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青は、永遠に届かない色なのだ、と、どこかで聞いたことがある。だから勝也は、青が一番好きな色であった。
「ごめんね」
目の前の女性は、俯き、瞼に涙を溜めている。幾度となく見てきたその光景に、勝也は溜息を吐きそうになるのをぐっとこらえた。
可愛い子だと思った。ぽってりとした唇が愛らしい、ふんわりとした印象の、いかにも優しげな空気を纏っていた。きっとこの子と付き合ったなら、休日に腕を組んで遊園地や映画館に行ったりするのだろう。誕生日には少し豪華な食事をして、愛し合って、そして結婚して……。
けれど、そんな未来は、自分には一生やってこないに違いない。
「悪いけど、今忙しくて、そういうこと考えられないんだ」
自分でも、すごく不誠実な答えだとは思っている。だが、ちょっと憂いを込めてそういうと、大抵の女性は納得してくれるのだ。
「そっか、分かった」
こくりと頷いて、女性は涙を拭う。その様子に勝也はそっと安堵の息を吐く。良かった。これで何とかなりそうだ。
ごめんね、と小さく呟いた。走り去る後姿を見て、勝也は緩く首を振った。
***
「お前さあ、いい加減、恋人くらい作れよ」
エイヒレを噛み締めながら、明がむっつりと言った。
「え? なにそれ、なんなの」
ヒラメの刺身に舌つづみを打っていた勝也は、突然の言葉に、それをごくりと丸のまま飲み込んでしまう。勿体ない。まだ噛みしめていなかったのに。
金曜、夜。都心は、雑多な人間で溢れている。
気持ちの良い夜であった。初夏の風が、繁華街の空気を爽やかに塗り替えていく。久しぶりに会おう、と明からの誘いで、勝也は滅多に来ない都心へと足を伸ばしたのである。
この駅で降りるのも久しぶりであった。学生の頃はしょっちゅう飲み会などで訪れていたのだが、卒業し、地元で就職してからはほとんど利用することはない。元々、あまり人の多いところは得意ではないし、ごちゃごちゃとしたビルが立ち並ぶ様を見るのは、どうにも落ち着かないものがある。
息が苦しくなるのだ。
狭い小さなグラスの中に並々注がれた液体のように、ここは人も、思念も、ぎりぎりのところで保たれている。だからだろうか、巧く息が吸えないような気がして、溺れそうになってしまう。その感覚がどうにも苦手なのである。
駅を降り、指定された店まで歩く。
立ち並ぶビルの隙間を抜けたところに、その居酒屋はちんまりとあった。ほとんど露店である。ビール箱をひっくり返した椅子に、同じものに板を渡しただけのテーブル。お世辞にも綺麗な店とは言えないが、時間帯の事もあり、結構繁盛しているようであった。
明は、もう店にいた。既にビールを半杯ほど開けている。上気した顔で手を上げる彼を見て、勝也は訝しげに眉を寄せた。
珍しい。いつもならば五分遅れが定石であるのに。
この店は、刺身が美味いのだ、とは明の弁であった。進められるままに頼んだ刺身の盛り合わせも、ホタルイカの味噌漬けも、今やほとんどが腹の中である。酒も程よく入り、そこそこ気分が良くなった。
そんな案配の頃に言われたのが、先ほどの台詞である。
「お前さ、なんで恋人作んねーの」
「……しつこいなぁ」
「だっておれ、お前がだれかと付き合ってるの見たことねーもん」
甘えびの尾を咥えながら、明は言う。
「もしかして、チェリーなの、お前」
「失礼な。それなりに経験はしてるよ」
「でも彼女いないだろ」
「いないけどさ」
うわ、と明は大げさにのけ反った。
「お前、そういうのよくないぞ。純愛、貫けよ!」
社会人も五年目となると、スーツ姿にも貫録という物が滲み出てくるようだ。ビールをぐいぐい飲む明を見て、勝也は密かに笑った。この頃少し腹が出てきた、と愛子から報告を受けていたので尚更である。
「あんまり飲むと、ビール腹が進行するよ」
「うっせ、貧弱。お前はもっと食って飲め」
勝也のグラスに、どぼりとビールが注がれた。
明は赤ら顔でよく笑った。元々よく飲む方であるが、今日はまた随分とハイペースであった。
「お前、モテるのに。もったいねえなあ」
それを聞いて、勝也は苦い笑いを浮かべる。
人並みに恋愛をしてきたつもりであった。明言しなかっただけで、お付き合いをしたこともあるし、年相応にそれなりの経験も積んでいる。
勝也は茹蛸のようになった明を一瞥した。
この幼馴染は、気づかない。当然である。気づかせないようにしてきたのだから、その努力は報われていると言ってもいい。しかし、こんな時、勝也はどうにもならないジレンマに陥るのだ。
――人の気も、知らないで。
注がれたビールが、グラスの縁を伝ってテーブルに染みを作っている。このビールは、勝也と同じだ。ぎりぎりで保たれている、色々なもの。それが溢れた瞬間、二度と消えない染みとなって、いつまでも残り続けてしまうに決まっているのだ。
零れないように気をつけて、喉の奥に、ビールを流し込む。胃のあたりがかっと熱くなった。そうだ、これでいい。この感情は誰も幸せにならないものなのだから、自分の中に、留めておかなくてはならない。
「ごめん、遅くなった!」
軽やかな声がして、ふわりと良い香りが漂った。
初夏の風を背負って、席に着いたのは、旧友の一人であり、そして、そこでべろんべろんになった明の恋人でもある、愛子である。
「うわ、明、もうそんなになってんの」
愛子は顔を顰める。
「おー愛子、お前からも言ってやれよ。早く恋人作れってさー」
「なに、あんたそんな失礼なこと言ってんの? ごめん、勝也」
気にするな、と手を振ると、愛子は花がほころぶように笑った。
「すみません、オレンジジュース」
愛子が手を挙げて店員を呼ぶ。
「あれ、飲まないの?」
「うん、ちょっとね」
意味ありげな答えに、勝也は少しだけもやもやとした心持ちを覚える。
愛子は、美人である。昔から日本人離れした顔立ちであったが、成長して更に美しくなった。それに、先日会った時とは少しだけ雰囲気が違っている。明を見る目は優しい。零れんばかりの愛情が伝わってくるが、それは以前と同じである。
では何が違うのか。そこまで考えて、そうか、と勝也は軽く頷いた。
服装ががらりと違っているのである。
愛子はどちらかというと、体にぴったりとしたタイトなティーシャツや、足のラインが出るパンツ、高いハイヒールを好んで履くような女性である。しかし、今の彼女は平たいスニーカーにやわらかな色をしたワンピースを纏っている。
それだけで、彼女を包み込む空気が柔らかくなるから不思議なものだ。
愛子は、以前は薔薇のようであった。美しいけれど、近寄りがたい。そんな雰囲気を醸し出していたのだが、今は違う。温かく、包み込むような、陽だまりに咲く蒲公英のような風情がある。
そして、勝也は悟った。
酒を断る理由も、体を締め付けないようなファッションも。そして赤ら顔の幼なじみがひそかに緊張している理由も。
全部分かってしまった。
「勝也、あのね」
飲み物に手を付ける前に、愛子はすっと背筋を伸ばして、はにかむように笑んだ。明も同じように、姿勢を正す。
「今日は、報告があって」
ああ、やっぱり。
勝也は目を閉じる。
「……実は、おれたち」
そんな予感はしていたのだ。いつかはこの時が来る、と分かっていた。
大丈夫だ。祝福する準備はできている。何度も何度も、脳内で練習した通り、勝也は祝辞を口に乗せた。
腹の中で、ビールがぐぶりと泡だったような気がした。
***
その帰り道の事であった。幸せそうに寄り添う二人を見送って、さあ帰ろうと駅に向かった先、ビルの隙間。路地裏から、視線を感じたのである。
繁華街のいかがわしいパネルが立ち並ぶ細い道の、丁度電柱の影になるところから。
青い男が覗いていた。
一つ目であった。ぎょろりと大きな目が、こちらを憐れむような視線を送っている。墨染めの衣に禿頭で、その青い頭が、幾ばくか大きかった。
不思議と恐怖は感じなかった。ああ、青いなあ、と。ただそれだけを思っていた。
「あれが見えるんだね」
振り返ると、そこに女が立っていた。若い女性である。大学生くらいだろうか。いかがわしい店のピンク色の照明に、長い髪が照らされている。革のジャケットにスキニーのジーパンが良く似合う、すらりとした長身の、姿の良い人であった。
「青坊主」
「え?」
「あれの名前」
女は電柱の影を指さす。そこにはもう、あの青い人はいなかった。
勝也は訝しげに女を見やる。彼女はその視線を受けて、ことん、と首を傾げた。
「君は、幸せ?」
「……え?」
「青坊主が見えたのなら、気をつけて」
「気を……つける……?」
「水が、溢れそうになっているから」
それだけ言うと、女は踵を返した。ふわりと漂う、花の香り。
「待って!」
聞こえなかったのか、それとも敢えて無視したのであろうか。繁華街のネオンに溶け込むように、女はその姿を消したのである。
その実、だいぶ酔っていたのだろう。徐々にふらつく足をなんとか動かして帰宅すると、勝也はベッドにうつ伏せに倒れこんだ。趣味のアクアリウムの、こぽりと泡を生み出す音が、耳の奥に木霊する。
少しだけ顔を横にずらし、ベッド脇の水槽を見た。揺らめく青い光。その中に、ネオンテトラの群れが尾びれを煌かせて泳いでいる。その魚の腹に入った赤色が、青の世界を切り裂くようであった。
赤は、明。そして青は、勝也の色だ。幼い頃の決まり事であった。明が赤のシャベルを持ったら、勝也は青の物を持った。明が赤の自転車を買ったら、勝也は青の物を欲しがった。
懐かしい。何も考えず、悩まず。楽しく過ごしていた幼い頃に、戻れたらいいのに。
モーター音が、低く響いている。その音に自らの声を溶け込ませるように、勝也は唸った。やりきれない思いが、後から後から泡のように立ち昇り、今にも溢れてしまいそうであった。
暗い部屋に、アクアリウムの青がぼんやりと影を作る。その影の中に、勝也は再び、青坊主を見た。物言いたげな目で、青坊主は、じい、とこちらを見つめていた。
込み上げるものを飲み込むように、勝也は声を絞り出した。
「……なあ、お前、どうしたの」
青坊主は、何も言わなかった。ただひたすら、勝也を見つめている。
その一つ目から、つうと涙が零れた。
「なんで、泣いてるの」
青坊主は、答えない。零れた涙は、彼の墨染めの衣に吸い込まれていく。
次の日も。その次の日も。青坊主は勝也の部屋に現れた。必ず水槽の青の光の中に、薄ぼんやりとした影を作り、ただひっそりと泣いていた。
一つ目の、青い、異形の男。勝也はごく自然にその存在を受けて入れていた。不思議だとは思わなかった。彼は、いるべくして、ここにいる。青の光の中だけが、彼の場所なのだろう。
この男は、可哀想だ。青の中でしか生きられない。可哀想に。そう思った自分に、勝也は嫌悪した。