の中から一辺が紐で綴じられた手帳を取り出した。次いで、インクと羽ペンを取り出す。
「それはなに?」
「報告書だよ。新しい迷宮だから、調査内容を報告しなくちゃいけないんだ。きみもそのうちやるようになるよ」
ああ、冒険者にはそういう事務仕事もあるのか、とアリスは思う。きっと、今日あった出来事を書き綴っているのだろう。
ふと、瞼が落ちる。
色々あった一日だった。きっと疲れているのだろう。思考がぼんやりとする。カリカリとした羽ペンの音が遠く籠っていく。
§
シャルルは報告書を書き終えると、短く息を吐いた。ペンに蓋をして専用の木箱に入れると、丁寧に袋にしまった。かつて自分が殺してしまった父親の形見でもあった。
粗方書き終えた報告書を閉じて、これもしまう。軽く伸びをしてから、あまりの静けさに隣を見た。
そこには、蠅と飛蝗とゴキブリを足して三で割って人間の骨格に当てはめた化け物が、膝と思われる部分を抱えるようにして座っている。そんな気色の悪い容姿と相反するように、可愛らしい寝息が口のようなところから漏れ出ている。
瞼のない複眼だから分からないが、おそらく目を閉じて眠っているのだと思うことにした。
まあ確かに、彼女にとっては座ったまま眠りこけてしまうほどに疲れる一日だったことだろう。駆け出し冒険者御用達の迷宮『暴食の石棺』に挑んでいたにも関わらず、なぜか最近できたばかりの調査中の迷宮に落ちてしまう。そこで一人きりにならなかったのは不幸中の幸いかもしれないが、落ちた迷宮では魔物に襲われる。とんだ災難だっただろう。
「それに、僕と一緒にだなんて、心底面倒だっただろうに」
ぽつりと本音が漏れる。
どうやら気を失っている間に寝言を聞かれてしまったようだった。確かにあのときは両親を殺してしまう悪夢を見ていた。昔からそうだ。定期的に両親を殺した時の光景が夢の中でフラッシュバックする。過去を疑似体験して苦しくなる。
あのとき、彼女に弁明する余地はなかった。目が覚めた瞬間に彼女を視界に収めた。その視界を、彼女の醜い容姿に対する嫌悪感と反射的な殺害衝動に塗り潰され、あろうことか剣を抜いて彼女を傷つけてしまった。
夢の中でしかなかった過去の疑似体験を、現実で再現してしまいそうになったのだ。とてもではないが冷静ではいられなくなったし、かなり動揺してしまっていた。その様は、普段のシャルル・ボーンからは想像もつかない取り乱しようだっただろう。
だからもう、彼女には全部話してしまった。その方が隠しているより自分自身も楽になると思った。そんな話をして彼女を困らせてしまうのは承知の上だったが、あの状況では仕方がなかったと今でも断言できる。
もう一度彼女を見やる。呼吸に合わせて体が揺れていて、時々倒れそうになる。
このままではどこかで頭をぶつけかねないと思ったシャルルは、脱いでいた外套を自分の腕に被せると、その上から彼女を抱えた。
起こさないようにゆっくり天幕の端に移動させて横たえると、荷物にあった薄手の毛布を掛けてやった。
ランタンの火を消して、シャルルは彼女に背を向ける形で、反対側の端に体を横にした。そうして目を閉じて眠りについた。




