第1話:「——その石、もう死んでおりますわ」
わたくしの名が呼ばれたのは、その夜、三度目でした。
一度目は罪状。二度目は破棄の宣言。三度目が、退場を促す声。
けれど正直に申し上げますと、わたくしはそのどれも、あまり聞いてはおりませんでした。
見ていたのは、セドリック様の左手です。
薬指に、指輪。中央に淡い青の石、星彫りの座、六つ爪、内側にオルスト工房の刻印。
——ええ、当然です。それを組んだのは、わたくしですから。
二年前の冬、炉の前で三晩かけました。石を選んだのも、座を起こしたのも、爪を一つずつ寝かせたのも、全部わたくしの手です。刻印だけが、父の名でしたけれど。
その石が。
いま、光を返しておりませんでした。
「ミレイア・オルスト」
四度目に、名を呼ばれました。
「聞いているのか」
「はい」
わたくしは顔を上げました。ヴェルナー伯爵家の大広間は、燭台の火が多すぎて、いつも少し暑いのです。招かれた方々が扇を使う音が、さざなみのように鳴っておりました。
「もう一度言う。私は、君との婚約を破棄する」
セドリック様は、そうおっしゃいました。声はよく通り、姿勢もお美しい。この方はいつも、人前で話すときだけは完璧でいらっしゃいます。
「理由は、君にも分かっているはずだ。この二年、君が何をしていたか」
「工房におりました」
「そうだ。工房だ」
セドリック様は、はっきりと嫌そうな顔をなさいました。
「令嬢が、炉の前で煤にまみれている。夜会には来ない。来ても手が荒れている。趣味に付き合ってやっていたのだよ、こちらは。だが限度がある」
趣味。
わたくしは、その言葉を頭の中でもう一度なぞりました。
この三年でオルスト工房が納めた指輪は、四百六十二。そのうち三百九十七を、わたくしが組みました。王都で売られている指輪の、およそ八割です。数えたことがあるので、間違いはございません。
それを趣味とおっしゃるのなら、そうなのでしょう。人が何をどう呼ぶかまでは、こちらでは決められませんもの。
「アネット」
セドリック様が、隣へ手を差し出しました。
進み出たのは、わたくしの義妹です。淡い金の髪に、今夜のために誂えたと分かる薄紅のドレス。わたくしより三つ下の、十九歳。
「ヴェルナー家は、オルスト工房との縁を切るわけではない。工房の名は惜しい。ただ——次の代を担うのは、こちらの令嬢だ」
ざわめきが、広間の端から端へ渡っていきました。
アネットはわたくしを見ませんでした。まっすぐ前を向いて、少しだけ顎を上げて、拍手を受けておりました。上手だと思いました。ああいうときの立ち方を、わたくしは知りません。
拍手が止んでから、アネットが初めてこちらを向きました。
「お義姉さま」
小さな声でした。
「……工房のこと、心配なさらないで。わたし、ちゃんとやりますから」
その手を、わたくしは見ておりました。
白くて、細くて、綺麗な手でした。爪も、指の腹も。
やすりを握る人間の手には、親指の付け根に硬いところができます。三年で必ずできます。石を押さえる側の人差し指は、爪が短く削れます。
アネットの手には、そのどちらもありませんでした。
「ええ」
わたくしは、そう申し上げました。ほかに言うことが、思いつかなかったのです。
「何か言うことは」
セドリック様が、そうおっしゃいました。
言うことは、ございました。ただ、そのどれもが、この場では意味を持ちません。
誰が組んだかを証明する方法は、ないのです。刻印は父の名で押されています。帳面をつけているのも父です。わたくしの手が覚えていることは、わたくしの手の外へは出ていきません。
ですから、わたくしが申し上げたのは、一つだけでした。
「——その石、もう死んでおりますわ」
セドリック様の眉が、動きました。
「……何だと」
「左手の、薬指の。淡青石でございます」
わたくしは、指輪をさしました。
「わたくしが組んだものです。二年前の冬に。爪を六つ、内側を磨いて、座を星彫りにいたしました。ご記憶にはないかもしれませんが」
「それが、どうした」
「もう、光を返しておりません」
広間が、少し静かになりました。何人かの方が、セドリック様の手元を見ようと首を伸ばしておいででした。
「馬鹿を言うな。傷一つない」
「ええ。傷はございません」
わたくしはうなずきました。
「傷でしたら、直せます」
それだけ申し上げて、わたくしは礼をいたしました。
「長らく、ありがとうございました」
背を向けて歩き出しますと、扇の音がぴたりと止んで、わたくしの靴音だけが広間に残りました。振り返らなかったので、セドリック様がどんな顔をなさっていたかは存じません。
ただ、扉を出るまでのあいだ、誰か一人でも「あの指輪は誰が作ったのか」と口にしないものかと、そればかり考えておりました。
誰も、言いませんでした。
◇
オルスト工房は、王都の三番通りにございます。
表は店、奥が仕事場で、その裏に炉。わたくしが生まれる前から、扉には工房の刻印が彫られております。菱形の中に、二本の線。
その線の下に、削られた跡があるのを、わたくしは子供の頃から知っておりました。何かが彫ってあって、削られた跡。父に尋ねたことがございますが、「古い傷だ」と言われて終わりでした。
夜更けに戻りますと、仕事場に灯りがついておりました。
父が、帳面を広げておりました。
「話は聞いた」
顔は上げませんでした。
「ヴェルナー様から先に使いが来た。……アネットのことも」
「はい」
「工房としては、悪い話ではない」
父は、そこでようやく顔を上げました。
「ヴェルナー家の後ろ盾がつく。アネットが看板に立てば、注文は増える」
「わたくしは」
「お前は、明日から店には出るな」
父は、また帳面へ目を戻しました。
「奥にいろとは言わん。……当分、来なくていい」
わたくしは、仕事場を見回しました。
やすりの並び、るつぼの位置、片づけ方の癖。全部わたくしのものです。この部屋で三年、わたくしは毎日ここに立っておりました。
「炉は」
わたくしは尋ねました。
「炉は、使えますでしょうか」
父は、少し黙りました。
「……お前は、そういうことしか訊かんな」
それが答えでした。
わたくしは頭を下げて、仕事場を出ました。扉の刻印の、削られた跡を指でなぞってから、通りへ出ました。
その夜は、よく晴れておりました。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】淡青石は、水よりも空気に弱い石です。曇るときは表からではなく、いつも内側から曇っていきます。ですので、外から磨いても何も変わりません。……磨いて直る石なら、この話は一話で終わっておりました。
明日、ミレイアは王都の外れに小さな仕事台を置きます。そこへ最初に来るのは、客ではなく、盗人です。




