三日目―最後の日
自然災害に関する描写があります。
ケルベロスは愛想のいい犬だ。
また食い意地の張った犬でもある。
だがその朝、ケルベロスの様子はいつもと違っていた。
ケルベロスを可愛がっているアウグスティナは、いつも自分でケルベロスの食事を持っていく。厨房で残り物―ケルベロスのために残したというのが正しいかもしれないが―肉のかけらをもらい、いそいそと運ぶ。彼女の足音がわかるのか、はたまた漂う匂いで気がつくのか、彼女に飛びついてひとしきり朝の挨拶をし、すぐに食事にかぶりつくのが当たり前の光景なのに、今朝は落ち着きなくウロウロとしている。食事に見向きもしない。
「ケルベロス、どうしたの?お腹痛いの?」
アウグスティナが頭を撫でようとすると、ケルベロスは首をすくめ、中庭から走り出してしまった。
「あっ、待って…!」
追いかけようとするも、いつにない慌てた様子に足がもつれて追いつけない。隣の家から別の犬の鳴き声が聞こえた。
「お嬢様、どうかされました?」
よく仕事を求めてやってくる痩せた男が言った。
「ケルベロスったら、食事も取らずに出て行っちゃったの」
「恋人が呼んでるんですかね」
「そうなのかしら」
「大事な人に呼ばれると、男ってのは駆け出していくもんですよ。何を差し置いてもね」
そう言えばこの男は最近子を亡くしたと聞いたことがある。叔父が見舞いをやっていた。
「そうかもしれないわね」
アウグスティナにはそれ以上言葉が出てこなかった。
「きっとそのうちお腹が空いて帰ってくるわ」
「そうですよ。奴は食い意地が張ってますからね」
「でも心配だわ。すこし外を見てくる」
太陽が真上を過ぎた頃、
ポリビウスは外からただよう匂いに眉をひそめた。
「なんか今日いつもより臭わないか?」
「隣の家でよく焦がしてる麦パンですか?」
「いや、違う。卵の腐ったような…器のせいかもしれない。忘れてくれ」
ポリビウスは荷受けの書類に向かう。
突然大きな音とともに、地面が突き上げられた。
「地鳴りだ!?」
花瓶が落ち、書類が舞い散らかる。
ポリビウスは身を伏せ、地鳴りがおさまるのを待った。
その時、女たちの悲鳴と男の叫ぶ声がした。
「やま、山が…!!」
「何事か!」
ポリビウスは庭に出て、召使いたちの指し示す方を見た。
そちらには、街の誇りである大いなる山がある。
いつも風景の一つになっているその山に、黒く雲がかぶっているのが見えた。
この街では地震は慣れている、だが山が火を吹くのを見るのは初めてだ。
「鉛が襲ってくるぞー」
遠くから叫び声と、山からあふれ出てくる赤い泥から逃げようとする人々がさざ波のようにあちこちからあふれ、さらなる人を巻き込んで襲ってくる。
「アウグスティナは、姪はどこだ!」
「さっき、あちらにケルベロスを追い掛けて行かれました!」
ポリビウスに教えてくれた男は、ご一緒に探します、と前に立ちアウグスティナが向かった方向に探しに出てくれた。
ポリビウスは必死に姪を探す。
「アウグスティナ!」
今日は確かオレンジのパッラを着ていた。茶色の髪、二十歳頃の娘、茶色の巻き髪。それらを見かけると呼び止め、ときには腕をとって確かめたがどれも違う。
「アウグスティナ、ティナ!」
必死に姪の名を呼び続けながら山から遠ざかろうとする人々を押し分けていると、男の子にぶつかった。
アウグスティナと同じ、茶色の巻き毛。
男の子は一人だ。親とはぐれたのか。
「親はいないのか?!」
「僕、外にいたから、みんなに押されてたら、どこかわかんなくなった」
「この子はオレが連れていきます!旦那様はお嬢様を!」
男が言った。
親とはぐれたであろう少年の手を男はしっかりと握る。
ポリビウスの家で仕事をもらっていたその男は、自分は何故仕事に出向いているのかと思っていた。守る家族はもういないのに。
目の前に熱い泥と、黒い灰がせまる。男は覚悟を決めた。
「大丈夫だ、怖くない。おじさんがずっと一緒だ。」
どんなに離れたくないと叫んでも、息子とは最後には引き離され、息子だけが独りでこの大地に還っていった。
だが、今度は――。
最後まで、灰に埋め尽くされるその瞬間も男は「息子」の手を握りしめ、離さなかった。
「アウグスティナ」
もう何度かわからない呼びかけは、逃げる人々の怒号にかき消されがちだ。
だがその騒ぎの僅かの隙間に聞こえた声を、ポリビウスは聞き逃さなかった。
「叔父様…」
ポリビウスは足を止め、声をした方に向かう。
「アウグスティナ、いるのか、どこだ?!返事をしてくれ!」
「叔父様、ここよ」
路地の片隅に、姪は震えながらうずくまっていた。
見慣れたテルマエの壁だ。
「突き飛ばされた時に、足を痛めたみたい」
アウグスティナに手を差し伸べる人もなく、ひたすら人に踏み潰されないよう、ひたすらに身を壁に寄せていたらしい。
ポリビウスは手を差し伸べる。
「立てそうか?」
アウグスティナは何度か腕をつかみ立ち上がろうとしたが、どうやっても立てない。
「無理みたい…、叔父様だけでも逃げて」
首を振ってそう言ったアウグスティナの体は、ふわっと持ち上げられた。
「落ちるなよ。しがみついていろ」
ポリビウスは前だけを見て、走り出した。
その手はしっかりとアウグスティナを握っている。
子供の頃はよく抱き上げたものだ。何年ぶりか。
いくら気持ちは逸っていても人一人抱えた足は混乱の中思うように進めない。
いつもなら出る前で濡れた髪も乾かぬくらいの距離だ。アウグスティナのまとい直した髪が完全にほどけてしまうほど激しく人とぶつかりながら時間をかけ、どうにか我が家にまでたどり着いた。
アウグスティナをレトゥスにおろし、部屋に閂をかける。
屋敷は静まり返っていた。
ポリビウスはアウグスティナが座るレトゥスに自分も腰を下ろした。
アウグスティナは扉を見つめて呟いた。
「ケルベロスはどうしたかしら」
「あいつは逃げ足が速いからな。とっとと仲間たちと街から出ていっただろう」
「そうだといいわね」
「きっと地獄の門で申し訳なさそうに待ってるさ」
部屋の外の温度が上がって来ている。
火の土が迫っているのだ。
アウグスティナは叔父の顔を見た。
目が合わさる。
叔父は、アウグスティナが口答えをしたときも、あきれながらもけして目をそらさず話を聞いてくれた。
「叔父様、私、叔父様の役に立ちたかったの。結婚もしないで守ってくれた叔父様を、私が守りたかったの」
「知ってたよ」
叔父が微笑んだ。
アウグスティナも微笑む。
両親が亡くなったとき、叔父は優しい微笑みでアウグスティナを抱き上げこう言った。
「アウグスティナ、これからは一緒だよ。」
叔父の微笑みはあの時と同じだ。
ええ、叔父様。これからもずっと、ずっと一緒よ。
滲んでいく叔父の顔を瞼に焼き付ける。
アウグスティナは叔父の顔を見つめ続けた。
そして、二人の目は閉じた。
それから遥か時が流れ、噴火による惨劇の遺跡から、閉じ込められた様々な人の日常の断片が見つけ出された。
黒く焼け焦げたパン。ワインのカップ。赤い首輪をした黒い犬のモザイクのある屋敷の奥で見つかった男と女。庭先で見つかった親子。見つけ出されるたびに、当時の人々の「普通の暮らし」と、それらを突然に断ち切った自然の恐ろしさに皆胸をつまされた。時代がうつろい形は変わっても、同じようにみなその瞬間まで確かに生きているのだ。
「黄金の手の庭」で見つかった大きな骨と小さな骨は長らく親子、母子と見られていた。その後の研究で2人に血縁関係はなく、また大きい方は男性であることが分かった。
なぜその二人が一緒にいたのか、記録はどこにも残されていない。




