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あの女性と再び出会ったのは、その次の休日のことである。
勝也がのそりと起きあがると、もう正午を幾許か過ぎた頃であった。流石に、寝すぎた。どのみち予定もないが、二度寝するのも勿体ない。
だるい体を引きずるようにして、勝也は部屋のカーテンを開けた。良い天気であった。初夏の、まだ柔らかな日差しが、窓硝子越しに部屋に模様を描いている。
外に出よう。きらきらと輝くような陽光を浴びれば、この鬱屈とした気分も少しは晴れるのではないだろうか。
文庫本をポケットに突っ込み、勝也はふらりと外へ出た。近くには広い公園がある。そこで、本でも読もうと考えたのである。
風が気持ちよかった。ゆるゆると歩く。休日ということもあり、公園は子供が多かった。嬌声を上げて走り回る姿を見て、勝也は微笑む。
思えばあの頃が、一番楽しかったのかもしれない。何も考えずに、泥だらけになって走り回っていた。戻れたらどんなにか幸せだろう。同性だとか、異性だとかを気にすることもなかった。そう、あの頃は。
人は、大人になればなるほど、心の内に秘めたものが納まりきらなくなるのかもしれない。幼い頃はどんな奔流も受け止められた柔らかな器も、歳と共に冷え固まって、決まった量の思いしか入らなくなってしまう。それとも、中に入れる感情の方が、育ちすぎてしまったのだろうか。
適当なベンチに腰掛けて、本を取り出す。
勝也の本好きは、幼なじみである明の父の影響を多分に含んでいる。幼い頃から、家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。
明の父親、聡は作家をしていて、当時から彼の書斎には面白い本が無数に並んでいた。怪奇小説から、冒険ファンタジー、ミステリー、伝記物。読んでも読んでも読みつくせないほどの本。遊びに行くと、勝也は大抵書斎に潜り込み、読書に耽るのが常だった。
「お前は、おれんちに、本読みに来てんの?」
明はそんな勝也にいつも呆れたような笑みを零したものだ。
「ごめん、遊ぼうか。何する? ゲーム?」
「いいよ、読んじゃえよ、それ。おれ待ってるし」
そう言って、くしゃっと笑う顔が……。
いけない。勝也ははっと息を呑み、首を振った。
思考を無理やり押し込めて、手にした文庫をもう一度開く。
本を読もう。これ以上変なことを思い出さないうちに。
のめり込むのは簡単であった。一頁、繰ればもう本の中である。最近、どうにも気力が湧かず、なかなかじっくりと読む時間を取らなかったので、丁度良かったのかもしれない。
あまり読まないタイプの、恋愛小説であった。
映画化が決まったので、本屋で大きく取り上げられていたのである。少年少女の淡い恋愛模様を描いた作品で、幅広い年代に受け入れられているのだそうだ。きらきらとした、陰りのない文章は、心を温かな気持ちにさせてくれる。もしも生まれ変わったなら、こんな恋が出来たらいい。
そこまで考えて、勝也は苦笑した。自分の女々しさに我ながら呆れてしまう。
ふと、日が陰った。
雨が降るのかもしれない。少し湿った空気を鼻に受けて、勝也は本を閉じた。そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がった時であった。
目線の先に、彼女がいた。
広い公園である、そこここに休憩用のベンチがあり、簡易的なテント、と言っていいのだろうか、オープンテラスのカフェのような、飲食店が出ているような場所であった。
その一つ、隅の方に、彼女は腰かけていた。
風が黒髪をまきあげて、空に昇って行った。それをついとおさえて、彼女は天を仰ぐ。空は、晴れているようであった。しかし、ところどころに黒雲がかかっていた。青青とした空に凝った、雨の予感。
勝也は立ち上がる。
「あの!」
思わず、声をかけていた。女は驚いた様で、目を見開く。
「ちょっと、お茶、しませんか」
その日、勝也は人生初めての、ナンパをした。
***
「おごりますよ。何でも好きなものを頼んでください」
公園から出て、大通りを抜け、角を曲がった路地裏に、ちょっとしたお洒落なカフェがある。
勝也はこのカフェが気に入っていて、よく足を運んでいた。
表通りからは随分と離れた、奥まった場所だ。知る人ぞ知るといったところも良いし、メニューも豊富で味も良い。値段はそれなりにするが、社会人の懐ならば十分にお釣りがくるくらいである。
何より、ここにはたくさんの魚がいる。マスターがアクアリウム好きなのだという。悠々と泳ぐ魚を見ながら、ゆったりと過ごせる貴重な場所であった。
彼女は端的に。
「葉子」
と、名乗った。
窓際の席に腰かけて、勝也はじっくりと葉子を観察した。
恐らく、年下であろう。のっぺりとした人である。肌は白く、黒い髪は艶々としていて、顔立ちは整っているが記憶に残るのが難しい。無個性、という言葉が浮かんで、勝也は苦笑した。今のは、流石に失礼だ。
葉子は真剣な目でメニューに目を落としている。勝也はこっそりと予想を立てた。きっとこの麗人は、珈琲を頼むに違いない。
「いちごパフェ」
そう来たか。
「あれから、君の傍に、いるね」
パフェの苺をざっくりと掬いながら、葉子が言った。
勝也はぎくりとして、おもむろに珈琲をすする。きっと、彼女はあの青い男のことを言っているのだろう。
「……何で分かったんです」
「何で分からないと思ったの」
勝也は視線を彷徨わせた。葉子の後ろには、アクアリウムが青い光を放っている。黒髪をほの青く染めて、彼女は苦笑していた。
「君は、それで幸せ?」
葉子がこくりと首を傾げた。
「青坊主は、思いがより固まって現れるものだから」
「え?」
「心の内に収めておかなければならなかった、けれど抑えきれなかったもの。隠しておかなければいけなかった心」
葉子はそう言うと苺を頬張り、顔を綻ばせた。余程苺が好きなのだろう。
「隠しておかなければいけなかった……心……」
勝也は葉子を見つめながら、そっと胸に手を当てた。息が苦しい。まるであの都心に出たときのようだ。巧く息が吸えない。
「抑えたくても抑えられない気持ちが集まって。まるで水が溢れるように、青坊主は現れる」
葉子が微笑む。ふわりと漂う花のような香りに、胸を締め付けられるようであった。
「もう一度聞くよ。君は、それで、幸せ?」
「……僕は」
幸せだ。
そう口に出そうとしても、上手く言葉が出てこない。逡巡し、視線を彷徨わせた勝也の目に、彼が、映った。葉子の後ろ、アクアリウムの向こう側である。青い光に溶け込むように、青坊主がそこに、いた。こちらを見ている。大きな一つ目が、悲し気に揺らめいて。
その瞳から、つう、と涙が零れた。
「もう気づいているんでしょう?」
「え………」
「彼を受け入れることができるのは、もう気づいているから」
「何に」
「青坊主が、君だってことに」
その言葉を聞いて、勝也は、目を見開いた。
葉子は笑う。世にも優しい慈悲の笑みであった。
花の香りが、一層強くなる。その後ろで、青坊主が泣いていた。大きな一つ目から、涙がぼろぼろと落ちていく。
ああ、そうか。
青坊主は、勝也自身だ。グラスから零れた水のように、留めて置くことができなかった感情の残滓。だからこそ哀れに、可哀想に、と感じたのだ。
「青坊主……」
勝也はそっと目を伏せた。包み込むように持ったカップの中で、珈琲の黒褐色がゆらゆらと揺れている。手が震えた。ギリギリで保たれていたあらゆる感情が、彼の器から溢れ出ようとしている。歯を食いしばった隙間から、堪えきれない嗚咽が漏れた。
込み上げてくる心のままに、勝也は初めて、涙を流した。
葉子は凪いだ瞳で、勝也をじっと見つめた。そしておもむろに、こう呟いたのだ。
「大丈夫」
彼女の口から、小さく、歌が零れる。柔らかな響きであった。まるで水底から太陽を見たときのような、温かく、清涼な光のよう美しさであった。
その光に誘われるように、勝也は言葉を口にする。
「ずっと好きだった……」
「うん」
「言えなかったんだ」
「うん」
「……言わなくて、よかった」
口にするたびに、心の中のグラスが少しずつ広がっていく。あれほど苦しかった息も、溺れそうなほどに膨らんだ感情も、少しずつ凪いでいく。
もしかしたら、勝也は、この感情を、誰かに肯定してもらいたかっただけなのかもしれない。
窓の外で、雨が、しとどに降り始めた。この雨は、自分のために、青坊主のために、泣いてくれているに違いない。
降りしきる雨のように、勝也は泣き続けた。葉子はただ黙って、唇に歌を乗せていた。
その日から、青坊主は勝也の前から姿を消した。きっともう見ることはないのだろう。
勝也は、自分の中の青坊主を自覚したのだ。
もう可哀そうだとは思わない。自分自身の想いを憐れむことは、勝也はもう二度としないだろう。
***
白いタキシードが似合っていた。
快晴である。抜けるような空に、純白の色が気持ち良い。
小さなチャペルの前であった。フラワーシャワーの中を、花嫁と花婿がゆっくりと歩いている。入口から伸びる赤いカーペットに、色とりどりの花が目に鮮やかであった。
愛子は幸せそうであった。真っ白なドレスに身を包み、目尻に涙を浮かべていた。
その手を取る明も、満面の笑みであった。
ゆっくりと、二人は歩む。愛子に宿った、新しい命を大切にしている様子が伝わってきて、勝也も思わず目頭が熱くなった。
その夜の事である。
「今日はありがとうな」
「おー、改めておめでとう」
時計の針が、頂点をとうに回った頃、ふいに明からの電話で起こされたのである。寝ぼけ眼で応対すると、明は電話向こうで、いつものように笑った。
「愛子ちゃんめっちゃ綺麗だったね」
「だろ? 自慢の嫁だから」
ははは、と明が声を挙げ、ややあって沈黙する。
「明?」
「あのさ」
ためらいがちにぽつりと聞こえた声に、勝也は身を固くした。
「言おうか言うまいか、悩んでたんだけどさ」
「うん」
アクアリウムの青い光が、部屋の中を薄ぼんやりと照らしていた。こぽり、と泡の弾ける音がして、勝也はそっと目を閉じる。
大丈夫だ。青い光が心を満たしていく。凪いだ海。晴れ渡る空。あらゆる青が、勝也の心を満たしていた。
「お前、おれになにか、言いたいことがあったんじゃないかって。だからもし、お前が辛いんなら……おれ、お前を招待しちゃいけないんだと思ってて」
携帯を持つ手が震えた。勝也は息をそっと吸い、朗らかに笑ってみせた。
「なに、お前、親友の僕に結婚祝わせないつもりだったの?」
「や、そうじゃなくて! そうなんだけど……」
「ごちゃごちゃうるさいな。このバカ明。お前なんか幸せになればいいんだ」
すう、と涙が頬を伝って、シャツの襟元にほたりと落ちる。その涙に気づかないふりをして、勝也は声を言葉に乗せた。
「お前は、僕の親友だろ」
「……ああ」
「また飲み行こうな」
「ああ」
溢れる涙はそのままに、勝也は微笑んだ。
「なあ明」
「おう」
「僕、純愛、貫いただろ」
一拍おいて、明は爆笑した。
「お前、すっごいこと言うな!」
「ほんと、うるさい。もう。飲み行こう。明のおごりで」
「なんだとこのやろ。お前稼いでるんだから、お前がおごれよ」
「愛子ちゃん連れてきてよ。そしたらおごる」
「ばか、あいつ今飲めないんだって」
「あ、そうか、じゃあ食事会だ」
「お、それ、いいな」
朗らかに笑う明の声を聞いて、勝也はくしゃりと笑みを零す。
青坊主。
――僕は、幸せだ。




