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百物語を救うとき  作者: 野月よひら
第二章 青坊主
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 青は、永遠に届かない色なのだ、と、どこかで聞いたことがある。だから勝也は、青が一番好きな色であった。

「ごめんね」

 目の前の女性は、俯き、瞼に涙を溜めている。幾度となく見てきたその光景に、勝也は溜息を吐きそうになるのをぐっとこらえた。

 可愛い子だと思った。ぽってりとした唇が愛らしい、ふんわりとした印象の、いかにも優しげな空気を纏っていた。きっとこの子と付き合ったなら、休日に腕を組んで遊園地や映画館に行ったりするのだろう。誕生日には少し豪華な食事をして、愛し合って、そして結婚して……。

 けれど、そんな未来は、自分には一生やってこないに違いない。

「悪いけど、今忙しくて、そういうこと考えられないんだ」

 自分でも、すごく不誠実な答えだとは思っている。だが、ちょっと憂いを込めてそういうと、大抵の女性は納得してくれるのだ。

「そっか、分かった」

 こくりと頷いて、女性は涙を拭う。その様子に勝也はそっと安堵の息を吐く。良かった。これで何とかなりそうだ。

 ごめんね、と小さく呟いた。走り去る後姿を見て、勝也は緩く首を振った。



  ***



「お前さあ、いい加減、恋人くらい作れよ」

 エイヒレを噛み締めながら、明がむっつりと言った。

「え? なにそれ、なんなの」

 ヒラメの刺身に舌つづみを打っていた勝也は、突然の言葉に、それをごくりと丸のまま飲み込んでしまう。勿体ない。まだ噛みしめていなかったのに。


 金曜、夜。都心は、雑多な人間で溢れている。

 気持ちの良い夜であった。初夏の風が、繁華街の空気を爽やかに塗り替えていく。久しぶりに会おう、と明からの誘いで、勝也は滅多に来ない都心へと足を伸ばしたのである。

 この駅で降りるのも久しぶりであった。学生の頃はしょっちゅう飲み会などで訪れていたのだが、卒業し、地元で就職してからはほとんど利用することはない。元々、あまり人の多いところは得意ではないし、ごちゃごちゃとしたビルが立ち並ぶ様を見るのは、どうにも落ち着かないものがある。

 息が苦しくなるのだ。

 狭い小さなグラスの中に並々注がれた液体のように、ここは人も、思念も、ぎりぎりのところで保たれている。だからだろうか、巧く息が吸えないような気がして、溺れそうになってしまう。その感覚がどうにも苦手なのである。

駅を降り、指定された店まで歩く。

 立ち並ぶビルの隙間を抜けたところに、その居酒屋はちんまりとあった。ほとんど露店である。ビール箱をひっくり返した椅子に、同じものに板を渡しただけのテーブル。お世辞にも綺麗な店とは言えないが、時間帯の事もあり、結構繁盛しているようであった。

 明は、もう店にいた。既にビールを半杯ほど開けている。上気した顔で手を上げる彼を見て、勝也は訝しげに眉を寄せた。

 珍しい。いつもならば五分遅れが定石であるのに。

 この店は、刺身が美味いのだ、とは明の弁であった。進められるままに頼んだ刺身の盛り合わせも、ホタルイカの味噌漬けも、今やほとんどが腹の中である。酒も程よく入り、そこそこ気分が良くなった。

 そんな案配の頃に言われたのが、先ほどの台詞である。

「お前さ、なんで恋人作んねーの」

「……しつこいなぁ」

「だっておれ、お前がだれかと付き合ってるの見たことねーもん」

 甘えびの尾を咥えながら、明は言う。

「もしかして、チェリーなの、お前」

「失礼な。それなりに経験はしてるよ」

「でも彼女いないだろ」

「いないけどさ」

 うわ、と明は大げさにのけ反った。

「お前、そういうのよくないぞ。純愛、貫けよ!」

 社会人も五年目となると、スーツ姿にも貫録という物が滲み出てくるようだ。ビールをぐいぐい飲む明を見て、勝也は密かに笑った。この頃少し腹が出てきた、と愛子から報告を受けていたので尚更である。

「あんまり飲むと、ビール腹が進行するよ」

「うっせ、貧弱。お前はもっと食って飲め」

 勝也のグラスに、どぼりとビールが注がれた。

 明は赤ら顔でよく笑った。元々よく飲む方であるが、今日はまた随分とハイペースであった。

「お前、モテるのに。もったいねえなあ」

 それを聞いて、勝也は苦い笑いを浮かべる。

 人並みに恋愛をしてきたつもりであった。明言しなかっただけで、お付き合いをしたこともあるし、年相応にそれなりの経験も積んでいる。

 勝也は茹蛸のようになった明を一瞥した。

 この幼馴染は、気づかない。当然である。気づかせないようにしてきたのだから、その努力は報われていると言ってもいい。しかし、こんな時、勝也はどうにもならないジレンマに陥るのだ。


 ――人の気も、知らないで。


 注がれたビールが、グラスの縁を伝ってテーブルに染みを作っている。このビールは、勝也と同じだ。ぎりぎりで保たれている、色々なもの。それが溢れた瞬間、二度と消えない染みとなって、いつまでも残り続けてしまうに決まっているのだ。

 零れないように気をつけて、喉の奥に、ビールを流し込む。胃のあたりがかっと熱くなった。そうだ、これでいい。この感情は誰も幸せにならないものなのだから、自分の中に、留めておかなくてはならない。

「ごめん、遅くなった!」

 軽やかな声がして、ふわりと良い香りが漂った。

 初夏の風を背負って、席に着いたのは、旧友の一人であり、そして、そこでべろんべろんになった明の恋人でもある、愛子である。

「うわ、明、もうそんなになってんの」

 愛子は顔を顰める。

「おー愛子、お前からも言ってやれよ。早く恋人作れってさー」

「なに、あんたそんな失礼なこと言ってんの? ごめん、勝也」

 気にするな、と手を振ると、愛子は花がほころぶように笑った。

「すみません、オレンジジュース」

 愛子が手を挙げて店員を呼ぶ。

「あれ、飲まないの?」

「うん、ちょっとね」

 意味ありげな答えに、勝也は少しだけもやもやとした心持ちを覚える。

 愛子は、美人である。昔から日本人離れした顔立ちであったが、成長して更に美しくなった。それに、先日会った時とは少しだけ雰囲気が違っている。明を見る目は優しい。零れんばかりの愛情が伝わってくるが、それは以前と同じである。

 では何が違うのか。そこまで考えて、そうか、と勝也は軽く頷いた。

 服装ががらりと違っているのである。

 愛子はどちらかというと、体にぴったりとしたタイトなティーシャツや、足のラインが出るパンツ、高いハイヒールを好んで履くような女性である。しかし、今の彼女は平たいスニーカーにやわらかな色をしたワンピースを纏っている。

 それだけで、彼女を包み込む空気が柔らかくなるから不思議なものだ。

愛子は、以前は薔薇のようであった。美しいけれど、近寄りがたい。そんな雰囲気を醸し出していたのだが、今は違う。温かく、包み込むような、陽だまりに咲く蒲公英のような風情がある。

 そして、勝也は悟った。

 酒を断る理由も、体を締め付けないようなファッションも。そして赤ら顔の幼なじみがひそかに緊張している理由も。

 全部分かってしまった。

「勝也、あのね」

 飲み物に手を付ける前に、愛子はすっと背筋を伸ばして、はにかむように笑んだ。明も同じように、姿勢を正す。

「今日は、報告があって」

 ああ、やっぱり。

 勝也は目を閉じる。

「……実は、おれたち」

 そんな予感はしていたのだ。いつかはこの時が来る、と分かっていた。

 大丈夫だ。祝福する準備はできている。何度も何度も、脳内で練習した通り、勝也は祝辞を口に乗せた。

腹の中で、ビールがぐぶりと泡だったような気がした。



  ***



 その帰り道の事であった。幸せそうに寄り添う二人を見送って、さあ帰ろうと駅に向かった先、ビルの隙間。路地裏から、視線を感じたのである。

 繁華街のいかがわしいパネルが立ち並ぶ細い道の、丁度電柱の影になるところから。

 青い男が覗いていた。

 一つ目であった。ぎょろりと大きな目が、こちらを憐れむような視線を送っている。墨染めの衣に禿頭で、その青い頭が、幾ばくか大きかった。

 不思議と恐怖は感じなかった。ああ、青いなあ、と。ただそれだけを思っていた。

「あれが見えるんだね」

 振り返ると、そこに女が立っていた。若い女性である。大学生くらいだろうか。いかがわしい店のピンク色の照明に、長い髪が照らされている。革のジャケットにスキニーのジーパンが良く似合う、すらりとした長身の、姿の良い人であった。

「青坊主」

「え?」

「あれの名前」

 女は電柱の影を指さす。そこにはもう、あの青い人はいなかった。

勝也は訝しげに女を見やる。彼女はその視線を受けて、ことん、と首を傾げた。

「君は、幸せ?」

「……え?」

「青坊主が見えたのなら、気をつけて」

「気を……つける……?」

「水が、溢れそうになっているから」

 それだけ言うと、女は踵を返した。ふわりと漂う、花の香り。

「待って!」

 聞こえなかったのか、それとも敢えて無視したのであろうか。繁華街のネオンに溶け込むように、女はその姿を消したのである。


 その実、だいぶ酔っていたのだろう。徐々にふらつく足をなんとか動かして帰宅すると、勝也はベッドにうつ伏せに倒れこんだ。趣味のアクアリウムの、こぽりと泡を生み出す音が、耳の奥に木霊する。

 少しだけ顔を横にずらし、ベッド脇の水槽を見た。揺らめく青い光。その中に、ネオンテトラの群れが尾びれを煌かせて泳いでいる。その魚の腹に入った赤色が、青の世界を切り裂くようであった。

 赤は、明。そして青は、勝也の色だ。幼い頃の決まり事であった。明が赤のシャベルを持ったら、勝也は青の物を持った。明が赤の自転車を買ったら、勝也は青の物を欲しがった。

 懐かしい。何も考えず、悩まず。楽しく過ごしていた幼い頃に、戻れたらいいのに。

 モーター音が、低く響いている。その音に自らの声を溶け込ませるように、勝也は唸った。やりきれない思いが、後から後から泡のように立ち昇り、今にも溢れてしまいそうであった。

 暗い部屋に、アクアリウムの青がぼんやりと影を作る。その影の中に、勝也は再び、青坊主を見た。物言いたげな目で、青坊主は、じい、とこちらを見つめていた。

 込み上げるものを飲み込むように、勝也は声を絞り出した。

「……なあ、お前、どうしたの」

 青坊主は、何も言わなかった。ただひたすら、勝也を見つめている。

 その一つ目から、つうと涙が零れた。

「なんで、泣いてるの」

 青坊主は、答えない。零れた涙は、彼の墨染めの衣に吸い込まれていく。

 次の日も。その次の日も。青坊主は勝也の部屋に現れた。必ず水槽の青の光の中に、薄ぼんやりとした影を作り、ただひっそりと泣いていた。

 一つ目の、青い、異形の男。勝也はごく自然にその存在を受けて入れていた。不思議だとは思わなかった。彼は、いるべくして、ここにいる。青の光の中だけが、彼の場所なのだろう。

 この男は、可哀想だ。青の中でしか生きられない。可哀想に。そう思った自分に、勝也は嫌悪した。




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